その日、日本列島を揺らすはずだった地震は、ついに来なかった。
2011年3月11日、14時46分。
東京のビル群は、いつも通りに窓ガラスを反射させていた。仙台駅のホームでは、到着を知らせるアナウンスが流れていた。三陸の港では、漁船が波に揺れ、春先の冷たい潮風に旗が鳴っていた。
誰も知らなかった。
歴史が、そこで別のものに折れ曲がったことを。
太平洋の水平線が、黒く染まった。
最初に異常を報告したのは、海上自衛隊の哨戒機だった。
房総沖、三陸沖、南西諸島近海、そしてグアムへ向かう航路上。複数の海域に、同時多発的に正体不明の艦影が出現した。
艦影、と呼ぶしかなかった。
それらは船であり、船ではなかった。
砲を持ち、魚雷を放ち、装甲を備え、海面を走る。だが、人が乗っている気配はなかった。人間の艦船と同じ理屈で造られているようでいて、どこか根本から違っていた。
報告書には、初期段階ではこう記された。
『所属不明武装艦艇群』
しかしその名は、すぐに捨てられた。
なぜなら、それらは艦艇であると同時に、化け物だったからだ。
海面から突き出した砲塔の下に、白い骨のような構造物があった。甲板に相当する場所には、濡れた髪のような黒いものが絡みついていた。艦首にあたる部分には、口のような裂け目があり、そこから青白い光が漏れていた。
通信は通じない。
警告は無視される。
接近した巡視船は、第一射で船体を真っ二つにされた。
人類は、その日初めて知った。
海は、自分たちのものではなかったのだと。
日本政府は緊急会見を開いた。各国海軍は出撃した。海上自衛隊も、米海軍も、韓国海軍も、中国海軍も、ロシア太平洋艦隊も、名前も国旗も違う艦艇たちが同じ敵を前にした。
そこまでは、人類の歴史にまだ似た場面があった。
違ったのは、その先だった。
深海より現れた艦影、のちに深海棲艦と呼ばれる存在は、通常兵器で損傷した。
対艦ミサイルも、砲弾も、魚雷も、爆弾も、命中すれば確かに効いた。
だが、当たらなかった。
艦船から放たれた弾は、深海棲艦の周囲で軌道を逸らした。ミサイルは最後の数百メートルで海面に突っ込んだ。魚雷は目標を失い、虚しく航走した。電子機器は正常と表示し、火器管制も故障していない。なのに、人間の艦から放たれた攻撃は、まるで世界そのものに拒まれるように、敵を捉えられなかった。
自衛隊の一等海佐が、呆然とつぶやいた記録が残っている。
「こちらは、向こうに見えている。だが、こちらの弾だけが、向こうを見失っている」
深海棲艦の砲撃は違った。
それはよく当たった。
残酷なほど、正確に。
海上自衛隊の護衛艦が沈んだ。
米海軍の駆逐艦が沈んだ。
民間タンカーが炎上した。
コンテナ船が、積み荷ごと海の底へ消えた。
世界の海運は、一週間で麻痺した。
中東からの原油が止まった。
東南アジアからの食料が届かなくなった。
工場は部品不足で止まり、港湾都市では物流が崩れた。
海はそこにあるのに、誰も使えない。地図上の青い部分が、そのまま黒い壁になった。
人類は、初めて地球の終わりを予見した。
それでも、終わらなかった。
日本で、少女たちが現れたからだ。
最初の記録は、横須賀の港だった。
炎上する護衛艦の残骸がまだ煙を上げる中、海面に立つ少女が目撃された。少女は学生服のような服を着て、背に艤装と呼ぶしかない兵装を背負い、砲を構えていた。周囲には小さな光の粒のようなものが飛び交い、彼女はそれらに何かを命じているようだった。
少女の放った砲弾は、深海棲艦に当たった。
当然のように。
それまで人類の艦船が何百発撃っても捉えられなかった敵が、少女の砲撃で吹き飛んだ。
記録映像を見た誰かが、叫んだ。
「艦だ」
別の誰かが、震える声で言った。
「いや、女の子だろ」
その二つを合わせたように、やがて彼女たちはこう呼ばれることになる。
艦娘。
そこからの日本は、混乱しながらも速かった。
自衛隊統合幕僚長、大貫悟空将は、艦娘たちとの協力を約束した。
正規の組織として艦娘本部を結成し、各地に鎮守府を設置した。
妖精さんが見える者、艦娘の声を聞ける者、あるいは艤装に干渉できる者が、自衛官、官僚、研究者、民間志願者の中から探し出された。
彼らは提督と呼ばれた。
肩書きは古めかしい。制度は継ぎ接ぎだらけ。誰も正解など知らない。
だが、それでも人類は、初めて深海棲艦と戦うための手を得た。
2011年3月11日14時46分。
地震は起きなかった。
代わりに、海から戦争が来た。
そして、十五年が過ぎた。
*
2026年4月。
浜松鎮守府の朝は、潮の匂いとジェット燃料の匂いが混ざっていた。
基地の上空を、訓練帰りの航空機が低くうなって通り過ぎる。遠くでは整備員たちの声が飛び交い、岸壁では艦娘たちが朝の点検をしていた。海は穏やかだったが、水平線の向こうが安全だと信じている者は、この時代にはもういない。
正門前に、一台の自衛隊車両が停まった。
後部座席から降りてきた少女は、まず大きく伸びをした。
「うわ。海だ」
第一声が、それだった。
少女の名は、各務原結有。
十八歳。
高校を卒業したばかり。
髪は短く、体格は細身だが、姿勢に妙な芯がある。制服は支給されたばかりで、まだ布が硬い。本人はきちんと着ているつもりらしいが、どうにも着こなしが少年じみていた。
肩に掛けた鞄の他には、妙に使い込まれた運動靴。
そして、手にはコンビニの袋。
中には、おにぎりが三つ入っている。
正門の警衛が、書類と彼女の顔を何度も見比べた。
「各務原、結有……さん?」
「はい。僕です」
「本日付で、浜松鎮守府配属。艦娘本部、提督候補生」
「はい。候補生です。まだ一応」
「一応、というのは」
「父が、現場に出たら肩書きは後から追いついてくるって言ってたので」
警衛の顔が、わずかに引きつった。
「お父様は」
「陸上自衛隊教導隊長、各務原裕二です。鬼の各務原って呼ばれてます。本人はちょっと気に入ってます」
「……ああ」
その「ああ」には、いくつもの意味が含まれていた。
納得。困惑。警戒。あと少しの同情。
各務原裕二。陸自の中でも、訓練で部下を泣かせ、敵役をやれば味方まで震え上がらせる男。鬼の各務原。
その娘が艦娘本部に入り、浜松鎮守府に来る。
噂は、本人より先に到着していた。
だが、結有についての噂は、それだけではなかった。
時雨の娘。
その言葉は、正門の空気をほんの少し硬くした。
ハワイ攻防戦。
一年前、太平洋方面の戦況を大きく左右した激戦。
その中で轟沈したとされる艦娘、時雨。
結有は、その時雨を母に持つ少女だった。
血縁という言葉が正しいのかどうか、艦娘と人間の関係を説明するにはいつも曖昧さが残る。だが少なくとも結有は、時雨を母と呼び、時雨は彼女を娘として育てた。
それだけは、疑いようがなかった。
警衛は敬礼した。
「ようこそ、浜松鎮守府へ」
結有も敬礼を返した。
形はきれいだった。
ただし、口元には少しだけ笑みがあった。
「よろしくお願いします。ところで、食堂ってどっちですか」
「着任手続きが先です」
「ですよね」
結有は少し残念そうに、おにぎりの袋を鞄へしまった。
その様子を、少し離れた庁舎の窓から見ている艦娘が二人いた。
一人は神通。
軽巡洋艦の艦娘。
静かな佇まいだが、その静けさは柔らかさだけでできてはいない。凛とした背筋、わずかな目線の動き、無駄のない所作。訓練場で彼女の指導を受けた者は、彼女の声が荒くなる前に自分の姿勢を正す。
もう一人は暁。
駆逐艦の艦娘。
胸を張り、いかにも大人びた顔をしようとしているが、窓枠から少し身を乗り出している時点で好奇心が隠しきれていない。
「あの子が、新しい司令官候補?」
暁が言った。
「そのようです」
神通は静かに答えた。
「なんだか、普通の子に見えるわ」
「普通の子は、着任初日に正門で食堂の場所を聞かないと思います」
「そ、それはそうだけど。お腹が空いていたのかもしれないじゃない。一人前のレディだって、お腹は空くもの」
「暁さんは朝食を二回食べましたね」
「確認しないで!」
暁は小さく咳払いをして、表情を整えた。
「でも、時雨さんの娘なんでしょう?」
その名を出した瞬間、神通の視線が少しだけ遠くなった。
「ええ」
「時雨さん、ハワイで……」
「その話は、本人の前では慎重に」
「わかってるわ。私だって、そこはちゃんとするもの」
暁は胸を張った。
神通は何も言わなかった。言わない優しさというものもある。
結有は庁舎へ案内され、着任手続きを受けた。
書類に署名し、規則の説明を受け、識別票を渡され、仮の執務室を示された。
どれも、彼女には少しだけ現実感が薄かった。
高校を卒業したのは、ほんの少し前だ。
制服の襟元には、まだ学生だった頃の感覚が残っている。教室の窓、卒業式の拍手、友人たちの「本当に行くの?」という声。
本当に行くの?
行くよ、と答えた。
だって適性が出た。
霊子値が、異様と言われるほど高かった。
妖精さんが見えた。
艤装に触れると、手のひらの奥が熱くなった。
なら、行くしかない。
母が戦った海へ。
ただし、結有は自分が母の後を追っているつもりはなかった。
母のようになりたい、と思ったことはある。
でも、母の代わりになるつもりはない。
時雨は時雨で、各務原結有は各務原結有だ。
その区別を、周囲の大人たちはあまりしてくれない。
「各務原候補生」
説明担当の士官が、書類を閉じた。
「本日より、あなたには浜松鎮守府所属の提督候補生として、基礎勤務および艦娘部隊の補佐を行ってもらいます。直属として、軽巡神通、駆逐艦暁がつきます」
「はい」
「あなたの適性値は極めて高い。特に霊子反応は、本部でも注目されています」
「高いと、徒手空拳で深海棲艦を殴りやすいんですよね」
士官の手が止まった。
「……その認識は、かなり限定的です」
「父と師匠がそう言ってました」
「お父様は陸自の方でしたね。師匠というのは?」
「梶本真太さんです」
士官が、眼鏡の奥で目を細めた。
「元プロレスラーの?」
「はい。橋本真也さんみたいな人です。蹴りがすごいです。あと、理不尽です」
「なぜ提督候補生が、プロレスラー直伝の格闘術を」
「深海棲艦が上陸した時、殴れるように」
「……」
部屋の空気が、また一段階固くなった。
士官は咳払いをした。
「各務原候補生。確認しますが、あなたは過去に、上陸した軽巡イ級と接触したことがある」
「はい」
「その際、あなたは単独でこれを無力化した」
「無力化というか、倒しました」
「その後」
「刺身にしました」
沈黙。
結有は悪びれずに言った。
「鮮度がよかったので」
「深海棲艦です」
「でも魚っぽかったので」
「深海棲艦です」
「味は、意外と淡白でした」
士官は額に手を当てた。
記録には残っている。
軽巡イ級上陸事件。高校卒業前の適性検査後、偶発的に避難区域近くへ現れた深海棲艦個体を、当時まだ民間人だった各務原結有が徒手空拳で撃破。撃破後、なぜか刃物を借りて解体し、一部を刺身として食した。
記録した者は、最後にこう書いている。
『本人に悪意なし。危険性極大』
士官は深く息を吐いた。
「今後、深海棲艦を食用にしないでください」
「命令ですか」
「命令です」
「了解しました」
結有は真面目に敬礼した。
真面目だから厄介だった。
*
午前の手続きが終わる頃、結有は神通と暁に引き合わされた。
訓練場へ向かう通路で、神通は丁寧に一礼した。
「軽巡、神通です。しばらくの間、各務原候補生の補佐を務めます」
「各務原結有です。よろしくお願いします。神通さん」
「こちらこそ」
神通の声は穏やかだった。
だが、結有は何となく感じた。
この人は、怒らせたら怖い。
父と同じ種類ではない。父は大きな声で怖い。
神通は静かに怖い。
たぶん、静かな方が逃げ場がない。
続いて、暁が一歩前に出た。
「駆逐艦、暁よ。一人前のレディとして、司令官候補のあなたをしっかり支えてあげるわ」
「よろしく、暁」
「呼び捨て?」
「あ、ごめん。暁さん?」
「……暁でいいわ。特別よ」
「ありがとう。僕のことも結有でいいよ」
「司令官候補を名前で呼ぶのは、どうなのかしら」
暁は悩んだ。
神通が横から言った。
「勤務中は各務原候補生、私的な場では結有さんでよいのでは」
「そ、そうね。それが大人の対応だわ」
暁はうなずいた。
「それで、結有さん」
「はい」
「あなた、本当に深海棲艦を食べたの?」
神通が目を閉じた。
「暁さん」
「だって気になるじゃない!」
結有は少し考えてから答えた。
「軽巡イ級は、白身魚っぽかった」
「答えなくていいです」
神通の声が、少しだけ鋭かった。
暁は顔を青くした。
「し、白身魚……」
「でも、もう食べません。命令されたので」
「命令される前にやめるべきではないかしら」
「それはそう」
結有は素直にうなずいた。
暁は、何と言っていいのかわからない顔をした。
そのまま三人は訓練場へ向かった。
浜松鎮守府の訓練海域は、基地の南側に広がる遠州灘の一部を使っている。もちろん実戦海域ほど危険ではない。結界装置と哨戒網で守られ、万が一のための救助部隊も待機している。
それでも、海は海だった。
結有は岸壁に立ち、目を細めた。
潮風が頬に当たる。
波の音がする。
遠くに、訓練用の標的が浮かんでいた。
「本日は、見学と基礎適性の確認のみです」
神通が言った。
「艤装との同調検査、妖精さんとの意思疎通、簡単な指揮訓練。実戦行動はありません」
「はい」
結有はうなずいた。
「ちなみに、あそこにあるモーターボートは?」
「救助用です」
「速そうですね」
「救助用です」
「標的まで行けそうですね」
「救助用です」
神通の返答は早かった。
暁が不安そうに結有を見た。
「まさかと思うけど、乗る気じゃないわよね?」
「乗りません」
「本当に?」
「今は」
「今はって言った!」
神通は静かに結有を見た。
「各務原候補生」
「はい」
「あなたが高い霊子値を持ち、通常の人間より深海棲艦へ干渉できることは承知しています。しかし、提督の任務は艦娘を指揮し、部隊を生還させることです。自ら敵へ突撃することではありません」
「はい」
「理解していますか」
「理解しています」
「では、なぜ目が標的を見ていますか」
「距離感を測っていました」
「何の」
「飛び蹴りの」
暁が悲鳴を上げた。
「やっぱり!」
神通は黙った。
怒鳴らない。
ただ、沈黙した。
結有は本能的に背筋を伸ばした。
「冗談です」
「本当に?」
「半分」
「半分」
神通の声は変わらない。
変わらないのに、訓練場の温度が二度ほど下がった気がした。
その時だった。
海上の標的付近で、警報が鳴った。
短く、鋭い音。
訓練場の空気が一変する。整備員が走り、管制塔から通信が飛ぶ。神通の表情が、穏やかなものから戦う者の顔へ変わった。
『訓練海域外縁に霊子反応。小型深海棲艦、単独。結界外より接近中』
暁が艤装を展開した。
「実戦?」
「まだ接触前です」
神通も艤装を展開する。
その動きには迷いがなかった。
結有の胸の奥が、熱くなった。
霊子が反応している。
海の向こうから来るものに、体の奥が気づいている。
それは恐怖に似ていた。
同時に、どうしようもなく前へ出たい感覚でもあった。
神通が振り向く。
「各務原候補生は退避を」
「僕も行けます」
「退避を」
「でも」
「退避を」
三度目は、命令だった。
結有は歯を噛んだ。
わかっている。自分はまだ候補生だ。正式な提督ですらない。直属の神通がそう言うなら、従うべきだ。
そう、従うべきだ。
その時、結有の視界の端に、救助用モーターボートが入った。
エンジンは暖機中。
係留ロープは一本。
操縦席には誰もいない。
結有は思った。
父なら怒る。
神通さんも怒る。
暁はたぶん泣く。
母なら。
母なら、どうしただろう。
わからない。
だから、結有は自分で決めた。
「ごめんなさい」
そう言って、走った。
「各務原候補生!」
神通の声が飛んだ。
暁が叫ぶ。
「ちょっと、どこ行くの!」
「ボート!」
「なんで!」
「速いから!」
「理由になってない!」
結有は岸壁を駆け、係留ロープを外し、モーターボートに飛び乗った。操縦方法は、以前父の知り合いに教わった。正規の訓練ではない。もちろん褒められたものではない。
だが、動かせる。
エンジンが吠えた。
ボートが白い波を立てて飛び出す。
神通が一瞬だけ判断に迷い、それから叫んだ。
「暁さん、追います!」
「もう! 新人司令官候補って、もっと書類仕事から始まるものじゃないの!?」
暁も海面へ出る。
結有はボートのハンドルを握りながら、前方を見た。
訓練海域の外縁。海面が黒く盛り上がる。
小型の深海棲艦。駆逐級に近い。
大きさは人間よりはるかに大きいが、艦娘なら対応可能な範囲。
問題は、結有が人間だということだった。
普通なら。
深海棲艦がこちらを向いた。
青白い光が砲口に灯る。
結有はアクセルを開いた。
砲撃。
水柱が上がる。
ボートが跳ねる。
暁の悲鳴が後ろから聞こえた気がした。
結有は笑っていた。
怖い。
怖いに決まっている。
でも、それ以上に体が動く。
霊子が足に集まる。
梶本真太直伝。踏み込み、腰、膝、体重、全部乗せる。相手がリングの上だろうが、上陸した深海棲艦だろうが、やることは同じ。
前へ出る。
叩き込む。
ボートが深海棲艦の側面に迫った。
結有はハンドルから手を離し、船縁に足を掛けた。
神通が叫んだ。
「やめなさい!」
暁が叫んだ。
「やっぱり飛ぶ気じゃない!」
結有は跳んだ。
海風が耳元で裂ける。
視界いっぱいに、深海棲艦の白い装甲と黒い裂け目が広がる。
砲口がこちらを向く。
遅い。
「だああああッ!」
結有の飛び蹴りが、深海棲艦の顔面に突き刺さった。
音は、金属を蹴った音ではなかった。
もっと鈍く、重く、何か硬い殻の内側に衝撃が抜ける音。
深海棲艦が大きくのけぞった。
結有の足に、熱が走る。
霊子が爆ぜた。
次の瞬間、神通の砲撃が正確に敵の胴を撃ち抜いた。
暁の魚雷が続き、深海棲艦は海面で黒い泡を噴きながら崩れた。
結有は当然、空中に残れない。
「あ」
落ちた。
盛大に海へ。
冷たい。
重い。
制服が水を吸う。
海面へ顔を出すと、すぐそばに暁が来ていた。
「ばっ、ばっ、ばっかじゃないの!? ほんっとうに馬鹿じゃないの!?」
「効いたよ」
「効いたとかじゃないの!」
暁は涙目だった。
怒っているというより、本気で肝を冷やした顔だった。
神通が近づいてくる。
その表情は、静かだった。
静かすぎた。
結有は海に浮かびながら、思った。
これは、まずい。
神通は結有の襟首をつかみ、救助用ボートへ引き上げた。
動作は丁寧だった。とても丁寧だった。
だから怖かった。
「各務原候補生」
「はい」
「帰投後、反省文です」
「はい」
「十枚」
「多い」
「二十枚」
「はい」
暁が横で腕を組んだ。
「当然よ。あと、私にも謝るべきだわ。心配したんだから」
「ごめん、暁」
「……わかればいいのよ」
暁は少しだけ顔を赤くした。
訓練場へ戻る途中、結有はびしょ濡れのまま海を見た。
倒した深海棲艦の残骸は、黒い泡となって消えていく。
その向こう。
さらに遠い海面に、一瞬、白いものが見えた気がした。
髪。
人影。
幼い少女のような影が、波間に立っていた。
結有は目を凝らした。
白髪。
黒い目。
青白い肌。
その少女は、深海棲艦のようであり、艦娘のようでもあった。
ほんの一瞬、結有と目が合った。
少女は表情を変えなかった。
笑わない。
怯えない。
ただ、見ていた。
次の波が来た時、彼女の姿は消えていた。
「……今の」
結有がつぶやく。
神通が振り向いた。
「どうしました」
「人がいた」
「この海域に?」
「白い髪の、子供みたいな」
神通の表情が変わった。
暁も周囲を見回す。
「え、誰もいないわよ?」
結有は、波間を見つめ続けた。
胸の奥が、まだ熱い。
さっきの戦闘の興奮とは違う。
もっと深く、静かで、懐かしいような熱。
母の記憶に触れた時に似ている。
けれど、それだけではない。
海の底から、誰かが呼んでいるような気がした。
神通は管制塔へ通信を入れた。
「訓練海域に未確認人影の可能性。霊子反応を再走査してください」
返答までの数秒が長かった。
『こちら管制。微弱反応あり。ただし分類不能。艦娘反応、深海反応、どちらにも一致しません』
暁が不安そうに言った。
「どちらにも一致しないって、何?」
神通は答えなかった。
結有は、濡れた前髪をかき上げた。
遠州灘の海は、さっきまでと同じように穏やかだった。
だが、もう同じには見えなかった。
その海のどこかに、白髪の少女がいる。
深海棲艦かもしれない。
艦娘かもしれない。
どちらでもない、何かかもしれない。
結有はなぜか、彼女を敵だとは思えなかった。
そして、その直感が正しいのか間違っているのかを知るには、まだ少し時間が必要だった。
帰投後、結有は本当に反省文を二十枚書かされた。
題名は、神通が指定した。
『提督候補生が救助用モーターボートから飛び蹴りを行ってはならない理由』
暁は横で監視役を務めながら、途中で眠くなって船をこぎ、神通に静かに毛布を掛けられた。
結有はペンを握り、十八枚目で手を止めた。
窓の外には、夜の海があった。
暗い海。
十五年前、人類から航路を奪った海。
一年前、母が消えた海。
今日、白い少女が現れた海。
結有は小さく息を吐いた。
「母さん」
返事はない。
返事の代わりに、遠くで波が鳴った。
その音に混じって、誰かの声がしたような気がした。
あと任せた。
それが母の声だったのか、海の声だったのか、あるいはまだ名も知らない白い少女の声だったのか。
結有には、わからなかった。
ただ一つだけ、確かなことがあった。
浜松鎮守府での初日は、最悪の評価から始まった。
そしてたぶん。
ここから、何かが始まる。