文芸部を追放された俺、廃墟ゲーセンで都市伝説クエストを攻略する 〜追い出された天才絵師と、学校怪異を解いていく〜 作:オカノヒカル
■第19話 黒板の名前
翌朝になっても、あのメールが剥がれなかった。
件名だけなら、ありがちな怪談だ。クエストNo.0004『黒板の覚(さとり)』。だがそのあとに続く本文が、歩いている最中もずっと舌の裏に貼りついたままだった。
自分という幻想を見破れ。
人は皆、「自分らしさ」という檻を持っている。
優しい人。穏やかな人。真面目な人。気配りのできる人——。
頭の中で反芻するうちに、メールにはなかった一語が勝手に混ざっていた。
観測者。
それらはすべて、選ばれた役割にすぎない。
昨夜、廃墟ゲーセンREXの薄暗い店内で画面を見たときは、ただの挑発だと思った。埃とカビの匂いが沈んだ空間で、止まった筐体に囲まれながら読むぶんには、まだ距離があった。
けれど朝の通学路を歩いていると、その距離が詰まってくる。
観測している、なんて言い方はきれいすぎる。
ただ安全圏に立っているだけの人間が、自分をちょっと賢そうに呼んでいるだけじゃないのか。
住宅地の坂道を登りながら、首筋を湿った風がなぶった。紫陽花が終わりかけた通学路は、朝でもどこかむわっとする。肌に貼りつく空気が、頭の中のざらつきと妙に重なった。
校門が見えた時点で、異変に気づいた。
騒がしくはない。むしろ逆だ。声がやけに低い。二人組も三人組も、互いの顔より先にスマホの画面へ視線を落としている。何かひとつの話題が水面下で膨らんでいるときの空気だった。
昇降口までの短い道のりで、前を歩く女子たちの会話が耳に入る。
「見た?」
「見た見た。マジで鳥肌」
「てか、なんであの人なんだろ」
下駄箱の前でしゃがみ、上履きに足を入れながらスマホを開いた。
通知欄に、ねむのDiscordサーバーの新着が詰まっている。都市伝説フォーラム。投稿から数時間しか経っていないはずなのに、スクリーンショットがすでに何人もの手を渡っていた。
画像を開いた瞬間、指が止まった。
夜の音楽室だった。
照明は落ちている。窓の外から差し込む光だけが、青白くぼんやりと室内をなぞっていた。アップライトピアノの輪郭。壁際の棚。傾いた譜面台。見慣れた学校の音楽室のはずなのに、画面の中では空気ごと入れ替わったみたいに別の場所だった。
そして、黒板。
中央に、白い文字が浮いている。
篠原慧
チョークで書いたように見える。
だが、妙に整っていた。殴り書きの荒さがない。かといって定規を当てたような不自然さもない。線の太さがほぼ均一で、黒板の表面に馴染んでいるようで、どこか一枚膜を挟んでいるような——
本物っぽいのに、信じ切れない。その半端さが、喉の奥にひっかかった。
「うわ」
声が漏れた。
「それですか」
横から覗き込む気配。
初狩《はつかり》だった。
いつもの眠たげな目が、こういう時だけ変に冴える。
「朝からみなさん元気ですね。嫌な話題ほど回転が速い」
「元気って言い方するか、普通」
「適切でしょう。怖がっているわりに、誰も画面を閉じていませんし」
言われて、昇降口を見回す。
みんな眉をひそめた顔をしながら、親指だけはせわしなくスクロールしていた。
俺はもう一度、画像を拡大した。
黒板の表面。文字の滲み。窓ガラスの反射。見るほど判断がつかなくなる。
「音楽室って、夜は鍵かかってるよな」
「かかってますね」
「じゃあ誰が撮ったんだよ」
「そこがもう、怪談として出来すぎてるんですよね」
初狩は淡々と言ってから、少しだけ眉を寄せた。
「厄介なのは、現物を見た人がいないことです。写真はある。でも、今朝の音楽室の黒板を確認したという話はまだ出回っていません」
「……だよな」
確認しに行ければ話は早い。だが音楽室は普段は施錠されていて、放課後は吹奏楽部が占有している。コンクール常連の部だけに顧問が厳しく、部外者が入るのを嫌う。鍵を借りるには理由がいるし、理由をつければ目立つ。
夜中に忍び込んだ目撃者も名乗り出ていない。本当に書かれたのかどうか、その部分だけがすっぽり抜け落ちている。
なのに、画像だけがある。
その歪さが、ただの悪ふざけという箱に収まらなくしていた。
背後から、別のグループの声が聞こえる。
「音楽室だろ? 夜閉まってんのにこれ何」
「幽霊じゃね」
「いや今どきAIとか加工とかあんだろ」
「でもさ、名前出たやつ、そのあとおかしくなるって」
「性格変わるってやつ?」
「急にキレっぽくなったとか聞いた」
「少し前にもいたな、誰だっけ」
半分笑いながら話しているくせに、その輪の中で本気で否定する声がひとつもなかった。
名前を書かれたやつは、壊れる。
性格が豹変する。
そんな噂だけが、ひとり歩きしている。
どこまで本当かはわからない。けれど「わからない」まま広がる話ほど、妙にしぶとい。現物がないからこそ想像で埋められる。見ていないからこそ、勝手に輪郭が太くなる。
「”黒板のらしさ様”って呼ぶんだよな」
誰かがそう言って、別の誰かが「それそれ」と笑った。
軽い。名前だけ聞けば、ふざけた学校怪談だ。
なのに、画面の中のあの写真は笑えなかった。
俺はスマホを握ったまま、頭の中で並べた。
クエストメール。観測者。夜の音楽室の黒板。名前を書かれた写真。壊れる、という噂。
繋がっている——少なくとも、偶然で済ませるには気味が悪すぎる。
「ねむに投げるか」
「そうですね。あの人の庭みたいな場所ですし」
その表現はやけにしっくりきた。
「たしかに庭か……」
「管理人のいる怪談置き場ですよね」
俺はその場でねむに連続でメッセージを打った。
『朝から都市伝説フォーラムで回ってる画像、見たか?』
『音楽室の黒板に篠原慧って書いてあるやつ』
『投稿元わかるなら追ってほしい』
少し迷って、もう一文つけ足す。
『なんか変だ』
送信。既読はつかない。
ねむの生活リズムは人間社会とゆるくしか繋がっていない。朝だから起きているという前提は、最初から持たないほうがいい。
それでも、投げないよりはましだ。
スマホを鞄に押し込み、教室へ向かう。
廊下はまだざわついていたが、ホームルームの時間が近づくにつれ、みんな表向きは席へ戻りはじめていた。鞄を机に押し込み、教科書を出し、何事もなかった顔を作る。日常の膜が、薄く張り直されていく。
その膜を、窓際のざわめきが破った。
「あれ、噂の人じゃない?」
「マジで?」
「篠原先輩じゃん」
何人かが立ち上がりかけ、すぐに身を引く。見たいくせに、見ていると気づかれたくない。そんな中途半端な動きが、教室のあちこちで同時に起きた。
俺もつられて窓の外を見た。
校門から校舎へ続く通路を、ひとりの男子生徒が歩いてくる。
長身。黒縁メガネ。隙のない制服の着こなし。背筋がまっすぐに伸びた歩き方。
遠目でもわかる。見間違えようがない。
二年四組。生徒会副会長。篠原《しのはら》慧《けい》。
今朝からDiscordで出回っている、あの写真——夜の音楽室の黒板に名前を書かれた、その本人だった。
教室のあちこちで、声がひそやかに弾む。
「普通に来てる……」
「知ってんのかな」
「いや、もう見てるだろ」
「でも全然ふつうじゃね?」
ふつう。
その言葉に、妙な引っかかりを覚えた。
窓の外の篠原先輩は、たしかに平然として見えた。うつむいてもいない。怯えてもいない。周囲を窺うふうでもない。いつも通りに登校してくる、整った優等生そのものだった。
けれど——それが逆に、据わりが悪かった。
まるで最初から、そういう表情しか持っていない人間みたいに見えたからだ。
「……ねえ、高尾クン」
後ろから、初狩の声が低く届いた。
「何」
「みんな、何か起きるのを待ってますよ」
言われなくても、わかっていた。
窓際に寄った連中も、離れた席で横目を使っている連中も、篠原先輩を心配する顔をしながら——目の奥では別のものを見ている。
このあと、どうなるのか。
噂どおりになるのか。
壊れるのか。変わるのか。
見ているだけの顔で、結末だけを待っている。
——観測者。
昨夜のメールのその一語が、頭の底で冷たく鳴った。
篠原先輩は昇降口の屋根の下へ入り、見えなくなった。
それだけで、教室のざわめきがもう一段、深くなる。
誰もまだ何も見ていない。
何も起きてもいない。
それでも、この学校のどこかで最初の一枚はもうめくられてしまった——そんな感触だけが、朝の光の中に残っていた。
そして俺は、自分もまた窓のこちら側に立っていたことを、嫌になるほどはっきり意識した。