牧草地に吹き渡る清涼とした風の中を、上機嫌に鼻歌を歌いながらミルフェミアは家に向かって駆け抜けた。
牧草地に面した丸太造りの家の扉を勢いよく開け放つ。
そこは広間のような広々とした居間だった。入り口に近い壁の左側には暖炉があり、その前に一人掛けだが大人が二人腰掛けられる程のゆったりとした椅子が置かれてあった。
中央には大きな四角い樫の木の素朴な造りのテーブルが置かれ、その周りには丸太を縦割りにした長椅子がコの字に置かれて十人位は楽に座れるようになっている。
そこに二十歳半ば位の若者が二人、丸太の長椅子に座ってコーヒーを飲んでいた。
彼等はミルフェミアの兄達だ。彼女と同色の髪色をした方が次兄のファスタで、薄茶色のくせ毛の方が三男のアレンだった。どちらも日に焼けて逞しい体付きをしている。
二人は丁度牧場の仕事が一段落して一息ついていた処だった。
「兄さん達、仕事は終わったの?」
「ああ、ヌーサイ達を街道沿いの牧草地に移動させるの疲れたぜ」
テーブルに頬杖を突き、だらけ切った様子でアレンがぼやく。
性格が温厚でおっとりとしたヌーサイ達は基本あまり動かない。放っておくと何時までも同じ場所でのんびりと牧草を
勿論食べる牧草が無くなればヌーサイ達も勝手に移動するが、根こそぎ食べ尽くされた牧草地は草一本生えない荒れ地と化してしまうのだ。
そうなると牧草地を再生させるにも手間暇が掛かる。だからその前に人間の手で定期的に移動させるのである。
今日は生憎と自分達以外の兄弟が出払っていた為、かなり大変だったらしい。
「ふ~ん。じゃあ、父さんやローレン
「まだ戻ってない」
昨日二人は用があって馬で半日程の距離にある父親の従弟の牧場へ行っていた。
「帰って来るにしても夜になるだろうな」
ファスタが昨日出掛ける際の二人の会話を思い出して妹に応える。
「そっかぁ……」
セルクの事となると妙に勘が鋭くなる二人が夜まで帰って来ないのは有難い。
思わずニンマリと笑みを浮かべるミルフェミアを、ファスタは不思議そうに見返した。
「なんだか機嫌が良さそうだが、何かいい事でもあったのか?」
新年早々幼馴染みのセルクが、今年の夏の長期休暇前に受ける試験勉強の為にソリスティスに帰ってしまい、春の休暇にも戻って来なかった所為でミルフェミアはずっと元気がなかったのだ。
勿論妹がそんな素振りを家族に見せる事はなかったが、兄であるファスタはそれに気付いていたのである。
「うふふん、ちょっとね」
余程機嫌がいいのか、ミルフェミアは思わせぶりに言葉を濁す。
「なんだよ、勿体ぶって」
妹の表情を探り、アレンが思い付いた上機嫌の原因を上げ連ねる。
「もしや、落ちてた
「アレン兄と一緒にしないでくれる」
三番目の兄の軽口にミルフェミアが一瞬ムッとする。
「ほら、アレン。もう一仕事しに行くぞ」
こいつは何時も余計な事しか言わない。
折角良くなった妹の機嫌を本格的に損ねる前に、ファスタが弟に声を掛ける。
「えぇ、今日はもういいだろ」
「何言ってんだ。壊れた柵の修理がまだだろ」
あからさまに嫌がる三男坊を、ファスタは呆れたように見返す。
そもそも人手が足りないのに、無理してヌーサイ達を街道沿いの牧草地に移動させたのは、彼らが居た場所の脇にある柵の一部が何時の間にか壊れ、子供のヌーサイが一頭そこから迷い出てしまったからだ。
すぐに気が付いて捕まえたから大事には至らなかったが、また出てしまうとも限らない。もうじき移動させるつもりだったので、柵は応急措置だけしてヌーサイ達を移動させた後ゆっくりと修理する事にしたのだ。
「夕方になればデリーが木工所から帰って来るし、それからでも——」
「あそこにはパロもいるんだ。仮止めくらいじゃあいつら簡単に抜け出すぞ」
ヌーサイと違って好奇心旺盛なパロは牧場全体を自由気ままに動き回っている。そんなのが逃げ出したら余計仕事が増えてしまう。
双子の弟を引き合いに、何とか仕事から逃れようとする一つ下の弟の言葉をぴしゃりと遮り、ファスタはすかさず手を伸ばした。
むんずと逃げようとするアレンの襟首を掴み、じたばた見苦しく足掻く弟を引きずって今し方妹が入って来た扉に向かう。
「と、そうだ。お前はこれからどうするんだ?」
扉に手を掛け、振り返ってミルフェミアに訊く。もし暇なら手伝って貰えると有難い。
「ゴメン、ファスタ兄。今はちょっと忙しくて」
すまなそうにそう言って、ミルフェミアは「じゃあ、アレン兄。頑張ってね」と、自分に
「そんな、ミルフェミアァ………」
「諦めろ」
情けない声を上げるアレンにすげない一言を投げ付け、ファスタは引きずる弟と共に外に出て行った。
それを見送ると、ミルフェミアは身を翻して居間の右手にあるカウンターの奥の台所に行く。
母親は出かけているのか姿がなかった。丁度いいとばかり戸棚から粗挽きの
それを手にそっと廊下に出ると急いで自分の部屋に戻り、大きな背負い袋を取り出すとそれを入れ、更にもう一つの背負い袋に自分の着替えや
「これで忘れ物はないわよね」
足りない物がないか一通り確認し、パンパンになった背負い袋を抱えて窓から外へ投げ下ろす。
そして自分もそこから出ようと片足を窓の縁に掛けて、ふと動きを止めた。
「っと、そうだ」
何か思いついたらしく、机の所に引き返して紙に何やら書き付ける。
「これでよしっと」
満足げにそれを机の上に置き、ミルフェミアは今度こそ軽やかに窓から身を躍らせた。
窓下に背負い袋を置いたまま、真っ直ぐにセルクの家に向かう。
こっちの方が玄関から出るより近いのだ。
セルクの家は街道沿いのミルフェミアの牧場の奥、タラスの村を一望に見渡せる高台の上にある。家は代々この村の村長をしているだけあって、小さな村の中でも一際立派でかなり年季の入った石造りの建物だった。
この時期に咲き誇る花々に彩られた坂の一本道を、ミルフェミアは一気に駆け上がる。
「あら、ミルフェミア。どうしたの?」
息急き切ってやって来る隣家の少女に、前庭の花壇から居間に活ける花を摘んでいたセルクの母——リーアが少し驚いた様に目を瞬かせた。上の息子が帰郷した時はよく見る光景だが、今のこの時期には珍しい。
「あ、おば様。こんにちは」
ちょっと慌てたように足を止め、ミルフェミアは何とか如才なく挨拶する。
そして、恥ずかしそうに用件を告げた。
「あの、ちょっとセルクの部屋に行きたくて……」
幼い頃、大好きな幼馴染みが遠くに行ってしまった淋しさを紛らわす為に、よくミルフェミアはセルクの部屋に入り浸っていた。
今回もずっと帰って来ていないので淋しくなったのかも知れない。
そう思ったリーアは優しく微笑んだ。
「そうね、セルクの部屋は最近窓を閉じたままだったから、空気の入れ替えをして貰えると助かるわ」
「わかったわ、おば様。ありがとうっ」
パッと顔を輝かせ、ミルフェミアは玄関の中に駆け込んでいく。
それを微笑ましく見送り、リーアは花摘みを再開した。後で息子の幼馴染みの少女に出す飲み物と菓子を何にしようかしらと考えながら。
一方目的の部屋に入ったミルフェミアは、早速閉まったカーテンと窓を開けて淀んだ部屋の空気と外の爽やかな外気を入れ替えた。
窓の近くに机とベッドがあり、反対側の壁にはぎっしりと本の詰まった書棚に飾り棚。そしてクローゼットにタンスが置いてある。見慣れたセルクの部屋は留守の時でもしっかり掃除が行き届いて埃っぽさはない。
ミルフェミアはクローゼットとタンスの前に行くと次々と開け放ち、隠し持っていた麻袋の中に幼馴染みの着替えを入れていく。セルクがこの場に居たなら、赤面して大慌てて取り上げただろう下着までしっかりと。
そしてタンスの引き出しなどを元通りに片付けると、心の中でセルクの母親に謝りながら、またこっそりと窓から外に出た。
今までの経験から、後でリーアがお茶の誘いに来るだろうとミルフェミアは分かっていたのだ。それに付き合った場合、中々抜け出す事が出来ない事も。
だからその前に見つからない様に逃げたというわけだ。
家の裏手から昔セルクとよく利用した二人だけの秘密の獣道を下って牧場の脇に出る。
そして今度は納屋とヌーサイやパロの畜舎を渡り歩き、何やら
それが済むと、最後に馬小屋に足を向けた。
「しっ、静かにしてね」
入って来た自分に甘える様に
するとそれに合わせて釘が浮き上がり、板が剥がれる。その中に手を突っ込むと今までと同様に鞣した革の袋を取り出した。
じゃらりと音がするところから、それらの中に金属製の何かが入っているようだ。
ミルフェミアはそれも麻袋にしまい込むと壁を元通りに直し、鼻を鳴らして自分の気を引く愛馬の許に行く。
「ごめんね、今日は乗ってあげられないの」
と、言い聞かせるように優しく顔を撫でつけ、愛馬とは別の馬に乗って置きっぱなしにしていた荷物のある自分の部屋の窓下に戻った。
そこで自分も身支度を整えてテキパキとまとめた背負い袋を馬の背に括り付け、全てを済ませたミルフェミアは意気揚々と、幼馴染みの少年の待つ村外れの小高い丘へと馬を走らせた。
待ちくたびれたセルクは大木の木陰でぐっすりと寝入っていた。
あどけない寝顔は昔のままだ。そのまま眺めていたい気もしたが、ミルフェミアはブルブルと
「セルク、起きてっ」
「ん……あ、あぁ……」
いきなり夢の園から叩き起こされたセルクは目を擦り、寝惚け
そして、暫くぼんやりと戻って来た幼馴染みの少女の姿を見ていたが、意識がはっきりした途端瑠璃色の瞳を大きく見開いた。
「フェ、フェミア。その恰好——」
しっかりと旅支度を整えている。しかも彼女が連れて来た馬の背には、一人分にしては多すぎる荷物が括り付けられていた。
——ソリスティスに帰るのは僕だけなのに、何故フェミアまで旅支度をしてるんだ?
「さあ、行きましょ」
「い、行くって、何処に?」
ミルフェミアにグイっと腕を引っ張られ、セルクは焦って訊く。
「決まってるじゃない、ブーレよ」
「ブーレ?」
ブーレはタラスの村から四日程の
が、アルセルスのある学都ソリスティスとは方向がまるで違う。
何故? とセルクは眉を
ブーレから船に乗れば、対岸のリカテスまで半日も掛からずに渡れる。そして、そこからリンファリア遺跡のあるセルレア山脈まで、歩いても二週間と掛からない。
それならエル・スティシアの言うように、上手くいけば確かに往復で二十日以上日数が稼げる事になる。
ずっと陸路しか頭になかったセルクは、その事をすっかり失念していたのだ。
とはいえ、人には向き不向きというものがある。エル・スティシアには悪いが、やっぱりセルクはファランスの花を取りに行く気はなかった。
「フェミア。君、僕の話、ぜ~んぜん聞いてなかったんだな」
「聞いてたわよ」
セルクに決め付けられ、ミルフェミアはムッとして言い返した。
「女の人にナントカって花を取って来るように言われて、泣かせたお詫びにこれからナンタラって所に取りに行くんでしょう」
「やっぱり……」
額に手を当て、セルクは溜息をついた。
ちゃんと聞いてないどころか、所々聞きかじった話を妙な具合に繋げて勝手に思い込んでしまっている。
彼女は突然泣き出したのであって、自分が泣かせたわけじゃない。……多分。
それに泣かせたお詫びとか、取りに行くとか一言も言ってない。
「だから、どう考えてもあの
「どうして? その
非難がましく言い返され、一瞬うっと怯んだセルクは、それでも幼馴染みを思い止まらせようと精一杯反論した。
「あの遺跡は今ディールの巣って言われてる森の中にあるんだよ。そんな所に剣もロクに使えない僕が行ってどうするのさ」
殺されるのがオチだ。それでは結局エル・スティシアにファランスの花を持って行く事は出来ない。
それにあの時傍にはセルクしかいなかっただけで、別に見込まれた訳じゃなかった。
「多少遠回りになっても、ディールと渡り合える腕を持った人に行って貰った方が、僕よりも確実に早くファランスの花を取って来られるんだ」
「それならブーレで、腕の立つ渡り剣士でも雇えばいいじゃない。その方が手っ取り早いし確実よ」
渡り剣士とは、特定の主君を持たず、自身の腕一本を頼りに文字通り各地を渡り歩く剣士の事だ。
今の様な大平の世が訪れる少し前、各国同士が争っていた戦が終結した事であぶれた騎士や兵によって生まれた職種だが、当初人々にはならず者と大差ない者達と思われていた。
それを良しとしなかった矜持の高い者達による努力の甲斐あって、今ではならず者と一線を画し、警備、護衛、ディール退治など、仕事に見合った金さえ払えば、どんな荒事でも引き受ける何でも屋として人々に受け入れられていた。
「雇うって簡単に言うけど、そんなお金何処にあるんだよ」
セルクは憮然としてミルフェミアを見返した。
確かに、
それにディール相手の仕事となれば命懸けだ。相場がどの位なのか分からないが、きっと
が、ミルフェミアはふふんっと得意そうに、懐から鞣し革の袋を取り出した。
「お金ならここにあるわよ、ほら」
と、口紐を解き、じゃらりと音を立てるぎっしりと詰まった中身を見せる。
「どーしたんだよ、これ!?」
セルクは目を丸めた。
シルスターが多いが、それでも三分の一くらいは
「父さんのへそくり♡」
「おじさんの!?」
事も無げに言うミルフェミアにセルクは目を剥いた。
つい厳つい髭面にごつい体の大男が自分を睨み付ける姿を思い出し、息を呑む。
「そう、前に隠していたトコ見ちゃったのよね」
それを失敬してきたという訳だ。
「おじさんにバレたらどうするんだよ」
「大丈夫よ。今頃何処に隠したか忘れてるから」
ひょっとすると隠した事すら忘れているかも。歳取った所為か、結構物忘れが激しいのよね。と、手早く口紐を元に戻して鞣し革の袋を懐にしまい、ミルフェミアはひらひらと手を振った。
「それに、金は天下の廻り物っていうじゃない。使わないで溜め込んでいたら、バチが当たっちゃうわ」
「………」
——いくら娘とはいえ、へそくっていた親の金を黙って使うのはバチが当たらないのだろうか……
ふと、セルクはそう思った。
が、そう言った処で口の減らない幼馴染みの事だ、また何のかんのと屁理屈をこねるに決まっている。
言うだけ無駄だと判っているだけに、それに付いてセルクは敢えて異議は唱えなかった。その代わり、あらゆる意味を込めて一言返した。
「知らないぞ、どうなったって」
「自分の身くらい自分で守れるし、セルクの事だって護ってあげるわよ」
腰に吊るした長鞭をポンっと叩き、ミルフェミアはひらりと馬に跨った。
彼女が九歳の時、もっとアルセリオンの事が知りたいと、セルクは独り学都ソリスティスにいる自分の伯父を頼って村を出て行ってしまった。
生まれた時からずっと、何をするのも一緒で傍にいるのが当たり前だったセルクに置いて行かれたショックで、ミルフェミアがどれだけ泣いたかしれない。
あれから毎年セルクが休暇で帰って来るのを、彼女は毎日指折り数えて待っていた。
けれど今年は試験に受かるまで帰らないと、本当に春の休暇にも帰ってこなかった。それがどんなに哀しくて淋しかったか。
だから昔から待ち合わせの場所として使っていた大木の下にいるセルクの姿を見て、ミルフェミアは夢かと思った。
そしてそれが夢でも幻でもなかったと
——この旅に出れば、その間ずっとセルクと一緒に居られる。
半年以上も会えなくて淋しい想いをするのはもう嫌だった。
その為ならどんな事でもするし、恐ろしいと話に聞いても実際会ったことも無いディールなど眼中になかった。
「さ、早く。のんびりしていると日が暮れちゃうわ」
「あ、ああ……」
フェミアはもう行くと決めてしまっている。こうなったら何を言っても無駄だ。今は従うフリをして、ブーレに付く前に何とか説得するしかないだろう。
セルクは溜息をついて、
掛け声と共にミルフェミアが馬の脇腹を蹴る。
一声
こうしてセルクは、ヴァルファンス達の予想とは裏腹にソリスティスに背を向け、ミルフェミアの一途な想いに引きずられる形でブーレへと旅立ったのだった。