◆
「んだゴラァッ!! ッせーんだよ、ンだらぁッ!! ってンじゃねぇぞ、らぁッ!」
十九時の東総線の、とある車両に怒声が響いた。
類人猿でももう少しスムーズな言語的コミュニケーションを取れるだろうと思わせる知性無き怒声だ。推定IQは2程度だろう。サボテンよりやや低い。
見れば、反社とチンピラと半グレを足して三で割ったようなスキンヘッドのいかつい男が、三十前と見られる女を怒鳴りつけていた。
「ちょっ……なんですかいきなり!」
怒声を浴びせられた女が抗弁する。
「脚を広げ過ぎてるから、もう少しだけたたんでくださいって言ってるだけじゃないですか……!」
そう、男の脚は自身の肩幅を超えて、まるで猛禽が翼を広げるがごとくにでーんと広がっていたのだ。この脚のせいで一人で2.5人分の座席を占有してしまっている。もし日本が法治国家でなければ、その場で殺害されてもおかしくない所業であった。
男の名は黒木博之、四十三歳。職業は塗装工で前科四犯。内訳は傷害三件と暴行一件。つまりはカスである。
女の名は草薙絵理香、二十九歳。外資系PR会社勤務でヨガとタイ料理を愛好する無犯罪歴の女。言うまでもなく、カスではない。
「あ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ン!? 誰に向かって口きいてんだボラ!」
男は立ち上がりざま、ジャケットの内ポケットから何かを抜く。みればそれは刃渡り十二センチの折り畳みナイフ。塗装工が業務上携行する道具ではない。携行するなら職務質問待ったなしの逸品である。
絵理香は「えっ」と一音、あげただけだった。
それから刃が彼女の白いブラウスの腹のあたりへ、すうっと吸い込まれてゆく。
まさか自分が刺されるとは思っていなかったであろう絵理香は、暫時自身の腹へ埋まるナイフをぽかんと眺めていた。腹を刺された者なら分かる事だが、よほど運が悪くなければ即死なんてしない。
そして最初に来るのは痛みではない。アドレナリンの作用により、痛覚は遅れてくるのだ。
絵理香がまず感じ取ったのは、ブラウスの腹あたりに広がる奇妙な熱である。冬の湯たんぽに似た、それ自体は不快でない種類のぬくもり。次に湿り気が来る。湿り気はやがて温度を伴い、温度はそれが自分の血液であることをじわじわと告知してくる。
お湯ではなく血が漏れているのだ、と理解するまでに二秒か三秒かかる。
痛みはその後にやってくる。
腹のなかを内側から鋭利な親指でこねくり回されるような、これまで経験したいかなる胃痛・生理痛・盲腸の痛みとも質の異なる感覚。彼女が知っていた語彙のなかに、それを記述できる単語はなかった。
「痛い」では足りず「熱い」でも足りず、「裂ける」でもまだ足りなかった。要するに、その感覚は人類の語彙の中には存在しなかったのである。
音は遅れて、やがて遠ざかった。
電車の走行音が水中で聞くように丸くなり、なぜか車両中央のサラリーマンが噛んでいるガムのミントの匂いだけが、妙に鮮明である。視野の縁が外側から黒く滲んでいくのを、絵理香はただ眺める。眺めているうちに、自分が立っているのか座っているのかもよくわからなくなっていく。
そして目の前が段々と暗くなっていき──
絵梨香は死んだ。
殺されたのだ。
◆
警察から連絡を受けて永田町の議員会館を飛び出したのは、大分夜も更けてからである。
衆議院議員・草薙征一郎は今年で七十二歳になる政界の長老である。与党政務調査会長を二期・財務大臣を一期・官房副長官を一期、無派閥の派閥領袖というよくわからない肩書きを長年にわたって保持し続けてきた男だった。
絵理香はその草薙にとっての遅子であった。最初の妻を四十の年に病で亡くし二年の独居ののち、議員会館の地下食堂を仕切っていた一回り下の女と再婚したのが四十二の年。翌年に授かった一人娘が絵理香である。
目に入れても痛くない可愛い可愛い娘だ。
その草薙が霊安室の蛍光灯の下、娘の頬に触れた。
「……絵理香」
頬は冷たい。冷たくない頬の絵理香しか彼は知らなかったし、生涯知りたいとも思っていなかった。
担当の捜査員はためらいながら、容疑者の供述を伝える。
「容疑者は『脚を閉じろと言われたのが我慢ならなかった』と」
草薙はうなずく。深く、ゆっくりと。うなずいた次の瞬間、彼のなかで炎がめらりと燃える。
激しく燃え盛る烈火ではない。
ちろちろと燃ゆるか細い火だ。
しかしその火に──蒼い青い、真っ青な火に触れた者はその血肉のみならず、魂までもが焼き尽くされるだろう。
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それから一週間、草薙は議員会館の自室にこもり、何本かの電話をかける。電話の相手は国土交通大臣・警察庁長官・法務大臣・内閣法制局長官・自党総務会長・政調会長・国対委員長、そして全経連会長。要するにこの国でモノが動く順番をすべて知っている男たちである。
電話の順番には意味があった。一本目が国交大臣であったのは、満員電車の所管が国土交通省であるという形式的理由による。二本目が警察庁長官・三本目が法務大臣・四本目が内閣法制局長官の順となったのは、これから起こすものの中身が満員電車の話では済まなかったからである。
私人による実力行使に正当防衛の特則を設けるというのは、刑法体系の根幹に手を入れる作業であった。形式上は鉄道営業法の改正という体裁を取るとしても、刑法および刑事訴訟法の運用との整合は警察庁と法務省の頷きなしには動かない。
鉄道局の役人が一人で書ききって閣議へ放り込めば、内閣法制局の入口で素案ごと蹴り返される事は想像に難くない。
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かくして内閣官房は十二月一日付で「車内秩序維持に関する関係省庁連絡会議」を設置した。座長は内閣官房副長官補、構成は国土交通省・警察庁・法務省・内閣法制局・経済産業省の五省庁。
事務局は国土交通省鉄道局に置かれ、警察庁刑事局および法務省刑事局からそれぞれ常駐者が派遣された。
国土交通省鉄道局都市鉄道課課長補佐・山岸正一は、十二月のある朝、課長から呼び出される。
「山岸くん、連絡会議の事務局担当を君に任せたい。条文の国交省側とりまとめも君だ」
「私に、ですか」
「君の起草実績、草薙先生のところまで上がっていてね。評判がいいみたいだよ」
筆頭秘書官・小笠原は、霞が関のあらゆる人事を記憶している人間ファイリングシステムである。彼女が一週間で抽出した起草担当候補のリストのなかに山岸の名があったのだ。
山岸正一は通勤輸送関係の法案を過去七本起草し、いずれも国会答弁で炎上を起こしていない技官である。条文を書けば書くほど答弁が荒れる者が霞が関にはときおり混じるが、山岸は逆方向の人間だった。
逆方向の人間は永田町では稀有だ。
警察庁からは刑事局組織犯罪対策部の参事官補佐・宇都宮昌克が国交省事務局へ派遣された。法務省からは刑事局公安課の検事・神保剛。三省それぞれの省益を背負った三人が一つの机を共有する作業を、霞が関では「共管」と呼ぶ。共管とは要するに、合意できないことを合意できないままに条文へ書き起こす技術のことである。
「お引き受けします。ただし、条文はどうあがいても苛烈なものになるでしょう」
「先生はそれで良しと仰っている」
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かくして法案起草は成った。
その内容はと言えば──
第三条第一項
『当該乗車区間において、自己の肩幅を超えて大腿部を開脚し、又は満員の状態にて下肢を交差させ、若しくはこれに類する不作法な姿勢をとる者に対し、何人も、その生命、身体又は社会的地位の終局的な処分を含む一切の直接的措置を講じることができる。この場合において、措置の選択は、措置を講じる者の合理的判断に委ねるものとし、過剰性の有無は問わない』
これをIQ2の者にもわかりやすく言うと、電車で脚をおっぴろげて座るカス、および、満員電車で脚を組んで座る屑をその場でぶち殺しても構わない──という意味になる。
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事務局案がまとまるまでに、内閣法制局・警察庁刑事局・法務省刑事局との往復が三度ずつあった。事務局に常駐していた宇都宮と神保でも、本省刑事局を呑ませることはできない。
内閣法制局参事官・室伏英二は紙束を二度読み返し、湯呑を持ったまま正味十秒、呼吸を停止した。
「あの……山岸さん。これは──つまり」
「殺害です」
山岸は伝票を読み上げる声で答えた。
「殺害を含みます」
室伏は湯呑を置く。茶柱が立っている。縁起がいいのか悪いのか、彼にはもう判じきれない。
「憲法十三条に反するのでは?」
「公共の福祉条項の現代的再解釈で処理する予定です」
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警察庁刑事局との協議は紛糾する。窓際のパキラの葉が空調の風に揺れるたび、刑事局参事官・北見の眉も揺れる。
「これは正当防衛の射程を超えるぞ。被害発生前の予備的措置に殺害を含めるなど前代未聞だ」
「前代未聞というのは、現行法で対応できないことの謂いです」
「謂いではない。倫理の問題だ」
「倫理なきこの世に倫理を齎すための法案です」
山岸の両眼の爛とした光に、北見は「うっ」と声を漏らす。
「もし倫理などというものが
北見は黙った。黙ったまま茶を啜り、啜り終えてから「次回までに修文案」とだけ言い、会議は流れる。流れたあとに残るのは骨格である。骨格が残ることを霞が関では「合意」と呼ぶ。
法務省刑事局との次回協議で論点となったのは、措置を行使した者の供述聴取の扱いである。法務省側は「事後の供述を要件化すべき」と主張する。山岸は「事後要件は事前萎縮を生む」と切り返す。萎縮を生むのは法律ではなく身体であろう、と法務省はなおも食い下がる。身体を縛る法律ですから、と山岸はやんわり応じる。会議室の天井のシミがゆっくりと広がっていくように見えたのは、おそらく蛍光灯の角度のせいではあるまい。
全経連は緊急の意見書を提出した。表題は『輸送インフラの社会的役割と労働力確保に関する要望』。
本文は概ね穏当であるものの末尾の付記に「殺害の発生は通勤時間帯の遅延要因となり、わが国の経済成長を阻害する恐れがある」と書かれている。
山岸はその一行に赤鉛筆で線を引き、しばらく眺め──ややあってふっと嗤った。
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「【速報】国交省、満員電車の脚開きを殺してOKにする法案を検討」
3:草薙絵理香事件の流れか
12:いや待てって民主主義国家で殺害の合法化てお前
27:>>12死刑あるやろ
49:>>27それは司法の話だろアホ
88:これ通ったら俺の親父詰むやんけ
112:>>88親父さんに脚閉じるよう教育しろ
156:嫁が「やっと」って呟いてた、こわい
277:朝の玉田線で実証実験してくれ頼む
389:殺すまではいかんでも肩パンくらいは合法にしてほしい
522:父さんの座り方ガチで死ぬから帰省で言っとくわ
666:草薙先生やっと動いたか、遅すぎや
スレッドは三日で過去ログ落ちする。落ちる前の総閲覧数は四百万を超える。
◆
政務調査会国土交通部会、午前九時三十分開会。出席議員十七名。空気は湿っていた。湿っていたのは梅雨だからではなく議題のせいである。別に政治家でなくとも、この議題の
奥の席には草薙征一郎自身が着席している。
普段は部会には顔を出さない長老が今日は腕を組み、誰の発言も拒まないという目つきで全員を見渡している。それだけで議論の方向はおおむね決まっていた。
「これって票になるンですかね?」
二期目の若手議員・橘良成が早々に本音を投げた。先輩議員はその直球を眉ひとつ動かさず受け止め、奥の草薙の顔色を確認してから答える。
「橘くん。きみは朝、満員の玉田線に乗ったことがあるかね」
「ええ、まあ」
「なら想像してみたまえ。満員電車でOLだか何だかが小憎らしい面をして脚を組んで座っている様を。一目で低能だと分かる屑男が脚をおっぴろげて無駄に座席を占有している様を。君はそんな連中をどう思うね? そしてそんな連中に自分の大切な者が傷つけられたらどうする? 満員電車という過酷な環境でそのような利己的な行動に出る者は簡単に他者の権利を侵害するのだ。生きている価値がないとは思わないか?」
「……」
橘は無言という名の肯定で以て返答する。
結句、総務会は満場一致で了承。各議員の脳裏には共通の中年男性と共通のOLが浮かんでおり、各々の通勤の記憶が各々の決定を司った。
そうして閣議決定は午前八時に行われ──総理は速やかに署名した。いささかもためらった様子はない。総理にも電車で通勤していた時代があるのだ。満員の通勤電車で総理が何を見てきたか、どう感じてきたかは定かではない。
しかし記憶には憤りが付随していたという事は確かだろう。
総理の目のギラつきを見れば、それは誰にでも分かる事ではあったが。
◆
法案は同日午後、衆議院議長に提出される。所管は国土交通委員会。受理印が朱で押され、紙の繊維にじわりと吸い込まれていく。
衆議院国土交通委員会、第百九十八回国会、開会。
提案理由説明のため大臣が登壇する。原稿を書いたのは山岸正一である。書いた本人は傍聴席の隅で両手を膝のうえに重ね、他人の葬儀に紛れ込んだ会葬者のように静かに座っている。傍聴席最前列には草薙征一郎の姿。彼は腕を組み、一度も瞬きをしない。瞬きをしないという一事が、この日の本会議における最大の演出となる。
「現代社会における通勤輸送の混雑は、すでに人格と人格の物理的衝突という段階を超え、人間の尊厳の問題に到達しております。本法案は──」
野党・立憲社会民主進歩党所属、沼田理恵子(四十五歳)が手を挙げる。弁護士出身の彼女は人権の二文字を二十年間飯の種にしてきた女である。
「大臣に質問します。殺害が『合理的範囲内の直接的措置』に含まれるとの政府解釈ですが、これは明白に憲法十三条、生命権の侵害ではないんですか」
「沼田議員。お言葉ですが、本法案は加害者に対する制裁ではなく、被害者の防衛権の整理であります」
その痴呆症のチンパンジーからでも出てこないであろうしょうもない詭弁に、委員席から失笑が漏れた。
ともあれ、こんな詭弁では沼田は引かない。
「具体的に伺います。混雑率百八十パーセントの車両で隣の乗客が脚を組んだ。何人がそれを認知し、誰が『直接的措置』を講じる権利を持ちますか。同時に複数人が措置を講じた場合、その正当性はどう判定されますか」
「混雑度に応じた措置適格者の優先順位については、施行規則において定めることとしております」
「施行規則の中身は」
「現在検討中であります」
「殺害は確定しているのに誰が殺すかは未定だと?」
「ご指摘は真摯に受け止めます」
真摯に受け止めるは、霞が関で「答えない」と同義である。霞が関語と日本語は似て非なるものといって差支えない。
これを出されてしまっては沼田も引き下がるしかなかった。
彼女は彼女でそれなりに熱意のある政治家なのだが、それでも永田町の暗黙の了解の元に生きている事には違いないのだ。
『ご指摘は真摯に受け止めます』は事実上の回答拒否だが、相手の面子を立ててもいる。それ以上踏み込むならそれから先は戦争になるぞ、という脅しをも内包しているのだ。
結句、沼田はそれ以上の追求をあきらめた。
まあ沼田自身も満員電車でマナー違反な乗り方をしている屑は死んでしまえと思っている事も大きいのだが。
そして──衆議院本会議に於いて委員長報告が読み上げられて討論が行われ、起立採決の結果は賛成二百八十四・反対九十六で可決された。
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街頭インタビュー(都心テレビ「夕刊ナビ」より)。
会社員・四十代男性「いやあ、画期的ですね。私もう三年、玉田線で我慢してまして」
主婦・三十代女性「殺すまではちょっと、と思いますけど、でも気持ちはわかります」
学生・十代男性「正直、面白そう」
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参議院国土交通委員会の質疑は、衆院でのやり取りを完璧にトレースする。野党筆頭が蛮行と呼べば大臣は感情的評価とのみ返し、殺してから司法かと問えば順番の問題ではないとのみ応じる。
野党は採決引き延ばし戦術として、いわゆる「みなし否決」の六十日条項を視野に入れた長期審議方針を打ち出すが、世論調査で本法案賛成が六十二パーセントを記録した翌週、その方針は静かに撤回された。
そして参議院本会議。
賛成二百三十一、反対十二、棄権三。
反対した十二名のうち十名は組んで座る癖を持つことが事後の毎朝新聞調査で判明する。残る二名はベルトのバックル付近の体型上、解剖学的に開脚せざるを得ないと本人がインタビューで認め、今後は二度と電車を使わないと発言してお茶の間の嗤いを誘う。
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公布は十二月二十四日。
クリスマスイブに天皇は国事行為としてこの法律を公布する。総理が副署。主任の国務大臣として国土交通大臣・国家公安委員会委員長・法務大臣の三名が連署。施行日は六ヶ月後、翌年六月一日と附則に定められている。
猶予期間中、政府広報は連日「お座りの作法」と題したテレビコマーシャルを流した。二頭身の可愛らしいキャラクター・スワリンが両膝を慎ましく揃え、足裏をきちんと床へ降ろし、最後に画面に向かって微笑む。
「みんなで気持ちよく座りましょう♪ ご協力をお願いします♪」
協力しなかったらぶち殺されるのだから、これは協力要請ではなく脅迫と呼ぶべきだと政治系インフルエンサーの一人がSNSでポストし、数百万インプレッションを得た。
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SNSにて──
@MoCo_morning:「明日から法律変わるけど私はいつも通り脚組んで座る。それが私の信念」リポスト29万、引用ポスト51万。
@yukiyuki_2026:>>MoCo_morningご冥福をお祈りします」リポスト3万2千。
@kintsu_sara:「肩幅って結構あいまいでは? 俺の肩幅、肩こりの日とそうでない日で違うんだけど誰がジャッジするの」リポスト1万。
@meditation_haha:「夫に念のためお説教しておきました」リポスト1万。
@vox_populi_jp:「これって労働環境の問題だよね根本は。満員電車をなくせば法律もいらないのに」
リポスト45万。
@TR_underline_999:「駅員です。施行当日のシフトに入れられました。何が起きても見て見ぬふりをするよう通達がありました」
『ロンドン・クロニクル』電子版──
『Japan to legalize on-the-spot killing of train manspreaders』
Japanese society's preference for procedural solutions over fundamental questions.
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警視庁鉄道警察隊は施行当日、首都圏の主要駅へ通常の二倍の人員を配置した。
◆
六月一日、月曜日、午前七時四十二分。
京北線、品川発、四両目。会社員・
マナー違反の乗客をぶっ殺して良いからといって、実際に殺すかどうかはまた訳が違うのだ。
しかし抹殺原は鞄からカッターナイフを抜いた。
OLは顔を上げない。彼女が顔を上げないのはスマートフォンの画面を見ていたからにすぎない。
車内放送が流れる。
「次は──大井町、大井町。お降りの際は、足元にお気をつけください」
OLがふと顔をあげたその瞬間、抹殺原はその首元を切り裂いた。
同時刻、玉田線、二子玉川駅停車中。
今年四十歳になる主婦、遠藤恭子は買い物袋から果物ナイフを取り出した。
なぜ車内で果物ナイフなぞ取り出すのか──答えは決まっている。
殺すためだ。
対面のシートの中年男性が豪快に開脚していた。新聞を広げ、両足は床に対しおよそ百四十度。隣の女子高生は心底うんざりしたような表情を浮かべている。男性は新聞から顔を上げない。上げる必要をこれまでの人生で一度も感じたことがないからである。
遠藤は男性の前に立ち、どこを刺すべきか暫時迷った後に、顎下から突き上げるような形でナイフを抉り込んだ。
警視庁の事後集計によれば、六月一日午前七時四十二分から午前八時十分までの二十八分間に首都圏全域で確認された「直接的措置」は三十七件。死亡二十一名、重傷十六名。措置を行使した側の身柄はいずれも即日釈放された。
法律上、犯罪は成立しないからである。
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@asakatsu_sara:「電車止まらないんかい草」
@reido_news:「【速報】京北線、ダイヤ通り運行中」
@vox_populi_jp:「死者の遺族の悲しみは誰が引き受けるのよ」
@meditation_haha:「夫が無事に帰ってきました。しっかり脚を閉じて座ってきたそうです」
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同日午後、議員会館の自室にて、草薙征一郎は朝刊を広げた。
一面の見出しは「車内秩序法、初日に二十一名死亡」。
彼は写真立ての絵理香に長く長く語りかけた。何を語ったかは定かではない。
なお黒木博之の公判はこの日の午後、東京地裁にて求刑が行われる。検察の求刑は懲役十八年。新法は施行されたが、彼の犯行時にはまだ存在しなかったのだ。
法は遡及しない──これを罪刑法定主義という。
だが!! 法は遡及しなくとも人の心は別である。
数日後、黒木は拘置所の房内に於いて、腹を数十か所刺されて死亡していた。
死因は自殺と記録されたが詳細は定かではない。
(了)