文芸部を追放された俺、廃墟ゲーセンで都市伝説クエストを攻略する 〜追い出された天才絵師と、学校怪異を解いていく〜 作:オカノヒカル
——部屋の空気が、おかしい。
桐山ねむは、チャットの返信を打とうとしていた手を止めた。
さっきまでなかったはずの、妙な違和感。机の上のノートPCも、壁に貼ったカレンダーも、全部が急に遠くなったような気がする。
鼻の奥がツンとした。
目を上げると、部屋の空気がぼんやりと白く霞んでいた。
「え?」
最初は自分の目がおかしいのかと思った。でも、違う。匂いがする。焦げたような、煙たいような。
——煙だ。
心臓が一気に跳ね上がる。反射的に玄関の方を見る。
ドアの下の隙間から、白い煙がじわじわと入り込んでいた。しかもその向こうから、くぐもったサイレン音まで聞こえる。遠くの道路じゃない。もっと近い。扉一枚隔てたすぐ向こうで鳴っているみたいな、不自然な近さだった。
火事? どこから? なんでこんな近い? 廊下? 下の階? それとも隣?
頭の中が、一瞬でパニックに切り替わった。
大丈夫。落ち着け。冷静に行動すれば助かるはず。火元は? 非常口は? この煙の量はどれくらい危険だ? 窓から逃げる? 六階だ。飛び降りたら? 通報は? スマホは? いや、今通報してる間に煙が増えたら? 隣の部屋は? 両親は? このまま部屋にいたら? 外に出たら? 階段で火に巻かれたら? 助かる保証は?
止まらない。止められない。何をすべきか考えようとするたびに、新しいリスクが頭の中に湧き出してくる。
そして、その混乱の奥で、別の記憶が口を開いた。
おじいちゃんの家。マンションの階段。転落。救急車のサイレン。動かなくなった身体。
あの日、ねむは何もできなかった。何も選ばなかった。誰かが助けてくれるのを待って、ただ立ち尽くしていた。
「動かなかった」「選ばなかった」——その結果を、ずっと背負ってきた。
だから外が怖くなった。外の世界では何が起きるかわからない。選んだ結果が取り返しのつかないことになるかもしれない。だったら何も選ばない方がいい。何も選ばなければ、少なくとも自分のせいで誰かが傷つくことはない。
——でも、今は違う。
頭の中では、まだ選択肢が増え続けている。火元はどこか、階段は安全か、今出るべきか、もう少し待つべきか。考え始めたら、たぶんまた止まる。
それでも——身体が、先に動いた。
考えるより先に。恐怖を整理するより先に。本能が、ここにいたらまずいと叫んでいた。
ねむは玄関へ駆け寄り、ドアノブを——二年ぶりに、掴んだ。
冷たい金属の感触が、手のひらに食い込む。
ドアを開けた瞬間、廊下の空気が顔に当たった。冷たくて、少し湿っていて、部屋の中よりずっと薄い。煙の匂いも、さっきまでより弱い気がした。おかしい、と考える余地はあったはずなのに、その時のねむにはもうなかった。
足がもつれる。壁に手をつきながら、ねむは廊下へ出た。
逃げ場。階段。下へ。
頭の中は真っ白で、もう何も考えていなかった。ただ、ここにいてはいけないという感覚だけが、身体を前へ押していた。
数歩進んだところで、階段の踊り場の影から人影が動いた。
ねむの肩がびくりと跳ねる。
「……っ」
そこにいたのは、高尾才と初狩時雨だった。
才は呼吸を乱しながらも、ねむの方へ一歩だけ近づく。初狩はその少し後ろで、じっと様子を見ていた。
「よく出てきたな、ねむ」
ねむは立ち尽くした。思考が追いつかない。どうして二人がここにいるのか。どうして、こんなタイミングで。
初狩が、静かに言った。
「……出られましたね」
その言葉で、逆に現実感が壊れた。
「なんで、君たちがここに……?」
声は掠れていた。呼吸もまだ整わない。
才は一度だけ息を呑んで、それから言った。
「ねむ。煙もサイレンも、全部俺たちが仕掛けた演出だ。小型のスモークマシンと、扉の前に置いたスピーカーでやった。本物の火事じゃない。できるだけ他の住人に気づかれないようにはした」
ねむは呆然としていた。
数秒間、まったく表情が動かなかった。脳が追いついていないのが、自分でもわかった。
煙。
サイレン。
パニック。
ドアノブ。
階段。
祖父の記憶。
全部、嘘。
その理解が一つの形になった瞬間、ねむの顔が歪んだ。
「ふざけるな」
低い声だった。けれど、その中にあった感情は低くなんかない。
「ふざけるなよ! 僕がどれだけ怖かったか、わかってるのか!? 死ぬかと思ったんだぞ! 心臓が止まるかと——おじいちゃんのことまで思い出して——全部、嘘だったのかよ!」
怒鳴った声が、人気のない廊下に跳ね返った。
剥き出しの怒りだった。皮肉でも理屈でもない。本気で傷つけられた人間の、どうしようもなく真っ直ぐな感情。
目の前の高尾才は、ねむの目をまっすぐ見て言った。
「怖かっただろ。でも——ねむは動けた」
「……っ」
「頭の中では、たぶんいくらでも選択肢が増えてたはずだ。火元はどこか、階段は安全か、今出るべきか、まだ待つべきか。それでも、お前は止まらなかった」
「……」
「考えるより先に、自分の足でドアノブを掴んだ。部屋の外に出た。階段へ向かった。誰かに引っ張り出されたんじゃない。お前自身の身体が、ここから出る方を選んだんだ」
ねむの口が開きかけて——閉じた。
反論はいくらでもできるはずだった。
騙されただけだ。
本能で動いただけだ。
選択なんかじゃない。
卑怯だ。
でも、ねむは何も言えなかった。
自分が確かに、玄関のドアノブを掴み、部屋の外へ出たことだけは、どうしても否定できなかったからだ。
初狩時雨が、静かに口を開いた。
「怒って当然です。わたしも、この作戦には最後まで反対でした。ひどいことをしたと思っています」
ねむが、彼女の方を見る。
「でも、これだけは言わせてください。ねむさんは今、自分の足で玄関の外に立っています。それは嘘じゃありません」
ねむの拳が、ゆっくりと解けていった。
怒りが、少しずつ別の感情に溶けていく。
「……ずるいよ。こんなの」
その声は、もう怒鳴り声ではなかった。泣きそうで、でも泣ききれない、ひび割れた声だった。
「こんなの、ずるいよ……」
ねむは壁に背中を預けるようにして、その場にしゃがみ込んだ。肩が震えている。恐怖の余韻と怒りと、もっと別の何かが混ざって、言葉にならないまま身体の中で渦を巻いていた。
高尾才は、ねむの少し前にしゃがみ込んだ。初狩時雨も、反対側に膝をついた。
三人とも、しばらく何も言わなかった。
夕方の廊下には、遠くの生活音だけが小さく響いていた。
**
最初に口を開いたのは、ねむだった。
「……ここ、ちょっと無理」
消え入りそうな声だった。
俺と初狩は顔を見合わせる。
廊下は静かだが、完全な無人ではない。どこかの部屋のテレビ音、食器の触れ合う小さな音、足音とも生活音ともつかない気配。さっきまで閉じきっていたねむにとっては、その全部がまだ濃すぎるのだろう。
初狩が、できるだけ穏やかな声で言った。
「……下まで行きましょうか。ゆっくりでいいですから」
ねむは少しだけ迷うように視線を泳がせて、それから小さく頷いた。
俺は立ち上がる。
ねむも壁に手をつきながら、なんとか足を伸ばした。膝がまだわずかに震えている。
「無理なら言えよ」
「……言えるくらいなら、もう少しまともなんだけど」
かすれた声だったが、それでも皮肉が戻っていた。
俺はそれに少しだけ救われる。
三人で階段へ向かう。
ねむは一段ごとに慎重に足を置いた。下を見て、手すりを掴んで、呼吸を確かめるように止まりながら進む。逃げ出したときの勢いはもうない。代わりに、「今、自分が階段を下りている」という事実を、身体がひとつずつ受け入れ直しているようだった。
四階。三階。二階。
途中で、ねむの足が一度止まった。
俺が声をかけるより先に、初狩がすっと隣に並ぶ。
「大丈夫です。止まってもいいですから」
「……止まったら、たぶん動けなくなる」
「でしたら、止まらない程度にゆっくり行きましょう」
ねむは返事をしなかった。
けれど、再び足を下ろした。
一階まで降りたとき、ねむはもう肩で息をしていた。
マンションの自動ドアの向こうには、夕暮れの残り火みたいな光がまだ薄く残っている。
外だ。
ねむはそこでまた一瞬だけ足を止めた。
今度は誰も急かさなかった。
数秒後。
ねむは自分から、外へ出た。
生ぬるい夕方の風が、三人のあいだを抜けていく。
車の音。遠くの話し声。コンビニの自動ドアの開閉音。建物の中よりずっと広くて、雑多で、輪郭の多い世界。
ねむは入口の脇まで歩いて、そこで力が抜けたみたいにしゃがみ込んだ。
コンクリートの段差に手をついて、浅く呼吸を繰り返している。
俺も少し離れた場所にしゃがみ込む。
初狩は、ねむを挟むように反対側へ腰を下ろした。
誰もすぐには喋らなかった。
マンションの前を、自転車が一台通り過ぎる。
学生らしい笑い声が遠くで弾けて、すぐに流れていく。
その全部が、ねむにとっては久しぶりすぎるのだろう。
視線だけが落ち着きなく揺れていた。
やがて、ねむがぽつりと言った。
「……腹減った」
唐突だった。
俺は吹き出しかけて——やめた。
ねむの声は、空腹を訴える響きじゃなかった。
これ以上この空気を引きずりたくなくて、とっさに別の話題へ逃げたように聞こえた。
その気持ちは、わかる。
「奢るよ」
俺は立ち上がって言った。
「ドッキリのお詫びだ」
「……最低」
「知ってる」
ねむは膝に額をつけるみたいに少しうつむいて、それから小さく息を吐いた。
怒りも、恐怖も、まだ消えてはいない。
ただ、このままマンションの前に座り続けるよりは、何か別の行動に身体を預けたほうがましなんだろう。
初狩が静かに口を開いた。
「駅前のファミレスなら、まだ入りやすいかもしれません。人は多いですけど、そのぶん、こちらを気にする人も少ないですし」
「……そういう理屈、今はちょっと助かる」
「それは何よりです」
初狩はそう言って、ねむの少し横に立った。
手を貸すでもなく、無理に触れるでもなく、ただ「同じ速度で歩けます」という距離を保っている。
ねむはその位置関係をちらりと見て、ゆっくり立ち上がった。
「行けるか?」
「……たぶん」
「たぶんで十分です」
「それ、キミが言うんだ」
かすかに、ほんのかすかに。
さっきより声が生きていた。
三人で歩き出す。
ねむは俺たちの半歩後ろを歩いていた。並ぶほど近くはない。でも、置いていかれない距離だった。
外の世界は、まだ怖いままだ。
でも少なくとも今、ねむはその中を、自分の足で歩いていた。
**
ファミレスのガラス戸を開けると、放課後の学生や家族連れで店内はにぎやかだった。食器の音、笑い声、注文を叫ぶ店員の声。ねむの足が入口で一瞬止まるのが見えた。二年ぶりの「外の世界」の密度が、いきなり押し寄せたのだろう。
初狩がさりげなくねむの横に並んで歩き出した。何も言わず、ただ同じ速度で。ねむは少し遅れて、ついてきた。
席について、メニューを開く。ねむの指がぎこちなくページをめくる。
「……こういうところ、ほんとに久しぶりで」
その声は、さっきまでの皮肉屋のねむとも、怒りを爆発させたねむとも違っていた。小さくて、頼りなくて、年相応だった。チャットの文面からは絶対に聞こえてこない種類の声。
「何でも好きなもん頼めよ」
注文を終えて、料理が来るまでの間、俺たちはくだらない話をした。初狩が「ドリンクバーのおすすめはコーラとメロンソーダを混ぜたやつですよ」と言い、俺が「昔ドリンクバーだけで四時間粘って追い出されかけた」と返す。
ねむも小さく笑った。けれど、笑いながら手元のおしぼりの袋を折り続けていた。正三角形、正方形、また三角形。指先だけが落ち着かなく動いている。
許したわけじゃないのだと思う。怒りが消えたんじゃなくて、怒りと、こうして誰かと食卓を囲んでいる安堵とが、同時に存在してしまっているのだ。
どちらか一つに整理できるほど、感情は単純じゃない。
料理が来た。ねむはハンバーグを一口切って、口に運んで、少しだけ目を伏せた。噛んで、飲み込んで——それだけの動作に、妙に時間がかかっていた。
やがて、ねむがフォークをテーブルに置いた。
「……約束通り、"絶死の呪い"は終わりにする。賭けには負けたし」
俺はうなずいた。だが、ねむの声には「負けを認めた潔さ」とは違う何かが混じっていた。
「ただ……」
そこで言葉が切れた。グラスの水滴を指先でなぞりながら、ねむは続きを探している。チャットなら即座に言い返せるはずの言葉が、肉声では出口を見つけられないでいる。
「……実験としては、まだ途中だった」
小さな声だった。俺と初狩に向けたというより、自分に向けて確認するような。
「データはもっと集まるはずだった。もう少しやれば——いや、わかってる。わかってるんだけど」
ねむの指が、グラスの縁で止まった。
「……でも、結局、証明して、それで何がしたかったのか、自分でもよくわからなくなってた」
その言葉を聞いて、俺の中で何かがきしんだ。
ねむはまだ実験を手放したくないのだ。論理の世界で組み上げたものを、「負けたから」で捨てるのは、ねむにとっては自分の一部を千切るのに等しい。それでも手放すしかないと頭では理解している——その隙間で、言葉がもつれている。
初狩が口を開きかけて、やめた。今は待つべきだと判断したのだろう。こういうときの初狩の勘は鋭い。
ねむが俯いたまま、ぽつりと続けた。
「誰かを迷わせても、怖がらせても、僕は何も変わらなかった。……部屋の中で、データが増えるのを見て、"ほら、僕の言った通りだ"って。それだけだった」
それだけだった——という言葉の響きが、妙に重かった。勝利の虚しさではなく、一年間の孤独の重さがそこに乗っている気がした。
「あと、ひとつ言っておかないと」
ねむはテーブルの上のグラスを見つめたまま言った。
「学校の非公式のDiscord——"桂明高校(非公認)"。あれ、僕が作った」
俺は少しだけ驚いた。あのDiscord、ずっと誰が管理しているのか不明だった。
「匿名で好き勝手書き込めるようにして、都市伝説の反応もリアルタイムで見てた」
そこで一度、言葉が途切れる。フォークの柄を指先で転がして、また止めて。
「……情けないけど、ネットの中でだけは、何でも知ってる気になれたんだよ。全部見えてるつもりだった。でも——画面の向こうに人間がいるってこと、たぶん途中から考えなくなってた」
最後の一文は、チャットのねむなら絶対に書かない種類の言葉だった。防御が剥がれている。肉声でしか出せない、不器用な正直さだった。
初狩が静かに言った。
「情報を"観察"しているつもりが、実は誰よりも現実から目をそらしていた——ということですね」
ねむがかすかに頷く。
「でも、こうして今面と向かって話しているねむさんの方が、よほど"本当の世界"に触れていると思いますよ」
その言葉が、ねむだけじゃなく、俺の心にも深く突き刺さった。
観測者なんて気取っている俺と、まったく同じだ。ネットで、画面の向こうで、安全な場所から世界を眺めて「わかっている」気になっている。でも本当は——何も触れていない。
自己嫌悪が、また波のように押し寄せる。
だが——今は、それでいい。
嫌いな自分を認めた上で、それでも動いた。その事実だけは、今日消えない。
「ねむ」
俺は切り出した。言葉を選びながら、それでも真っ直ぐ言った。
「これからは、俺たちに協力してくれよ。お前のネットの知識とプログラミングの腕、正直めちゃくちゃ頼りになる。IT方面は俺たちじゃ太刀打ちできないし」
言いながら、安田の空席が脳裏をよぎった。
俺は今、安田を壊しかけた人間に「仲間になれ」と言っている。安田が入院している病室の白い天井を、俺は知らない。見舞いにも行っていない。その俺が、加害者を隣に置こうとしている。
矛盾だろう。偽善かもしれない。
でも、ねむを部屋に閉じ込めたままにすることが、安田にとっての正義になるとは思えなかった。
初狩も言葉を添えた。
「今度は、誰かを実験台にするのではなく、助ける側でご一緒しましょう」
ねむは答えなかった。
数秒の沈黙。テーブルの上に置かれたねむの手が、微かに握られるのが見えた。
「……僕が、そっち側にいていいの」
声が掠れていた。俺でも初狩でもなく、テーブルの上のグラスに向かって、ねむは言った。
「安田って人のこと、僕はまだちゃんと考えてない。考えなきゃいけないのに、どう考えればいいかもわからない。……そういう人間が、助ける側?」
返す言葉を探した。気の利いたことを言えればいいのに、何も浮かばない。
代わりに口をついて出たのは、不器用な本音だった。
「俺も安田のこと、何もしてやれなかった。教室で壊れていくのを見て、見ているだけだった。——お前を誘う資格なんて、たぶん俺にもない」
ねむが顔を上げた。初めて、真っ直ぐこちらを見た。
「でも、資格がないから何もしないってのは、もうやめた。それは、お前が一番よくわかってるだろ」
ねむの唇が震えた。何か言おうとして、飲み込んで、また開いて。
「……うん。僕でよければ」
その声は小さかった。確かだったかと言えば——正直、確かではなかった。まだ揺れていた。でも、揺れたまま口に出したことが、ねむにとっては二年ぶりの「選択」だったのだと思う。
**
会計を済ませて、店を出た。
夕焼けはもう消えかけて、空は紺色に変わりつつある。三人で帰り道を歩きながら、ささいなことで笑い合った。
「僕が主役の動画シリーズだったら、たぶん途中で誰も見なくなるよ」
ねむがそう言って苦笑すると、初狩が「でも、打ち切りにはさせませんよ」と返した。ねむが一瞬目を丸くしてから、小さく笑った。
マンションの前でねむと別れた。
ねむは入口の前で一度だけ振り返り、小さく手を振った。それから、自分の足でマンションの中に入っていった。今度は——逃げるためじゃなく、帰るために。
初狩と一緒に、白花駅前を抜けて商店街へ戻った。
シャッターの降りた通りは、昼間よりずっと静かだった。アーケードの骨組みの隙間から、夜の色がじわじわ染み込んでくる。そして、いつもの廃墟ゲーセンの前で立ち止まる。
「……なんだか、変な感じですね」
初狩がぽつりと言った。
「何がだよ」
「ねむさんが、外に出て、ファミレスまで行って。普通のことをしたはずなのに……」
「普通じゃなかったからだろ。あいつにとっては」
裏手の搬入口の方へと回り、扉を開ける。中はいつものカビ臭さと、熱の抜けた機械の匂いがした。ポータブル電源を入れると、最低限の灯りだけが店内をぼんやり照らした。
俺たちは奥のデスクトップPCの前まで歩いた。
ついさっきまで、ねむが自分の足で外を歩いていた。
それだけのことが、妙に現実味を持たなかった。
「これで、終わりですかね」
初狩が画面を見つめたまま言う。
「さあな。あいつが都市伝説を止めるって言ったんだ。たぶん、ここで一区切りだろ」
そう答えたときだった。
古いモニターが、ふっと明るくなる。
メールソフトの受信音が、静まり返った店の奥で小さく鳴った。
「……来ましたね」
俺は無言で画面に目を向けた。
────────────────────────────
差出人:不明
件名:クエストNo.0002『絶死の呪い』任務完了
本文:
無限に枝分かれした選択肢は、閉じられた。
立ちすくんでいた足は、ふたたび外へ向かった。
救済は確認された。
────────────────────────────
しばらく、誰も何も言わなかった。
初狩が先に、小さく息をついた。
「……救済、ですか」
「ずいぶん上からだよな」
「ええ。感じは悪いです。でも、間違ってはいません」
初狩は少しだけ口元をゆるめた。
「ねむさん、ちゃんと帰れましたし」
帰るために。
あのマンションの中へ、自分の足で入っていった姿が脳裏によみがえる。
俺は椅子の背にもたれ、暗い天井を見上げた。
「終わった、のかもな」
「高尾クンがそういう顔をすると、あまり終わった感じがしませんけど」
「どういう顔だよ」
「なんというか……自分だけ、まだ途中みたいな顔です」
言い返そうとして、できなかった。
ねむを外へ出した。都市伝説も止まるはずだ。やることはやった。
なのに胸の奥には、達成感だけじゃない、説明しづらい濁りが残っていた。
「……今日はもう帰ります」
初狩がそう言って、スケッチブックの入った鞄を抱え直す。そして彼女はこう付け足した。
「ねむさんの件、たぶんあとで何度も思い出します。たぶんそのたびに、ちょっとだけ怖くて、ちょっとだけ安心すると思います」
「器用だな」
「高尾クンほどではありません」
それだけ言って、初狩は出口へ向かった。
俺も電源を落とし、店を出る。扉に鍵をかけ、商店街の入口まで並んで歩いた。
駅前で初狩と別れ、俺は一人で帰路につく。
やけに静かな夜道だった。さっきまでの高揚が引いて、胸の中に残っているのは、達成感と——それだけじゃない、もやもやした何かだった。
ポケットの中のスマホが、震えた。
取り出す。差出人不明の新着メール。
画面を見た瞬間——背後に気配を感じた。
振り返らなくてもわかる。オボロだ。
「おい、オボロ。これ——」
返事がなかった。
振り返ると、白い妖狐がそこにいた。いつもの皮肉げな表情ではない。金色の瞳がじっと俺を見つめている。
「何か知ってるのか?」
オボロは答えない。ただ、俺の方を見ている。その瞳の奥に、俺が読み取れない感情が揺れていた。悲しみにも似ている。あるいは——覚悟にも。
嫌な予感がした。
なぜか、心当たりがある気がした。このメールが意味することに、俺はどこかで気づいているのかもしれない。けれど、それが何なのか思い出せない。
思い出せないのか。
思い出したくないのか。
俺はスマホの画面に目を落とした。
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差出人:不明
件名:どちらを選ぶか?
あなたは、あなた自身の真実を
知りたいですか?
それとも知りたくないですか?
────────────────────────────
夜道に、スマホの光だけがぼんやりと浮かんでいた。
背後のオボロの気配が、すうっと消えていく。
俺は——まだ、選べなかった。