文芸部を追放された俺、廃墟ゲーセンで都市伝説クエストを攻略する 〜追い出された天才絵師と、学校怪異を解いていく〜   作:オカノヒカル

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■第22話 裏垢とはけ口

 休み時間の廊下は、いつもより少しだけ静かだった。

 

 正確には、静かなふりをしているだけだ。教室の中では相変わらず噂が流れている。篠原先輩は今日も普通だったとか、逆にあれが怖いとか、変わるならいつなんだとか。聞こえないようで、ちゃんと聞こえる声ばかりだ。

 

 俺はプリントを職員室へ持っていく途中で、その本人を見つけた。

 

 二年の廊下の曲がり角。窓から差す昼の光の中で、篠原《しのはら》慧《けい》は一人で立っていた。手にはファイル。背筋はきれいに伸びている。制服の皺も、ネクタイの結び方も、ファイルに挟んだ黒いボールペンも、今日も狂いがない。全部が"副会長の持ち物"として、一問も間違えていない解答用紙みたいだった。

 それだけならいつも通りだ。

 なのに、いつもよりきれいすぎた。必要なものだけ残して、余計な揺れを全部削ったような立ち姿だった。

 

 篠原先輩のほうも、俺に気づいた。

 

「高尾くんだね。被服部の新入部員の」

「はい、そうですけど」

「職員室?」

「まあ、はい」

 

 それだけのやり取りなのに、妙に息が詰まる。相手が怒っているわけでも警戒しているわけでもない。ただ、崩れないために全部を整えている人間の静けさが、会話の入口からそこにあった。

 

「例の件で、少し騒がせてしまってるみたいだね」

 

 先にそう切り出したのは、篠原先輩のほうだった。

 穏やかな言い方だった。謝っているようにも聞こえるし、事務的に処理しているだけにも聞こえる。どちらにせよ、主導権を渡すつもりがないように聞こえる声だった。

 

「騒がせてるのは先輩じゃないと思います」

 

 俺がそう返すと、篠原先輩は少しだけ目を細めた。

 

「ありがとう。そう言ってもらえるのは助かるよ」

「でも、平気そうには見えないです」

「……そう見える?」

 

 そこで初めて、ほんの少しだけ間ができた。ほんの少しだけだ。でも今の篠原先輩には、その一拍で十分だった。

 

「見えます。平気っていうより、平気な顔を崩さないようにしてるみたいに」

 

 篠原先輩はすぐには答えなかった。

 廊下の向こうで、どこかのクラスの笑い声が短く弾ける。その音だけが妙に遠かった。

 

「高尾くんって、他人をよく見てるんだね」

「自覚はないです」

「だろうね。自覚があれば、もう少し遠慮するだろうから」

 

 口調は柔らかい。だが、言葉の置き方が慎重すぎる。感情に触れそうになると、すぐに冗談か建前へ逃がしている。その逃がし方まで、隙がなかった。

 

 俺は少し迷った。三人のパターンが同じだった。写真のあとに裏垢が凍結される。四人目も同じなら、ここで外す方が不自然だ。だが外れたら、ただの失礼な後輩で終わる。

 

 早期解決のためにも賭けた。

 

「先輩、裏垢ありましたよね?」

 

 空気が、わずかに止まった。

 

 怒られるかもしれないと思った。最低だと切られても仕方ない質問だ。

 

 けれど篠原先輩は怒らなかった。ただ、表情の何かが一瞬だけ遅れた。

 

「……その言い方、雑だな」

「すみません」

「いや、君らしいのかもしれない」

 

 君らしいという、その言い方にも棘がない。棘がないから、かえって刺さる。先輩は続けてこう問いかける。

 

「何でそう思ったの?」

「他の人がそうでしたから」

「他の人」

「黒板の写真のあとに、愚痴を吐く場所を失って、おかしくなった人がいたんです。先輩で四人目です」

「……」

「先輩は有名人ですから、今回は噂の広がりが尋常じゃなかった」

「……」

「先輩も、同じじゃないですか?」

 

 今度の沈黙は、さっきより長かった。

 

 篠原先輩は廊下の窓の外を見た。中庭の木が風に揺れている。誰でも目にする、どうでもいい景色だ。そういうものを見るふりをしながら、言葉を選んでいる。

 

 やがて、小さく息をついた。

 

「否定はしない」

 

 その一言だけで、胸の奥が少し冷えた。

 

「別に大したものじゃないよ。立派な思想があるわけでもないし、誰かを告発するとか、そういう話でもない。ただ、疲れたとか、面倒だとか、そういうのを捨てていた場所だ」

「……」

「ちゃんとしていない自分を、一回だけ雑に置いていける場所——かな」

 

 その言い方が妙に具体的で、作り物の台詞に聞こえなかった。

 

「それが、使えなくなった」

 

 俺が言うと、篠原先輩は苦く笑いもしなかった。

 

「急にね」

「理由は?」

「分からない。警告が出ていたのかもしれないけど、ちゃんと見ていなかったのかもしれないし。後から何を言っても仕方がない」

「……焦りましたか?」

「焦ったよ」

 

 今度はちゃんと即答だった。

 その短さに、むしろ本音が滲んでいた。

 

「想像していたより、ずっと困った。たかがそんなもの、なくても平気だと思っていたんだけどね」

「平気じゃなかった」

「うん。平気じゃなかった」

 

 そこでようやく、篠原先輩は少しだけ自嘲するように口元を緩めた。でもその笑みもすぐに、元の整った形へ戻る。

 

「人には役割があったほうが楽なんだよ」

 

 ぽつりと、そう漏らした。

 

 俺は何も言わなかった。続きがある気がしたからだ。

 

「何を期待されているのか分かるし、どう振る舞えば嫌われにくいかも分かる。副会長なら副会長らしく、優等生なら優等生らしくしていれば、大きくは外れない」

「でも」

「でも、その外れた分を捨てる場所がないと——けっこう息苦しい」

 

 言い終えたあと、篠原先輩は自分で少し驚いたような顔をした。こんなことを口にするつもりではなかったのかもしれない。

 

 たぶん、ここまでが限界だった。

 

 この人は全部は言わない。言えないのではなく、言わないように整えている。崩れそうな部分に自分で蓋をして、蓋の上からさらに「篠原慧らしさ」を重ねている。

 

 だから余計に、危うかった。

 

「先輩」

 

 俺は、もうひとつだけ聞いた。

 

「例の写真、どう思ってますか」

 

 篠原先輩の視線が、まっすぐ俺へ戻る。

 

「気持ち悪いよ」

 

 その答えは、意外なくらい率直だった。

 

「音楽室は夜間施錠されている。現物を見た人間は誰もいないのに、写真だけが出回っている」

 

 言葉は整っている。けれど、そこにはさっきまでより明確な温度があった。

 

「人の仕業だとしても気味が悪いし、怪異だとしてもなおさら気味が悪い。どちらにせよ、まともな話じゃないよ」

「……ですよね」

「君もそう思っているから、こうして話しかけたんだろう?」

 

 そこで篠原先輩は、ほんのわずかに首を傾けた。

 

「高尾くん。君は、見ている側に立つのが上手いよね」

 

 心臓が一度だけ変な鳴り方をした。

 

 ——観測者。

 あのメールの一語が、反射みたいに浮かぶ。

 

「でも——」

 

 篠原先輩は静かに言った。

 

「見ているだけのつもりでも、見ていること自体がもう、たぶん無関係じゃないんだよ」

 

 責めているようには聞こえなかった。むしろ、自分自身がたった今わかってしまったことを、つい口にしてしまったような声だった。

 

 廊下の向こうから教師を呼ぶ声がする。篠原先輩はそちらへ一瞬だけ目を向けて、またいつもの顔に戻った。

 

「ごめん、そろそろ行かないと」

「あ、はい」

「話して少し楽になった——とは言わないよ。そういうふうにきれいに締められる話じゃないから」

「……」

「でも、ありがとう」

 

 その礼だけ残して、篠原先輩は歩き出した。

 まっすぐで、迷いがなくて、見ている側を安心させる歩き方。

 けれど今の俺には、それが前よりずっと危うく映った。

 

 

**

 

 

 篠原先輩の背中が角を曲がって消えてからも、しばらくその場から動けなかった。

 

 裏垢を失った。息を抜く場所をなくした。

 その結果、野崎先輩は雑になった。斉藤先輩は神経質になった。サッカー部の先輩は怒鳴るようになった。

 

 じゃあ篠原先輩は——

 

 答えは、さっき目の前にいた。

 

 もっと副会長らしくなる。もっと優等生らしくなる。もっと「ちゃんとしている人間」のほうへ寄っていく。

 

 仮面が剥がれるんじゃない。

 仮面を締め上げて、自分ごと固定してしまう。

 

「最悪だな……」

 

 誰に聞かせるでもなく呟いて、ようやく歩き出した。

 

 足は教室のほうへ向いていたが、頭の中では別のことが回っていた。

 

 問題はもう、黒板そのものじゃない。

 

 音楽室に本当に誰かが入ったのか。現物があったのか。それももちろん気味は悪い。

 だが今の会話で、もっと気味の悪い場所がはっきりした。

 

 誰も現物を見ていないのに、写真だけはある。写真だけが流れて、写真だけが観客を集めて、そのあとで人間のほうが壊れていく。

 

 だったら起点は、黒板じゃない。

 あの画像だ。

 

 教室の扉が見えたところで、スマホを取り出した。ねむに追加でDMを打つ。

 

『画像の出所、急いでくれ。篠原先輩に直接会った。状況は思ったより悪い』

 

 既読はつかない。いつものことだが、今日は少し苛立つ。

 

 朝に保存した例の写真を開く。

 

 夜の音楽室。黒板。白い文字。篠原慧。

 

 さっきまでは、ただの不気味な記録に見えていた。

 でも今は違う。

 

 これは記録じゃない。何かが起きた証拠でもない。

 むしろ逆だ。

 

 これが出回ることで、何かが起きるように作られている。

 

 その考えに触れた瞬間、指先が冷えた。

 

 現物を誰も見ていないのに、人だけが確かに変わっていく。なら、あの写真は怪異の証拠じゃない。

 

 怪異を始めるための、最初の一枚だ。

 

 ただ、もう一つの可能性も頭から消せなかった。画像の拡散と裏垢の凍結を、同時に仕掛けている人間がいる——その線だ。どちらにしても、まず調べるべきものは同じだった。

 

 俺は画像を拡大した。黒板の反射。窓の明かり。文字の線。

 まだ何もわからない。

 

 でも、次に見るべき場所は決まった。

 

 黒板じゃない。

 あの画像そのものだ。

 

 

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