文芸部を追放された俺、廃墟ゲーセンで都市伝説クエストを攻略する 〜追い出された天才絵師と、学校怪異を解いていく〜 作:オカノヒカル
■第45話「七日間の宣告」
あのメールを、何度思い出したかわからない。
《クエストNo.0006『塵塚の空席』|任務失敗》
声なき声は、まだ拾われていない。
見えなかった「ひとり」は、元の場所へ戻らなかった。
捨てられた言葉は、別の空席を満たし続けている。
昨夜REXのモニターで見た文面が、頭の中で何度も再生される。消えない記憶のせいで、一字一句そのまま残っている。目を閉じても開いても、同じ言葉が同じ順番で並んでいる。
わかりきったことなのに、確認せずにいられない。たぶん俺は、もう一度開いたら文面が変わっていてくれないかと、どこかで期待している。
馬鹿げている。自分でもわかっている。
放課後の教室に残っていた理由は、特にない。
帰る気力がなかっただけだ。五限が終わって、六限が終わって、終礼が終わって、椅子を引く音が教室中で鳴って、それがやんでからもう二十分は経つ。窓際の席で、何をするでもなくぼんやりしている自分がいるだけだ。
窓の外では秋の日が傾き始めている。教室の蛍光灯は半分だけ点いていて、机の影が廊下側まで長く伸びていた。空気が冷え始めている。制服のシャツ越しに、肩甲骨のあたりがうっすら冷たい。
任務失敗のメールのすぐ下に、もう一通あった。昨夜、存在に気づいていたのに開けなかったメール。新しいクエスト。
失敗の直後に届いた次のクエストは、これまでのどの案件よりも嫌な予感がした。だから蓋をしていた。まだ前の傷が乾いていないのに、次の切り口を見るのが怖かった。
けれど蓋をしたままでは、いつまで経っても蓋のままだ。
椅子を立つ。鞄を掴む。足が勝手に決めていた。REXへ行く。あのメールを開く。
**
学校の裏門を出ると、十月の風が首筋を掠めた。
商店街までの道は、いつもの道だ。坂を下り、住宅地を抜け、白花駅前のアーケードの骨組みが見えてくるまで、およそ十五分。
白花センター通り商店街は、今日も半分死んでいた。
シャッターの下りた店が連なり、営業しているのはコンビニとファストフードと老舗の和菓子屋くらいだ。アーケードの鉄骨は錆びて、屋根のない部分から夕陽がまっすぐ路面を照らしている。人通りはほとんどない。遠くでカラスが鳴いた。
夕方の光だけが、妙にきれいだった。
シャッターの表面を赤く染めて、剥がれかけた店名看板の文字に影をつけて、誰もいない通りをまるで舞台みたいに照らしている。
ふと思う。
こういう、なくなりかけのものばかり見ているな、と。
この商店街も。REXも。オボロも。
そして——。
考えかけて、やめた。
名前をつけるにはまだ早い。まだ間に合うのかどうかも、わからない。
**
REXに入ると、筐体の音はしていなかった。
カビと埃と古い配線のにおいに混じって、かすかにインクの匂いがした。
初狩がいるのかもしれない。だが先に、やることがある。
デスクトップPCの前に座った。モニターの電源を入れる。メールソフトを開く。
昨夜の任務失敗メールの下に、未開封が一通。
親指がマウスに触れる。
クリックする。
────────────────────────────
差出人:不明
件名:クエストNo.0007『画霊の消失』
本文:
【ミッション】ここに残る「魂の宿った絵」を見つけろ。
画霊は、絵に宿る魂のことだ。
だが最近、この町ではそれが静かに剥がれ落ちている。
絵は残る。線も色も残る。
だが、そこにあった“誰かの祈り”だけが消えていく。
画霊は、観測されなければ存在できない。
忘れられた瞬間、それは名もなく失われる。
七日後までに見つからなければ、
おまえの大切な者は完全に消えるだろう。
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読み終えて、すぐには意味を理解できなかった。
画霊。魂の宿った絵。七日。大切な者。
単語が順番に脳の中へ落ちてくるのに、つながらない。古い言い回しが妙に耳についた。まるで昔話みたいな文体で、それがどこかオボロの声に似ていて——苛立った。
苛立ちの矛先は、メールの文面ではない。
自分だ。
初狩を助けられなかったのは、俺だ。彼女の絵が変わっていることに気づいていたのに、「まだ大丈夫だろう」と思ってしまったのは、他でもない俺自身だ。
『おまえの大切な者は完全に消えるだろう』
その一文を読み直したとき、胸の底が重くなった。
すぐに「初狩のことだ」と断定はしたくない。
したくないが、頭のどこかではもう答えが出ている。前回のクエストの"空席"の正体が、教室の机ではなく初狩時雨の心だったことを、俺はもう知ってしまっている。
俺は静かにメールを閉じた。
**
次の日もREXへと寄る。
店に入ると、筐体の音はしていなかった。
いつもなら、どれか一台くらいは電源を入れっぱなしにしてある。雷電の基板が待機画面を流している低い音や、メダルゲーム機の微かな電子音が、この店の生命維持装置みたいな役目を果たしていた。
だが今日はそれがない。
代わりに聞こえるのは、PCのファン音だけだ。叔父が残したデスクトップ機の、回転する冷却ファンのうなり。それが薄暗い店内でやけに大きく響いている。
カビと埃と古い配線のにおいに混じって、かすかにインクの匂いがした。
奥へ進む。
初狩がいた。
モニターの前に座って、ペンタブレットの上に手を置いている。イヤホンは片耳だけ。姿勢がいつもよりも低い。背中が丸まっていて、画面に覆いかぶさるような格好だった。
最初、俺は自分の絵に加筆しているのだと思った。
イラスト投稿界隈では、下絵に自分の線を重ねて『完成品』として仕上げるやり方もある。最初、俺はそういう加筆作業をしているのだと思った。
だが、よく見ると違った。
画面に並んでいる絵は、以前の初狩の画風ではなかった。
また画風を変えている。
PCには複数のウインドウが開いていて、それぞれに描きかけの絵が表示されている。どれも初狩の筆致だ。だがどれも、これまでの初狩とは別物だった。
露骨な肉体の誇張。意図的に不快感を煽る色彩。皮膚の質感をわざと崩した塗り方。SNSで切り抜かれやすい部分だけを強調した構図。視線が勝手に引き寄せられる——しかし引き寄せられた先にあるのは美しさではなく、生々しい嫌悪感だった。
本来なら初狩時雨は、こんな絵を描かない。
少女の横顔、光の射し込む窓辺、猫の毛並み。静かで繊細で、見る人間の呼吸を少しだけ止めるような絵が、初狩の世界だった。
これは——。
少し遅れて、理解が追いついた。
迎合じゃない。
抵抗だ。
ただし、あまりにも自傷的な。
「初狩っぽい」と真似されることから逃げるために、初狩自身が自分の画風を壊しにかかっている。元の自分の絵からわざと遠ざかることで、模倣される領域そのものを消し去ろうとしている。
壊されるくらいなら、自分で壊す。
そういうことだ。
初狩は振り向かなかった。
モニターの光が横顔を青白く照らしている。イヤホンの片耳からかすかに音楽が漏れている。俺が来たことには気づいているはずだ。
わかっていて、振り向かない。
「最近、こういうのの方が反応いいんですよ」
声が、思ったより平坦だった。
画面を見たまま、まるで天気の話でもするみたいに言う。
「"わたしっぽい"って真似されないし」
ペンがモニターの上を滑る音。小さな摩擦音が、静かなREXの中で妙にはっきり聞こえる。
「気持ち悪いでしょ。でも、気持ち悪いほうが盗まれにくいんです」
開き直りとは違う。
この声には、怒りも、悲しみも、諦めすらも薄い。
追いつめられた人間が、最後に見つけた理屈をただ並べている
——そんなふうに聞こえた。
初狩の中では、たぶん筋が通っているのだろう。不快な絵をわざわざ真似したがる人間は少ない。だから、似せて遊ぶ側にも拾われにくい——少なくとも初狩は、そう考えたのだ。
けれど、それが正しいかどうかは、今の俺にはどうでもいい。
モニターに映った絵を、もう一度見た。
初狩の手で、初狩時雨を殺すような絵が、そこにあった。
「……それが、お前の描きたい絵なのかよ」
口をついて出た言葉は、自分で思っていたよりきつかった。
心配しているのは本当だ。だがそれと同じくらい、怒っている。"自分の絵を守る"ために"自分が描きたいもの"まで捨てるのは、本末転倒だと感じるからだ。守るべきものを壊して、それで何が残る。
綺麗事だ、と頭のどこかで思う。
綺麗事だとわかっている。模倣される苦しみを知らない人間が言う言葉だ。
それでも、黙って見ていることはできなかった。
初狩は、そこで初めて俺のほうを見た。
目の下にうっすらと隈があった。
でも泣いてはいない。
目は乾いていて、表情は妙に静かで、教室で真白の空席を見つめている時のクラスメイトみたいに——感情がひとつ、凪いでいた。
その静けさが、泣き顔よりよほど怖い。
「……それ、高尾クンにはわからないですよ」
淡々とした声だった。
「自分の作品を模倣されない人には」
一瞬、何か返そうとした。
口が開きかけて、閉じた。
なぜなら、それはずっと俺の胸に刺さっていた棘そのものだったからだ。
"似られる苦しみ"は知らない。
俺が知っているのは"誰にも注目されず、誰にも真似されない苦しみ"のほうだ。閲覧数の少ない投稿ページ、感想ゼロのブックマーク欄、「模倣される」以前に「存在を認知されない」側の痛み。
けれど今ここでそれを言っても、比較にしかならない。お前のほうがましだ、いや俺のほうが——そういう話じゃない。
初狩は続けた。
「真似されるって、褒め言葉みたいに言う人もいます」
ペンタブレットの上に置いた手が、無意識に握りしめられていく。
「でも、違うんです」
言葉を選んでいるのではなく、言葉が勝手に出てきている感じだった。堰を切ったというほど激しくはない。静かに、でも止まらない。
「削られてるんですよ。少しずつ」
モニターの光が初狩の指先を照らしている。その手は小さくて、ペンだこが中指の内側にある。何千枚も描いてきた手だ。
「昨日まで自分だった線が、今日には"よくある感じ"になってる」
声が少しだけ低くなった。
「それがどんな気持ちか、高尾クンにはわからない」
返す言葉を、探した。
正論を組み立てようとして、やめた。
代わりに、嘘のないことだけ言う。
「……わからない」
それは認めるしかなかった。
「けど、わからないから黙って見てていいとも思わない」
初狩の目が、ほんの少しだけ揺れた。
揺れて、すぐに戻った。
「壊されるのと、自分で壊すのは、同じじゃないだろ」
その言葉に、初狩は小さく笑った。
笑いというより、自嘲だった。唇の端がわずかに上がっただけの、温度のない表情。
「壊されるくらいなら、自分で壊したほうがましなんですよ」
その一言が、REXの空気を重くした。
古い筐体も、剥がれた床も、カビた壁も、全部がその言葉を吸い込んで黙り込んだように感じた。
俺は言葉を失った。
初狩はまだ泣いていない。助けを求めてもいない。
自分が間違っているとは、たぶん思っていない。
だからこそ、厄介だとわかる。
これは崩壊の途中ではない。崩壊を"方法"として受け入れ始めた人間の顔だ。
空気を切り替えたのは、店の奥から聞こえた物音だった。
古い筐体の隙間——暗がりの中で、何かが動いた気がした。
振り返る。
白い影が、薄闇の中に滲んでいた。
オボロだ。
いつものように、この店の暗い場所から姿を現す。妖狐の白い毛並みが、モニターの逆光で縁取られている。
ただ、何かが違った。
輪郭が、薄い。
照明のせいだと思いたかった。REXの中はいつだって暗いし、ポータブル電源の出力が落ちれば蛍光灯の明るさだって変わる。
だが、それにしても——前より存在感が弱い。以前ならもっとはっきり見えていた白い毛並みが、今日は暗がりに溶けかけている。まるで、薄い紙を一枚、光に透かしているみたいに。
(……お前、薄くなってないか?)
『気のせいじゃ』
オボロはいつもの調子で返した。皮肉っぽくて、少し偉そうな声。
『店が暗いだけじゃろ。お
軽口だ。
いつもの軽口のはずだ。
だが、その軽さの裏に何かが透けている気がして、俺は目を細めた。
『今はそちらを見よ』
オボロの視線が、初狩のほうへ動いた。
『狐より、人間のほうがよほど消えやすい』
その言葉に、胸が詰まった。
見透かされたように、初狩のほうへ視線を戻す。
引っかかりはある。オボロの薄さも、あの言い方も、どこかおかしい。
だが今は——今は、初狩のほうが優先だ。
初狩は、もう話す気をなくしていた。
再びモニターに向き直り、ペンを動かし始めている。背中が壁を作っている。俺が見ていることは知っているだろうに、その壁を崩す気はないらしい。
「今日は一人にさせてください」
静かな声だった。
拒絶ではなく、遮断だ。感情ごとシャッターを下ろすような、冷たく乾いた言い方。
俺は立ち去れなかった。
だが、残っても今の自分の言葉では届かないとわかっている。「わからない」と認めた時点で、俺の手持ちの言葉はほとんど使い切っていた。ここから先、何を重ねても正論にしかならない。正論で人を止められるなら、世の中はもっと簡単にできている。
帰り際、モニターに表示された投稿画面がちらりと目に入った。
タイトル欄の下に、タグがひとつだけ入力されている。
#これはわたしの絵です
たった、それだけ。
所有宣言だ。「これは誰かに真似されたものではなく、わたし自身が描いたものだ」と刻みつけるための、最後の一行。
だがその一文は、同時に悲鳴にも見えた。
「わたしの絵がわからなくなりそうだ」と叫んでいるように。
目を逸らして、REXを出た。
**
商店街を歩きながら、スマホを開いた。
Xの通知が溜まっていた。初狩の作品用アカウントからだ。
REXを出てからの数分で、また新しい絵が上がっている。さっきモニターで見たものより、さらに一段きつい。もう変化の速度が日単位ではなく時間単位に変わっている。
コメント欄は、前と同じだった。
善意の言葉。肯定のリプライ。壊れていくことが「進化」として受け入れられている、あの構造。
もう見慣れた。見慣れたことが、いちばん嫌だった。
投稿一覧を少し遡る。
更新は途切れていない。むしろ、止まっていないことのほうが不気味だった。絵だけが、休まず外へ出続けている。
なのに——と、指が止まる。
作品用ではないほうの初狩は、どうなっている。
ふと、インスタのほうを開いた。
初狩は作品用のアカウントとは別に、ごく少人数しかフォローを許可していない鍵アカウントを持っている。本人いわく「落書きとか、どうでもいい独り言用」。ずっと前に相互になったきりで、普段はほとんど更新されない。
その鍵アカウントのストーリーに、一文だけ上がっていた。
二十四時間で消える設定の、誰かに見せるつもりがあるのかもわからない投稿。
そこに書かれていたのは——
「壊れたほうが、わたしだってわかってもらえる」
足が止まった。
商店街の真ん中で、立ったまま動けなくなった。
夕陽はもう建物の向こうに沈みかけていて、地面には薄い影だけが伸びている。カラスの鳴き声が遠くなっていく。空気が急に冷えた気がした。
頭の中で、クエストメールの文面が重なる。
七日後までに見つからなければ、大切な者は完全に消えるだろう。
消える。
初狩時雨という人間がそこにいるのに、彼女の絵が消える。外側の形は残ったまま、中身だけが入れ替わっていく。それは死ぬこととは違う。もっと静かで、もっと見えにくくて、もっと——誰にも気づかれないまま終わる消え方だ。
七日。
たった七日で、何ができる。
前回のクエストを失敗した俺に、今度は何ができる。
スマホの画面が暗転する。
自分の顔が、黒い液晶に薄く映っていた。
情けない顔だ、と思った。
思って、鞄の持ち手を握り直した。
まだ、わからない。
けれど「わからない」で止まるのは、もうやめると決めたはずだ。初狩を助けられなかったと思った時、そう決めたはずだった。
商店街を抜ける。
坂を上る。
十月の夜が、静かに落ちてくる。