遠く、鳥達の
鮮烈な深緑の匂い。
爽やかな風が、頬を優しく愛撫しながら通り過ぎる。
「うっ………」
刺すような眩しい陽射しに顔を
抜けるような蒼穹の下、鮮やかな緑が視界一杯に広がる。
「ここは……?」
目の前に広がる景色に、セルクは呆然と呟いた。
草地が広がるそこは、どう見ても
今セルクの居る小高い丘の右手は深緑の森がうっそりとして、その間から斜め方向に向かって小川が流れている。そして、丘の下に広がる牧草地には、ヌーサイやパロなどの家畜がのんびりと草を
その先には田畑と素朴な造りの家々が立ち並び、
何処にでもある村里の景色だ。それもエル・スティシアに言われて頭の中に思い描いた、セルクが幼い頃より慣れ親しんだ村外れにある小高い丘の上からの眺めだった。
「って、ことは……」
もしかして、あの
セルクは愕然となった。
アルセルスのある学都ソリスティスからこのタラスまで、馬を急がせても十日は掛かるのに、それを一瞬で移動してのけた事になるのだ。
けれど、今彼が音韻言語学科で習っているのは主に「火」「水」「風(大気)」「地」の四大元素に働きかけるものだ。こんな事が出来るルーンなんて、見た事も聞いた事もない。
——あの
「なんで、よりによってタラスなんだよ」
その場にしゃがみ込み、思わずセルクは頭を抱え込んだ。
タナン王国は南方を両手を広げて湾を抱きかかえる様に、二つの半島が突き出て大海に面していた。タラスはその突き出た西側のスターニス地方の、セオラナ半島の中程に位置した村だった。
一方リンファリア遺跡はそこからサグリナ湾を挟んだ東側のサフィニア地方、このタナンとトランデス、ケルストン両王国の境にある、険しいセルレア山脈一帯に広がる森林地帯の奥深くにあった。
つまりは全くの逆方向、一旦学都のあるファムス地方まで戻ってからでないとサフィニア地方には行けないのだ。日数を稼ぐ処か余計日数が増えてしまっている。
セルクが頭を抱えたくなるもの無理もないが、よく考えてみれば何も悩む必要などなかった。最初からセルクはファランスの花を取りにリンファリア遺跡に行く気などなかったのだから、これはむしろ丁度いい。
大至急アルセルスに戻ってヴァルファンス教授に事の次第を伝えて後を任せよう。いや既に教授はあの
「うん、それでいいよね」
一人で納得し、自分の考えに幾分気を良くしてセルクは独り言ちた。
とはいえ、これで来週のルーサーの実技試験はパアだ。一体何時になったらルーサーの資格が取れるのやら。それを考えると気が重い。
はぁっとセルクは溜息を漏らし、座り込んで両手に抱え込んだ膝の上に頭を
——と、
その耳朶に、聞き覚えのある声がいきなり飛び込んで来た。
「セルク? やっぱりセルクじゃないっ」
喜びに弾む少女の声。
——こ、この声は……
うわぁっ、マズイっ。
声の主に思い当たり、セルクはガバッと
慌てふためいて声のした方を見る。
下の牧草地から、一人の少女が嬉しそうに手を振って、自分に向かって駆け上がって来る。
伸びやかなすらりとした肢体の後ろで、ポニーテールにした腰まで届く真っ直ぐな長い栗色の髪が軽やかに揺れている。動きやすい服に身を包んだ快活そうな少女——セルクの幼馴染みのミルフェミアだ。彼より一歳年下だから今年で十六歳になる。
今でも十分可愛いが、後四年もしたらさぞかし美人になること請け合いの、前途洋々の少女だった。
「何時帰って来たの? 今年はナントカの試験に受かるまで、帰って来れないって言ってたのに」
「あ、ああ……、まぁ、ちょっと……」
下手な言い訳はミルフェミアには通用しない。よく分からないルーンでここまで飛ばされたと言ったら、その理由を知りたがるだろうし。言えば絶対首を突っ込んで来るに決まっている。
この十六年間で、幼馴染みのこの少女の性格を嫌という程思い知らされているセルクは、何と言って誤魔化せばいいか判らず口籠もった。
「どうしたの? セルク、何だか顔色が悪いわよ」
怪訝そうにミルフェミアは久しぶりに帰って来た幼馴染みの顔を覗き込んだ。
「そ、そう? フェミアの気の所為だよ」
強張る顔を背け、そそくさとセルクは立ち上がる。突っ込まれない内に逃げた方がいい。
「じゃ、時間がないから、僕もう行くよ」
「行くって、何処に?」
「ソリスティスに帰るんだよ。その、もうじきルーサーの実技試験があるから、それで、急いで帰って練習しないと」
「それじゃ、何で
ミルフェミアが不思議そうにもっともな事を訊く。
セルクにしてみれば、それを有耶無耶にしようとしたのに、結局誤魔化せずに終わってしまった。
「そ、それは——。えーと、その、あの——」
咄嗟にでまかせの一つも思い浮かばない。不審の色ありありのミルフェミアの金茶色の瞳に見据えられ、セルクは焦りに焦った。けれど焦ると余計妙案など浮かびようが無い。
暫くミルフェミアは、冷や汗ダラダラの一つ年上の幼馴染みの様子をじーっと眺めていたが、何を思ったのか、不意にぼそりと呟いた。
「——去年の暮れの休みに帰って来た時、試験に必要な本を忘れて行って、慌てて取りに帰ったとか」
「そ、そう。実はそうなんだ。うんっ」
これ以上もっともらしい理由はない。もっけの幸いとばかりにセルクはそれに飛びついた。が、それこそミルフェミアの思う壺だった。
「セルク、貴方わたしに何か隠し事していない?」
セルクはギクッとした。
「そ、そんな事は——」
「ない。とは言わせないわよ」
幼馴染みの言葉を遮り、ミルフェミアはずいっとセルクに詰め寄る。
「人の考えた言い訳に簡単に乗っかって、そんなふざけた言い分が通用するとでも思っているの?」
流石にこちらも伊達に十六年間も幼馴染みをやってはいない。セルクの考える事など何もかもお見通しだ。
「満足に嘘の一つも付けない癖に、このわたしを騙そうなんて。そーゆー身の程知らずをする時は、絶対何か隠してるのよ。さあ、とっとと吐いた方が身の為よっ」
と、何処から取り出したのか、何時の間にやら物騒なモノを手にしている。しなやかな革製の長鞭だ。牧畜のヌーサイを畜舎に追い立てる時に使う物である。
ミルフェミアの家はこの村一番の牧場主だった。そういう物を持っていたとしても別に不思議ではない。実際、小さい頃からそれに慣れ親しんで来た彼女の、それを扱う腕は既に大人顔負けだった。
鋭い風切る音が、不気味にセルクの耳朶すれすれの空間を掠める様に鳴り響く。
「わ—っ、分かった。話すよっ。話すから、そんな物騒なモノ振り回すなよっ」
鞭を避けて目一杯身を竦め、セルクは観念して喚いた。
やっぱりミルフェミアの方が一枚も二枚も上手だ。とても
「——という
丘の上にある大木の下に二人で座り直し、セルクは長鞭を手に自分の傍らに座った幼馴染みに、これまでの
突然部屋に現れた不思議な女性に、訳も分からず花を取って来てと頼まれて、彼女のルーンでここに飛ばされてしまったと。
「でも僕にはとても取って来れそうもないから、アルセルスに戻って教授に頼んで誰か他の人に替わってもらうつもり——って、フェミア、聞いてる?」
何時もなら人の話の途中でも構わずにあれこれ口を挟んでくるのに、どうしたのか、今回は話に割り込んでくる処かウンともスンとも言わない。
「もっちろん、聞いてるわよ」
怪訝そうに自分を見るセルクに気付き、ミルフェミアは弾んだ声でそう応えると、妙に張り切って立ち上がった。
「じゃあ、早速支度してくるわね」
「え? 支度って?」
「旅支度。身一つじゃ、何処にも行けないでしょう?」
にっこりとミルフェミアは笑みを浮かべた。
「セルクはここで待ってて。おじさん達に見つかったら困るでしょう」
「まぁ……ね」
確かにミルフェミアの言うように、去年の暮れにルーサーの資格が取れるまで帰らないと言った手前、今家の者達に顔を合わせるのはちょっと気恥ずかしい。
とはいえ、こんな面白そうな話、人に譲るなんて勿体ないとか言って絶対自分達で行こうと、ミルフェミアなら言い張るだろうと思っていたのに。わざわざ自分が学都に帰る支度をしてくれるとは。
「でもいいのかい?」
「何遠慮してるのよ。幼馴染みじゃない」
セルクに片目を
後に残されたセルクは、物分かりの良過ぎる幼馴染みに呆気に取られたが、とにかく杞憂に終わって助かったと、ほっと胸を撫で下ろした。
そして、ミルフェミアの言う通りに、人に見つからない様にして大人しくそこで待つ事にした。
——色々あり過ぎて、なんだかちょっと疲れたな……
ゴロリと大木の木陰で横になり、セルクは大きな欠伸を漏らすとそのまま重くなってきた
そうしてセルクが久しぶりの故郷で呑気に
∮ ∮ ∮
「先輩、聞こえてますか? スターレン先輩っ」
カーテスは目の前で読書に耽る茶褐色の髪の男に、声を
彼等が今居るのはアルセルス内にある図書館である。蔵書量は国内一、二を争い、この学院だけでなく、学都にある他学院からも本を借りに来る学生が後を絶たなかった。
当然図書館である以上、声を上げて騒ぐなど以ての外だ。
あの後カーテスはヴァルファンスに頼まれ、今はこの図書館で司書官をしている同じ老教授に教えを受けた先輩である彼を呼びに来ていたのだ。
休憩中という事で、この広い図書館の書棚の奥にひっそりとある個人用の閲覧机に居たスターレンを漸く見つけて声を掛けたのだが、何度呼んでも読書に没頭している彼の耳には届いていなかった。
カーテスは一応ここが図書館である事を配慮し、何とか意識を自分に向けさせようとした結果がさっきの器用な真似である。
「先輩っ、いい加減にしてくださいっ!」
とうとう業を煮やしたカーテスは、強硬手段に出た。
スターレンが読んでいた本を取り上げたのである。
「あれ、カーテス。どうしたんだい?」
目の前から読んでいたものが無くなり、目を瞬かせたスターレンは漸く自分の傍にいる後輩の存在に気が付いた。
何時ものことながら、やっと認識して貰えたカーテスは疲れたように溜息をついた。
「どうしたじゃないですよ、先輩。ヴァルファンス教授がお呼びです。大至急来て欲しいんです」
「ヴァルファンス教授が? 何かあったのかい?」
あの恩師がこんな風に自分を呼び出すとは珍しい。
「え、ええ……。とにかく、俺と一緒に来てください」
明言を避けて訝しむ先輩から目を逸らし、カーテスはおっとり構えるスターレンを
「じゃあ、アルバスに一言断って——」
「それはもう、俺がしてます」
先輩を暫く借りると、ここに訪れてすぐ受付けにいた彼に断りを入れておいたのだ。
司書官のアルバスは返却された山積みの本にチラリと視線を走らせた後、真剣な表情でスターレンを連れて行くなら手短に用件を済ませ、できるだけ早く彼を返すようにとくどいくらい念を押してきた。
それなのに未だに連れて行ってさえいないのだ。それをアルバスに知られたら物凄く気まずい。
そっと書棚から顔を出し、辺りにもう一人の司書官の姿が無い事を確認すると、カーテスはスターレンと共に図書館から出ようとした。
その矢先、
「もう戻って来ていたのか。早いな」
ひょいと別の書棚の間から、本を山積みにした手押しの台車と共に現れた鈍色の髪の男が嬉しそうに声を掛けて来る。
「やあ、アルバス。実はこれから行くところなんだよ」
「は?」
愛想よく応えた同僚の言葉に、一瞬アルバスは固まった。
「——そいつが来て随分経つんだが……」
「ああ、私が気付いたのがついさっきなんだよ」
なんて事も無いようにスターレンが応える。
くすんだ銅色の髪をした学生の申し訳なさそうな表情で全てを悟ったアルバスは、ぐっと台車の把手を握り締めてわなわなと全身を震わせた。
きっと本を読むのに夢中で、全く気付いていなかったに違いない。ついでに休憩時間がとっくの昔に終わっていた事にも。
「……だったら、とっと行って、さっさと戻って来いっ。今日は人数が足りなくて仕事が山積みなの分かってるだろっ!」
図書館内での司書官にあるまじき怒声に、館内にいた学生達の迷惑そうな視線が一斉に向けられる。
はっと我に返ったアルバスはそそくさと台車を押して再び書棚の間に入り、スターレン達もバツが悪そうに慌ててその場を後にした。
「いやあ、あんなにアルバスが怒るなんて珍しいな」
普段は温厚で人当たりがいいのに。
「そりゃ、先輩が迷惑ばかり掛けているからでしょう」
人手が足りないのに、しっかり休憩時間まで取るようなサボリ魔相手では、幾ら温厚でも怒りたくはなるだろう。
ジト目を向ける後輩に、スターレンは笑ってそれを誤魔化した。
今回前半部分だけだとちょっと短いので、次のシーンの冒頭部分を一緒に上げました。