その夜、タラスの村は何時になく騒々しかった。
その発端は、ミルフェミアの父ザラスが一枚の紙切れを持ち、セルクの実家の夕食後の家族団欒の場に血相を変えて怒鳴り込んで来た事にあった。
「バスタム、これは一体どういう事だ?」
バンっと、テーブルの上にザラスが紙切れを叩き付ける。
テーブルがビリリっと震え、軋んで悲鳴を上げた。一瞬脚が折れるのではないかと思った程だ。五十歳とまだ働き盛りの牧場経営者だけあって、流石に力が有り余っている。
テーブルを囲んでいた一家は、呆気に取られて乱入して来た男を見た。
「どういう事とは、どういう意味だ?」
何の事か判らず、食後のひと時を家族と共にゆったりと過ごしていたタラスの村長は、いきなり憤然と飛び込んで来た二歳年上の鬼瓦の様な形相をした髭面の逞しき隣人に怪訝そうに訊く。
「これを良く見ろっ」
ザラスはじれったそうにテーブルの上に叩き付けた紙切れを指差す。
それは、旅立つ前にミルフェミアが机の上に残して行った書き置きだった。
そこには『
何気ない文だが、解釈によっては駆け落ちの置き手紙にも取れる。
「これは……」
文面に目を通し、バスタムは唖然となった。
「お前んトコの息子は、一体うちの娘を何処に連れてったんだっ!?」
さあ、白状しろと鼻息も荒くゴツイ牧場主は、自分より一回り細身のセルクの父親に詰め寄った。
ミルフェミアは二人目の息子が生まれた後、娘を望んで五人目にしてやっと生まれた一人娘だ。その年頃の愛娘が意味深な手紙を残し、幾ら幼馴染みとはいえ男と一緒に姿を
「まあ落ち着け、ザラス。そういきり立たれては満足に話も出来ん」
村長の貫録を見せてバスタムはザラスを宥め、取り敢えず自分の向かいの空いていた椅子に座らせた。
その隣の椅子に座っていたセルクの弟が慌てて立ち上がり、ついでに居間からも退散する。ミルフェミアの事は気にはなったものの、見境のなくなったザラスの矛先が自分に向かないとも限らない。兄のとばっちりは御免だった。
居間から出て行く下の息子の後ろ姿を見送ると、バスタムはぎりりっと歯を軋らせて自分を睨む男に嘆息し、長男の弁護をする。
「お前も知っての通り、セルクは大事な試験に専念するとかで、新年以降まだ一度も帰って来ておらん。あいつは今頃ソリスティスの
「だが、現にこうしてセルクと一緒に旅に出ると書いてある。息子二人も昼間見たミルフェミアは珍しく上機嫌だったと言っておった」
認めるのは業腹だが、年が明けてずっと元気がなかった娘が、急に機嫌が良くなるとしたら、それはセルクが帰って来たからとしか考えられなかった。
「そう言えば、私もミルフェミアと会ったわ。セルクの部屋に行きたいと言ってきたから、あの子に会えないで淋しいのかと思ったのだけど……」
バスタムの隣に座るリーアがザラスの言葉を聞いてポツリと漏らす。
「今思えば、確かに機嫌が良さそうだったわね」
その後午後のお茶に誘いに行ったら、帰ったのか居なくなってしまっていたが。
「やっぱりそうだ。きっとセルクがこっそりと戻って来て、あの
親バカの見本のように、鼻息も荒くザラスは断言する。
「親思いの優しい娘が、親に内緒で家を飛び出す訳がない。きっとセルクに無理矢理連れて行かれたんだ。もう陽も暮れたというのに、今頃きっと見知らぬ土地で心細い思いをしているに違いない。可哀想なミルフェミア……」
事実は全くの逆であったが、そんな事は知らないザラスは自分の思い描いた情景に思わず涙ぐむ。
——まったく、こいつは……
バスタムは呆れ返って隣人の牧場主を見やった。武骨な男の涙にむせぶ姿などむさくるしいだけで、どう見ても絵にならない。
今に始まった事ではないが、相変わらず娘の事となると見境のない隣人の親バカぶりに嘆息し、タラスの村長は人攫いの極悪人にされてしまった息子の名誉の為に反論を試みた。
「あいつが帰って来たなら必ず家に顔を出す筈だ。どういうつもりでミルフェミアがそのような物を書き置いて行ったのかは知らんが、セルクとて同じだ。あいつは親に迷惑をかけるような真似は絶対にせん」
そう断言して、バスタムはカップに残った紅茶を一気に飲み干す。
「まぁ、ここで互いの子供の自慢話をしても始まらん。とにかくミルフェミアが居ないのであれば、早速村人を集めて誰かあの
そう結論付けると、バスタムは騒々しく娘の安否を気遣うザラスを連れて家を出た。
こうして事態は、親を安心させようと書き置きを残して行ったミルフェミアの意向とは、正反対の方向に波紋を広げて行った。
∮ ∮ ∮
頭上に広がる漆黒の夜空にちらほらと星が瞬く。
街灯の
学都の中心部は石畳で綺麗に舗装されているが、ここら辺になると土が剥き出しのままになっている。雨の日はあちこちにぬかるみが出来てかなり歩きにくそうだ。
道なりの建物も金持ち専門の高級宿や学生相手の小奇麗な店とは違い、普通の旅人などを相手にする店や宿などが並んでいた。
今二人が歩いている通りは様々な店が立ち並び、昼間などは結構人の往来のある所だ。とはいえ、夜も遅くなると開いている店は娼館か酒場くらいだろう。昼間とは違う賑わいが店の中から漏れ聞こえてくる。
「一体何処に行くんですか?」
普段こんな所まで来たことのないカーテスは、物珍しそうにキョロキョロと辺りを見回し、隣を歩くスターレンに訊いた。
「もう少し先だよ」
と、スターレンは店の外に掲げてある看板を見上げながら歩いて行く。
そして、ある看板に目を留めて店の前で立ち止まった。
そこは酒場を兼ねた宿屋だった。一階が食事も取れる酒場で二階以上が宿になっている、何処にでもあるごく普通の宿付き酒場だ。ただ宿屋と酒場を示す看板の下にもう一つ旅用のマントに剣が描かれた看板がぶら下がっていた。
「ほら、ここだ」
目的の店を後輩に示し、スターレンはその店の扉に手を掛ける。
「ここに入るんですか?」
街外れの旅人がよく利用する宿付きの酒場は初めてのカーテスである。興味深そうにスターレンの後に付いて店に入って行った。
中は酒場としては中程度の広さだろうか、所狭しととまではいかないが程々にテーブルと椅子が置かれ、結構客も入っている。奥にあるカウンターの脇にある階段から宿泊用の部屋に行くらしい。
ここの泊り客だけではないだろうが、旅人相手の酒場だけあって人種も多種多様だ。ただ剣を身に付けた者がいれば、テーブルや傍らの壁に
入るなり、幾人もの鋭い視線を向けられ、思わずうっとなって顔を背けて見えた壁に大きな掲示板があり、そこには用件と金額を書き付けた紙切れが色々と貼られてあった。
酒場に掲示板とは珍しい。
ふと興味を持ち、カーテスはそれらに目を通してみた。決して背中に突き刺さる鋭い視線が怖くて振り向けなかった訳ではない。
そんな後輩を放ってスターレンは一人奥のカウンターに向かった。彼はアルセルスに戻ってからは時々ふらりとここにやって来ては、彼等から様々な
親しげに中のマスターに声を掛ける。
「中々盛況そうだね、マスター」
「ふんっ、また来たのか。物好き学士殿」
白髪が目立ち始めた初老の男は、小さく鼻を鳴らした。
どうやら顔見知りらしく、マスターの呆れた口調にも何処か気安さがある。
「彼等の話は、色々と興味深いものが多いからね」
と、スターレンは店の中をゆっくりと見回す。
今ここに
そんな者達が寄り合うここは単に宿付き酒場と言うだけでなく、あちこちから渡り歩いて来る彼等にここでの仕事を斡旋する仲介業も営んでいた。外の看板の下にあった旅用のマントに剣が描かれたヤツがその印だ。
渡り剣士に仕事を頼みたい者がここで少額の手数料を払い、依頼内容と報酬金額を書いた紙を掲示板に貼っていく。
それを見て気に入った依頼があれば、渡り剣士はそれを手にマスターから依頼人の詳しい情報を買うのだ。
後は何かあっても双方の問題であってマスターは一切関知しない。ここは単に仲介する場所を貸しているだけに過ぎなかった。
ただ掲示板に貼ってある依頼は報酬金額が決まっている為、依頼内容と懐事情にもよるが、腕に自信を持つ渡り剣士達は掲示板の依頼には余り手を出さない。
受けて行った先で報酬に不満があっても、提示した金額で納得したから受けたのだろうと言われればそれまでだからだ。
それに所謂一流と言われる渡り剣士は、人に頼み事をするなら紙切れ一枚で人を呼び付けるのではなく、自ら足を運んで頼みに来るのが礼儀だろうと考える者が多かった。そうすれば直接交渉によって、自分の納得のいく報酬金額を決める事も出来る。
ここで掲示板に見向きもせずに食事やエールを飲んでいる連中は、そう言った一癖も二癖もある曲者揃いの輩ということだ。
店に入って来た同業者以外に鋭い視線を向けるのも、自分達に依頼するに足る人間か見極める為だった。
「で、今日は何の話を聞きたいんだ?」
「今日は腕の立つ者を二、三人雇いたいんだ」
と、スターレンが懐から小袋を取り出してカウンターの上に置く。小さい割にはずっしりとした重みがある。
「ほぅ……」
とうとう話だけでは我慢できなくなったという事か?
軽く目を見開き、疑わしげにマスターは顔馴染みの学士の柔和な顔を見やった。
「一応訊くが、雇ってどうするつもりだ?」
「旅に出ようかと思っているんだ」
その護衛を頼みたいのだと、のほほんとスターレンが言う。
やっぱりそうかと、マスターはこめかみを押さえて溜息をついた。
「悪い事は言わん。話を聞くだけにしとけ」
興味本位で物騒な旅に出られては、連中もいい迷惑だろう。
「できればそうしたいんだけど、これは恩師の頼みでね。行かない訳にはいかないんだ」
軽く肩を竦めて事情を説明すると、スターレンは初老のマスターに尋ねた。
「それで参考までに、今ここに行き先がディールの巣でも構わない人っているかな?」
「ディールの巣だと!?」
思わずマスターは耳を疑った。
腕の立つ渡り剣士でさえ生きて帰れる保証のない場所だ。そんな所に行こうなどと正気の沙汰ではない。
掲示板にへばりつく若者に興味を無くし、「雇う」の一言に一斉に耳を
「お前、どれだけ恩師の恨みを買ったんだ?」
ディールに八つ裂きにされて死ねと言っているようなものだ。
「——恨まれてはいないと思うけど……」
むしろ心配されて反対されたのを押し切り、行くと言ったのは自分の方だ。それが最善だと思ったし、自分にも行きたい理由があったのだ。
「おいおい、おつむの方は大丈夫か?」
傍のテーブルで二人のやり取りを聞いていた渡り剣士の一人が、呆れ返ったような声を上げる。
「どうせ頭でっかちの学士様は本で得た知識だけで、ディールの本当の怖さを知らねぇんだろ。その巣がどれ程ヤバいかって事もな」
完全に馬鹿にしきっている。
思わず振り返ったカーテスが、ムッとしてその渡り剣士を睨んだ程だ。
だが、言われた当の本人は、全く意に介していなかった。
「知ってるから護衛を頼みたいんだ」
言われるまでもないと、スターレンは当然の事のよう言う。
言い返されるとは思ってなかった渡り剣士は、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「はっ、こんな街中で一
「ディールとは、三百年程前突如この世界に現れた異形の獣の総称だ。金色に輝く瞳が猫の目の様に縦に細長く、耳の先端が尖っている事を除けば、様々な種類の獣を掛け合わせたような外見をしている。
最近ではその中でも
特徴としては他に陽の光を嫌い、普段は陽の射さない森林の奥深くに居て、日没と共にそこから出て来て人を襲う」
知らないと決めつけられたスターレンは、淀みなく自分の知っている事を披露した。
「けれど、ディールが人を襲うのは食欲を満たす為じゃない。今まで彼等が人肉を食べる処を見た事がないからね。
どちらかというと殺したいから殺すという感じかな。それも一息に殺すのではなく、嬲るように傷つけて恐怖に怯え泣き叫ぶ人の姿を見て愉しみ、それに飽きたら殺すという具合に。
彼等にとって人を殺すという行為は、退屈しのぎの娯楽なのかもしれないね」
まるでディールの生態を実際見たかのように、スターレンは克明に感想を交えて説明する。どれも本を読んだだけでは知り得ない内容ばかりだ。
それを聞いた渡り剣士達は思わずゴクリと生唾を呑み込んだ。その中には自分達が知らなかった部分も含まれ、しかもそう言われれば思い当たる節があるのだ。
「あんたは一体……」
ただの物好きな学士かと思ったら、一体今までどんな暮らしをしてきたのか。
初老のマスターも薄ら寒そうに顔馴染みの学士から腰を引く。
見事無知の汚名を返上してみせたスターレンは、そこに集う渡り剣士を見渡してにこやかに先程の依頼を口にする。
「で、ディールの巣に行けそうな人はいるかな?」
「………」
自分にいちゃもん付けてきた渡り剣士に目を向けると、さっと目を逸らされる。
ゆっくりと店の中を見回すと、ある者は顔を背け、また別の者は聞かなかったフリをしてエールを
腕に自信があってもディールの巣となると、足手まといの
誰もが即答できずに重苦しい沈黙が酒場内に満ちる中、
「ディールの巣とは何処の巣だ?」
「巣」と言われていても規模は様々だ。大きい物もあれば小さい物もあり、それによって棲んでいるディールの数も異なる。
確かにその規模によっては行ってもいいかもしれない。さっきこの優男がカウンターに出した小袋の中身は、かなり期待できそうな重みがあった。
またも聞き耳を立てる一同を前に、訊かれて嬉しそうにスターレンが答える。
「セルレア山脈の下に広がる森林地帯だよ」
「っ!?」
そこに居合わせた渡り剣士達は目を剥いた。
ディールの巣の中でも最大級と言われる場所である。自殺志願者でなければまず行かない。いや、自殺志願者でもズタボロの細切れの肉片となって死ぬのは嫌だろう。しかもそうなるまでディールに散々
——こいつ、本当に気は確かか?
誰もがそう思った中、先程質問した緑がかった黒い鉄色の髪をした渡り剣士が静かに口を開く。
「——いいだろう」
「引き受けてくれるのかい?」
目を輝かせて確認を取るスターレンに、男は頷いた。
「だったら、俺も行くぜ」
壁にバトルアックスを立て掛けた傍のテーブルに座っている筋肉隆々の大男が名乗りを上げる。
「お前等だけじゃ、死にに行くようなもんだからな」
それが分かっていて、ここで見過ごすのは寝ざめが悪いと言うのだろう。単に面白そうだと思っているのかもしれない。強面の
「これで二人か……」
引き受けてくれると言うだけでも十分だが、スターレンは少し考え込んだ。
「——できれば後もう一人。弓が使える者がいいかな……」
ディールと一括りにしているが、実に様々な種類がいるのだ。中には空を飛ぶものもいる。それに対処する為にも弓使いは必要だ。
そこには数人弓を持っている者がいたが、それを聞いて全員一斉にそっぽを向いた。言いたい事は判るが行き先が行き先だけに、できれば遠慮したい。
「しゃーないね」
スターレン達が入って来ても我関せずと、一人でエールを飲んでいた金髪に褐色の肌をした女が、グイっと最後のエールを飲み干して声を上げた。
「誰も行かないってのなら、行ってもいいよ。その代わり報酬は弾んでもらうけどね」
と、椅子に掛けた弓を手に軽く上げる。
誰も引き受けないのを確かめてから名乗りを上げ、さり気なく報酬の上乗せまで要求するあたり、中々の交渉上手のようだ。
「だったら、俺にも頼むわ」
それに便乗して先程の大男が声を上げる。
「勿論だよ。引き受けてくれてありがとう」
こんなにすぐ同行者が見付かるとは思ってなかったスターレンは、気前よく請け合う。
それを聞いて、この依頼に二の足踏んでた渡り剣士の中に、しまった、その手があったかと思った者もいたが既に後の祭りだ。
スターレンはカーテスと共に、依頼を引き受けてくれた渡り剣士三人とテーブルを囲い、報酬金額の交渉と目的地までの日程を確認した。
こうして準備に一日費やした次の日、セルクの帰りを待たず、スターレン達は雇った渡り剣士達と共にリンファリア遺跡へと旅立った。