Fate/Begins藤丸立香の聖杯戦争 〜Class:Assassin〜 作:紫道麻璃也
路地裏の気配は、完全に消えていた。
先ほどまで確かにそこにあったはずの“殺意”も、“気配”も、“視線”すらも——今は何一つ残っていない。
まるで最初から何も存在しなかったかのように、静寂だけがそこにある。
夜の空気はひどく澄んでいて、逆にそれが不自然だった。
だが完全ではない。
ほんのわずかに、空気の奥に沈殿するような違和感がある。
魔力の残滓──それだけが、ここで“戦闘があった”という事実を、確かに示していた。
見えないはずのものが、確かに残っている。
それを感じ取れる者にとっては、むしろこの静けさこそが異様だった。
「……綺麗にやるわね」
遠坂凛が腕を組み、低く言った。
声には呆れとも感心ともつかない響きが混じっている。
その視線の先で、アサシンは何事もなかったかのように立っていた。
呼吸一つ乱れず衣服にも、血の跡すらない。
刀はすでに収まっている。
それが“戦闘の終了”を何より雄弁に物語っていた。
「不要な痕跡は残しません」
短く、それだけ。
まるで当然のことを述べるかのように。
そこに誇りもなければ、感情もない。
ただ事実だけが置かれる。
「ほんと、やりにくいタイプ」
凛は小さく息を吐いた。
評価としては高い。
だが同時に、それが“敵だった場合”を想像してしまう。
だからこその言葉だった。
「敵に回したら最悪ね」
「味方だからセーフってことで」
立香が軽く返す。
その言い方は冗談めいているが、実際のところ半分は本音だ。
「それはそうだけど」
凛は肩をすくめ、そしてほんの一瞬だけ路地裏を振り返る。
何もない──本当に、何も。
だからこそ嫌な予感だけが残る。
「……とにかく、ここを離れるわよ」
思考を切り替えるように、踵を返す。
「新都はもうアウトって感じか?」
立香が歩きながら問いかける。
「完全に戦場の一つになってる。拠点にするには危険すぎる」
即答だった。
「少なくとも、“今夜は”ね」
付け加えられたその一言に、時間的な危険性が含まれている。
「深山町に移動するわよ」
「了解」
立香も頷いた。
判断に異論はなくむしろ、それしかない。
三人はそのまま通りを抜ける。
夜の新都は、表向きはいつも通りだった。
ネオンは光り、遠くではまだ人の気配もある。
だが、その裏側では——確実に“何か”が動いている。
それを知っている者にとって、この街はもう日常ではない。
やがて少し歩いた先、街灯の下に一台の車が見えた。
光に照らされた車体が、妙に現実的だった。
「……ん?」
立香の足が止まる。
違和感というほどではない。
だが、どこか引っかかる。
「どうしたのよ」
凛が振り返る。
「いや……」
立香は車と凛を見比べる。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「その車、まさか」
嫌な予感が確信に変わるまでの、短い間。
「………姉さんが運転するの?」
夜の空気が、ほんの少しだけ重くなる。
「何よ、その顔」
凛の眉がぴくりと動く。
明らかに不機嫌のサインだ。
「いやだって……」
立香は遠慮なく言った。
「機械触ると壊す人が⁉︎」
「壊してないわよ!」
即反論──いや、食い気味ですらある。
「ちょっと相性が悪かっただけ!」
「その“ちょっと”で家電何個消えたと思ってんだよ……」
立香は手を額に押さえつけながら記憶を蘇らせる。
リモコン、電子レンジ、パソコン、果てはプリンター。
なぜか凛が触ると調子が悪くなる現象。
偶然では片付けられないレベルだった。
凛は一瞬だけ言葉に詰まる。
「……昔の話でしょ」
視線を逸らす。
ほんのわずかに、気まずそうに。
「今は違うわよ」
「………ほんとか?」
疑いの目。
かなり露骨な。
「ほんとよ!」
勢いよくドアを開ける。
「いいから乗りなさい!」
半ば押し込まれる形で助手席へ、アサシンは音もなく後部座席へと移動した。
ドアが閉まる。
外の音が遮断され、車内は一気に静寂に包まれる。
「……」
「……」
一瞬の間。
妙に張り詰めた空気。
「シートベルト」
凛が言う。
「はいはい」
立香は素直に装着する。
アサシンも、言われる前に既に終えていた。
凛はエンジンをかける。
──一発で、かかる。
無駄な音はないスムーズな振動。
「……お?」
立香の眉が上がる。
予想外──正直にそう思った。
車は静かに発進する。
加速は自然で、ブレもなくハンドル操作も安定している。
夜道を滑るように進んでいき街灯が流れる。
「……普通に運転してるな」
思わず呟く。
「失礼ね」
凛が鼻を鳴らす。
「これくらいできるわよ」
「いやマジで驚いてる」
正直な感想。
「昔ならエンジンすら怪しかったのに」
「だから昔の話だって言ってるでしょ」
どこか誇らしげな声音。
だがそれは、努力の裏返しでもある。
「ちゃんと練習したのよ」
「へえ」
少し感心する。
「………誰と?」
その問いに、凛は一瞬だけ黙った。
ほんのわずかに、呼吸が変わる。
「……」
そして、小さく息を吐く。
「……士郎」
あっさりとした答え。
だが、その一言には確かな重みがあった。
立香はすぐに納得した顔になる。
「あー……なるほど」
「何よ」
「いや、そりゃ上手くなるよ」
苦笑する。
「姉さんの旦那だしね、士郎さんは」
「……」
凛は何も否定しない。
ただ少しだけ、視線を前に固定したまま。
ぽつりと続ける。
「徹底的に仕込まれたの」
「想像つくな……」
立香は肩をすくめた。
「絶対妥協しないやつだろ」
「しなかったわね」
間違いなく断言できる。
「発進ミス一つでやり直し。駐車も完璧になるまで帰してくれなかった」
「うわ……」
「夜間走行も、雨の日も、全部」
「スパルタすぎるだろ」
「本気で教えてたわよ」
少しだけ、声が柔らかくなる。
記憶の温度が、そこに混じる。
「“凛が事故する未来は認めない”って」
その言葉に、立香は少しだけ笑った。
「士郎さんらしいな」
「……ええ」
短い肯定。
車は橋に差しかかり川面に街の光が揺れる。
新都のネオンが、背後へと遠ざかっていく。
煌びやかで、騒がしくて、そして今は危険でもある場所。
代わりに広がるのは、落ち着いた街並み──深山町
静かで、どこか懐かしい空気。
「……懐かしいな」
立香が窓の外を見ながら呟く。
「そうね」
凛も頷く。
「変わってないでしょ」
「だね………表は」
その言葉に、凛は何も返さなかった。
ただ、わずかにアクセルを踏む足に力が入る。
「中は、かなりヤバそうだけど」
「ええ」
今度ははっきりと。
迷いのない声。
「今回のは異常よ」
真剣な声。
空気が一段階引き締まる。
「貴方の知っているものとは別物だと思いなさい」
それは経験から来る警告だった。
「了解」
短く返すが軽さはない。
後部座席のアサシンは静かに座っている。
目は閉じているが眠っているわけではない。
気配は鋭く、常に外へ向いている。
わずかな異常も見逃さない構え。
「……頼りになるな」
立香が小さく言う。
「でしょ」
凛が返す。
わずかな自信と信頼がそこにある。
「でも過信しないこと」
視線は前方のまま。
「それが聖杯戦争よ」
その言葉に、重みが宿る。
過去も、現在も、未来も。
全てを飲み込む戦い。
「分かってる」
立香は前を見据えた。
懐かしい街、変わらない景色。
だが、その中で——確実に何かが動いている。
静かに、そして確実に逃れられない流れとして。
車は静かに、深山町へと入っていく。
そしてその奥で待つものは——
まだ、誰にも見えていなかった。