文芸部を追放された俺、廃墟ゲーセンで都市伝説クエストを攻略する 〜追い出された天才絵師と、学校怪異を解いていく〜   作:オカノヒカル

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■第50話「届いた言葉と、届かなかった声」

『ごめんなさい。もう、わたしの絵がどれかわかりません』

 

 スマホの画面が、暗いREXの中で白く浮いている。

 その光だけが、今この空間にある唯一の明かりだった。デスクトップPCのモニターは先ほど消した。筐体の電源も入っていない。ポータブル電源のLEDだけが、遠くで緑色に点滅している。

 

 返信欄を開く。

 カーソルが点滅している。

 

『大丈夫か』

 

 打って、消した。

 前に送って、届かなかった。同じ言葉を二度送って、二度目で届くなら苦労はしない。

 

『今どこにいる』

 

 打って、消した。

 聞いてどうする? 場所がわかったとして、今の俺が駆けつけて何を言う。このあいだ、REXで突き放されたばかりだ。「帰ってください」と言われたじゃないか。

 

『会おう』

 

 打って、消した。

 会ってどうする? 会って何を言う。「わからない」と認めた俺に、何ができる。

 

 電話をかけようとして、親指が通話ボタンの上で止まった。

 出なかったら終わりだ。出なかったという事実が確定したら、もう「まだ繋がっているかもしれない」という最後の希望も消える。

 卑怯だ。

 わかっている。行くべきなのもわかっている。

 だが、自分が今さら何を言っても遅いのではないかという感覚のほうが、圧倒的に強い。

 

 スマホを膝の上に置いた。

 顔を上げる。

 

 REXの中は、静かすぎた。

 PC。古い筐体。剥がれた床。壁を這う配線。ポータブル電源。天井の隅に張りついた蜘蛛の巣。

 全部が、初狩と一緒にここで過ごした時間の痕跡だ。あの椅子に初狩が座って、あのモニターに向かって絵を描いて、俺はこの席から画面越しにその背中を見ていた。

 

 なのに今、ここにあるのは痕跡だけだ。人がいた場所から人が消えると、残されたものが全部「空席」になる。椅子も机もPCも、誰かが使っていた時は道具だったものが、使う人がいなくなった瞬間に遺品みたいな顔をする。

 

 暗がりの端で、白い影がかすかに揺れた。

 オボロだ。

 さっきのように多くは語らない。薄くなった輪郭のまま、ただこちらを見ている。声もかけてこない。

 俺も問い詰めなかった。

 差出人が自分だったという事実。オボロが安全装置だったという告白。どちらも重い。重いが、今はそれよりも——初狩の一文のほうが痛い。

 

 クエストの真相より、あの一行のほうが、ずっと痛い。

 

**

 

 記憶が、勝手に動き始めた。

 

 意識して思い出そうとしているのではない。超記憶が、俺の意思とは関係なく、過去がランダムにフラッシュバックする。まるで引き出しの中身を勝手にぶちまけられている感覚に近い。止められない。

 

 最初に浮かんだのは、雪花《ゆきはな》真白《ましろ》だった。

 

 教室から押し出された「空席」の中にいた子。長期入院の間にクラスの誰にも覚えてもらえず、机に言葉を捨てられ、初登校した日に自分の席が自分のものではなくなっていたことを知った子。

 だが、真白は俺の小説を読んでいた。

 俺の認識できない場所での、たった一人の読者が病室のベッドの上にいた。

 「好きでした」と、真白は言った。

 あの言葉は、届いた。数字では見えなかった読者が、一人だけ確かにいた。俺の言葉は、あの子には届いていた。

 

 次に浮かんだのは、ねむだった。

 

 引きこもりの部屋から出ず、画面越しにしか繋がれなかった人間。フレーム問題に閉じ込められて、選択そのものが恐怖になっていた。

 俺は二番目のクエストで、彼女に自己嫌悪のようなものを抱き、それを罰するようなつもりで救済した。

 スモークマシンで偽の火事を演出するという最悪の手段を使って、それでも彼女を外に出した。観測者でいることをやめて、初めて自分から踏み込んだ。

 結果として、ねむは外に出た。怒って、泣いて、それでも自分の足で立った。

 

 次に、笹子先輩。

 

 クロスドレッサーであることを否定され、善意の裏返しの悪意に晒された。笹子先輩は最初から強いわけではなかった。だが俺は、笹子先輩の問題に関わる中で、少なくとも「貼られたレッテルじゃなく、本人を見る」ことはできた。

 

 雪花真白に、届いた。

 ねむにも、何かは届いた。

 笹子先輩にも、見ていると示せた。

 

 でも、初狩には——。

 

 届かなかった。

 

 しかも初狩は、いちばん近くにいた。

 文芸部を追放されてからずっとだ。REXを共有し、クエストを一緒に追い、「観測」と「記録」を分け合ってきた相手だった。隣の席で絵を描いている背中を、何十回も見た。軽口を言い合う間柄だったのに、模倣アカウントの話を聞いた時、何か言うべきだと思いながら、うまく言えなかった。

 隣にいたのに。

 ずっと隣にいたのに、俺は救いきれなかった。

 

 遠くの声は拾えたのに、隣の沈黙を聞き逃した。

 

 その考えが頭に浮かんだ瞬間、胸の内側が焼けるように熱くなった。

 

『全部を背負う気か?』

 

 オボロの声が、暗がりの向こうから聞こえた。

 低くて、静かで、輪郭の薄い声。慰めでも忠告でもない、ただの問いかけ。

 

「背負ってないから、こうなったんだろ」

 

 自分の声が、思ったより硬かった。

 オボロは何も返さなかった。

 

**

 

 何かから逃げるように、スマホで別の画面を開いていた。

 

 小説投稿サイト。俺のマイページ。

 なぜ今これを開くのか、自分でもわからない。現実が痛すぎて、別の痛みで上書きしようとしているのかもしれない。

 

 閲覧数。低い。

 ブックマーク。少ない。

 感想。ゼロ。

 いつも通りの、静かな数字。

 

 初狩が「模倣されて消える」側なら、俺は「最初から誰の画面にもいない」側だ。ドッペルゲンガーのクエストでそう感じた。模倣すらされない。コピーする価値もないと判断される。存在を認知される前に、通り過ぎられる。

 あの時の痛みが、ここで戻ってくる。

 

 だが今は、あの頃より痛みの形が複雑だ。

 なぜなら、真白がいるからだ。

 「誰にも届いていない」わけではなかった。たった一人には届いていた。病室で俺の小説を読んでいた子が、確かにいた。

 届く力が、ゼロではなかったことを知ってしまった。

 ゼロなら諦められる。最初から何も持っていなかったのだと思えば、失敗の痛みも軽くなる。

 だが一人に届いてしまったからこそ、「届く言葉」を持っている可能性を捨てきれない。持っているのに、いちばん届いてほしい相手には届かない。

 

 真白には、俺の言葉が届いた。

 なのに初狩には、届かない。

 それは俺の言葉が足りないのか。

 それとも、いちばん届いてほしい相手には、最初から俺なんか——。

 

 そこまで考えて、スマホを裏返しに置いた。

 画面を見ていられなかった。

 

 模倣されて消えるやつと、最初から誰にも見つからないやつと、どっちがましなんだ。

 比べること自体が間違っている。わかっている。初狩の痛みと俺の痛みは形が違う。比較しても何も解決しない。

 わかっているのに、比べてしまう。

 素人作家としての劣等感と、人間としての敗北感が、同じ場所で重なっている。分離できない。

 

 記憶がまた、勝手に動いた。

 

 初めて初狩とコンタクトを取った日。

 廃墟ゲーセンREX。

 「余ってるPCがある」と、俺が言った日。

 初狩がマウスで一本の線を引いた。画面に細い線が走って、初狩は少しだけ目を細めた。それから顔を上げて言った。

 

――「明日、家にある板タブを持ってきてもいいですか?」

 

 あの声の温度まで、覚えている。冷たくもなく、甘くもなく、ただ「描ける場所がある」ことに少しだけ安心した声だった。あそこから二人の役割分担が始まった。俺が観測して、初狩が記録する。そういう形で、ここを共有してきた。

 

 なのに今、その「描く場所」だったREXで、俺は一人でスマホを見ている。

 

 裏返しに置いたスマホを、もう一度表に返した。

 LINEを開く。初狩のトーク画面。

 

 返信を打った。

 

『どれかわからなくてもいい。話したい』

 

 送信。

 画面に、自分の吹き出しが追加される。初狩のアイコンは動かない。

 三十秒。一分。二分。

 既読はつかない。

 

 送った。

 だが届かない。

 ただの逡巡ではなく、現実に拒まれている。回線は繋がっているのに、相手がそこにいない。あるいは、いるのに読まない。どちらにしても、俺の言葉は初狩の目に入らないまま、トーク画面の底に沈んでいく。

 

**

 

 REXの空気が、少しずつ変質していくのがわかった。

 

 物理的に何が変わったわけではない。気温も、匂いも、暗さも同じだ。だが、俺の中で何かが崩れかけている。超記憶の負荷が、静かに、しかし確実に上がっている。

 

 発作ではない。

 倒れるほどではない。

 ただ、記憶が順番を守らなくなっている。

 

 雪花真白の「好きでした」という声が浮かぶ。

 その声に重なるように、初狩の「高尾クンにはわからないですよ」が被さる。

 時系列が違う。場所も違う。だが超記憶の中では、それらが同じ平面に並ぼうとする。

 

 自分が量産されるSNSの中で、谷上先輩のまわりに渦巻いていた『どれが本物?』という問い。

 それが初狩の「わたしの絵がどれかわかりません」と溶け合う。

 さらにその上から、小学校の声が落ちてくる。

 

――「誰もお前の話なんか読みたくねえよ」

 

 田所の声だ。ノートを踏みにじった時の、あの声。何年前のことだ。なのに音量が変わらない。距離が変わらない。まるで今、隣で言われたみたいに鮮明だ。

 

 REXの空気。雪花真白の声。初狩時雨の声。谷上瑠璃の声。……そして、最悪の田所の声。

 全部が互いを侵食するみたいに重なる。順番なんかない。時系列なんかない。記憶が溢れて、整理棚が傾いて、中身が全部床にぶちまけられている。

 

 ねむが言っていた。「記憶力がいいんじゃない。忘れる機能が弱いだけ。でもそれは、特殊能力なんかじゃなくて故障に近い」。

 その通りだ。

 忘れられないことが武器になっていた時期は、もう終わった。今はただ、忘れられないことが自分を削っている。

 

 そして——ようやく、理解する。

 

 クエストは、人を救うためのものだった。

 だが同時に、俺が俺自身の痛みだけに閉じないための逃げ道でもあった。

 

 誰かの問題を「クエスト」の形に変換すれば、自分の痛みを直視しなくて済んだ。他人を助けることで、自分を助けていた。自分のために泣く代わりに、他人のために動いていた。

 オボロが安全装置なら、クエストは排水溝だ。俺の中に溜まる汚水を、外へ流すための仕組み。

 

 その排水溝が、もう使えない。

 オボロが薄れている。クエストの正体は自作自演だった。仕組みは壊れた。

 だから今の俺は、真正面から敗北を引き受けるしかない。

 逃げ道なしで、「初狩を救えなかった」という事実と向き合うしかない。

 

 古い椅子の背もたれに身体を預けた。

 天井を見上げる。暗い。何も見えない。

 

「……助け方が、わからない」

 

 声が、REXの闇に落ちた。

 能力が足りないのではない。善意がないのでもない。

 ただ、いちばん助けたい相手に対して、どう言葉を差し出せばいいのかわからない。何を言えば届くのか。何をすれば壊れるのを止められるのか。

 今まで他人を助ける時には、「クエスト」という枠があった。ミッション文があって、期限があって、達成条件があった。その枠の中なら動けた。

 だが初狩を救うのに、ミッション文はない。期限だけがある。七日間。

 

 暗がりの向こうで、オボロの声が聞こえた。

 

「わからぬままでも、向かわねばならぬ時は来る」

 

 静かだった。

 その言葉が正しいことは、たぶんわかっている。わからなくても動くしかない。答えが見えなくても、立ち上がるしかない。百目のクエストでねむの前に立った時だって、正しい答えなんか持っていなかった。

 だが——今は、まだ乗れない。

 この言葉に頷いて立ち上がるには、まだ膝が重すぎる。

 

 

**

 

 

 どのくらい座っていたのかわからない。

 

 REXを出た時、商店街は完全に夜だった。

 商店街に街灯が等間隔で並んでいる。その光が、下ろされたシャッターの表面をぼんやり照らしている。人通りはゼロだ。遠くで救急車のサイレンが鳴って、すぐに消えた。

 十月の夜風が冷たい。シャツ一枚の腕に鳥肌が立った。上着をREXに忘れてきたことに、今さら気づいた。

 

 歩きながら、スマホを開いた。

 初狩とのトーク履歴。画面の上のほうに、過去のやり取りが見える。

 PCを使えるようになった初狩が嬉しそうに送った「これからいっぱい描きますね」という反応。ネットに投稿するようになって絵の反応を共有してきた時の短文。「今日のやつ、『300いいね』です」「高尾クン、見ました?」。

 他愛のないやり取り。日常の、何でもない報告。

 それら全部が、"まだ壊れていない初狩"の痕跡として刺さる。この文面を打っていた時の初狩は、まだ自分の絵を自分のものだと思えていた。自分の線に自信があった。少なくとも、「どれがわたしの絵かわからない」なんて言葉は、出てこなかった。

 

 スクロールを止めた。

 指が、ある箇所で止まっていた。

 

 履歴の中に——何だろう、既視感がある。

 

 はっきりとは掴めない。だが、初狩がずっと前にどこかで言っていた言葉の断片が、記憶の端に引っかかっている。場所の名前だったか、景色の話だったか。

 超記憶が捉えているはずなのに、今は混線がひどくて正確に引き出せない。ノイズだらけのラジオみたいに、チューニングが合わない。

 

 まだ場所はわからない。

 でも、完全に手がかりがないわけではない。

 

 スマホをポケットに戻しかけて、やめた。

 もう一度画面を見る。

 連絡先の一覧。ねむの名前を開いて、閉じた。笹子先輩の名前を開いて、閉じた。

 誰かに助けを求めようとしている。そのことは自分でわかっている。

 だが、指はまだ送信ボタンに届かない。

 

 「助けてくれ」と、言えない。

 「一人じゃ無理だ」と、認められない。

 その一歩手前で、まだ止まっている。

 

 商店街の街灯が、一つだけ切れかけて点滅していた。

 点いて、消えて、また点いて。

 その不規則なリズムだけが、夜の商店街に残っていた。

 

 俺はスマホを握ったまま、誰にも送らないまま、画面を見ている。

 

 

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