文芸部を追放された俺、廃墟ゲーセンで都市伝説クエストを攻略する 〜追い出された天才絵師と、学校怪異を解いていく〜   作:オカノヒカル

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■第11話「二年ぶりのドアノブ」

 

 ——部屋の空気が、おかしい。

 

 桐山ねむは、チャットの返信を打とうとしていた手を止めた。

 

 さっきまでなかったはずの、妙な違和感。机の上のノートPCも、壁に貼ったカレンダーも、全部が急に遠くなったような気がする。

 

 鼻の奥がツンとした。

 

 目を上げると、部屋の空気がぼんやりと白く霞んでいた。

 

「え?」

 

 最初は自分の目がおかしいのかと思った。でも、違う。匂いがする。焦げたような、煙たいような。

 

 ——煙だ。

 

 心臓が一気に跳ね上がる。反射的に玄関の方を見る。

 

 ドアの下の隙間から、白い煙がじわじわと入り込んでいた。しかもその向こうから、くぐもったサイレン音まで聞こえる。遠くの道路じゃない。もっと近い。扉一枚隔てたすぐ向こうで鳴っているみたいな、不自然な近さだった。

 

 火事? どこから? なんでこんな近い? 廊下? 下の階? それとも隣?

 

 頭の中が、一瞬でパニックに切り替わった。

 

 大丈夫。落ち着け。冷静に行動すれば助かるはず。火元は? 非常口は? この煙の量はどれくらい危険だ? 窓から逃げる? 六階だ。飛び降りたら? 通報は? スマホは? いや、今通報してる間に煙が増えたら? 隣の部屋は? 両親は? このまま部屋にいたら? 外に出たら? 階段で火に巻かれたら? 助かる保証は?

 

 止まらない。止められない。何をすべきか考えようとするたびに、新しいリスクが頭の中に湧き出してくる。

 

 そして、その混乱の奥で、別の記憶が口を開いた。

 

 おじいちゃんの家。マンションの階段。転落。救急車のサイレン。動かなくなった身体。

 

 あの日、ねむは何もできなかった。何も選ばなかった。誰かが助けてくれるのを待って、ただ立ち尽くしていた。

 

 「動かなかった」「選ばなかった」——その結果を、ずっと背負ってきた。

 

 だから外が怖くなった。外の世界では何が起きるかわからない。選んだ結果が取り返しのつかないことになるかもしれない。だったら何も選ばない方がいい。何も選ばなければ、少なくとも自分のせいで誰かが傷つくことはない。

 

 ——でも、今は違う。

 

 頭の中では、まだ選択肢が増え続けている。火元はどこか、階段は安全か、今出るべきか、もう少し待つべきか。考え始めたら、たぶんまた止まる。

 

 それでも——身体が、先に動いた。

 

 考えるより先に。恐怖を整理するより先に。本能が、ここにいたらまずいと叫んでいた。

 

 ねむは玄関へ駆け寄り、ドアノブを——二年ぶりに、掴んだ。

 

 冷たい金属の感触が、手のひらに食い込む。

 

 ドアを開けた瞬間、廊下の空気が顔に当たった。冷たくて、少し湿っていて、部屋の中よりずっと薄い。煙の匂いも、さっきまでより弱い気がした。おかしい、と考える余地はあったはずなのに、その時のねむにはもうなかった。

 

 足がもつれる。壁に手をつきながら、ねむは廊下へ出た。

 

 逃げ場。階段。下へ。

 

 頭の中は真っ白で、もう何も考えていなかった。ただ、ここにいてはいけないという感覚だけが、身体を前へ押していた。

 

 数歩進んだところで、階段の踊り場の影から人影が動いた。

 

 ねむの肩がびくりと跳ねる。

 

「……っ」

 

 そこにいたのは、高尾才と初狩時雨だった。

 

 才は呼吸を乱しながらも、ねむの方へ一歩だけ近づく。初狩はその少し後ろで、じっと様子を見ていた。

 

「よく出てきたな、ねむ」

 

 ねむは立ち尽くした。思考が追いつかない。どうして二人がここにいるのか。どうして、こんなタイミングで。

 

 初狩が、静かに言った。

 

「……出られましたね」

 

 その言葉で、逆に現実感が壊れた。

 

「なんで、君たちがここに……?」

 

 声は掠れていた。呼吸もまだ整わない。

 

 才は一度だけ息を呑んで、それから言った。

 

「ねむ。煙もサイレンも、全部俺たちが仕掛けた演出だ。小型のスモークマシンと、扉の前に置いたスピーカーでやった。本物の火事じゃない。できるだけ他の住人に気づかれないようにはした」

 

 ねむは呆然としていた。

 

 数秒間、まったく表情が動かなかった。脳が追いついていないのが、自分でもわかった。

 

 煙。

 サイレン。

 パニック。

 ドアノブ。

 階段。

 祖父の記憶。

 

 全部、嘘。

 

 その理解が一つの形になった瞬間、ねむの顔が歪んだ。

 

「ふざけるな」

 

 低い声だった。けれど、その中にあった感情は低くなんかない。

 

「ふざけるなよ! 僕がどれだけ怖かったか、わかってるのか!? 死ぬかと思ったんだぞ! 心臓が止まるかと——おじいちゃんのことまで思い出して——全部、嘘だったのかよ!」

 

 怒鳴った声が、人気のない廊下に跳ね返った。

 

 剥き出しの怒りだった。皮肉でも理屈でもない。本気で傷つけられた人間の、どうしようもなく真っ直ぐな感情。

 

 目の前の高尾才は、ねむの目をまっすぐ見て言った。

 

「怖かっただろ。でも——ねむは動けた」

「……っ」

「頭の中では、たぶんいくらでも選択肢が増えてたはずだ。火元はどこか、階段は安全か、今出るべきか、まだ待つべきか。それでも、お前は止まらなかった」

「……」

「考えるより先に、自分の足でドアノブを掴んだ。部屋の外に出た。階段へ向かった。誰かに引っ張り出されたんじゃない。お前自身の身体が、ここから出る方を選んだんだ」

 

 ねむの口が開きかけて——閉じた。

 

 反論はいくらでもできるはずだった。

 

 騙されただけだ。

 本能で動いただけだ。

 選択なんかじゃない。

 卑怯だ。

 

 でも、ねむは何も言えなかった。

 

 自分が確かに、玄関のドアノブを掴み、部屋の外へ出たことだけは、どうしても否定できなかったからだ。

 

 初狩時雨が、静かに口を開いた。

 

「怒って当然です。わたしも、この作戦には最後まで反対でした。ひどいことをしたと思っています」

 

 ねむが、彼女の方を見る。

 

「でも、これだけは言わせてください。ねむさんは今、自分の足で玄関の外に立っています。それは嘘じゃありません」

 

 ねむの拳が、ゆっくりと解けていった。

 

 怒りが、少しずつ別の感情に溶けていく。

 

「……ずるいよ。こんなの」

 

 その声は、もう怒鳴り声ではなかった。泣きそうで、でも泣ききれない、ひび割れた声だった。

 

「こんなの、ずるいよ……」

 

 ねむは壁に背中を預けるようにして、その場にしゃがみ込んだ。肩が震えている。恐怖の余韻と怒りと、もっと別の何かが混ざって、言葉にならないまま身体の中で渦を巻いていた。

 

 高尾才は、ねむの少し前にしゃがみ込んだ。初狩時雨も、反対側に膝をついた。

 

 三人とも、しばらく何も言わなかった。

 

 夕方の廊下には、遠くの生活音だけが小さく響いていた。

 

**

 

 最初に口を開いたのは、ねむだった。

 

「……ここ、ちょっと無理」

 

 消え入りそうな声だった。

 

 俺と初狩は顔を見合わせる。

 廊下は静かだが、完全な無人ではない。どこかの部屋のテレビ音、食器の触れ合う小さな音、足音とも生活音ともつかない気配。さっきまで閉じきっていたねむにとっては、その全部がまだ濃すぎるのだろう。

 

 初狩が、できるだけ穏やかな声で言った。

 

「……下まで行きましょうか。ゆっくりでいいですから」

 

 ねむは少しだけ迷うように視線を泳がせて、それから小さく頷いた。

 

 俺は立ち上がる。

 ねむも壁に手をつきながら、なんとか足を伸ばした。膝がまだわずかに震えている。

 

「無理なら言えよ」

「……言えるくらいなら、もう少しまともなんだけど」

 

 かすれた声だったが、それでも皮肉が戻っていた。

 俺はそれに少しだけ救われる。

 

 三人で階段へ向かう。

 ねむは一段ごとに慎重に足を置いた。下を見て、手すりを掴んで、呼吸を確かめるように止まりながら進む。逃げ出したときの勢いはもうない。代わりに、「今、自分が階段を下りている」という事実を、身体がひとつずつ受け入れ直しているようだった。

 

 四階。三階。二階。

 

 途中で、ねむの足が一度止まった。

 

 俺が声をかけるより先に、初狩がすっと隣に並ぶ。

 

「大丈夫です。止まってもいいですから」

「……止まったら、たぶん動けなくなる」

「でしたら、止まらない程度にゆっくり行きましょう」

 

 ねむは返事をしなかった。

 けれど、再び足を下ろした。

 

 一階まで降りたとき、ねむはもう肩で息をしていた。

 マンションの自動ドアの向こうには、夕暮れの残り火みたいな光がまだ薄く残っている。

 

 外だ。

 

 ねむはそこでまた一瞬だけ足を止めた。

 今度は誰も急かさなかった。

 

 数秒後。

 ねむは自分から、外へ出た。

 

 生ぬるい夕方の風が、三人のあいだを抜けていく。

 車の音。遠くの話し声。コンビニの自動ドアの開閉音。建物の中よりずっと広くて、雑多で、輪郭の多い世界。

 

 ねむは入口の脇まで歩いて、そこで力が抜けたみたいにしゃがみ込んだ。

 コンクリートの段差に手をついて、浅く呼吸を繰り返している。

 

 俺も少し離れた場所にしゃがみ込む。

 初狩は、ねむを挟むように反対側へ腰を下ろした。

 

 誰もすぐには喋らなかった。

 

 マンションの前を、自転車が一台通り過ぎる。

 学生らしい笑い声が遠くで弾けて、すぐに流れていく。

 

 その全部が、ねむにとっては久しぶりすぎるのだろう。

 視線だけが落ち着きなく揺れていた。

 

 やがて、ねむがぽつりと言った。

 

「……腹減った」

 

 唐突だった。

 

 俺は吹き出しかけて——やめた。

 ねむの声は、空腹を訴える響きじゃなかった。

 これ以上この空気を引きずりたくなくて、とっさに別の話題へ逃げたように聞こえた。

 

 その気持ちは、わかる。

 

「奢るよ」

 

 俺は立ち上がって言った。

 

「ドッキリのお詫びだ」

「……最低」

「知ってる」

 

 ねむは膝に額をつけるみたいに少しうつむいて、それから小さく息を吐いた。

 

 怒りも、恐怖も、まだ消えてはいない。

 ただ、このままマンションの前に座り続けるよりは、何か別の行動に身体を預けたほうがましなんだろう。

 

 初狩が静かに口を開いた。

 

「駅前のファミレスなら、まだ入りやすいかもしれません。人は多いですけど、そのぶん、こちらを気にする人も少ないですし」

「……そういう理屈、今はちょっと助かる」

「それは何よりです」

 

 初狩はそう言って、ねむの少し横に立った。

 手を貸すでもなく、無理に触れるでもなく、ただ「同じ速度で歩けます」という距離を保っている。

 

 ねむはその位置関係をちらりと見て、ゆっくり立ち上がった。

 

「行けるか?」

「……たぶん」

「たぶんで十分です」

「それ、キミが言うんだ」

 

 かすかに、ほんのかすかに。

 さっきより声が生きていた。

 

 三人で歩き出す。

 ねむは俺たちの半歩後ろを歩いていた。並ぶほど近くはない。でも、置いていかれない距離だった。

 

 外の世界は、まだ怖いままだ。

 でも少なくとも今、ねむはその中を、自分の足で歩いていた。

 

 

**

 

 

 ファミレスのガラス戸を開けると、放課後の学生や家族連れで店内はにぎやかだった。食器の音、笑い声、注文を叫ぶ店員の声。ねむの足が入口で一瞬止まるのが見えた。二年ぶりの「外の世界」の密度が、いきなり押し寄せたのだろう。

 

 初狩がさりげなくねむの横に並んで歩き出した。何も言わず、ただ同じ速度で。ねむは少し遅れて、ついてきた。

 

 席について、メニューを開く。ねむの指がぎこちなくページをめくる。

 

「……こういうところ、ほんとに久しぶりで」

 

 その声は、さっきまでの皮肉屋のねむとも、怒りを爆発させたねむとも違っていた。小さくて、頼りなくて、年相応だった。チャットの文面からは絶対に聞こえてこない種類の声。

 

「何でも好きなもん頼めよ」

 

 注文を終えて、料理が来るまでの間、俺たちはくだらない話をした。初狩が「ドリンクバーのおすすめはコーラとメロンソーダを混ぜたやつですよ」と言い、俺が「昔ドリンクバーだけで四時間粘って追い出されかけた」と返す。

 

 ねむも小さく笑った。けれど、笑いながら手元のおしぼりの袋を折り続けていた。正三角形、正方形、また三角形。指先だけが落ち着かなく動いている。

 

 許したわけじゃないのだと思う。怒りが消えたんじゃなくて、怒りと、こうして誰かと食卓を囲んでいる安堵とが、同時に存在してしまっているのだ。

 

 どちらか一つに整理できるほど、感情は単純じゃない。

 

 料理が来た。ねむはハンバーグを一口切って、口に運んで、少しだけ目を伏せた。噛んで、飲み込んで——それだけの動作に、妙に時間がかかっていた。

 

 やがて、ねむがフォークをテーブルに置いた。

 

「……約束通り、"絶死の呪い"は終わりにする。賭けには負けたし」

 

 俺はうなずいた。だが、ねむの声には「負けを認めた潔さ」とは違う何かが混じっていた。

 

「ただ……」

 

 そこで言葉が切れた。グラスの水滴を指先でなぞりながら、ねむは続きを探している。チャットなら即座に言い返せるはずの言葉が、肉声では出口を見つけられないでいる。

 

「……実験としては、まだ途中だった」

 

 小さな声だった。俺と初狩に向けたというより、自分に向けて確認するような。

 

「データはもっと集まるはずだった。もう少しやれば——いや、わかってる。わかってるんだけど」

 

 ねむの指が、グラスの縁で止まった。

 

「……でも、結局、証明して、それで何がしたかったのか、自分でもよくわからなくなってた」

 

 その言葉を聞いて、俺の中で何かがきしんだ。

 

 ねむはまだ実験を手放したくないのだ。論理の世界で組み上げたものを、「負けたから」で捨てるのは、ねむにとっては自分の一部を千切るのに等しい。それでも手放すしかないと頭では理解している——その隙間で、言葉がもつれている。

 

 初狩が口を開きかけて、やめた。今は待つべきだと判断したのだろう。こういうときの初狩の勘は鋭い。

 

 ねむが俯いたまま、ぽつりと続けた。

 

「誰かを迷わせても、怖がらせても、僕は何も変わらなかった。……部屋の中で、データが増えるのを見て、"ほら、僕の言った通りだ"って。それだけだった」

 

 それだけだった——という言葉の響きが、妙に重かった。勝利の虚しさではなく、一年間の孤独の重さがそこに乗っている気がした。

 

「あと、ひとつ言っておかないと」

 

 ねむはテーブルの上のグラスを見つめたまま言った。

 

「学校の非公式のDiscord——"桂明高校(非公認)"。あれ、僕が作った」

 

 俺は少しだけ驚いた。あのDiscord、ずっと誰が管理しているのか不明だった。

 

「匿名で好き勝手書き込めるようにして、都市伝説の反応もリアルタイムで見てた」

 

 そこで一度、言葉が途切れる。フォークの柄を指先で転がして、また止めて。

 

「……情けないけど、ネットの中でだけは、何でも知ってる気になれたんだよ。全部見えてるつもりだった。でも——画面の向こうに人間がいるってこと、たぶん途中から考えなくなってた」

 

 最後の一文は、チャットのねむなら絶対に書かない種類の言葉だった。防御が剥がれている。肉声でしか出せない、不器用な正直さだった。

 

 初狩が静かに言った。

 

「情報を"観察"しているつもりが、実は誰よりも現実から目をそらしていた——ということですね」

 

 ねむがかすかに頷く。

 

「でも、こうして今面と向かって話しているねむさんの方が、よほど"本当の世界"に触れていると思いますよ」

 

 その言葉が、ねむだけじゃなく、俺の心にも深く突き刺さった。

 

 観測者なんて気取っている俺と、まったく同じだ。ネットで、画面の向こうで、安全な場所から世界を眺めて「わかっている」気になっている。でも本当は——何も触れていない。

 

 自己嫌悪が、また波のように押し寄せる。

 

 だが——今は、それでいい。

 嫌いな自分を認めた上で、それでも動いた。その事実だけは、今日消えない。

 

「ねむ」

 

 俺は切り出した。言葉を選びながら、それでも真っ直ぐ言った。

 

「これからは、俺たちに協力してくれよ。お前のネットの知識とプログラミングの腕、正直めちゃくちゃ頼りになる。IT方面は俺たちじゃ太刀打ちできないし」

 

 言いながら、安田の空席が脳裏をよぎった。

 

 俺は今、安田を壊しかけた人間に「仲間になれ」と言っている。安田が入院している病室の白い天井を、俺は知らない。見舞いにも行っていない。その俺が、加害者を隣に置こうとしている。

 

 矛盾だろう。偽善かもしれない。

 でも、ねむを部屋に閉じ込めたままにすることが、安田にとっての正義になるとは思えなかった。

 

 初狩も言葉を添えた。

 

「今度は、誰かを実験台にするのではなく、助ける側でご一緒しましょう」

 

 ねむは答えなかった。

 

 数秒の沈黙。テーブルの上に置かれたねむの手が、微かに握られるのが見えた。

 

「……僕が、そっち側にいていいの」

 

 声が掠れていた。俺でも初狩でもなく、テーブルの上のグラスに向かって、ねむは言った。

 

「安田って人のこと、僕はまだちゃんと考えてない。考えなきゃいけないのに、どう考えればいいかもわからない。……そういう人間が、助ける側?」

 

 返す言葉を探した。気の利いたことを言えればいいのに、何も浮かばない。

 

 代わりに口をついて出たのは、不器用な本音だった。

 

「俺も安田のこと、何もしてやれなかった。教室で壊れていくのを見て、見ているだけだった。——お前を誘う資格なんて、たぶん俺にもない」

 

 ねむが顔を上げた。初めて、真っ直ぐこちらを見た。

 

「でも、資格がないから何もしないってのは、もうやめた。それは、お前が一番よくわかってるだろ」

 

 ねむの唇が震えた。何か言おうとして、飲み込んで、また開いて。

 

「……うん。僕でよければ」

 

 その声は小さかった。確かだったかと言えば——正直、確かではなかった。まだ揺れていた。でも、揺れたまま口に出したことが、ねむにとっては二年ぶりの「選択」だったのだと思う。

 

**

 

 会計を済ませて、店を出た。

 

 夕焼けはもう消えかけて、空は紺色に変わりつつある。三人で帰り道を歩きながら、ささいなことで笑い合った。

 

「僕が主役の動画シリーズだったら、たぶん途中で誰も見なくなるよ」

 

 ねむがそう言って苦笑すると、初狩が「でも、打ち切りにはさせませんよ」と返した。ねむが一瞬目を丸くしてから、小さく笑った。

 

 マンションの前でねむと別れた。

 

 ねむは入口の前で一度だけ振り返り、小さく手を振った。それから、自分の足でマンションの中に入っていった。今度は——逃げるためじゃなく、帰るために。

 

 初狩と一緒に、白花駅前を抜けて商店街へ戻った。

 

 シャッターの降りた通りは、昼間よりずっと静かだった。アーケードの骨組みの隙間から、夜の色がじわじわ染み込んでくる。そして、いつもの廃墟ゲーセンの前で立ち止まる。

 

「……なんだか、変な感じですね」

 

 初狩がぽつりと言った。

 

「何がだよ」

「ねむさんが、外に出て、ファミレスまで行って。普通のことをしたはずなのに……」

「普通じゃなかったからだろ。あいつにとっては」

 

 裏手の搬入口の方へと回り、扉を開ける。中はいつものカビ臭さと、熱の抜けた機械の匂いがした。ポータブル電源を入れると、最低限の灯りだけが店内をぼんやり照らした。

 

 俺たちは奥のデスクトップPCの前まで歩いた。

 

 ついさっきまで、ねむが自分の足で外を歩いていた。

 それだけのことが、妙に現実味を持たなかった。

 

「これで、終わりですかね」

 

 初狩が画面を見つめたまま言う。

 

「さあな。あいつが都市伝説を止めるって言ったんだ。たぶん、ここで一区切りだろ」

 

 そう答えたときだった。

 

 古いモニターが、ふっと明るくなる。

 メールソフトの受信音が、静まり返った店の奥で小さく鳴った。

 

「……来ましたね」

 

 俺は無言で画面に目を向けた。

 

────────────────────────────

差出人:不明

件名:クエストNo.0002『絶死の呪い』任務完了

本文:

無限に枝分かれした選択肢は、閉じられた。

立ちすくんでいた足は、ふたたび外へ向かった。

 

救済は確認された。

────────────────────────────

 

 しばらく、誰も何も言わなかった。

 

 初狩が先に、小さく息をついた。

 

「……救済、ですか」

「ずいぶん上からだよな」

「ええ。感じは悪いです。でも、間違ってはいません」

 

 初狩は少しだけ口元をゆるめた。

 

「ねむさん、ちゃんと帰れましたし」

 

 帰るために。

 あのマンションの中へ、自分の足で入っていった姿が脳裏によみがえる。

 

 俺は椅子の背にもたれ、暗い天井を見上げた。

 

「終わった、のかもな」

「高尾クンがそういう顔をすると、あまり終わった感じがしませんけど」

「どういう顔だよ」

「なんというか……自分だけ、まだ途中みたいな顔です」

 

 言い返そうとして、できなかった。

 

 ねむを外へ出した。都市伝説も止まるはずだ。やることはやった。

 なのに胸の奥には、達成感だけじゃない、説明しづらい濁りが残っていた。

 

「……今日はもう帰ります」

 

 初狩がそう言って、スケッチブックの入った鞄を抱え直す。そして彼女はこう付け足した。

 

「ねむさんの件、たぶんあとで何度も思い出します。たぶんそのたびに、ちょっとだけ怖くて、ちょっとだけ安心すると思います」

「器用だな」

「高尾クンほどではありません」

 

 それだけ言って、初狩は出口へ向かった。

 

 俺も電源を落とし、店を出る。扉に鍵をかけ、商店街の入口まで並んで歩いた。

 

 駅前で初狩と別れ、俺は一人で帰路につく。

 

 やけに静かな夜道だった。さっきまでの高揚が引いて、胸の中に残っているのは、達成感と——それだけじゃない、もやもやした何かだった。

 

 ポケットの中のスマホが、震えた。

 

 取り出す。差出人不明の新着メール。

 

 画面を見た瞬間——背後に気配を感じた。

 

 振り返らなくてもわかる。オボロだ。

 

「おい、オボロ。これ——」

 

 返事がなかった。

 

 振り返ると、白い妖狐がそこにいた。いつもの皮肉げな表情ではない。金色の瞳がじっと俺を見つめている。

「何か知ってるのか?」

 

 オボロは答えない。ただ、俺の方を見ている。その瞳の奥に、俺が読み取れない感情が揺れていた。悲しみにも似ている。あるいは——覚悟にも。

 

 嫌な予感がした。

 

 なぜか、心当たりがある気がした。このメールが意味することに、俺はどこかで気づいているのかもしれない。けれど、それが何なのか思い出せない。

 

 思い出せないのか。

 思い出したくないのか。

 

 俺はスマホの画面に目を落とした。

 

────────────────────────────

差出人:不明

件名:どちらを選ぶか?

 

あなたは、あなた自身の真実を

知りたいですか?

それとも知りたくないですか?

────────────────────────────

 

 夜道に、スマホの光だけがぼんやりと浮かんでいた。

 

 背後のオボロの気配が、すうっと消えていく。

 

 俺は——まだ、選べなかった。

 

 

 

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