文芸部を追放された俺、廃墟ゲーセンで都市伝説クエストを攻略する 〜追い出された天才絵師と、学校怪異を解いていく〜 作:オカノヒカル
一週間が経っていた。
被服部の部室には、もう
別人のように明るくなったわけではない。
声は相変わらず小さいし、自分から話題を振ることはほとんどない。会話の中心にいることは一度もない。「すみません」と「ありがとうございます」は今でも多い。
でも、「ここに居ていいですか?」と全身で怯えてはいなかった。
笹子先輩が蝶子の衣装パーツの角度で困ると、雪花が設定資料集の記憶を頼りに助言する。山田先輩の隣で黙って布を見ている時間も、居心地悪そうではない。
怪異に喩えられるような『空席の人』ではなくなった。
しかしながら、問題が解決したわけではない。居場所がゼロではなくなっただけだ。その小ささが、今の雪花にはちょうどいいのだと思う。
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その日の放課後、部室には俺と雪花と初狩がいた。笹子先輩と山田先輩は、手芸店に材料の買い出しに行っていて不在だった。
初狩は部室の隅でスケッチブックに向かっている。イヤホンをつけているので、こちらの会話は聞こえていないだろう。蝶子の立ち絵のラフが見えた。線が動いていない。描いているようで、描けていない。
雪花が、ためらいがちに口を開いた。
「……高尾さん」
「ん」
「ここに来て、少しだけわかったことがあります」
雪花は膝の上で指を組み、視線を落としたまま話し始めた。
「被服部の人たちは、私に『大丈夫?』って聞きませんでした」
声は静かだった。怒りも悲しみもほとんど含まない、観察に近い温度。
「教室では、みんな聞いてくれました。『困ったことない?』『なじめそう?』って。……でも、ここに来て気づいたんです。あの言葉は、私が大丈夫かどうかを知りたかったんじゃなくて」
少し間を置く。
「……『大丈夫って言ってもらえたら安心できる』から、聞いてたんだと思います」
断罪ではなかった。
クラスメイトを責める声ではない。被服部で「聞かれなかった」ことの楽さを知ったからこそ、教室の善意の輪郭が初めて見えた——そういう順番の言葉だった。
天板の五十三の落書き。教室の歓迎。昼休みの善意。あの「大丈夫?」と「困ったことあったら言ってね」の全部が、同じ構造の上にあった。悪意がないからこそ、傷を説明しにくい。「いじめられた」とは言えない。「嫌だった」とも言いにくい。でも確かに削られていた。
雪花の言葉で、ようやく腑に落ちた。
このクエストの意味が、見えた——気がした。
「声なき声を拾え」。
それは、机の落書きの犯人を突き止めろという意味じゃなかった。善意の形をした無関心、その構造そのものを見ろという意味だった。
雪花はそれを、難しい言葉にせずに言っただけだ。自分が楽だったことと、苦しかったことを並べて。たったそれだけで、見え方が変わった。
——これで、クエストの意味も見えたのかもしれない。
そう思った。一瞬だけ、息をつけた気がした。
雪花はしばらく黙っていた。
何かを言い終えた後の沈黙ではなく、もう一つ先に言葉がある人間の黙り方だった。指先が制服のスカートの裾を小さく摘んでいる。
「……もうひとつだけ」
声は、さっきの観察の温度とは少し違っていた。
「教室の『大丈夫?』は、私のためじゃなかったって——さっき言いました」
「ああ」
「でも、入院してたとき。誰にも会えなくて、教室がどんな場所かもわからなくて。……あの小説だけは、違いました」
俺は少し身構えた。笹子先輩にばらされたあの日の気まずさがよみがえる。
「高尾さん、前に『自己満だ』って言ってましたけど」
雪花は視線を落としたまま、慎重に言葉を選んでいた。
「自己満だったとしても、私には届いてたので」
さっきの「善意の構造」の話と、つながっていた。
教室の善意は、相手が安心するために差し出されたもので、雪花には届いていなかった。でも俺の小説は、誰かに届けるためにすら書かれていなかったのに、届いていた。
雪花が言おうとしていたのは、たぶんその対比だ。
「……自己満で書いたものが届くなら。それって、たぶん、いいってことだと思います」
大人びた名言じゃなかった。「それだけで十分」というきれいな結論でもなかった。ただ、入院中にあの小説を読んでいた子が、作者本人の前で、自分の言葉で「いい」と言った。それだけだ。
それだけのことが、きつかった。
「……なんだそれ」
そっけなく返した。受け止めきれなかったからだ。雪花の言葉を正面から受け取ったら、小五の冬のことまで一緒に引っ張り出される気がした。あの回想はまだ、蓋を戻しきれていない。
雪花は小さく「すみません」と言いかけて、今度は飲み込んだ。
少しだけ、笑ったように見えた。笑顔というには小さすぎるが、教室で見た彼女の顔とは違う。自分の言葉を、雑に踏まれなかった人間の顔だった。
**
部室の反対側で、初狩がスケッチブックを閉じた。
パタン、という軽い音。いつもなら、作業が一段落したときの自然な動作だ。でも今日は、閉じ方が少し乱暴だった。苛立ちとまでは言わないが、「もういい」という感じの、途中で投げ出す手つき。
スマホの通知が鳴った。初狩はイヤホンを外して画面を見た。
一瞬だけ顔が固まって、すぐに画面を伏せた。
俺はそれを見ていた。
いつもの違和感。でも、今日の初狩はいつもより静かだった。いつもより、反応が遅かった。笹子先輩が不在だから、絵の話を振る人間がいない。俺が何か言うべきなのかもしれない。でも、一週間前に「前の絵の方がお前っぽかった」と言ったとき、初狩は「"わたしっぽい"って便利な言葉ですね」と返した。あの声のトーンが、まだ耳に残っている。
スケッチブックを開く時間が短くなっている。通知を見てもすぐ伏せる。笹子先輩に色味を褒められても、嬉しそうではない。新しい絵は上手い。でも、もう「初狩時雨の絵」には見えない。
違和感は、ある。
でも——まだ大丈夫だろう。
模索中なのだ。画風を変えるのはクリエイターにとって普通のことだ。伸びる前にはこういう揺れもある。向上心の表れだ。
——そう解釈した。
解釈して、保留した。
初狩が鞄を持って立ち上がった。
「お先に失礼します」
声はいつもの丁寧語だった。おかしなところはない。
「おう」
「……おつかれさまです」
最後の一言だけ、少しだけ間があった。でも、それだけだった。初狩は部室を出て行った。足音が廊下の向こうに消えた。
雪花がこちらを見ていた。何か言いたそうにしていたが、言わなかった。
俺も、何も言わなかった。
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帰りにREXへ寄った。
ルーティンのように扉を開けて、ポータブル電源で最低限の照明をつける。九月の夜の廃墟は、昼間の蒸し暑さが壁に残っていて、空気が重い。古いゲーム筐体が薄闇の中にシルエットを作っている。
椅子に座って、天井を見上げた。
雪花の件に、ひとまず区切りがついた感覚があった。完全解決ではない。教室の空気が一朝一夕に変わるわけでもない。あの机の五十三件の落書きは消えたが、それで彼女の傷が消えるわけではない。
でも、見えなかった「ひとり」は少しだけ元の場所へ戻り始めた。元の場所は教室の席ではないかもしれない。でも被服部に、雪花がいてもいい場所ができた。それだけで——今は、それだけでいい。
クエストの完了メールが来るだろう、と思った。
いつものように、PCのモニターが明滅して、差出人不明のメールが届く。「任務完了」の四文字。そして次のクエストが始まる。いつもの流れだ。
古いデスクトップPCのモニターが、ちかりと光った。
メールソフトの受信トレイに、新着が一件。
差出人:不明。
件名を見た瞬間、空気が変わった。
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差出人:不明
件名:クエストNo.0006『塵塚の空席』任務失敗
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——失敗。
目が文字を追ったまま、意味が頭に入るのが遅れた。任務完了ではない。任務失敗。今まで五回のクエストで、一度も見たことのない言葉だった。