文芸部を追放された俺、廃墟ゲーセンで都市伝説クエストを攻略する 〜追い出された天才絵師と、学校怪異を解いていく〜 作:オカノヒカル
数日後の放課後。
白花センター通り商店街。
初狩は、前回と同じ文房具屋跡の前にしゃがんでいた。
スケッチブックを膝の上に開いて、鉛筆を動かしている。俺は少し離れた電柱のそばに立って、それを見ていた。
あの日に描き始めた商店街のスケッチ。まだ完成していなかったらしい。何日かぶりに同じページを開いて、続きに取りかかっている。
前回より、手が自然に動いている。
ただし完全に元通りではない。線は途中で止まる。迷うように鉛筆が浮いて、何度か角度を変えてから、紙の上に戻る。描いては消し、消してはまた描く。
けれどその迷いは、数日前のものとは違う。
あの時の迷いは——描いたら壊れるかもしれないという、指先の震えだった。
今の迷いは、もっと静かだ。何を残して、何を省くか。どの線を選ぶか。
「描けない恐怖」ではなく、「何を残すか選んでいる迷い」に変わっている。
戻ってきたのは、「絵が上手かった初狩」ではない。
「自分の目を持っている初狩」だ。
何度でも、そう思う。
**
初狩が描いているものを、少しだけ覗き見た。
理想化された風景ではなかった。
シャッターのへこみ。錆びた南京錠。色褪せた看板の、読めなくなった文字。閉店のお知らせの紙がセロテープの跡ごと丁寧になぞられている。テープが劣化して、紙の角だけがめくれ上がっている——その微細な反りまで、鉛筆が追いかけていた。
ファストフード店の排気口から流れてくる油の匂い。それは描けない。でも、排気口のアルミダクトの汚れと、その下の壁面にこびりついた黒ずみは、ちゃんと紙の上にあった。
遠くのコンビニの自動ドア。酒屋の自販機の灯り。アーケードの骨組みの隙間から落ちる光。
綺麗なものを描こうとしているのではない。
初狩は「まだ息をしているもの」を描こうとしている。
誰もいないのに、完全には死んでいない通り。その呼吸の跡を、一本ずつ拾っている。
画霊は、上手い絵に宿るものではない——たぶん。
魂のある絵とは、完成度が高い絵のことじゃない。
誰かが「これを見た」と言えるほど、目を向けたものに宿る。
俺にはそれが正しいかどうか、判断する資格はない。
ただ、初狩の鉛筆の先が、この寂れた通りのどこかに息づいている小さなものを一つずつ掬い上げているのを見ていると——そういう気がした。それだけだ。
**
初狩が、描きながらぽつりと話し始めた。
「前は、ずっと気にしてたんです」
鉛筆は止まらない。線を引きながら、言葉を一つずつ選んでいる。
「似ている、真似された、負けた、奪われた」
「誰にどう見られるか。どう評価されるか」
「そういうことばっかり、考えてました」
口を挟まなかった。
この話の中で、俺は説得する人間ではない。受け取る人間だ。
「でも今は……まず、ちゃんと自分で見たいんです」
鉛筆が一瞬だけ止まった。
初狩は、自分の描きかけの絵を見下ろしている。
「自分が何を見たのか。自分が何を残したいのか。それを先に決めないと、また自分の絵がわからなくなる気がして」
視線が紙面に戻る。鉛筆がまた動き出す。
酒屋の自販機の輪郭を、ゆっくりとなぞっている。
「……そうか」
それだけ返した。
気の利いたことは言えない。言うべきでもない。
初狩が自分の口で、自分の言葉で、ここまで辿り着いた。それを俺が別の言葉で上書きするのは、違う。
**
ポケットの中で、スマホが沈黙している。
ふと、REXのことを考えた。
あの暗い店の中の、古いPC。差出人不明のメール。下書きフォルダ。オボロ。自分が自分へ送っていたクエスト。
最後くらい、自分の名前で何か送るべきなのか。任務完了と書いて、自分宛てに送信ボタンを押すべきなのか。
その考えが浮かんで——消えた。
初狩の手元を見たからだ。
初狩はもう、誰かに任務完了と言われるために描いていない。
誰かに許可されるためでもない。
自分の目で見たものを、自分の線で残している。
だったら俺も、もうクエストの差出人にならなくていい。
自分で結末を書いて、自分で受け取って、そうやって終わりの形を整えなくていい。
前は、動くことが必要だった。立ち止まっていた足を、無理にでも一歩出すことが。
でも今ここでは、「自分が結論を書かないこと」「相手の答えを奪わないこと」が——たぶん、必要なことだ。
REXには、戻らなかった。
そのまま電柱のそばに立って、初狩の鉛筆の音を聞いていた。
**
何度かスマホを見た。
通知はない。
画面は暗いままだ。
オボロの声もしない。
でも、不思議と焦らなかった。
これまでは、画面に文字が並ぶことで事件が終わった。
クエストの完了を、誰かが確認してくれた。
でも今回は違う。
目の前で初狩が描いている。
鉛筆の先で、夕方の商店街がゆっくり紙の上に残っていく。
それだけで十分だと、思った。
救済は、画面の中には表示されなかった。
けれど、目の前にあった。
**
夕方の光が変わり始めた。
商店街の影が長くなる。アーケードの骨組みが地面に縞模様を落とし、さっきまで光が当たっていたシャッターの表面が、少しずつ暗くなっていく。
初狩は最後に、文房具屋のシャッターではなく、その横にある小さな生活の気配を描き足した。
酒屋の自販機の灯り。
ファストフード店から出てきた親子の影——紙袋を持った子どもの手が、親の手を引いている。
コンビニ袋を下げて通り過ぎた老人の後ろ姿。
風で揺れる閉店のお知らせの紙。
シャッターの隙間に差し込む、最後の夕方の光。
死んだ場所に、ほんの少しだけ生活が残っている。
初狩はそれを、全部拾った。
鉛筆が止まった。
「……できました」
小さな声だった。
俺は初狩の横に膝をついて、スケッチブックを覗いた。
紙の上には、商店街の一角があった。
綺麗ではない。華やかでもない。
シャッターは錆びているし、看板は色褪せているし、路面にはひびが入っている。
でも、そこには初狩が見たものがある。初狩の目が選んだものだけが、紙の上に残っている。
うまく褒められなかった。
ただ、こう思った。
これは、もう消えていない。
画霊は戻った。
ただし、画面の中ではなく、初狩の線の中に。
**
初狩が少し迷ってから、スケッチブックのページに手をかけた。
ミシン目を探すように端をつまんで、丁寧に外そうとしている。
「……おい」
「はい」
「いいのか? 完成したばかりだろ」
「だからです」
初狩はページを慎重に外した。端が少しだけ歪んだ。それを指先で整えてから、俺に差し出した。
受け取れなかった。
「なんで、俺に」
初狩は少しだけ視線を逸らした。商店街の奥のほうを見ている。
「最初の一枚なので」
声が小さい。
「高尾クンに、渡しておこうと思いました」
受け取れない理由を、頭が探している。
俺は絵の良し悪しがわかる人間じゃない。初狩の努力に見合った感想を返せる自信もない。もっとふさわしい相手がいるはずだ。笹子先輩でも、山田先輩でも、雪花《ゆきはな》でも。
だが初狩は、視線を戻して俺を見た。
「ここを見つけたのは、高尾クンです」
文房具屋跡の前。この場所。
「わたしがもう一度描ける場所をくれたのも、高尾クンです」
REXのこと。ペンタブレットのこと。
もっと前——漫研の前で落ちたペンを拾ったこと。下駄箱の筆箱を戻したこと。校舎裏でスケッチブックが踏みにじられた時に、ブラフの電話をかけたこと。
全部、損得勘定のふりをして、理由をつけて、格好をつけて——結局やったことだ。
「だから、これは高尾クン宛てです」
その言葉が、商店街の夕暮れの空気に落ちた。
静かだった。
スケッチが、手紙になっている。
ずっと抱えていたものがあった。
誰の画面にもいない。コピーすらされない。ブックマーク1件。閲覧数62。どこにも届かない。
その空白が、少しだけ——埋まった。
大勢に読まれていなくてもいい。
バズっていなくてもいい。
誰か一人から、自分宛てに何かが届く。
それだけで、十分だった。
俺は、初狩の絵を受け取った。
通知ではない。
差出人不明でもない。
差出人は、初狩時雨。
宛先は、高尾才。
任務完了。
その言葉は、声には出さなかった。
胸の中で、一度だけ響いて、消えた。
画面には何も届かなかった。
代わりに、俺の手の中には一枚の絵があった。
宛先のある、初狩の線だった。
**
初狩は少し照れたように目を逸らして、鞄の中からスケッチブックを持ち直した。
新しいページを開く。白い紙面。さっきまでの絵があった場所が抜けて、綴じ目が少しだけ緩んでいる。
「まだ描くのか」
「一枚渡してしまったので」
初狩は鉛筆を握り直した。
「まだ、見たいところがあります」
その声は静かだった。
初狩は「一枚描けたから回復完了」ではない。これからも描く。迷いながら、選びながら、また描く。完成ではなく、続いていく。
俺は少し後ろに立って、それを見ていた。
今度は「観測者」として逃げているのではない。
誰かの線が届いた人間として、そこにいる。
**
スマホは震えない。
PCも光らない。
オボロも出ない。
でも、もうそれを不安に思わなかった。
なぜなら、目の前で初狩が描いているからだ。
鉛筆が紙の上を走る音。かすかな摩擦の連なり。途中で止まって、少し考えて、また動き出す。その繰り返し。
もう、差出人不明の指示は来ない。
それでも、届くものはある。
俺は手の中の紙を、折れないように持ち直した。
初狩の鉛筆が、また紙の上を走り始める。
夕方の商店街に、その小さな音だけが残っていた。
次話が最終回のエピローグとなります。