文芸部を追放された俺、廃墟ゲーセンで都市伝説クエストを攻略する 〜追い出された天才絵師と、学校怪異を解いていく〜 作:オカノヒカル
翌朝、校門をくぐった瞬間に気づいた。
空気が変わっている。
誰かがはっきり何かを言っているわけではない。昇降口の騒がしさも、廊下を行き交う制服の波も、いつもと同じに見える。だが——笹子先輩の周りだけ、何かが微妙におかしかった。
すれ違う生徒の視線が、先輩の姿を捉えてからほんのわずかに長く留まる。笑い声が、先輩が通り過ぎた直後にだけ音量を落とす。会話の間が、ほんの少しだけ不自然に空く。
一つひとつは気のせいで済む程度の変化だ。だが俺の頭は、それらを束ねて一つの形にしてしまう。
四時間目の後の休み時間。初狩に頼まれた本を図書室に返す途中、たまたま二年のフロアを通った。
水島先輩の声が聞こえた。廊下の窓際で、笹子先輩と向き合っている。
「昨日のこと、みんなびっくりしてたから」
心配している口調だった。柔らかく、気遣わしげで、善意の形をしている。
——みんな?
足が止まった。
昨日の放課後、あの部室にいたのは俺と初狩と山田先輩、そして笹子先輩だけだ。水島先輩は途中から聞いていた。それ以外に聞いていた人間はいない。
「みんな」が知っているなら、広めた人間がいる。
そしてそれができるのは、あの場にいた人間だけだ。俺と初狩は言っていない。山田先輩が言うはずがない。消去法で——残るのは一人しかいない。
「私はわかってるよ? 玲さんのこと、理解してるつもり」
水島先輩の声が続く。
「でも、みんなはそうじゃないから。ちゃんと自分の口で説明したほうが、誤解されないと思うよ」
笹子先輩は少し笑って「うん、ありがと」と返していた。声は穏やかだった。
俺は廊下の角から動けなかった。
——あの言い方は、三つの意味で汚い。
第一に、「みんな」が知っている前提で話している。自分が広めたくせに、最初からそうだったかのように振る舞っている。
第二に、「私はわかってる」と言うことで、自分だけを安全圏に置いている。理解者のポジションを確保した上で、「でもみんなは違うよ」と突き放す。笹子先輩から見れば、水島先輩だけが味方に見える。実際は火をつけた本人なのに。
第三に、「自分の口で説明したほうがいい」。責めてはいない。だが責任だけを笹子先輩に返している。誤解されている原因は説明しなかった先輩にある——そういう前提が、心配の皮を被って差し出されている。
広めたのはお前だ。火をつけたのはお前だ。なのに消火器を持って駆けつけた顔をしている。
笹子先輩は気づいていない。あの人は善意を疑わない。「ありがと」と返してしまう。その優しさにつけ込まれていることに、たぶん気づけない。
俺はそのまま図書室へ向かった。振り返らなかった。振り返ったら、何か言ってしまいそうだった。
**
放課後、被服部の扉を開けると、笹子先輩はすでにミシンの前に座っていた。型紙に向かっているが、手が止まっている。
「先輩」
声をかけると、先輩は顔を上げて「あ、才くん」といつもの柔らかな笑顔を作った。だがその笑い方が、少しだけ遅かった。
「今日の学校の雰囲気。なんか変じゃなかったですか?」
先輩はしばらく型紙に視線を落として、それから「……まあな」と短く返した。
「朝からなんか、みんなの空気がちょっと違って。水島にも"説明したほうがいいよ"って言われたし」
「何を説明するんですか」
思わず聞いてしまう。先輩が少し目を細めた。
「うちも、そう思ってん。何を説明したらいいんやろって。やりたいことやってるだけやし、学校にも許可取ってるし、他人に迷惑かけてるつもりもない。体育は男子でやってるし、着替えも気ぃつかってる。何がアカンかって言われたら、うちにはわからへん」
「……そうですよね」
「でも、説明しろって言う人は、うちの答えを聞きたいわけやないんやと思う。最初から結論、持ってる人に何を説明してもな」
先輩はそこで苦笑して、型紙のしわを指で伸ばした。
「ま、慣れてるし。今日一日だけやったし」
その「慣れてる」という言葉の軽さが、俺にはひっかかった。慣れているということは、今日が初めてではないということだ。
**
さらに翌日の昼休み。
教室の自席でスマホを開いた。Xのタイムラインをスクロールする。桂明高校の生徒が多くフォローしているアカウントをいくつか追っていく中で、見覚えのある名前が目に留まった。
『saaaaaaya0572』。
前に見たアカウントだ。午前中に複数のポストを上げていた。
『優しくしてたのに、なんか騙された感じ。信じてたぶんキツい』
『マイノリティだからって、何でも受け入れろは違くない? こっちだって傷つくんだけど』
ここまでは「傷ついた人の独り言」で通る。だが次のポストで、空気が変わっていた。
『渡り廊下のあの絵、試した人いるでしょ? 見た人の本性が出るって噂。あの人の前にも文字、出たらしいよ。"変質者"って』
俺の目が止まった。
「渡り廊下のあの絵」——のっぺらぼうの少女だ。そして「あの人」が誰を指すかは、前のポストの文脈で特定できる。名前は一度も書いていない。だが「騙された」「マイノリティ」「変質者」を順に並べれば、矢印の先は一人しかいない。
さらに次のポスト。
『本性って出るんだね。合点がいくっていうか。怖いけど、やっぱそういうことなのかなって……』
四つのポストを並べて読むと、流れが見える。
最初の二つで「裏切られた被害者」の立場を取る。次に都市伝説を持ち出して、のっぺらぼうの少女の噂を特定の誰かに接続する。最後に「怖い」「やっぱり」と、自分は判断を下していない顔のまま結論だけを読み手に渡す。
名前は書かれていない。「変質者」も伝聞の形を取っている。どのポストも「個人の感想」で通る。だが四つを並べて読んだとき、笹子先輩に貼りつくラベルはたった一つになる。
「saaaaaaya0572」が誰なのかは、まだわからない。
だが——俺の頭の中で、二つの映像が重なりかけている。
渡り廊下で絵を撮影し、メモアプリに何かを打ち込んでいた水島先輩。「面白いよね、こういうの」と笑っていた顔。あのとき俺は「興味本位」だと思った。
このアカウントの主も、あの絵の仕組みを知っている。知った上で、噂として使えるように整形している。
偶然かもしれない。別人かもしれない。だが、二つの影がぴたりと重なるのを、俺の頭は止められなかった。
露骨すぎない。だからこそ質が悪い。
俺はスマホの画面を閉じて、教室の窓の外を見た。グラウンドではサッカーやドッチボールで遊んでいる生徒たちがいる。汗と制汗剤の混じった風が窓から入ってくる。何も変わらない昼休み。その裏側で、一人の居場所が静かに削られていく。
**
その日の放課後。被服部の部室。
いつもの夕方の光。ミシンの音。布と油の匂い。だが今日は、空気のどこかに淀みがあった。
笹子先輩はCADのソフトを開いて作業しているが、明らかに口数が少ない。昨日まで初狩との衣装談義に花を咲かせていた先輩が、画面に向かったまま黙っている。マウスの操作が時々止まる。
初狩は先輩の変化に気づいている。紙粘土をこねる指に力が入りすぎて、台座の形が少しいびつになっていた。何も言わないが、肩の線が硬い。
俺は観察に徹しようとしていた。だが、うまくいかない。先輩の横顔を見るたびに胸の奥が軋む。観測者でいろ。感情を挟むな。そう言い聞かせるのに、部室の沈黙が重い。
山田先輩だけが変わらなかった。ミシンの前で文化祭の衣装を縫い進め、時折布を持ち上げて縫い目を確認し、またペダルを踏む。その音だけが、部室の空気を支えていた。
昨日より、先輩の口数が少なかった。Discordのスレッドが頭をよぎる。昼休みに確認したXの投稿も。一夜で、状況は静かに悪化していた。
「笹子先輩」
初狩が口を開いた。
「何か……あったんですか?」
先輩は数秒だけ手を止めた。それからCADの画面に視線を戻して、穏やかに——穏やかすぎる声で言った。
「別に。いつもと変わらへんよ」
嘘だ。俺にも初狩にもわかっている。だが、先輩がそう言うなら今はそれ以上踏み込めない。
初狩が唇を噛んだのが見えた。小さく、一瞬だけ。
**
事件が起きたのは、その翌日だった。
笹子先輩は二年生の体育の授業で教室を離れていた。体育は男子扱いなので、男子の体操服に着替えてグラウンドへ向かう。女子制服のグレーのチェック柄スカートは、教室の自分の席の椅子にかけておいた。
体育が終わって教室に戻った先輩が、それを見つけた。
スカートの裾から斜めに、十五センチほどの切り込み。ためらいのない直線。ハサミの刃が一気に引かれた痕だった。
ふざけた悪戯ではない。布の繊維がきれいに断たれている。「その服で登校するな」という意志が、切り口に刻まれていた。
俺がそれを知ったのは、放課後の被服部でだった。
先輩は部室に来たとき、切られたスカートをビニール袋に入れて持っていた。作業台の上にそっと置いて、「ちょっと破れてしもたわ」と言った。声は平坦だった。
初狩がビニール袋の中を見て、息を呑んだ。
「これ——破れたんじゃないですよね」
先輩は答えなかった。
俺もビニール越しに切り口を確認した。裾から斜め上に走る直線。引っかけたり踏んだりした痕ではない。刃物で、意図的に切られている。
目撃者はいない。体育の時間、教室には誰も残らない。証拠もない。
前にも先輩は制服を盗まれたことがある。あの時は演劇部周辺の人間の仕業だと推測していた。だが今回は状況が違う。水島先輩がSNSで火をつけた直後に起きている。実行犯が誰であれ、火元は一つだ。
だが——俺にも初狩にも、この傷がどこから来たのかは見当がついていた。
「先生に報告すべきです」
俺は言った。声が思ったより硬く出た。
初狩も止めなかった。小さく頷いている。
山田先輩がミシンの手を止めた。振り向かない。背中のままだ。
「で」
短い間。
「笹子っちは、どうしたい?」
部室の空気が止まった。
山田先輩の声には怒りがなかった。説教もなかった。犯人を追い詰めようという気配も、事態を収めようという焦りもない。ただ——笹子先輩の意思だけを聞いている。
彼は、切られたスカートの入ったビニール袋を見つめていた。五秒。十秒。
「……大ごとにはしたくない」
静かな声だった。
「騒いだら、うちが問題の中心におることになる。注目されるのは、うちの制服や、うちの格好や。そうなったら——あの人の思う壺やと思う」
騒げば騒ぐほど、「問題を起こしている人」として扱われる。被害者なのに、騒動の原因として消費される。それは水島先輩が望んでいる形に近い。
先輩はそこまでわかっていた。わかった上で、「大ごとにしない」を選んでいる。
俺は何も言えなかった。
山田先輩はそれ以上聞かず、ミシンに向き直った。針が布を送る音が戻ってくる。笹子先輩が決めたなら、それでいい——その背中はそう言っているように見えた。
**
部室を出て、昇降口へ向かった。
笹子先輩が下駄箱から靴を取り出そうとしたとき、靴の中に白い紙が入っているのが見えた。
先輩がそれを摘み上げる。俺の目にも読めた。小さな紙に、プリンターで印字された一行。
『あなたのためを思って書いてます。気持ち悪いって声、広がってるよ。自分から説明すれば、まだ間に合うと思う。これ以上みんなを不安にさせないでほしい』
先輩の指が、止まった。
一瞬だけ——本当に一瞬だけ、紙を持つ手が震えた。それから、ゆっくりと紙を折り畳んで、ブレザーのポケットにしまった。何事もなかったように靴を履き替え、「ほな、また明日な」と笑った。
俺はその笑顔を見て、胃の底が冷たくなった。
「あなたのためを思って」。善意だ。「気持ち悪い」。これは善意じゃない。「まだ間に合う」。脅しだ。「みんなを不安にさせないで」。被害者はお前じゃない、お前が加害者だ——そう言っている。
全部が一枚の紙に同居している。善意と悪意の境目が溶けていて、どこから抗議していいかわからない。先輩が「ありがとう」とも「ひどい」とも言えずに黙って折り畳んだ理由が、わかる気がした。
先輩が去った後、俺は昇降口の柱にもたれた。
昨日、水島先輩は面と向かって「ちゃんと自分の口で説明したほうが、誤解されないと思うよ」と言っていた。あのときは「気持ち悪い」なんて言葉は使わなかった。
だが、この紙には書いてある。匿名になった途端に出てきた言葉だ。
顔を隠せば、人は正直になる。——のっぺらぼうの絵が、頭をよぎった。
この紙を書いたのが誰かはわからない。わからないが、昨日の「説明したほうがいい」と、紙の「自分から説明すれば」が同じ構造をしていることは、俺の頭が勝手に結びつけてしまう。
証拠はない。だが、偶然にしてはできすぎている。
**
その夜。
ベッドに転がり、スマホでDiscordを開いた。ねむが管理する桂明高校の非公式サーバー。都市伝説フォーラム。
「のっぺらぼうの少女」のスレッドが、昨日より明らかに伸びていた。
『俺は"阿呆"って出たことあるよ』
『知り合いは"無能"って出たらしい』
『前に"我執"って出たやつもいる』
『"我執"ってなんだよ?』
『我が儘って意味だろ。ずいぶん古風な言い方だな』
『まあだいたい二文字で悪口っぽいのが出るよな』
『タロットみたいなもんだと思えばおもしろくね?』
ここまでは怪談の延長だ。「面白い仕掛けがある絵」として消費されている。だがスクロールを続けると、空気が変わった。
『で、例のあの人は"変質者"なんだろ?』
『やっぱ噂ほんとっぽいな』
『あの絵って本当の姿を表すらしいぞ』
『前からちょっとそういう感じあったしなー』
笹子先輩の名前は書かれていない。だが「例のあの人」で、もう全員がわかっている。
Xで『saaaaaaya0572』が火をつけ、Discordのモブたちが怪談として増幅する。二つの場所で役割が分かれていた。
俺はスレッドを最初まで遡った。
「阿呆」「無能」「我執」——書き込まれている語はすべて二文字だ。漢字二文字の、どちらかといえば古風な言い回し。
だが、笹子先輩に出たとされる語だけが違う。
「変質者」。三文字。
しかも他の語とは性質が違う。「阿呆」や「無能」は性格や能力への漠然とした評価だ。だが「変質者」は——人間そのものを断罪するラベルだ。たった一文字「者」がつくだけで、言葉の刃が別物になる。
他の書き込みが本当なら、あの絵から出る語は二文字が基本のはずだ。「変質者」が三文字であること自体が、噛み合っていない。
あの絵から「変質者」が出たのではない。誰かが、そういうことにしたのだ。センセーショナルに、噂として流しやすい形に仕立てた。
俺はDiscordのDMを開いた。ファミレスの帰りに交換した連絡先のうち、一番確実な宛先——桐山ねむ。
『都市伝説板の、あの絵の過去ログ。残ってるだけ全部見たい』
送信。既読マークがつく。返信はすぐには来ない。
数分後。
『ある。あとでまとめる』
簡潔な返答だ。ねむらしくもある。必要なことだけ、過不足なく。
俺はスマホを枕元に置いて、天井を見上げた。
噂が嘘かどうかは、まだわからない。『saaaaaaya0572』がXで火をつけ、Discordで増幅されている——その構造は見えてきた。だが、水島先輩=『saaaaaaya0572』である証拠はない。……推測だけで、人を犯人扱いするわけにはいかない。
ただ、一つだけ確かなことがある。
笹子先輩の件だけが、あの絵の仕組みと噛み合っていない。