文芸部を追放された俺、廃墟ゲーセンで都市伝説クエストを攻略する 〜追い出された天才絵師と、学校怪異を解いていく〜 作:オカノヒカル
谷上先輩の動画が上がったのは、あの日の夜だった。
スマホのTikTokアプリを開く。タイムラインの上のほうに、見覚えのあるアイコンが表示されている。谷上瑠璃。サムネイルは——いつもと違った。
盛れた完成形の自撮りではなかった。
裁断台の上にリップが五本並んでいる。手の甲に五色の試し塗りが映っている。そして、谷上先輩の声がかぶさっている。
再生した。
「——これは色は近いんだけど、ラメが入りすぎなの。あたしのメイクだとリップにラメは入れない。艶だけでいい」
カメラは谷上先輩の手元を映している。リップを一本取って、手の甲に塗る。次の一本を取る。蓋を開ける。塗る。色を比べる。
「これはマットすぎ。あたしはもうちょっとうるっとさせたいの。唇の山のところに光が落ちるくらいが好き」
声が少し震えていた。被服部でのあの日、鏡の前で手が震えていたのを思い出す。たぶん何回も撮り直したんだろう。でも、震えを完全には消せなかったのか、消さなかったのか——どちらにしても、声はそのまま残っていた。
「で、これが一番近い。でも本当はもうちょっとだけ黄み寄りがほしい。あたしの肌だとこのくらいのほうが浮かないから。……こういうの、いつも言葉にしたことなかったんだけど」
画面の中の谷上先輩が、少しだけ笑った。
「あたしが何を選んで、何を外してるか。たぶん、完成品だけ見たら同じに見えると思う。でも、途中は全然違うの。あたしにはあたしの理由があるから」
動画は三分半。いつもの半分以下の長さだった。BGMもなく、加工も最低限。谷上先輩の声と手元だけが映っている。
コメント欄を開いた。
投稿から二時間。まだ数は少ない。でも、質が違った。
——『前のより好き。こういう瑠璃ちゃんの話、もっと聞きたい』
——『真似しやすいじゃなくて、るりの考えが見えた。これが本人の強みだと思う』
——『こういう話し方のほうが本人っぽい。作ってない感じ』
否定もあった。
——『いつものメイク動画のほうがよかった』
——『急にどうした? 路線変更?』
でも、「どれが本物?」は——なかった。
少なくとも、このコメント欄の中には。
俺は画面の前で、息を吐いた。
何も解決してはいない。模倣アカウントはまだ残っている。流行は止まっていない。でも、谷上先輩のコメント欄の空気だけは、少し変わった。完成形を並べて比較する場所ではなく、先輩の判断を聞く場所になりかけている。
それが続くかどうかは、わからない。
でも、今日この瞬間だけは——谷上先輩の輪郭は、彼女自身のものに戻っている。
**
翌日、ねむから連絡があった。
『なりすましアカウント三件、全部通報した。二件はもう凍結済み。残り一件も時間の問題だと思う』
REXのPCでDiscordを開いて確認した。ねむが共有してくれたスクリーンショットには、「このアカウントは利用規約違反により凍結されました」の画面が映っている。
『ありがとう。早かったな』
『プラットフォームの通報窓口、パターン化してるから。本人確認の書類さえ出せれば早い。谷上さんに連絡取って、本人確認は済ませた』
ねむの仕事は速い。篠原先輩のときの閉鎖Discordの件でもそうだったが、こいつは手順がわかっている作業に関しては驚くほど的確に動く。
『模倣アカウントのほうは?』
少し間があった。
『それは消せない。規約違反じゃないから。似た系統のメイク動画を上げること自体は、誰にも禁止できない』
わかっている。そこが今回の怪異の本体だ。犯人を倒して終わる話ではない。
『了解。ありがとう、ねむ。十分だ』
『……十分かどうかは、微妙だけどね。でも、やれることはやった』
Discordの画面を閉じて、モニターの前で腕を組んだ。
なりすましは消えた。通報で届く範囲の問題は処理された。クエストとしては——手応えはある。完了とまでは言えないかもしれないが、最悪の状態からは確実に戻った。
でも。
俺はタイムラインをもう一度スクロールした。
谷上先輩の系統に似た動画は、まだいくつも流れてくる。色味、構図、前髪。なりすましではない。ただ流行に乗っているだけの、悪意のない投稿。それは明日も明後日も増え続けるだろう。
都市伝説は終わっていない。形を変えただけだ。
——そのとき、スクロールの指が止まった。
見慣れない投稿が目に入った。自撮り動画。制服を着た女子。谷上先輩と同じ系統のメイク、同じ角度、同じ色味。
だが、制服が違った。
桂明高校の制服ではない。別の学校。グレーのブレザーに赤いリボン。見覚えのない校章。
プロフィールを開いた。名前は「ルリ」。アイコンは横顔の自撮りで、谷上瑠璃の雰囲気に似せてある。投稿の文体も、語尾の使い方も、空白の入れ方も——谷上瑠璃に、寄せている。
でもこれは、なりすましではなかった。
過去投稿を遡ると、別の名前で別の雰囲気だった時期がある。半年前まではショートカットで、メイクも全然違う。どこかの時点で谷上瑠璃の動画に影響を受けて、丸ごと雰囲気を変えたらしい。名前まで。
通報できるか? できない。なりすましではない。別の人間が、自分の意思で、谷上瑠璃の雰囲気に変身しただけだ。
——「どっぺるさん」は、まだいる。
一人の被害者から離れて、もっと広い場所で、静かに増え続けている。谷上先輩のコメント欄がいくら落ち着いても、インターネットのどこかで「谷上瑠璃っぽい子」は増殖し続ける。
怪異は消えない。ただ、当事者が怪異との付き合い方を変えるだけだ。
それでいいのか、と聞かれたら——わからない。でも、それ以上のことは、俺にはできない。
**
さらに翌日。
被服部に顔を出した。初狩《はつかり》は今日も来ていない。LINEで「今日は一日ずっと描いてます。新しい構図が頭から離れなくて」と来ていた。最近はそんな日が増えている。
部室には山田先輩だけがいた。窓際のパイプ椅子に座って、スマホを見ている。裁ちばさみは膝の上に置かれたまま、手は動いていない。
「山田先輩。笹子先輩は?」
「今日は休み。バイトだって」
山田先輩はスマホから目を離さなかった。それ自体は珍しくない。この人はよくスマホで服の参考画像を眺めている。
でも、今日は何かが違った。
画面を見ている目が、止まっていた。スクロールしていない。一枚の画像をじっと見つめている。
「山田先輩?」
山田先輩が、ゆっくりとスマホをこちらに傾けた。
イラスト投稿サイトのランキングページだった。デイリーの上位に並んだサムネイルの中に、一枚のイラストがある。
水面に光が落ちている構図。薄い青と白の重なり。空気ごと閉じ込めたような色使い。
——初狩の絵だ、と思った。
一瞬で、そう思った。
でも、アカウント名が違う。
知っているアカウントだった。夏休み前に初狩のフォロワー欄から辿って、似た画風だと気づいた。あの時は気にしないことにした。画風が似ているだけの別の絵描きだと。だが——ランキングに入るまで伸びていた。
色の置き方。光の拾い方。影のぼかし具合。空気感。どれも、初狩の最近の絵と——近い。近すぎる。
山田先輩が言った。
「……これ、似てるけど、初狩ちゃんじゃないよね」
声は平坦だった。判断を求めている声ではなく、すでに答えがわかっているような声だった。
「……違います。名前が違う」
「だよね」
山田先輩はスマホをポケットに戻した。裁ちばさみを持ち上げて、裁断台に向かった。それだけだった。それ以上は何も言わない。
俺は、自分のスマホで同じページを開いた。
そのイラストを拡大した。水面の光。色の重なり。筆のタッチ。
初狩の絵を見慣れている目には、似ている部分と違う部分の両方がわかる。構図の取り方は近い。色の選び方も近い。でも、線の運び方が微妙に違う。初狩の線にはもっと迷いがない。この絵は丁寧だけれど、慎重すぎる。
——でも、サムネイルだけ見たら、区別がつかない。
谷上先輩のときと、同じだ。
完成形だけが似ている。サムネイルの雰囲気だけが被る。そして、見る人間は「同じ系統」とひとくくりにする。
初狩に——言うべきか。
スマホの画面を見つめたまま、指が動かなかった。
初狩はいま、一番いい時間の中にいる。絵が楽しくて仕方がない。描くたびに反応が来て、通知が鳴って、見つけてもらえている実感がある。投稿サイトのランキングにも手が届き始めている。
その最中に、「お前の絵に似たやつがランキングにいるぞ」と言ったら——どうなる。
気にしないかもしれない。初狩は意外と図太いところがある。「似てますね」で済むかもしれない。
でも、もし——谷上先輩と同じことが起きたら。
似た絵が増えて、コメント欄で比較されて、「どっちがオリジナル?」と書かれて。
初狩が、自分の絵の価値を疑い始めたら。
——言えない。
今は、言えない。
スマホの画面を暗くした。ポケットにしまった。
山田先輩は裁断台の上で布を裁っている。何も聞いてこない。さっきの一言以外、何も。
部室の窓から西日が差し込んでいた。夕方の光が裁断台の白い天板を照らしている。ミシンの音がしない、静かな被服部。初狩のいない被服部。
谷上先輩は、戻り始めた。コメント欄の空気は変わった。なりすましは消えた。クエストとしては、手応えがある。
でも、「どっぺるさん」は消えていない。
一人の被害者を離れて、別の場所に手を伸ばし始めている気がした。
今度は——初狩のほうへ。
俺は部室の椅子に座ったまま、何も言えないまま、夕方の光が壁を這うのを見ていた。