浜松鎮守府の朝は、珍しく静かだった。
珍しく、というのは重要である。
普段なら、暁が「一人前のレディ」として誰かを指導している。
アイがそれを「赤いレディ、うるさい」と受け流している。
結有が救助用モーターボートの方を見て、神通に静かに止められている。
明石が工廠から何かを爆発寸前にしている。
だが、その朝は違った。
空気が重かった。
管制室に集まった全員が、海図を見ていた。
遠州灘の沖合。
そこに、深海反応が複数。
いや、複数という言葉では足りない。
群れだった。
艦隊だった。
黒い潮のように、深海棲艦が浜松へ向かっていた。
「深海反応、さらに増加。駆逐級、軽巡級、重巡級。後方に戦艦級と思われる反応あり」
管制員の声が硬い。
結有は海図を見つめていた。
正式任官したばかりの提督。
ただし条件付き。
単独作戦権限は保留。
神通の監督下。
そんな肩書きが、この状況で何の慰めにもならないことを、結有はもう理解していた。
「浜松狙いですか」
結有が聞く。
神通は静かに答えた。
「はい。進路から見て、浜松鎮守府および周辺海域の制圧が目的と考えられます」
「理由は」
「アイさんでしょう」
その名が出た瞬間、空気がさらに重くなった。
アイは結有の隣に立っていた。
白髪。
黒い目。
無表情。
だが、結有にはわかる。
アイは、海の声を聞いている。
「呼んでる?」
結有が小声で聞いた。
アイは少しだけうなずく。
「戻れって」
「戻る?」
「戻らない」
即答だった。
結有は少しだけ息を吐いた。
「そっか」
「でも、怒ってる」
「誰が」
「海の奥」
アイの黒い目が、海図の外を見ていた。
「私がここにいるから」
暁が拳を握った。
「勝手なこと言わないでほしいわね。アイは今、浜松鎮守府にいるんだから」
アイが暁を見る。
「赤いレディ」
「暁よ」
「少し、かっこいい」
「そ、そう? 当然よ。一人前のレディだもの」
結有は口元を緩めかけたが、すぐに引き締めた。
笑っていられる数ではない。
神通が指示を出す。
「第一防衛線を三河湾側に展開。第二防衛線を浜松沖。市街地方面への誘導は絶対に避けます。暁さんは避難船団の護衛。夕立さん、最上さんは迎撃右翼。扶桑さん、山城さんは後方火力支援」
「了解!」
「了解っぽい!」
「任せて」
「姉様、参りましょう」
結有は神通を見た。
「僕は」
「各務原提督は、私とともに中央指揮です」
「前線には」
「必要なら出ます」
「必要なら」
「勝手には出ないでください」
「はい」
アイが言う。
「私は」
神通はアイを見た。
「あなたは、各務原提督の近くに。敵があなたを狙う可能性が高い」
「私がいると、敵が来る」
「はい」
「なら、離れた方がいい?」
結有が即座に言った。
「だめ」
アイが結有を見る。
「即答」
「離れたら、もっと危ない気がする」
「勘?」
「うん」
「脳筋」
「今日は勘も大事」
神通は二人の会話を聞きながら、少しだけ目を伏せた。
その時、通信士が声を上げた。
「外部より高速接近反応! 味方識別あり! 富士田子の浦鎮守府です!」
管制室がざわついた。
結有が顔を上げる。
「富士田子の浦?」
神通の表情が、ほんのわずかに変わった。
驚き。
そして、少しの緊張。
通信が開く。
『こちら富士田子の浦鎮守府。浜松鎮守府、聞こえますかあ?』
柔らかい声だった。
場違いなくらい、穏やかで、甘い。
春の午後にお茶を淹れてくれそうな声。
『高梨湊です。増援に来ましたあ』
結有は一瞬、目を瞬いた。
「ゆるい」
アイが言った。
「ゆるふわ」
暁もつぶやく。
神通が、珍しく背筋を正した。
「高梨提督……」
結有は神通を見た。
「知り合いですか」
「元僚友です」
「神通さんが、ちょっと緊張してる」
「していません」
「しています」
「していません」
その声はいつも通りだったが、結有にはわかった。
神通は、明らかに頭が上がらない相手を迎える顔をしている。
通信の向こうで、高梨湊がのんびり言う。
『神通ちゃん、久しぶりですねえ。元気にしてました?』
神通の眉が一瞬だけ動いた。
「神通です。ちゃん付けはお控えください」
『昔は神通ちゃんだったじゃないですかあ』
「任務中です」
『はいはい、任務中ですねえ』
最上が通信外で小さく吹き出した。
夕立が「神通ちゃん」と口の形だけで言い、神通に見られて背筋を伸ばした。
通信士が続ける。
「増援艦隊、目視距離に入ります!」
管制室の大型モニターに、富士田子の浦鎮守府の艦隊が映った。
先頭に立つのは、大和。
圧倒的な存在感。
海面を進むだけで、周囲の空気が変わる。
艤装の砲塔は巨大で、穏やかな表情の奥に、戦艦としての重みがある。
その左右に、川内と那珂。
川内は夜戦の気配をまとい、楽しそうに笑っている。
那珂は明るく手を振りながらも、艤装の点検を怠っていない。
そして、指揮艇に乗っている女性がいた。
高梨湊。
柔らかく巻いた髪。
穏やかな目。
可愛らしい雰囲気の、ゆるふわなお姉さん。
だが、神通が無言で姿勢を正している時点で、ただのゆるふわではない。
結有は察した。
あれは、怖い人だ。
*
高梨湊は、浜松鎮守府に入るなり、結有を見つけてにこりと笑った。
「あなたが各務原結有ちゃんですねえ」
「はい。浜松鎮守府所属、各務原結有提督です」
「うふふ、時雨ちゃんの娘さん。お話は聞いていますよお」
結有は少しだけ表情を引き締めた。
時雨の名を出されることには慣れている。
でも、高梨の声には妙な重さがなかった。
懐かしさと、優しさ。
それだけだった。
「母と、お知り合いでしたか」
「はい。ハワイの前にも、何度か一緒にお仕事しました。とても優しい子でしたねえ」
「はい」
「でも、怒ると結構頑固でした」
結有は少し笑った。
「それは、父も言ってました」
「裕二さんもお元気?」
「元気です。相変わらずです」
「それは困りましたねえ」
高梨はにこにこしている。
神通が横から言った。
「高梨提督。現状確認を」
「はい、神通ちゃん」
「神通です」
「はい、神通」
結有は神通の表情を見た。
微妙に困っている。
貴重だった。
アイが小声で言う。
「神通が弱い」
「僕も初めて見た」
「記録する?」
「やめとこう。怒られる」
高梨はアイを見た。
その目が、ほんの少しだけ細くなった。
「あなたがアイちゃんですねえ」
アイは無表情で見返した。
「ちゃん?」
「嫌でした?」
「慣れてない」
「じゃあ、アイさん」
「それならいい」
高梨は微笑んだ。
「あなた、ずいぶん遠くから呼ばれていますね」
結有の表情が変わる。
「わかるんですか」
「少しだけ。私も妖精さんや霊子の流れを見るのは得意なので」
高梨は穏やかに言った。
「今日の敵は、ただの侵攻ではありません。アイさんを回収するつもりです。そして、浜松の防衛線を壊して、東海道側のシーレーン再建計画を潰すつもりでしょう」
口調は柔らかい。
だが、内容は鋭い。
神通がうなずく。
「こちらの分析と一致します」
「なら、やることは簡単ですねえ」
高梨はにこりと笑った。
「浜松を守って、アイさんを渡さず、敵を海へ返します」
結有は、その笑顔に少し寒気を覚えた。
可愛い。
穏やか。
ゆるふわ。
なのに、言っていることは完全に戦場の人間だった。
大和が一歩前に出て、結有に一礼した。
「大和です。浜松鎮守府の皆さん、支援に参りました」
「ありがとうございます」
結有も敬礼する。
川内は神通の肩を軽く叩いた。
「久しぶり、神通。相変わらず真面目そうだね」
「川内姉さんこそ、相変わらず夜戦のことばかりでは」
「昼でも夜戦の準備はできるよ?」
「意味がわかりません」
那珂が明るく割り込む。
「那珂ちゃんも来たよー! 浜松のみんな、安心してね!」
暁がぱっと顔を上げた。
「アイドル艦娘!」
「そう、艦隊のアイドル、那珂ちゃんです!」
アイが那珂を見た。
「うるさい」
「初対面で辛辣!」
那珂は胸を押さえた。
結有は少しだけ笑った。
笑える空気がある。
それだけで、増援の価値は大きかった。
だが、警報がそれを引き裂いた。
『深海主力、第一防衛線到達まで二十分!』
管制室の空気が戦闘へ切り替わる。
高梨の目が変わった。
穏やかな笑みは残っている。
だが、温度が消えた。
「神通」
「はい」
「浜松の指揮はあなたと結有ちゃん。私は富士田子の浦部隊を連れて左翼を受けます。大和さんは中央後方から長距離砲撃。川内さんは敵の回り込みを潰して。那珂ちゃんは通信と士気維持、あと遊撃」
「了解」
「はーい!」
「夜戦じゃないけど、まあいいか」
高梨は結有を見る。
「結有ちゃん」
「はい」
「アイさんを守ろうとして、単独で飛び出さないこと」
結有は一瞬固まった。
「聞いてます?」
「聞いていますよお。神通ちゃんから」
「神通さん」
「必要な情報共有です」
神通は視線を逸らさない。
高梨はにこにこしながら続けた。
「あなたの霊子は高い。高すぎる。前に出れば戦力になります。でも、あなたが崩れるとアイさんも崩れます。アイさんが崩れると、今日の戦線は一気に危なくなります」
柔らかい声。
だが、逃げ場がなかった。
「だから、あなたの仕事は殴ることだけではありません」
「はい」
「アイさんの帰る場所でいることです」
結有はアイを見た。
アイも結有を見ていた。
「帰る場所」
アイが小さく言う。
高梨はうなずいた。
「そう。戦場で一番大事なものです」
その時、海の向こうで黒い水柱が上がった。
深海棲艦の先遣隊が見え始めたのだ。
大和が艤装を展開する。
空気が震えた。
「大和、出ます」
その声に、浜松の艦娘たちが一斉に動く。
結有の胸の奥が熱くなる。
戦いが始まる。
アイが隣に立った。
「結有」
「何?」
「飛ぶ?」
「今日はまだ飛ばない」
「まだ」
「必要なら」
「高梨に怒られる」
「神通さんより怖い?」
アイは高梨を見た。
高梨は遠くでにこにこしながら、富士田子の浦部隊へ指示を出していた。
「怖い」
アイは即答した。
結有も同意した。
「だよね」
*
浜松沖で、砲撃戦が始まった。
第一射は大和だった。
遠距離から放たれた主砲弾が、深海棲艦の先頭集団に着弾する。
海面が盛り上がり、駆逐級と軽巡級がまとめて吹き飛ぶ。
火力が違った。
ただ強いのではない。
戦線そのものを作り替える力。
浜松の艦娘たちの動きが変わる。
押されていた海域に余裕が生まれ、神通がその隙を逃さず指示を飛ばす。
「夕立さん、右前方の穴を塞いでください。最上さん、敵重巡級を牽制。暁さんは避難船団から離れすぎないように」
『了解っぽい!』
『任せて』
『わかってるわ!』
結有は管制席の横で海図を見る。
正式な提督として、初めての大規模防衛戦。
怖い。
そう思った。
敵の数が多い。
味方の位置を全部追うのが難しい。
誰かが一つ間違えれば、そこから崩れる。
前に出て殴る方が、ずっと簡単だった。
だからこそ、今は前に出ない。
「左翼、敵が厚いです」
結有が言う。
神通が即座に確認する。
「高梨提督」
『見えていますよお』
通信の向こうの高梨は、相変わらず柔らかい。
『川内さん、左の突き出しを切って。那珂ちゃん、浜松側に敵の位置情報を流して。大和さん、次弾は少し奥へ』
『了解。夜戦じゃないけど、斬り込みは好きだよ』
『那珂ちゃんにお任せー!』
『大和、撃ちます』
高梨の指揮は滑らかだった。
穏やかで、急がない。
しかし、一手が早い。
神通とは違う怖さがある。
神通は刃のように正確。
高梨は綿のように柔らかく包み、気づけば相手の首に縄がかかっている。
結有は思わず言った。
「高梨さん、すごいですね」
神通は短く答えた。
「はい」
「神通さんが頭上がらない理由、少しわかりました」
「余計なことを考えず、海図を見てください」
「はい」
アイが結有の隣で、急に顔を上げた。
「来る」
「どこ」
「下」
結有は管制員へ叫んだ。
「海中反応!」
直後、第二防衛線の内側に黒い影が浮かび上がった。
潜伏していた深海棲艦。
浜松の防衛線を抜け、直接アイを狙うつもりだ。
警報が鳴る。
『内側に敵! 軽巡級二、駆逐級四!』
結有の体が動きかけた。
神通が言う。
「各務原提督」
「はい」
「出ます」
結有は一瞬、神通を見た。
「僕も」
「私と一緒に」
神通はそう言った。
勝手に出るな、ではない。
一緒に。
結有はうなずいた。
「はい!」
アイが隣に立つ。
「私も」
「当然」
結有は言った。
「隣だろ」
アイは少しだけ目を細めた。
「うん」
神通が二人を見た。
「では、行きます。高梨提督、内側の迎撃に入ります」
『はい。神通ちゃん、結有ちゃん、アイさん』
高梨の声が、少しだけ低くなった。
『絶対に帰ってきなさい』
神通の背筋が伸びる。
「了解」
結有も言った。
「了解!」
アイは少し遅れて言う。
「帰る」
浜松鎮守府の岸壁から、三人が出た。
神通は海面へ。
アイはその横へ。
結有は小型高速艇へ乗り込む。
暁の通信が飛ぶ。
『結有さん! ボート!』
「許可済み!」
『今回は許可済みなの!?』
神通が静かに言った。
『私が許可しました』
『神通さんが!?』
暁の声が裏返った。
結有はハンドルを握った。
目の前には、内側へ侵入した深海棲艦。
浜松大侵攻。
その本当の狙いは、ここからだった。
アイを奪いに来た敵。
それを守る浜松。
富士田子の浦から来た大和、川内、那珂。
そして、ゆるふわの顔をした、神通が頭の上がらない天才提督、高梨湊。
戦場の海が、黒く燃え始めていた。
結有はアクセルを開いた。
「行くよ、アイ!」
「うん」
「神通さん!」
「合わせます」
三人は、浜松の内側へ食い込んだ敵へ向かって突っ込んだ。
遠くで、大和の砲声が響く。
高梨湊の声が通信に流れる。
『浜松鎮守府、富士田子の浦鎮守府、共同防衛戦を開始します』
その声は、やはり穏やかだった。
けれど、次の一言だけは違った。
『うちの子たちに手を出すなら、海ごと叱りますよ』
神通が小さく息を呑んだ。
結有は思った。
やっぱり、この人は怖い。
そして、とても頼もしい。