艦隊これくしょん 残響のアイ   作:SAMICO

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第7話 浜松大侵攻、ゆるふわ提督参上

 浜松鎮守府の朝は、珍しく静かだった。

 

 珍しく、というのは重要である。

 

 普段なら、暁が「一人前のレディ」として誰かを指導している。

 アイがそれを「赤いレディ、うるさい」と受け流している。

 結有が救助用モーターボートの方を見て、神通に静かに止められている。

 明石が工廠から何かを爆発寸前にしている。

 

 だが、その朝は違った。

 

 空気が重かった。

 

 管制室に集まった全員が、海図を見ていた。

 

 遠州灘の沖合。

 そこに、深海反応が複数。

 

 いや、複数という言葉では足りない。

 

 群れだった。

 艦隊だった。

 黒い潮のように、深海棲艦が浜松へ向かっていた。

 

「深海反応、さらに増加。駆逐級、軽巡級、重巡級。後方に戦艦級と思われる反応あり」

 

 管制員の声が硬い。

 

 結有は海図を見つめていた。

 

 正式任官したばかりの提督。

 ただし条件付き。

 単独作戦権限は保留。

 神通の監督下。

 

 そんな肩書きが、この状況で何の慰めにもならないことを、結有はもう理解していた。

 

「浜松狙いですか」

 

 結有が聞く。

 

 神通は静かに答えた。

 

「はい。進路から見て、浜松鎮守府および周辺海域の制圧が目的と考えられます」

 

「理由は」

 

「アイさんでしょう」

 

 その名が出た瞬間、空気がさらに重くなった。

 

 アイは結有の隣に立っていた。

 白髪。

 黒い目。

 無表情。

 

 だが、結有にはわかる。

 

 アイは、海の声を聞いている。

 

「呼んでる?」

 

 結有が小声で聞いた。

 

 アイは少しだけうなずく。

 

「戻れって」

 

「戻る?」

 

「戻らない」

 

 即答だった。

 

 結有は少しだけ息を吐いた。

 

「そっか」

 

「でも、怒ってる」

 

「誰が」

 

「海の奥」

 

 アイの黒い目が、海図の外を見ていた。

 

「私がここにいるから」

 

 暁が拳を握った。

 

「勝手なこと言わないでほしいわね。アイは今、浜松鎮守府にいるんだから」

 

 アイが暁を見る。

 

「赤いレディ」

 

「暁よ」

 

「少し、かっこいい」

 

「そ、そう? 当然よ。一人前のレディだもの」

 

 結有は口元を緩めかけたが、すぐに引き締めた。

 

 笑っていられる数ではない。

 

 神通が指示を出す。

 

「第一防衛線を三河湾側に展開。第二防衛線を浜松沖。市街地方面への誘導は絶対に避けます。暁さんは避難船団の護衛。夕立さん、最上さんは迎撃右翼。扶桑さん、山城さんは後方火力支援」

 

「了解!」

 

「了解っぽい!」

 

「任せて」

 

「姉様、参りましょう」

 

 結有は神通を見た。

 

「僕は」

 

「各務原提督は、私とともに中央指揮です」

 

「前線には」

 

「必要なら出ます」

 

「必要なら」

 

「勝手には出ないでください」

 

「はい」

 

 アイが言う。

 

「私は」

 

 神通はアイを見た。

 

「あなたは、各務原提督の近くに。敵があなたを狙う可能性が高い」

 

「私がいると、敵が来る」

 

「はい」

 

「なら、離れた方がいい?」

 

 結有が即座に言った。

 

「だめ」

 

 アイが結有を見る。

 

「即答」

 

「離れたら、もっと危ない気がする」

 

「勘?」

 

「うん」

 

「脳筋」

 

「今日は勘も大事」

 

 神通は二人の会話を聞きながら、少しだけ目を伏せた。

 

 その時、通信士が声を上げた。

 

「外部より高速接近反応! 味方識別あり! 富士田子の浦鎮守府です!」

 

 管制室がざわついた。

 

 結有が顔を上げる。

 

「富士田子の浦?」

 

 神通の表情が、ほんのわずかに変わった。

 

 驚き。

 そして、少しの緊張。

 

 通信が開く。

 

『こちら富士田子の浦鎮守府。浜松鎮守府、聞こえますかあ?』

 

 柔らかい声だった。

 

 場違いなくらい、穏やかで、甘い。

 春の午後にお茶を淹れてくれそうな声。

 

『高梨湊です。増援に来ましたあ』

 

 結有は一瞬、目を瞬いた。

 

「ゆるい」

 

 アイが言った。

 

「ゆるふわ」

 

 暁もつぶやく。

 

 神通が、珍しく背筋を正した。

 

「高梨提督……」

 

 結有は神通を見た。

 

「知り合いですか」

 

「元僚友です」

 

「神通さんが、ちょっと緊張してる」

 

「していません」

 

「しています」

 

「していません」

 

 その声はいつも通りだったが、結有にはわかった。

 

 神通は、明らかに頭が上がらない相手を迎える顔をしている。

 

 通信の向こうで、高梨湊がのんびり言う。

 

『神通ちゃん、久しぶりですねえ。元気にしてました?』

 

 神通の眉が一瞬だけ動いた。

 

「神通です。ちゃん付けはお控えください」

 

『昔は神通ちゃんだったじゃないですかあ』

 

「任務中です」

 

『はいはい、任務中ですねえ』

 

 最上が通信外で小さく吹き出した。

 

 夕立が「神通ちゃん」と口の形だけで言い、神通に見られて背筋を伸ばした。

 

 通信士が続ける。

 

「増援艦隊、目視距離に入ります!」

 

 管制室の大型モニターに、富士田子の浦鎮守府の艦隊が映った。

 

 先頭に立つのは、大和。

 

 圧倒的な存在感。

 海面を進むだけで、周囲の空気が変わる。

 艤装の砲塔は巨大で、穏やかな表情の奥に、戦艦としての重みがある。

 

 その左右に、川内と那珂。

 

 川内は夜戦の気配をまとい、楽しそうに笑っている。

 那珂は明るく手を振りながらも、艤装の点検を怠っていない。

 

 そして、指揮艇に乗っている女性がいた。

 

 高梨湊。

 

 柔らかく巻いた髪。

 穏やかな目。

 可愛らしい雰囲気の、ゆるふわなお姉さん。

 

 だが、神通が無言で姿勢を正している時点で、ただのゆるふわではない。

 

 結有は察した。

 

 あれは、怖い人だ。

 

      *

 

 高梨湊は、浜松鎮守府に入るなり、結有を見つけてにこりと笑った。

 

「あなたが各務原結有ちゃんですねえ」

 

「はい。浜松鎮守府所属、各務原結有提督です」

 

「うふふ、時雨ちゃんの娘さん。お話は聞いていますよお」

 

 結有は少しだけ表情を引き締めた。

 

 時雨の名を出されることには慣れている。

 でも、高梨の声には妙な重さがなかった。

 

 懐かしさと、優しさ。

 それだけだった。

 

「母と、お知り合いでしたか」

 

「はい。ハワイの前にも、何度か一緒にお仕事しました。とても優しい子でしたねえ」

 

「はい」

 

「でも、怒ると結構頑固でした」

 

 結有は少し笑った。

 

「それは、父も言ってました」

 

「裕二さんもお元気?」

 

「元気です。相変わらずです」

 

「それは困りましたねえ」

 

 高梨はにこにこしている。

 

 神通が横から言った。

 

「高梨提督。現状確認を」

 

「はい、神通ちゃん」

 

「神通です」

 

「はい、神通」

 

 結有は神通の表情を見た。

 

 微妙に困っている。

 

 貴重だった。

 

 アイが小声で言う。

 

「神通が弱い」

 

「僕も初めて見た」

 

「記録する?」

 

「やめとこう。怒られる」

 

 高梨はアイを見た。

 

 その目が、ほんの少しだけ細くなった。

 

「あなたがアイちゃんですねえ」

 

 アイは無表情で見返した。

 

「ちゃん?」

 

「嫌でした?」

 

「慣れてない」

 

「じゃあ、アイさん」

 

「それならいい」

 

 高梨は微笑んだ。

 

「あなた、ずいぶん遠くから呼ばれていますね」

 

 結有の表情が変わる。

 

「わかるんですか」

 

「少しだけ。私も妖精さんや霊子の流れを見るのは得意なので」

 

 高梨は穏やかに言った。

 

「今日の敵は、ただの侵攻ではありません。アイさんを回収するつもりです。そして、浜松の防衛線を壊して、東海道側のシーレーン再建計画を潰すつもりでしょう」

 

 口調は柔らかい。

 

 だが、内容は鋭い。

 

 神通がうなずく。

 

「こちらの分析と一致します」

 

「なら、やることは簡単ですねえ」

 

 高梨はにこりと笑った。

 

「浜松を守って、アイさんを渡さず、敵を海へ返します」

 

 結有は、その笑顔に少し寒気を覚えた。

 

 可愛い。

 穏やか。

 ゆるふわ。

 

 なのに、言っていることは完全に戦場の人間だった。

 

 大和が一歩前に出て、結有に一礼した。

 

「大和です。浜松鎮守府の皆さん、支援に参りました」

 

「ありがとうございます」

 

 結有も敬礼する。

 

 川内は神通の肩を軽く叩いた。

 

「久しぶり、神通。相変わらず真面目そうだね」

 

「川内姉さんこそ、相変わらず夜戦のことばかりでは」

 

「昼でも夜戦の準備はできるよ?」

 

「意味がわかりません」

 

 那珂が明るく割り込む。

 

「那珂ちゃんも来たよー! 浜松のみんな、安心してね!」

 

 暁がぱっと顔を上げた。

 

「アイドル艦娘!」

 

「そう、艦隊のアイドル、那珂ちゃんです!」

 

 アイが那珂を見た。

 

「うるさい」

 

「初対面で辛辣!」

 

 那珂は胸を押さえた。

 

 結有は少しだけ笑った。

 

 笑える空気がある。

 

 それだけで、増援の価値は大きかった。

 

 だが、警報がそれを引き裂いた。

 

『深海主力、第一防衛線到達まで二十分!』

 

 管制室の空気が戦闘へ切り替わる。

 

 高梨の目が変わった。

 

 穏やかな笑みは残っている。

 

 だが、温度が消えた。

 

「神通」

 

「はい」

 

「浜松の指揮はあなたと結有ちゃん。私は富士田子の浦部隊を連れて左翼を受けます。大和さんは中央後方から長距離砲撃。川内さんは敵の回り込みを潰して。那珂ちゃんは通信と士気維持、あと遊撃」

 

「了解」

 

「はーい!」

 

「夜戦じゃないけど、まあいいか」

 

 高梨は結有を見る。

 

「結有ちゃん」

 

「はい」

 

「アイさんを守ろうとして、単独で飛び出さないこと」

 

 結有は一瞬固まった。

 

「聞いてます?」

 

「聞いていますよお。神通ちゃんから」

 

「神通さん」

 

「必要な情報共有です」

 

 神通は視線を逸らさない。

 

 高梨はにこにこしながら続けた。

 

「あなたの霊子は高い。高すぎる。前に出れば戦力になります。でも、あなたが崩れるとアイさんも崩れます。アイさんが崩れると、今日の戦線は一気に危なくなります」

 

 柔らかい声。

 

 だが、逃げ場がなかった。

 

「だから、あなたの仕事は殴ることだけではありません」

 

「はい」

 

「アイさんの帰る場所でいることです」

 

 結有はアイを見た。

 

 アイも結有を見ていた。

 

「帰る場所」

 

 アイが小さく言う。

 

 高梨はうなずいた。

 

「そう。戦場で一番大事なものです」

 

 その時、海の向こうで黒い水柱が上がった。

 

 深海棲艦の先遣隊が見え始めたのだ。

 

 大和が艤装を展開する。

 

 空気が震えた。

 

「大和、出ます」

 

 その声に、浜松の艦娘たちが一斉に動く。

 

 結有の胸の奥が熱くなる。

 

 戦いが始まる。

 

 アイが隣に立った。

 

「結有」

 

「何?」

 

「飛ぶ?」

 

「今日はまだ飛ばない」

 

「まだ」

 

「必要なら」

 

「高梨に怒られる」

 

「神通さんより怖い?」

 

 アイは高梨を見た。

 

 高梨は遠くでにこにこしながら、富士田子の浦部隊へ指示を出していた。

 

「怖い」

 

 アイは即答した。

 

 結有も同意した。

 

「だよね」

 

      *

 

 浜松沖で、砲撃戦が始まった。

 

 第一射は大和だった。

 

 遠距離から放たれた主砲弾が、深海棲艦の先頭集団に着弾する。

 海面が盛り上がり、駆逐級と軽巡級がまとめて吹き飛ぶ。

 

 火力が違った。

 

 ただ強いのではない。

 戦線そのものを作り替える力。

 

 浜松の艦娘たちの動きが変わる。

 押されていた海域に余裕が生まれ、神通がその隙を逃さず指示を飛ばす。

 

「夕立さん、右前方の穴を塞いでください。最上さん、敵重巡級を牽制。暁さんは避難船団から離れすぎないように」

 

『了解っぽい!』

 

『任せて』

 

『わかってるわ!』

 

 結有は管制席の横で海図を見る。

 

 正式な提督として、初めての大規模防衛戦。

 

 怖い。

 

 そう思った。

 

 敵の数が多い。

 味方の位置を全部追うのが難しい。

 誰かが一つ間違えれば、そこから崩れる。

 

 前に出て殴る方が、ずっと簡単だった。

 

 だからこそ、今は前に出ない。

 

「左翼、敵が厚いです」

 

 結有が言う。

 

 神通が即座に確認する。

 

「高梨提督」

 

『見えていますよお』

 

 通信の向こうの高梨は、相変わらず柔らかい。

 

『川内さん、左の突き出しを切って。那珂ちゃん、浜松側に敵の位置情報を流して。大和さん、次弾は少し奥へ』

 

『了解。夜戦じゃないけど、斬り込みは好きだよ』

 

『那珂ちゃんにお任せー!』

 

『大和、撃ちます』

 

 高梨の指揮は滑らかだった。

 

 穏やかで、急がない。

 しかし、一手が早い。

 

 神通とは違う怖さがある。

 

 神通は刃のように正確。

 高梨は綿のように柔らかく包み、気づけば相手の首に縄がかかっている。

 

 結有は思わず言った。

 

「高梨さん、すごいですね」

 

 神通は短く答えた。

 

「はい」

 

「神通さんが頭上がらない理由、少しわかりました」

 

「余計なことを考えず、海図を見てください」

 

「はい」

 

 アイが結有の隣で、急に顔を上げた。

 

「来る」

 

「どこ」

 

「下」

 

 結有は管制員へ叫んだ。

 

「海中反応!」

 

 直後、第二防衛線の内側に黒い影が浮かび上がった。

 

 潜伏していた深海棲艦。

 浜松の防衛線を抜け、直接アイを狙うつもりだ。

 

 警報が鳴る。

 

『内側に敵! 軽巡級二、駆逐級四!』

 

 結有の体が動きかけた。

 

 神通が言う。

 

「各務原提督」

 

「はい」

 

「出ます」

 

 結有は一瞬、神通を見た。

 

「僕も」

 

「私と一緒に」

 

 神通はそう言った。

 

 勝手に出るな、ではない。

 

 一緒に。

 

 結有はうなずいた。

 

「はい!」

 

 アイが隣に立つ。

 

「私も」

 

「当然」

 

 結有は言った。

 

「隣だろ」

 

 アイは少しだけ目を細めた。

 

「うん」

 

 神通が二人を見た。

 

「では、行きます。高梨提督、内側の迎撃に入ります」

 

『はい。神通ちゃん、結有ちゃん、アイさん』

 

 高梨の声が、少しだけ低くなった。

 

『絶対に帰ってきなさい』

 

 神通の背筋が伸びる。

 

「了解」

 

 結有も言った。

 

「了解!」

 

 アイは少し遅れて言う。

 

「帰る」

 

 浜松鎮守府の岸壁から、三人が出た。

 

 神通は海面へ。

 アイはその横へ。

 結有は小型高速艇へ乗り込む。

 

 暁の通信が飛ぶ。

 

『結有さん! ボート!』

 

「許可済み!」

 

『今回は許可済みなの!?』

 

 神通が静かに言った。

 

『私が許可しました』

 

『神通さんが!?』

 

 暁の声が裏返った。

 

 結有はハンドルを握った。

 

 目の前には、内側へ侵入した深海棲艦。

 

 浜松大侵攻。

 

 その本当の狙いは、ここからだった。

 

 アイを奪いに来た敵。

 それを守る浜松。

 富士田子の浦から来た大和、川内、那珂。

 そして、ゆるふわの顔をした、神通が頭の上がらない天才提督、高梨湊。

 

 戦場の海が、黒く燃え始めていた。

 

 結有はアクセルを開いた。

 

「行くよ、アイ!」

 

「うん」

 

「神通さん!」

 

「合わせます」

 

 三人は、浜松の内側へ食い込んだ敵へ向かって突っ込んだ。

 

 遠くで、大和の砲声が響く。

 

 高梨湊の声が通信に流れる。

 

『浜松鎮守府、富士田子の浦鎮守府、共同防衛戦を開始します』

 

 その声は、やはり穏やかだった。

 

 けれど、次の一言だけは違った。

 

『うちの子たちに手を出すなら、海ごと叱りますよ』

 

 神通が小さく息を呑んだ。

 

 結有は思った。

 

 やっぱり、この人は怖い。

 

 そして、とても頼もしい。

 

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