浜松大侵攻から数日後。
浜松鎮守府の一部人員は、富士田子の浦鎮守府を訪れていた。
名目は、共同防衛戦後の戦術検討会。
実態は、増援へのお礼と、互いの艦娘たちの交流である。
結有、アイ、神通、暁。
そこに最上と夕立も同行した。
富士田子の浦鎮守府は、海の匂いが濃かった。
浜松も海沿いだが、こちらはまた違う。
港町の生活の匂い。
潮と魚と、朝市の活気。
遠くには富士山が見え、海面は春の光を受けてきらきらしていた。
暁は目を輝かせた。
「富士山よ! 本当に大きいわ!」
最上が笑う。
「暁、観光客みたいだね」
「観光じゃないわ。鎮守府間交流よ。一人前のレディとして、土地の文化を理解しているだけよ」
アイは富士山を見上げていた。
「白い」
「雪だね」
結有が言う。
「食べられる?」
「たぶん食べない方がいい」
「残念」
「雪に食欲を向けるんだ」
その時、鎮守府の正門前で柔らかい声がした。
「ようこそ、富士田子の浦鎮守府へ」
高梨湊だった。
今日も穏やかで、ふわりとした雰囲気をまとっている。
淡い色のカーディガンに、きちんとした制服。
戦場で「海ごと叱りますよ」と言った人と同一人物とは思えない。
ただし、神通は今日も少しだけ姿勢がよかった。
「高梨提督。本日はお招きいただき、ありがとうございます」
「いえいえ。神通ちゃんたちが来てくれて嬉しいですよお」
「神通です」
「はい、神通」
結有は小声でアイに言った。
「神通さん、まだちゃん付けに勝てない」
「高梨、強い」
「うん」
高梨は二人を見て、にこりと笑った。
「結有ちゃんとアイさんも、今日はゆっくりしていってくださいね。お昼は、うちの名物を用意しています」
アイが反応した。
「名物」
「はい。海産物と、しらす丼です」
「しらす」
アイは結有を見た。
「白い小さい魚?」
「そう」
「仲間?」
「白いけど違う」
「なら食べる」
暁が慌てた。
「白ければ仲間候補にしないで!」
*
富士田子の浦鎮守府の食堂は、浜松よりも少し開放的だった。
大きな窓の向こうに港が見える。
木目の長テーブルが並び、壁には富士山と海を描いた地元の子供たちの絵が飾られていた。
そして、卓上には海産物が並んでいた。
しらす丼。
桜えびのかき揚げ。
焼き魚。
貝の味噌汁。
刺身。
小鉢。
お茶。
アイは無言で席に着いた。
目が真剣だった。
結有は笑う。
「アイ、戦闘前みたいな顔してる」
「海産物は強敵」
「食べる側でしょ」
「油断しない」
暁はしらす丼を見て、少し得意げに言った。
「こういう時は、まず感謝してからいただくのよ。一人前のレディとして」
「いただきます」
アイは即座に言った。
「早いわね!」
大和が穏やかに笑った。
「たくさんありますから、遠慮なく召し上がってください」
川内は結有の向かいで、桜えびのかき揚げをつまんでいる。
「いやー、浜松の子たち、いい食べっぷりだね」
那珂はしらす丼を前にポーズを取っていた。
「那珂ちゃん特製、しらす丼紹介ソングもあるよ!」
アイが言った。
「食べる前に歌うの?」
「歌うよ!」
「冷める」
「現実的!」
結有はしらす丼を一口食べた。
「うま」
思わず声が出た。
釜揚げしらすの柔らかさ。
ほんのりした塩気。
ご飯の温かさ。
薬味と醤油の香り。
派手ではない。
でも、食べると海と町が一緒に入ってくるような味だった。
アイも一口食べる。
無表情。
だが、箸が止まらない。
高梨がにこにこ見ている。
「アイさん、お口に合いました?」
「白い魚、強い」
「それはよかったです」
「おかわり」
「はい、どうぞ」
暁が驚いた。
「早い!」
アイはもう丼を空にしていた。
夕立が楽しそうに言う。
「ぽいぽい食べるっぽい!」
「白い魚、消える」
「食べてるからね」
最上が笑った。
神通も静かに食べていた。
ただ、その表情はいつもより少し柔らかい。
高梨が隣に座る。
「神通、しっかり食べていますか?」
「はい」
「昔は戦闘後でも、食べるのを後回しにしていましたからねえ」
「昔の話です」
「昔の神通ちゃんは、こちらが言わないと休まない子でした」
「高梨提督」
「はいはい、任務中ではありませんから、少しくらい昔話をしてもいいでしょう?」
神通は黙った。
結有はアイと顔を見合わせた。
「神通さんが押されてる」
「珍しい」
「貴重」
神通の視線が飛んできた。
二人は同時にしらす丼へ視線を落とした。
*
食後、交流会は鎮守府内の談話室に移った。
そこは一見、普通の談話室だった。
大きなソファ。
本棚。
ボードゲーム。
艦娘向けの雑誌。
地元の観光パンフレット。
ただし、部屋の一角にだけ、異様な気配があった。
大型モニター。
高性能PC。
世界地図。
軍事史の本。
そして、キーボードの横に置かれた湯呑み。
結有はそれを見て、首を傾げた。
「ゲーム用ですか?」
高梨がにこりと笑う。
「はい。私の趣味です」
那珂が元気よく言う。
「湊さん、すごいんだよ!」
川内も笑う。
「通称、日本プレイでアメリカを倒す女」
暁が聞き返した。
「日本プレイで、アメリカを倒す?」
高梨は少し照れたように頬に手を当てた。
「Hearts of Iron IVという戦略ゲームがありまして。国家を運営して、軍を編成して、外交や工業力を管理しながら戦うゲームです」
「へえ」
結有は画面を覗き込んだ。
そこには世界地図が表示されている。
日本列島が妙に大きな色で塗られ、太平洋の島々、東南アジア、オーストラリアの一部、そしてアメリカ西海岸まで同じ色に染まっていた。
結有は黙った。
「これ、何ですか」
「前回のプレイ記録です」
「アメリカ西海岸が日本色ですが」
「上陸しました」
「上陸」
アイが画面を見る。
「侵攻?」
「ゲームですよお」
「高梨、深海より怖い」
高梨はにこにこしている。
「そんなことありませんよお。ちゃんと補給線を整えて、海軍を集中運用して、航空優勢を取ってから上陸するだけです」
暁が眉をひそめた。
「だけ、の範囲が広くないかしら」
大和が穏やかに言う。
「提督は戦略ゲームがお好きで、休憩中によく研究されています」
川内が肩をすくめる。
「研究っていうか、征服だよね」
「川内さん、人聞きが悪いですよお」
那珂が明るく言った。
「湊さん、アメリカ倒す時だけ笑顔が怖いんだよ!」
高梨はにこにこしている。
「だって、太平洋を越えるには準備が大事ですから」
神通は静かにお茶を飲んでいた。
結有は神通を見る。
「神通さん、知ってました?」
「はい」
「高梨さんの趣味」
「横須賀時代から、兵站と作戦計画に異様なこだわりがありました」
高梨は微笑む。
「神通ちゃんは、当時から前線で頑張りすぎる子でしたから。私は後ろで、どうすれば帰ってこられるか考えていたんです」
神通の手が、少し止まった。
高梨は穏やかなまま続ける。
「ゲームでも現実でも、補給が切れると人は壊れます。退路がないと、無茶をします。勝てる戦いでも、帰り道を用意しなければ負けです」
結有は黙って聞いた。
その声は、いつものゆるふわなものだった。
でも、少しだけ芯が見えた。
高梨湊は、可愛いお姉さんの顔をしている。
けれど、この人はたぶん、何百手も先を考えている。
怒ると神通以上に怖いという話も、納得できた。
「結有ちゃん」
「はい」
「あなたもやってみます?」
「HOIをですか」
「はい。提督の勉強になりますよお。補給、工業力、戦線管理、外交、損切り、そして欲張らないこと」
「最後、僕に向けて言いました?」
「うふふ」
怖い。
結有は素直に思った。
アイはPC画面をじっと見ていた。
「これ、深海棲艦もいる?」
「MODを入れれば、作れるかもしれませんねえ」
「深海で日本を倒す?」
部屋が静かになった。
高梨の目が、ほんの少しだけ輝いた。
「それは面白そうですねえ」
神通が即座に言った。
「高梨提督」
「はい」
「アイさんに深海側プレイを教えないでください」
「だめですか?」
「だめです」
アイが不満そうに言う。
「私は深海も艦娘もできる」
「ゲームで敵側の気持ちを考えるのは、悪いことではありませんよお」
「高梨提督」
神通の声が静かになった。
高梨は笑った。
「冗談です」
結有とアイは同時に思った。
たぶん半分くらい本気だった。
*
その後、高梨による初心者向けHOI講座が始まった。
結有は日本を選んだ。
理由は単純である。
「まず日本でアメリカを倒すんですよね?」
「いきなりそこを目指すと大変ですよお」
「高梨さんの通り名がそれなので」
「私は何度も失敗しましたから」
アイは隣で見ていた。
「アメリカ、遠い」
「遠いね」
「殴れる?」
「ゲームだから殴れない」
「つまらない」
「でも上陸はできる」
「ならやる」
暁はドイツを見ていた。
「一人前のレディなら、外交も優雅にこなすべきね」
最上がイギリスを眺める。
「海軍管理が大変そうだなあ」
夕立はよくわからないまま、歩兵師団を大量に作ろうとしていた。
「ぽいぽい突撃するっぽい!」
高梨が優しく止める。
「補給が死にますよお」
「補給が死ぬ?」
「はい。補給が死ぬと、みんな動けなくなります」
夕立は真面目な顔になった。
「補給、大事っぽい」
「とても大事です」
神通はそれを見て、少しだけ感心したように言った。
「教育効果がありますね」
「でしょう?」
高梨はにこにこしている。
結有はしばらくプレイしていたが、やがて画面を見て唸った。
「資源が足りない」
「はい」
「工場も足りない」
「はい」
「船も時間がかかる」
「はい」
「これ、前に出る前に準備しないと詰むやつですね」
高梨は満足そうにうなずいた。
「その通りです」
神通も言った。
「現実でも同じです」
結有は少しだけ悔しそうに言う。
「勉強になってしまった」
アイが画面を見ながら言った。
「脳筋、内政で止まる」
「内政、強敵だね」
「殴れないから」
「本当にね」
高梨は笑った。
「提督は、殴れない相手とも戦います。補給不足、士気の低下、情報不足、疲労、焦り。そういうものを見落とすと、前線の子たちが苦しみます」
結有は画面から目を離し、神通を見た。
暁を見た。
アイを見た。
「帰り道を用意する」
「はい」
高梨は穏やかに言った。
「神通ちゃんは前に出るのが上手でした。私は、神通ちゃんが帰ってくるための道を作るのが好きでした」
神通は静かに目を伏せた。
「昔の話です」
「今も同じですよ。あなたは今、結有ちゃんの帰り道を作っている」
神通は答えなかった。
でも、否定もしなかった。
*
夕方。
富士田子の浦鎮守府の港で、浜松組は帰り支度をしていた。
高梨はお土産として、しらすの詰め合わせと桜えび、干物を持たせてくれた。
アイは袋をじっと見ている。
「全部、白い魚?」
「一部ね」
「浜松で食べる」
「うん」
暁は満足げだった。
「いい交流だったわ。しらす丼もおいしかったし、戦略ゲームも勉強になったし」
「暁、ドイツでポーランドに苦戦してたね」
「最初だからよ! 次はもっと上手くやるわ!」
夕立は元気に手を振る。
「また来るっぽい!」
那珂が返す。
「次は那珂ちゃんライブも見るんだよー!」
アイが小声で言う。
「しらす丼だけでいい」
「アイ、聞こえてるよ!」
川内は神通に近づき、軽く笑った。
「また一緒に戦おうね、神通」
「はい。姉さんも、夜戦と言いすぎないように」
「それは無理かな」
大和は結有に一礼した。
「浜松の防衛、とても見事でした。これからも、どうか皆さんで」
「はい。ありがとうございます」
最後に、高梨が結有の前へ来た。
「結有ちゃん」
「はい」
「あなたは強いです。でも、強い人ほど準備を忘れがちです」
「はい」
「殴る前に、補給。飛ぶ前に、退路。怒る前に、味方の位置」
結有は背筋を伸ばした。
「覚えます」
「いい子です」
高梨はにこりと笑った。
それからアイを見る。
「アイさん」
「何」
「結有ちゃんが無茶をしそうになったら、止めてあげてくださいね」
「止める」
「できます?」
「物理で」
「うふふ。頼もしいですねえ」
結有は少し不安になった。
「物理で止めるの?」
「必要なら」
「優しくね」
「考える」
「考えて」
神通が高梨へ向き直る。
「高梨提督。本日はありがとうございました」
「こちらこそ。神通ちゃん」
「神通です」
「また来てくださいね」
「はい」
高梨は微笑んだ。
「今度は、HOIで一緒にアメリカを倒しましょう」
神通は静かに言った。
「検討します」
結有は驚いた。
「神通さん、やるんですか」
「補給と戦線管理の教材として有用です」
アイが言う。
「神通も染まる」
「染まりません」
高梨は嬉しそうだった。
浜松へ戻る車内。
アイはしらすの土産袋を抱えたまま、結有の隣に座っていた。
「結有」
「何?」
「アメリカ、遠い」
「ゲームの話?」
「うん」
「遠いね」
「でも、高梨は倒した」
「らしいね」
「高梨、怖い」
「うん」
「でも、しらす丼は強い」
「そっちも強かったね」
暁が前の席から言う。
「次に行く時は、私ももっと上手くドイツを導くわ」
神通が静かに言った。
「まずは補給線を見てください」
「はい……」
結有は窓の外を見た。
夕暮れの海。
富士山の影。
港の灯り。
戦いだけではない。
しらす丼を食べる日もある。
ゲームで補給に苦しむ日もある。
神通がちゃん付けされて困る日もある。
そういう日常があるから、戦場から帰る意味がある。
結有は、少しだけわかった気がした。
その日の浜松鎮守府非公式日誌には、こう記された。
『富士田子の浦鎮守府交流会実施』
『しらす丼、大好評』
『アイ、白い魚を制圧』
『高梨湊提督、HOI IVで日本プレイによりアメリカを倒す女と判明』
『結有、内政と補給に苦戦』
『暁、ドイツで苦戦』
『神通、ちゃん付けに苦戦』
最後に、誰かが追記した。
『高梨提督は怒らせてはいけない。ゲームでも現実でも』