文芸部を追放された俺、廃墟ゲーセンで都市伝説クエストを攻略する 〜追い出された天才絵師と、学校怪異を解いていく〜 作:オカノヒカル
土手の斜面を駆け上がる足が、何度も滑った。
草の根が靴底を掴んで、離して、また掴む。秋の枯れかけた草は思ったより滑りやすくて、二度ほど膝をつきかけた。息が切れている。運動が苦手な身体に、全力疾走は応える。肺の奥がひりつく。
それでも止まれなかった。
堤防の上に出た瞬間、河川敷が一望できた。
十月の朝の光が、川面に散っている。対岸の住宅地がまだ朝靄の中にぼんやり沈んでいて、空だけが高く、薄い青に染まりかけている。風が冷たい。草が一斉に傾いて、ざわざわと音を立てる。その音の中に、自分の荒い呼吸が混じっている。
見晴らしの張り出し。展望ベンチ。
そこに、初狩がいた。
ベンチの端に座っている。小さな背中が、朝の光の中にぽつんとある。
手元にスケッチブック。だが開かれたページは白紙に近い。何本か線を引いた痕跡はあるが、絵と呼べるものにはなっていない。
その代わり——左腕の内側に、ボールペンで描きかけの下絵があった。
初狩の座るベンチの傍らに、ビニール袋。口が開いている。中身が少し見える。縫い針。小さなインク瓶。ガーゼ。消毒液。
全部、家から持ち出してきたものだろう。裁縫箱の針。画材棚のインク。救急箱のガーゼと消毒液。ネットで調べた手順を、手元にあるもので再現しようとしている。
プロの道具は一つもない。滅菌された針でもなければ、肌に安全なインクでもない。消毒液で針を拭いただけで、あの腕に刺すつもりだったのか。
背筋が冷えた。感染症どころの話じゃない。
だが、まだ針は使われていない。
ペンの下絵は完成していない。
腕の上に青いインクの線が走っているだけで、皮膚に穴は開いていない。
ギリギリ、間に合った。
数歩手前で立ち止まった。
足音で気づかれているはずだ。土手を駆け上がる音を、この距離で聞き逃すほど初狩の耳は鈍くない。
だが初狩は振り向かない。ベンチに座ったまま、左腕の下絵に目を落としている。
息を整えた。
整えきれなかった。
ためらいが、一瞬だけあった。
ここで声をかけたら、また「帰ってください」と言われるかもしれない。今度はもっと深い場所から遮断されるかもしれない。
だが、黙って立っているわけにはいかない。
「……初狩」
**
初狩は振り向かなかった。
肩が少しだけ動いた。こちらに気づいている。だが、顔は自分の腕に向いたままだ。
「よくわたしの場所がわかりましたね……そういやストーカーの気がありましたっけ」
皮肉だった。だが、皮肉が出るうちはまだいい。
数歩だけ近づいた。
まだ隣には座らない。距離は詰めすぎない。
「何してるんだ?」
聞いた。
わかっていて、聞いた。自分の口からではなく、初狩の口から言わせる必要があった。
初狩は自分の左腕を見たまま、答えた。
「下絵を描いてるんです」
少し間があった。
「誰にも盗まれない、わたしだけの絵を描くために」
その声には、理屈ではなく執着があった。なぜそうするのかを説明する気はない。技術論でも防衛策でもない。ただ、「奪われないものが欲しい」という一点だけが、声の芯に通っている。
一拍置いて、本質を突いた。
「……入れ墨か?」
初狩が、初めてちゃんとこちらを見た。
驚いた顔だった。目が少し開いて、口が半分開いて、すぐに閉じた。
それから、低い声で返した。
「なんでわかったんですか?」
検索履歴のことも、ねむの分析のことも、説明しなかった。
ここで全部を説明するのは、才らしくない。
「探したからだよ」
短く言った。
「お前がどこに行くかも、何考えてるかも」
不器用だ。自分でもわかっている。だが、今はこれしか出てこなかった。
初狩は笑い損ねた。唇の端が動きかけて、途中で止まった。苦い顔。
「高尾クンって、そういう時だけ当ててきますよね」
言葉で押し返してくる力が、まだある。
沈黙の底まで落ちきった人間は、皮肉を言わない。返す言葉があるということは、まだここにいるということだ。
そこが、救いだった。
**
正論では止められない。
頭の中で、言うべきことと言ってはいけないことが高速で分かれていく。
入れ墨を入れた高校生がどう見られるか。校則違反で停学か退学か。就職や進学に響くか。親にバレたらどうなるか。初狩の家は、絵を描くことすら禁じた父親がいる家だ。
全部、正しい。正しいが、今ここでそれを並べたら、初狩は「やっぱりそういう話か」と閉じる。社会がどう思うかで止めようとする人間の言葉は、社会に削られてここまで来た初狩には届かない。
なら、先に自分の中身を差し出すしかない。
展望ベンチの端に腰を下ろした。
初狩と同じ方向を向いて座る。対面ではなく、並ぶ形。説得する側とされる側ではなく、同じ景色を見ている二人。このほうが、俺たちには合っている。
そして、話し始めた。
時間稼ぎでもあり、本気でもあった。
「俺、小学生の時いじめられてたんだよ」
ぶっきらぼうだった。前置きも文脈もなく、いきなりだった。
自分でも唐突だと思った。だが、切り出し方を選んでいる余裕はなかった。初狩の左腕の下絵は、もう八割がた完成に近づいている。
「……何の話ですか」
初狩が怪訝な声を出した。だが手は止めていない。ペンが腕の上を滑る音が、小さく続いている。
「小学校の五年生の時だ。毎日殴られて、ノートを破られて、教室の隅で——まあ、そういうやつだった」
言い方が雑だ。自分の過去なのに、他人事みたいに聞こえる。でもそれは、他人事みたいに語らないと今の俺には喋れないからだ。
「その時、俺の中に——狐が出てきた」
初狩のペンが、一瞬だけ止まった。
「白い毛の、偉そうな狐。オボロって名前の。俺にしか見えないやつ」
「……そういえば高尾クンって、時々『誰か』と話してましたよね」
「そう。あいつだ」
そこからは、初狩にもわかる言葉を選びながら話した。
つっかえた。言い直した。自嘲が混じった。論文みたいに整理された説明にはならなかった。それでいい。
オボロは本物の怪異じゃなかった。俺が作り出したイマジナリーフレンドだった。
俺は異常なほど記憶してしまう人間で、見たもの聞いたもの全部が消えない。嫌な記憶も、痛い言葉も、全部残る。そのままだと壊れるから、オボロに記憶の一部を預けるみたいな形で、なんとか「忘れっぽく」生きてきた。
クエストメールも——あの差出人不明のメールも、外から来てたんじゃない。俺が、俺自身に送ってた。深夜に、たぶん半分眠ったまま、REXのPCで下書きを書いて、自動送信を仕込んでた。
見過ごせない誰かの痛みを、そのまま抱え込んだら俺が壊れるから、「クエスト」って形に変えた。課題にしたら、観測してるだけじゃなくて動けたから。
オボロも、クエストも、全部——俺が壊れないための安全装置だった。
話し終わるまでに、どのくらいかかったかわからない。
初狩は途中から黙って聞いていた。
最初は怪訝な顔をしていたが、クエストが自作自演だったくだりで、ほんの少しだけ表情が動いた。
「……じゃあ、あれ全部」
声が小さかった。
「高尾クンが?」
うなずいた。
「俺宛てだったんだよ。俺が俺に送ってた」
少し間を置いて、付け足す。
「多重人格とか、そういうんじゃないと思うけど」
さらに続ける。
「でも、そうしないと、たぶん俺は——そのまま壊れていくだけだった」
言ってから、自分の言葉の重さに気づいた。
初狩は今、自分を壊してでも自分の絵を守ろうとしている。
俺は昔、自分が壊れないために安全装置を作った。
方向は逆だ。でも、どちらも「生き延びるための歪んだ工夫」だ。
その一点で、俺たちは似ている。
**
俺が話しているあいだも、初狩の手は止まっていなかった。
聞きながらも、左腕の上でペンが動いている。下絵がほぼ完成しようとしている。曲線が閉じかけて、輪郭が形になろうとしている。
それを見て、時間がないと悟った。
ここから先は、創作論ではなく、身体の話をしなければならない。
「入れ墨が自己表現の一つなのは、わかってる」
声を落として言った。
「他人が頭ごなしに止めるもんでもないと思ってる」
初狩はこちらを見ない。でも、聞いている。耳が向いている。
「でも、素人彫りは感染症がある。針の消毒が不十分なら、肝炎のリスクもある。インクの成分が肌に合わなくて腫れることもある」
淡々と言う。
説教ではなく、事実として。
「後から消したくなっても、消えない。レーザーで除去しても跡が残る。今のお前は——」
一拍、息を吸った。
「決めたんじゃなくて、壊れた勢いでそこまで行こうとしてるように見える」
初狩の手が、止まった。
完全に、止まった。
「俺はもう、お前にこれ以上壊れてほしくない」
その一言が出た時、自分でも驚いた。
綺麗な言葉でも、論理的な説得でもない。ただの——懇願だ。
初狩は黙っていた。
視線を落としている。下絵のほぼ完成した自分の腕と、ビニール袋の中の針と、朝の穏やかな河川敷。その全部を見ているようで、何も見ていないような顔。
止めるだけでは、足りない。
「やめろ」だけでは、何も変わらない。初狩がここに来た理由——奪われないもの、消えないもの、自分だけの絵——その渇望自体は、否定できない。否定したら、初狩は閉じる。
だから、代わりのものを差し出すしかない。
「……だから、俺に描け」
風が、一瞬だけ止まった気がした。
初狩が顔を上げた。
本気で驚いている。目が大きく開いて、口が半開きになって、理解が追いついていない顔。
「は?」
「自分に入れるな」
自分の右腕の袖を、左手でまくった。肘の内側まで出して、初狩のほうへ差し出す。
「彫るなら、俺に描け」
「何言ってるんですか?」
「聞こえてるだろ」
「意味わかんないです」
「わかんなくていい」
「なんでそうなるんですか?」
初狩の声が上ずっている。困惑と怒りと、それから——何か別のものが混じっている。
「俺の自作自演のクエストに付き合ってくれた、せめてもの詫びだ」
理屈として完璧ではない。自分でもわかっている。
だが、完璧じゃないから本気に聞こえる——そう信じるしかなかった。
初狩は黙った。
自分の腕の下絵と、差し出された俺の腕を、交互に見ている。
数秒。
十秒。
風が吹いて、スケッチブックの白紙が音を立てた。
「……ほんと、ずるいです」
小さな声だった。
怒りでも諦めでもなく、「その手で来るのか」という——自分を止めるために自分の身体を差し出してくる人間への、どうしようもない脱力。
「今さらですよ」
初狩の声が、少しだけ震えた。
「高尾クン、ずっとあっち向いてたじゃないですか」
あっち。
一瞬、何のことかわからなかった。だがすぐに、わかった。
真白のことだ。空席のクエストで、俺は真白を探して、真白を被服部へつないで、真白の言葉を受け取って——その間ずっと、初狩は隣にいた。隣にいて、絵が変わって、通知を隠すようになって、それでも俺は「まだ大丈夫だろう」と思っていた。
「わたし、待ってたんですよ」
声は小さかった。責めているのではない。責める気力すら残っていない声だった。
「高尾クンが気づいてくれるの、ずっと待ってた。でも来なかった。来なかったから——自分でやるしかないって、思ったんです」
胸の底が、抉られた。
知っていた。知っていたはずだ。「遠くの声は拾えたのに、隣の沈黙を聞き逃した」と、自分でそう思っていたではないか。
だが初狩の口から聞くと、痛みの形が違う。俺の後悔と、初狩の失望は、同じ出来事の裏表だった。
返す言葉がなかった。
言い訳はできない。事実だから。
「……ごめん」
それだけ言った。それしか言えなかった。
初狩はしばらく黙っていた。
それから、少しだけ視線を落とした。
自分の左腕を見た。ほぼ完成した下絵を見た。
それから、俺の腕を見た。
差し出された腕。さっき、小学校のいじめもオボロもクエストの自作自演も、全部さらけ出した人間の腕。正論で武装した手ではなく、自分と同じように壊れかけている人間の手。
「……描くだけですよ」
声が、ほんの少しだけ柔らかくなった。
「まだ、彫りませんから」
その一言で、ビニール袋の中の針が、一歩だけ遠くなった。
「何がいいんですか」
初狩が訊いた。ペンを持ち直している。さっきまで自分の腕に向けていたペン先が、今は宙に浮いている。
「花とか、模様とか、文字とか」
一瞬、つまった。
何を描いてもらうか、考えていなかった。ここまで走ってきて、「自分に描け」とまでは言えたのに、「何を」の部分が抜けていた。
だが、出てくるべき名前は一つしかなかった。
「オボロ」
間。
「狐の、あいつ」
初狩が少しだけ呆れた顔をした。
「変なところでブレないですね」
「描けるか?」
「見たことないですけど」
「今から説明する」
説明した。
白い毛。細い目。少しひねくれた口元。偉そうな顔。でも、たまに妙に優しいことを言う。耳は三角で、先が少し反ってる。尻尾は太くて、根元がふわっとしてる。全体的に、妖狐っぽいくせにどこか胡散臭い感じ。
「それ、かわいい狐じゃなくて、性格悪い狐では?」
「同じだろ」
「違います」
その短い応酬の間に、初狩の手つきが変わったのがわかった。
さっきまでの手——自分の腕に閉じた線を刻んでいた手つき——とは、何かが違う。ペンを持つ角度が少しだけ開いている。自分に向けるための線ではなく、誰かへ渡すための線を引こうとする手だ。
「じゃあ、描きます」
そう言って、初狩は俺の右腕を取った。
指先が触れた。冷たかった。俺の手も冷たかったから、どちらが冷たいのかわからなかった。
ペン先が、腕の内側に触れる。
白い狐の、耳の先端から。
最初の一本が引かれた。
ほんの少しだけ、肩が震えた。
痛みではない。くすぐったさでもない。ただ、自分の皮膚の上に、初狩の線が乗った。その感触が、思ったより——生々しかった。
「……失敗しても、知りませんよ」
初狩が小さく言った。
声は低い。だがさっきまでの、感情を封じた声とは違っていた。少しだけ、ほんの少しだけ、線を引く人間の声に戻っている。
俺は腕を引かなかった。
河川敷の風が、二人のあいだを抜けていく。
朝の光が、まだ斜めに差している。川面は白く光って、風に揺れるたび、薄い青の上に細かい銀を散らしていた。
自分へ向けるはずだった線が、初めて別の誰かへ向けて置かれる。
——まだ、間に合うかもしれない。