神通は、各務原結有の背中を見るたびに、時雨を思い出すことがある。
顔が似ている、というほどではない。
結有の髪は短く、立ち方も歩き方も少年じみている。すぐ前に出る。すぐ拳を握る。海を見れば距離を測り、深海棲艦を見れば殴れるかどうかを考える。
時雨は、もっと静かだった。
微笑む時も、怒る時も、どこか雨の気配をまとっていた。
戦場でも声を荒げることは少なく、淡々と敵を見て、淡々と味方を守った。
けれど。
霊子が高まりすぎた時の、あの気配だけは似ていた。
人間でも、艦娘でもない何かが、体の奥から光を漏らすような感覚。
結有が海へ出ようとする時。
足元に霊子が集まり、空気が一瞬だけ震える時。
神通は、時雨を思い出す。
一年前のハワイ攻防戦。
そして、あの最後を。
*
ハワイ沖の海は燃えていた。
空は黒煙で汚れ、海面には油と破片が浮かんでいた。
深海棲艦の主力が押し寄せ、艦娘部隊は何度も防衛線を組み替えながら後退していた。
神通はその日、時雨と同じ戦域にいた。
時雨の霊子値が高いことは、以前から知られていた。
高すぎる、と言ってもよかった。
通常の艦娘なら艤装のリミッタが出力を制御する。
無理な加速、無理な砲撃、無理な霊子放出を抑え、艦娘自身と妖精さんを守るための仕組み。
けれど時雨は、そのリミッタに触れるたび、艤装の方が悲鳴を上げるような艦娘だった。
優しい子だった。
穏やかな子だった。
でも、その内側にある霊子の量は、あまりにも静かで、あまりにも巨大だった。
ハワイ攻防戦の終盤、深海中枢級が姿を現した。
艦隊は崩れかけていた。
補給は薄く、損傷艦も多い。
撤退路には輸送船団と救助艇がいた。
誰かが止めなければならなかった。
時雨は、そこで前に出た。
『神通さん』
通信越しの声は、いつもと変わらなかった。
『少しだけ、時間を稼ぐよ』
神通はすぐに気づいた。
少しだけ。
時雨がそう言う時は、少しでは済まない。
『時雨さん、待ってください。出力が上がりすぎています』
『大丈夫』
『大丈夫ではありません。リミッタが持ちません』
『うん。たぶん、持たない』
時雨は、そう言った。
静かに。
神通は海面を蹴った。
時雨の方へ向かおうとした。
だが、間に合わなかった。
時雨の艤装が光った。
最初は、青白い光だった。
次に、白へ変わった。
それから、色を失った。
霊子が高まりすぎて、周囲の海面が押し潰されるように沈んだ。
妖精さんたちの声が通信に混じる。
艤装のリミッタが、一つ、また一つと吹き飛ぶ。
時雨の背負った艤装は、本来なら制御されるはずの出力を、受け止めきれなくなっていた。
積載されていた圧縮燃料。
弾薬。
魚雷。
損傷した艤装内部に残った霊子反応材。
それらすべてが、時雨の霊子に巻き込まれていく。
『時雨さん!』
神通は叫んだ。
時雨は振り向いた。
遠かった。
なのに、神通にはその顔が見えた気がした。
時雨は、笑っていた。
『あと任せた』
それが、最後だった。
時雨は深海中枢級へ突っ込んだ。
特攻。
そう呼ぶしかない。
だが、それは命令ではなかった。
誰かに強いられたものでもなかった。
時雨が、自分で選んだ。
味方を逃がすために。
輸送船団を守るために。
これ以上、誰かが沈まないように。
光が爆ぜた。
海が白くなった。
音が消えた。
次の瞬間、遅れて衝撃が来た。
神通の艤装が軋み、海面が大きく割れた。
深海中枢級の一部が吹き飛び、周囲の深海棲艦もまとめて消し飛んだ。
時雨の姿は、もうなかった。
艤装も。
髪も。
声も。
ただ、霊子の残響だけが、海に漂っていた。
神通は至近距離で、それを見た。
見てしまった。
だから、公式記録に「轟沈」と書かれた時、神通は何も言えなかった。
確かに、時雨は沈んだ。
帰ってこなかった。
けれど、あれは沈没ではない。
霊子が高すぎた艦娘が、艤装の限界を突き破り、圧縮された燃料と弾薬もろとも、自分を光に変えた。
木っ端微塵。
その言葉はあまりにも乱暴で、あまりにも正確だった。
*
浜松鎮守府の訓練場で、結有が走っていた。
砂浜を蹴り、標的へ向かう。
神通は腕を組み、その動きを見ている。
結有の足元に、霊子が集まる。
高い。
高すぎる。
人間の身でありながら、深海棲艦に素手で打撃を通すだけの霊子。
艤装に触れれば、妖精さんたちが騒ぎ出すほどの適性。
そして、怒りや恐怖で一気に出力が跳ねる危うさ。
時雨に似ていた。
神通は、無意識に声を強めた。
「各務原提督。そこで止まってください」
結有は急停止した。
少し砂を巻き上げ、振り返る。
「はい。出力、上げすぎました?」
「はい」
結有は自分の足元を見た。
「自覚あります」
「ならば、止めてください」
「すみません」
結有は素直に頭を下げた。
その素直さも、時雨に少し似ていた。
神通は胸の奥が痛むのを感じた。
結有は時雨ではない。
わかっている。
時雨の代わりでもない。
時雨の続きを背負わせてよい子でもない。
それでも神通は、時々、見てしまう。
この子も、いつか同じ光になってしまうのではないか。
高すぎる霊子。
前に出る性格。
誰かを守るためなら、自分を勘定に入れない危うさ。
神通は、もう一度あの白い海を見るのが怖かった。
「神通さん?」
結有が不思議そうに呼ぶ。
神通は少しだけ息を整えた。
「各務原提督」
「はい」
「あなたは、時雨さんではありません」
結有の表情が変わった。
神通は続けた。
「時雨さんと同じことをしなくていい。同じ場所へ行かなくていい。同じ終わり方を選ばなくていい」
結有は黙って聞いていた。
遠くで、アイがこちらを見ている。
白い髪が風に揺れていた。
「私は」
神通は、少しだけ言葉に詰まった。
「私は、時雨さんを止められませんでした」
結有の目が揺れた。
「神通さんが、見てたんですか」
「はい」
「母さんの最後を」
「至近距離で」
結有は拳を握った。
怒りではない。
たぶん、痛みだった。
「母さんは、沈んだんじゃないんですね」
神通は答えなかった。
答えないことが、答えだった。
結有は空を見上げた。
「そっか」
声は小さかった。
「爆発したんだ」
「……はい」
「母さんらしい、って言ったら怒られますか」
「少し」
「じゃあ、言わないでおきます」
結有は苦笑した。
でも、その目は笑っていなかった。
神通は静かに言った。
「あなたには、生きて帰ってほしい」
「はい」
「前に出るな、とは言いません。言っても無駄でしょうから」
「そこは、まあ」
「ですが、出力を上げすぎないこと。艤装のリミッタを信用しすぎないこと。自分の霊子なら何とかなると思わないこと」
「はい」
「そして、誰かを守るために自分を爆弾にしないこと」
結有は神通を見た。
その目に、時雨はいなかった。
各務原結有がいた。
「約束します」
神通は、少しだけ目を細めた。
「約束は、守るためにあります」
「守ります。たぶん」
「たぶん?」
「絶対って言うと、嘘になりそうだから。でも、守る努力はします。母さんみたいに消えるためじゃなくて、アイや暁や神通さんと帰るために前に出ます」
神通は黙っていた。
その言葉を、信じたいと思った。
信じるだけでは足りない。
だから訓練する。
止める。
叱る。
必要なら、力ずくでも引き戻す。
それが、今の自分にできることだった。
アイが近づいてきた。
「結有」
「何?」
「泣く?」
「泣いてない」
「嘘」
「ちょっとだけ」
アイは無言で結有の袖をつまんだ。
神通はその様子を見て、ほんの少しだけ安心した。
時雨の最後には、誰も届かなかった。
でも結有の隣には、アイがいる。
暁がいる。
浜松鎮守府がある。
そして神通自身も、今度こそ見ているだけでは終わらない。
「訓練を再開します」
神通は言った。
「ただし、霊子出力は先ほどの七割まで」
「八割は?」
「七割です」
「七・五」
「七割です」
「はい」
アイが結有を見る。
「脳筋、値切った」
「交渉だよ」
「失敗」
「うん」
神通は二人を見て、静かに息を吐いた。
遠くの海は、今日も青い。
その青の奥に、白く爆ぜた記憶が沈んでいる。
神通は、それを忘れない。
忘れないまま、結有を見る。
時雨ではなく。
時雨の娘でもなく。
各務原結有という、危なっかしい提督を。
今度こそ、帰すために。