文芸部を追放された俺、廃墟ゲーセンで都市伝説クエストを攻略する 〜追い出された天才絵師と、学校怪異を解いていく〜 作:オカノヒカル
母との会話を終えて、自分の部屋に戻った。
しばらく天井を見ていた。
それから、鞄を掴んで家を出た。
REXへ向かう。
確認したいことがあるというより、他に行く場所がなかった。逃げ場がない時に足が向くのは、いつもあの店だ。暗くて、狭くて、カビくさくて、誰もいない。それでも、俺にとってはそこが一番「考えること」を許してくれる場所だった。
扉を開ける。鍵を回す。中に入る。
薄暗い店内。古い筐体のシルエット。誰もいない空気。
昨日と同じデスクトップPC。
電源を入れて、椅子に座った。
モニターが立ち上がるまでの十数秒、俺は消去法の最後の一手を頭の中で並べていた。
初狩ではない——時系列が合わない。
母ではない——文体が合わない。
叔父ではない——去年のうちに死んでいた。
その事実を順番に潰していくと、最後に残る候補は一つしかない。
鍵を持っている。
この店に自由に入れる。
クエストの内容を知りうる。
深夜二時に行動できる。
あの文体に——。
あの文体に、どこか見覚えがある。
他人の言葉を模写したような詩的な言い回しの中に、俺自身の思考の癖が混じっている。小説を書くとき、そして都市伝説を分析する時の視点。人の痛みの断片を拾い上げてミッションに変換する構造。あれは、観測者の——。
自分。
その考えに触れた瞬間、身体が先に拒否した。
冷や汗が背筋を伝う。喉が狭くなる。頭が「そんなわけない」と言うより早く、身体のほうが「そこへ行くな」と叫んでいた。
「……いや、待て」
声が擦れた。
「俺が、そんなこと——」
その時、暗がりの中で何かが動いた。
古い筐体の向こう。モニターの逆光に照らされた薄闇の中に、白い輪郭が滲んでいる。
オボロだ。
だが、以前よりも明らかに薄い。最初に会ったときに感じた違和感が、もう気のせいでは済まないレベルになっていた。白い毛並みの輪郭が暗がりに溶けかけている。まるで水で薄めた絵の具で描かれた絵のように、周囲の闇との境界が曖昧だ。
けれど声だけは、妙にはっきりしていた。
『そうじゃ』
低く、静かに。
『ここまで消していって、最後に残るのは、お主《ぬし》だけじゃ』
振り向いた。
怒鳴ろうとした。だが喉から出たのは、怒鳴り声ではなく、擦り切れたような声だった。
「何言ってんだよ」
『聞こえておろう』
「俺が送ったっていうのか、あれを。全部のクエストを、俺が——」
『そうじゃ』
「だったら、なんで俺は覚えてない」
その問いに、オボロは少しだけ間を置いた。
薄い輪郭が、かすかに揺れる。笑っているのか、それとも消えかけているのか、区別がつかない。
「覚えておらぬのではない」
声が、少しだけ柔らかくなった。
「覚えすぎたから、こうなったのじゃ」
オボロは語り始めた。
いつもの皮肉や軽口はなかった。古風な口調はそのままだが、どこか——諭すような、あるいは告白するような声音だった。
『クエストメールは、外から来たものではない』
その一文が、REXの空気を変えた。
『お
俺は黙って聞いていた。否定したかった。だが、声が出なかった。
『深夜二時。お主は眠れず、あるいは眠ったまま、ここへ来ておった』
「……嘘だ」
『嘘ではない。お主の靴の裏に、朝になると泥がついていたことがあったろう。寝汗だと思ったものが、実は夜風に当たった後の冷えだったこともあったろう』
「……」
反論が、出てこなかった。
思い当たる節がある。いくつも。朝起きた時の妙な疲労感。靴下が汚れていたこと。記憶にないのに、身体だけが覚えている夜の痕跡。
『この廃墟ゲーセンの噂を覚えているか?』
「丑三つ時に、無人のはずの筐体がひとりでに動くってやつだろ? だからあれは俺が……」
『時刻を考えろ。おまえが放課後に寄るような夕方ではない。丑三つ時じゃ』
「つまり夜中の二時頃……」
書きかけのメールの保存日時が深夜二時であった。
『見過ごせない違和感、拾ってしまう言葉、人の痛みの断片——お主《ぬし》はそれを、そのまま抱えれば壊れる』
オボロの声が、少しだけ低くなった。
『じゃから、"クエスト"という形にした。課題に変えれば、お
REXの天井が、やけに高く見えた。
暗い。
古い配線が蜘蛛の巣みたいに張り巡らされている。その向こうは闇で、何も見えない。
『我は、そのための器じゃ』
オボロの声は揺れなかった。
『お
聞きながら、否定したいのにできなかった。
だってそうだ。思い返せば、クエストの文体にはずっと妙な既視感があった。他人の言葉を模写したような詩的な調子でありながら、分析の仕方が俺自身の癖に似ていた。人の痛みの構造を解体して、ミッションの形に組み直す——あれは、観測者の手口だ。
他人の手口ではない。
俺の手口だ。
「じゃあ——」
声が震えた。
逃げ道。安全装置。クエストを外へ出すための器。それはわかった。仕組みとしては、わかった。
だが、わかったことで別の穴が開いた。
「あの日お前が生まれたなら——なんで俺は、REXで初めて会ったと思った」
小学五年の冬からいたのなら、中学の三年間も、高校に入ってからも、ずっとそばにいたはずだ。なのに俺の記憶では、あの暗い店の中で白い影を見た時、「初めて」だと思った。驚いた。怖がった。見知らぬ妖怪に出くわしたみたいに。
オボロは、少しだけ間を置いた。
『お
静かな声だった。
『我自身も、その例外ではなかった』
意味がわかった瞬間、背筋が冷えた。
オボロは俺の痛みだけを逃がしていたのではない。オボロという存在そのものも、必要のない時には俺の意識から消えていた。いたのに、いなかったことにされていた。俺の頭の中で。俺を守るために。
あのREXでの「初対面」は、再会だったのだ。何度目かもわからない。
「……ずっと、そうだったのか」
声が擦れた。
「お前がいたことすら、俺は忘れさせられてたのか」
オボロは答えなかった。答えないことが、答えだった。
逃げ道。安全装置。そう言われれば、機能としては理解できる。
だが——あの日カッターナイフを止めてくれた存在を、俺は何度も忘れて、何度も初めましてのふりをして、そのたびにオボロは黙って受け入れていたのか。
「お前は——俺にとって、何だったんだよ」
仕組みの話じゃない。
忘れられるたびに名乗り直して、忘れられるとわかっていて隣にいた存在は、安全装置なんて言葉で片づけていいものなのか。
オボロは、笑った。
笑ったと思う。輪郭が薄すぎて、表情がよく見えない。ただ声の温度だけが、ほんの少し上がった。
『お
その言い方は、自嘲のようでもあり、どこか誇らしげでもあった。
『記憶を抱えすぎた子どもが、自分を守るために作った——名前付きの隠れ場所じゃ』
言葉が、胸の底に落ちた。
重くて、冷たくて、でも——心当たりがありすぎて、跳ね返せなかった。
小学五年の冬。
教室の隅で殴られて、ノートを踏みにじられて、ポケットのカッターナイフに手をかけた日。
あの日、白い狐が現れた。
俺を止めたのは、理性でも勇気でもなく、あの白い影だった。
あれが。
あの瞬間に生まれた、俺の——。
『じゃが、それでもまだ全部ではない』
オボロの声が、少しだけ硬くなった。
『今お
一拍、間が空いた。
『そして——外ではなかったからこそ、今度は逃げ道では足りぬということじゃ』
その意味を、すぐには飲み込めなかった。
逃げ道では足りない。
クエストという形に変換して、他人の問題として処理することで自分を守ってきた仕組みが、もう通用しない。そう言っているのか。
問い返そうとした。
だが、オボロの輪郭がさらに薄くなっていくのが見えて、言葉が喉で詰まった。
その時。
ポケットの中で、スマホが震えた。
**
一瞬、呼吸が止まった。
初狩からだ。
画面に表示された名前を見て、指が固まった。何日ぶりだ。既読すらつかなかった人間から、メッセージが来ている。
たった一通。
開けない。
怖い。
ここで開いて、もし——もしそこに、もう手遅れだと思い知るような言葉が書かれていたら。
でも、開くしかない。
親指が画面に触れる。
LINEのトーク画面が開く。
初狩のアイコン。送信時刻は数分前。
文面は、短かった。
『ごめんなさい。もう、わたしの絵がどれかわかりません』
画面を見たまま、動けなくなった。
「ごめんなさい」から始まっている。謝っている。何に対してだ。俺にか。それとも自分自身にか。
「わたしの絵がどれかわかりません」だと?
模倣アカウントとの区別がつかなくなったのか。自分で描いた絵と、壊すために描いた絵の境目が消えたのか。それとも——もっと根本的に、「自分の線」がわからなくなったのか。
スマホの光が、暗いREXの中で白く浮いている。
モニターの青い光と、スマホの白い光。二つの明かりだけが、この廃墟を照らしている。
返事を打とうとした。
何を打てばいい。「大丈夫か」はもう送った。届かなかった。「待ってくれ」か。「俺が何とかする」か。どれも薄い。どれも、今の初狩には届かない。
俺の言葉は、俺が思っていたより——ずっと非力だ。
REXの暗がりの中で、PCのファンだけが低く回り続けている。
オボロの姿は、もう見えなかった。
薄くなった輪郭が、いつの間にか暗闇に溶けきっていた。
スマホの画面が、自動で消灯する。
暗転した液晶に、自分の顔が薄く映った。
情けない顔だ。
昨日も同じことを思った。一昨日も。
それでも——。
画面をもう一度点ける。
初狩の文面を、もう一度読む。
――『ごめんなさい。もう、わたしの絵がどれかわかりません』
返信欄に、カーソルが点滅している。
俺はまだ、何も打てないでいる。