ノックの音の後に静かに扉が開いた。
窓から少し離れた所から、ガラス越しに外を眺めていた蜂蜜色の髪をした清楚な女性は、入って来た銀灰色の髪と髭を持つ老人を見て、優雅に会釈した。
「おはようございます、ヴァルファンス教授」
「ああ、ご機嫌はいかがかね。エル・スティシア殿」
「とてもいいですわ。何もなかった異空間では、このような美しい風景など見られませんでしたもの。——あの青の塔の時計もあの頃と全然変わらず、とても懐かしくて……」
ふっと表情に淋しげな色を浮かべたエル・スティシアはすぐにそれを打ち払い、ヴァルファンスに尋ねる。
「それで、あれからどうなりましたか?」
一応彼女を交えて話し合った後、エル・スティシアを残してヴァルファンス達は更に詳細を詰める為に別室へ行ってしまったのだ。
それから丸一日、彼等は忙しく動き回っているらしく、昨日は朝に一度ヴァルファンスが彼女の様子を見に来て以来誰も姿を見せなかった。
ここより動くことの出来ないエル・スティシアは、その後の事がずっと気になっていたのである。
「うむ、取り敢えず順調じゃ」
そう言ってヴァルファンスは立ち話もなんだからと、不安そうに自分を見る異空間の囚われ人に椅子を勧めた。
エル・スティシアが自分と一緒に異空間に取り込まれた研究室の椅子に腰を下ろす。
自分も椅子に座ると、ヴァルファンスは改めて口を開いた。
「ファランスの花の方は、一昨日の内にスターレン達が上手く段取りを付けた様じゃ」
スターレンは何度もディールの巣にあるアルセリオンの遺跡の調査をしていた。その経験を活かしてリンファリア遺跡に行く為の護衛を雇い、必要な物を取り揃えて今朝早くに出発している。
まず
上手くいけば二か月と掛からずに望みの物を取って来ることが出来るだろう。もっともエル・スティシアにエクセラーナのルーンで転移して貰えば、もっと日数を短縮出来た。
だが、セルクの時と違って転送先を明確に思い描ける者がいない以上、そのルーンは危険すぎて使えなかったのだ。結局地道に行くのが最も早いという事である。
「学院の方も事態を重く見て、協力は惜しまないという事じゃ」
全てを隠蔽してなかった事にしていたが、極秘事項として彼女の事は密かに上層部の間ではずっと言い伝えられていたのだ。
それを知らない筈のヴァルファンスが、彼女の名と「ルーン・レム・サークセラ」の事を口にした上、ディールとの因果関係やら空間がズタズタに裂ける可能性などを聞かされた彼等は大混乱に陥った。前代未聞の大不祥事なのだからそれも仕方ないだろう。
そして、事態が切迫して予断を許さない事から、それを収拾する為の資金は幾らでも出すからと、ヴァルファンスに全てを一任したのだった。
単に責任を丸投げにしただけとも言えるが、最後まで見届けたかったヴァルファンスにとって、自分の
「問題はその空間が、何時までそこに在り続けられるかじゃが……」
一応そこに存在しているとはいえ、別の空間同士が重なった不安定な状態である事に変わりはなかった。何時何かの拍子に離れてしまうか分からない。彼女が再び虚無の空間に取り込まれる可能性も全くないとは言えないのだ。
それもあったからこそあの時エル・スティシアは
「今はまだ安定している様なので、当分は大丈夫だと思います。『ルーン・レム・サークセラ』さえ使わなければ、多分……」
そう応えた後、エル・スティシアはふと表情を曇らせた。
「でも、今回の事で別の所に、また新たな歪みが出ているかもと思うと——」
とても楽観視は出来ない。規模も前回以上かもしれないとあっては尚更だ。
「なに、そう気に病む事もあるまい。三百年前、君が唱えたルーンでも大丈夫だったのじゃからな。結構空間とは柔軟なものじゃ。そうそうズタズタにはならんじゃろう」
「そうであれば良いのですが……」
「人の手とはそう大きくないもんじゃ。取り零した物ばかり気にしておると、折角掴んだ物まで落としてしまう事になるぞ」
年老いた教授は穏やかに微笑んだ。
「これ以上空間を損ねぬ為にも、君は今度こそ完全な『ルーン・レム・サークセラ』を唱えて貰わねばならん。あれを唱えられる者はアルセリオンの民がおらぬ今、君しかおらんのじゃからな。折角ファランスの花が届いても、君の
それが、結局はエル・スティシアを含めた、全ての者の為になる。
「分かりましたわ」
完全に心が晴れた訳ではないが、重々しい中にも温かみのある老教授の言葉に、エル・スティシアは小さく頷いた。
「ふむ、そうるすと後は、セルクが帰ってくれば良いだけじゃな」
軽く顎鬚を掴み、何気なくヴァルファンスが呟く。
その言葉にエル・スティシアは赤面した。
思い付いたら後先考えずに突っ走ってしまう。三百年
「セルクは、許してくれるでしょうか……」
「大丈夫じゃ、彼は優しい子じゃからな。笑って許してくれるじゃろう」
「そう……ですね」
自分と同じ蜂蜜色の髪に瑠璃色の瞳をした少年の姿を脳裡に浮かべ、エル・スティシアは小さく頷いた。
本当は出来るなら今すぐタラスに跳んでセルクに謝りたかった。
でもそれが出来ない以上ヴァルファンスの言葉を信じ、エル・スティシアは自分の為にリンファリア遺跡に向かったスターレン達の無事を祈りつつ、セルクの帰りをただ待つしかなかった。
一方、自分の師と異空間の囚われ人が、アルセルスの一画でセルクが戻るのを首を長くして待っていた頃、当の本人は不本意な事に幼馴染みの少女の無謀さに引きずられ、ヴァルファンス達が信じて疑わなかった彼の思慮分別から、片足どころか両足を踏み外した所に身を置いていた。
村を出て二日、ブーレの港まで後半分の行程にある街道の途中、少し外れた林の中に
「ねぇ、フェミア」
傍らで美味しそうに、サラミチーズ乗せグリエを頬張る幼馴染みに声を掛ける。
「これを食べたら村に帰ろう。おじさん達、今頃心配しているよ」
「大丈夫よ、ちゃんと手紙を置いて来たから。貴方と一緒だって」
ごっくんと口の中の物を呑み込んで、ミルフェミアはお気楽に応える。
——それが、一番マズイように思うんだけどなぁ……
横目で食欲旺盛な幼馴染みの見事な食べっぷりを眺め、セルクは盛大に溜息をついた。
置き手紙にそんな事書かれたら、村に帰ったのが自分の家にも筒抜けだ。これじゃあ敢えて家に顔を出さなかった意味がない。
それに一緒に居るのが自分だと知られた以上、早くミルフェミアを家に帰さないと、彼女を溺愛しているおじさんや兄さん達に袋叩きにされてしまう。
第一こんな剣呑な旅に出るつもりなどこれっぽっちもなかったのだ。できるならブーレに着く前に、セルクはミルフェミアを村に連れ戻したかった。
「ねぇ、やっぱり無理だよ。僕はともかく君は女の子なんだから、どう考えても危険すぎるよ」
「あら、女の子だから危険って、どういう意味?」
すっかり朝食を平らげ、ミルフェミアはずいっとセルクに詰め寄った。
「セルクなんて剣どころか、自分の身を守る
さっとまだセルクが一口も食べずに手にしていたグリエを取り上げ、呆気に取られる幼馴染みを
そして、立ち上がって焚火を消し、さっさと身支度を整える。
「とにかく、貴方が何と言っても、わたしは絶対に一緒に行くんだから」
聞く耳持たない。ミルフェミアの態度は正にそれだった。
「フェミア……」
口では勝てない。ならば力ずくといっても、彼女に長鞭を使われたらやっぱり勝てない。どうすれば思い直してくれるのか。
朝食を食べ損ね、説得に失敗したセルクはほとほと困り果てた。
そこへ、下卑た男の声と共に、いきなり手前にある樹の後ろから人が現れた。
「なにやら声がすると思ったら、朝っぱらから痴話ゲンカかい?」
いかつい顔に不精髭を生やし、薄汚れた格好の三十代の男を初めにわらわらと六人の男が姿をみせる。皆腰に剣を佩いて、いかにも屈強そうな剣士という感じだ。風体からして渡り剣士だろうか。
だが、一匹狼の彼等は大体単独で渡り歩くのが普通だ。徒党を組んだ渡り剣士など聞いた事が無い。
「いいねぇ、若いもんは初々しくて」
男が不精髯の生えた顎に手を当て、ニヤニヤと二人を値踏む様に眺め回す。
何だか嫌な感じだ。
ミルフェミアの前に立ち、セルクは不審の色も
「何か、僕達に用ですか?」
「そうだな。まぁ、大した用じゃないが——」
ニヤッと男は笑った。
「親切な俺達が、お前等を身軽にしてやろうと思ってな。持ってる金品、そっくりこっちに渡して貰おうか」
男達は一斉に剣を抜き放った。
∮ ∮ ∮
朝の清々しい草原の静寂を破って、奇妙な音が木霊した。
鼻の詰まったヌーサイのいびきの様なそれは、原っぱに立つ一本杉の木の下で荷物を枕に、仰向けに大の字になっている男の腹から発していた。
まだ二十歳前後の若者である。長身で、剥き出しの両腕は陽に焼けて浅黒く逞しく、若者らしい引き締まった体躯をしていた。真っ直ぐな長い銀青色の髪を後ろで軽く束ね、きりっとした顔立ちに目付きが鋭く、腰に剣を佩いて
が、大分精悍さに欠けるのは、今現在の彼の腹の虫が示すように、食料事情が著しく悪い所為だろう。
また、一際大きく耳障りな音が鳴り響く。
「ああもうっ。そう恨めしそうに催促したって、何にも出んぞ」
文句を言う自分の腹に不機嫌そうに応え、若者はゴロリと寝返りを打った。
——まさか、こんな所で道に迷うとはなぁ……
ハァッと若者は力なく吐息を漏らした。
彼は一ケ月程前隣国のソトスから、このタナンにやって来た渡り剣士だった。
名をレスターという。この若さでもう渡り剣士として独り立ちし、腕一本で独り気ままに旅をしている処から今まで結構波瀾万丈に生きて来たようだ。
そして彼がそんな波瀾に富んだ人生を送る羽目になったのは、今までの経験で培われてきた性格もさることながら、この人並外れた特異な方向感覚だった。
タナン入りして内陸育ちのレスターは、ふと「海」というものを一度見て見たいという気紛れを起こした。
その道中小用を足しに道を外れてちょっと林に入り、用を済ませて道に戻ろうとした途端、「ここは何処?」の世界に陥ってしまったのだ。
別に林の奥深く入ったわけでもなく、普通なら迷う事などない筈なのだが。
それから五日後、情けない事に彼はまだそこに居た。空きっ腹を抱えて。
勿論最初はレスターも努力はした。したが、その努力が必ずしも報われるとは限らない。
何とか林は抜けたもののどうやら目指した街道から逆方向に抜けたらしく、目の前にはただもう何ない原っぱが広がっているだけだった。何度も林を突っ切ってみたが結果は同じだった。どういう訳か街道のある方へ辿り着けない。
その内持っていた食料も尽き、自給自足を余儀なくされた。とはいえ狩りをしようにも弓がない。それを造るに適した材料もない。挙げ句に今の季節じゃ、樹に実など成ってもいない。
「これからどうするかなぁ……」
こうないない尽くしじゃ、流石に何もする気が起きない。
仕方ない。こうなったら取り敢えず、体力使わず簡単に出来る事をしよう。
早い話が寝る事である。
——別に急ぐ旅でもないし、闇雲に動き回っても余計腹が空くだけだ。ここは焦らずにじっくりいくさ。
そう心に決めると、レスターは不平たらたらの腹の虫を無視し、固く目を
が、それも長くは続かなかった。
腹の音だけならまだしも、絹を裂く様な悲鳴がしたのだ。それも妙に色っぽい艶のある声だ。
——これは……
美女が、何かに襲われているに違いない。
そう思った瞬間、今さっきまで空腹と無気力に支配されていたレスターの体が、水を得た魚の様に跳ねた。
ガバッと飛び起き、声の方に駆け出す。
——と、
不意に立ち止まり、
一抱えしかない荷物だが大事な全財産だ。こいつを忘れてはいけない。
ここにまた戻って来る自信が全くないレスターはそれを引っ掴むと、再度悲鳴が聞こえた方に向かって駆け出した。