各務原結有が、父から電話を受けたのは、富士田子の浦鎮守府から戻った日の夜だった。
浜松鎮守府の自室。
机の上には、神通から出された追加課題がある。
題名は『補給線と退路確保の重要性について』。
富士田子の浦でHOI IVを触った結果、なぜか課題が増えた。
結有はペンを置き、鳴っている端末を見る。
表示名は、父。
「はい、結有です」
『俺だ』
「表示でわかるよ、父さん」
『生きてるか』
「生きてる」
『殴ったか』
「今日は殴ってない」
『偉い』
「褒める基準が低くない?」
『殴らずに済むなら上等だ』
いつもの父だった。
陸上自衛隊一等陸佐、各務原裕二。
鬼の各務原。
バッジコレクター伝説の本人。
母の時雨に名前を呼ばれると姿勢がよくなっていた男。
結有は椅子にもたれた。
「今日は富士田子の浦に行ってきたよ」
『聞いている。高梨のところだな』
「父さん、高梨さん知ってるの?」
『知っている』
「どんな人?」
電話の向こうで、少し沈黙があった。
『敵に回すな』
「第一声それ?」
『味方なら頼れ。敵なら逃げろ。怒らせたなら諦めろ』
「神通さんみたいなこと言う」
『神通が頭を上げられん相手だ。俺もあまり上げたくない』
結有は少し笑った。
「高梨さん、ゆるふわお姉さんって感じだったけど」
『外側はな』
「中身は?」
『作戦室だ』
「人間を部屋で例えた」
『あいつの頭の中には、常に海図と兵站表と予備計画がある』
裕二の声は、いつになく真面目だった。
『高梨湊。今は二等空佐だったか。艦娘本部へ出向して、富士田子の浦を見ている』
「空自の人なんだ」
『元はな。統合運用の適性が高すぎて、本部に持っていかれた』
「実技も強いの?」
『落第寸前だった』
「え?」
結有は思わず聞き返した。
「高梨さんが?」
『そうだ』
「だって、あの人すごい指揮してたよ。浜松大侵攻の時も、左翼を一瞬で立て直してたし」
『指揮は怪物だ』
「じゃあ実技って」
『射撃、格闘、体力測定、野外行動。だいたい下の方だった』
結有は目を瞬いた。
「意外」
『拳銃の命中率は一パーセントだった』
「一パーセント」
『的に当たれば拍手が起きた』
「そんなに?」
『本人は穏やかに笑っていた。“今日は一発当たりましたあ”とな』
結有は想像した。
高梨湊が、あの柔らかい笑顔で拳銃を撃つ。
ほとんど外れる。
周囲が拍手する。
高梨が「うふふ」と笑う。
似合うような、似合わないような。
「格闘は?」
『相手に投げられる前に、自分で転んだ』
「弱い」
『弱い』
「父さんがはっきり弱いって言うの珍しいね」
『実技だけなら、当時の候補生の中でもかなり危なかった。落第寸前だ』
「じゃあ、なんで残れたの?」
裕二は即答した。
『戦略、運営、統計、補給、通信、部隊配置、政治調整、全部満点だった』
結有は黙った。
『筆記で満点。戦術課題で満点。想定演習で満点。基地運営計画で満点。人員配置で満点。補給効率で満点。ついでに、上官が見落としていた予算の穴まで見つけた』
「すご」
『ただし走ると遅い。撃つと当たらない。殴ると自分の手を痛める』
「極端すぎる」
『結果、総合成績は真ん中だった』
結有は笑ってしまった。
「満点と落第寸前で真ん中」
『そうだ』
「でも、それで今は二佐なんだ」
『現場にはいろいろな強さがある』
裕二は言った。
『俺は殴れる。神通は沈められる。時雨は守れた。だが、高梨は負けない形を作る』
「負けない形」
『あいつは、自分が撃てないことを知っている。殴れないことも知っている。走っても前線に間に合わないことも知っている。だから、最初からそこに頼らない』
結有は、高梨の声を思い出した。
殴る前に、補給。
飛ぶ前に、退路。
怒る前に、味方の位置。
『あいつは、誰がどこで何をすれば一番生き残るかを考える。自分が弱いからこそ、他人の強さの置き場所を間違えない』
「父さん、かなり高く買ってるね」
『高梨の作戦で何度か生き残った』
「父さんが?」
『そうだ』
「父さんも誰かの作戦で生き残るんだ」
『俺を何だと思っている』
「若気の至りでバッジ集めた人」
『あれは訓練だ』
「はいはい」
『はいは一回だ』
結有は笑った。
電話の向こうで、裕二も少しだけ息を抜いたようだった。
「高梨さん、神通さんをちゃん付けしてたよ」
『していただろうな』
「神通さん、すごく困ってた」
『昔からだ』
「神通さんも高梨さんに助けられたの?」
『何度も』
裕二の声が少し低くなる。
『神通は、前へ出る艦娘だった。出力を上げて、大物を沈めて、返り血を浴びて帰ってくる。強い。だが、強すぎる奴は帰り道を軽く見ることがある』
「父さんも?」
『俺もだ』
「自覚あるんだ」
『時雨に何度も怒られた』
母の名が出て、結有は少し黙った。
裕二もそれに気づいたのか、少し間を置いて続けた。
『高梨は、そういう奴らの帰り道を作るのが上手かった。前線に出る奴の癖を見て、退路を置く。補給を先に回す。撤退命令を出すタイミングが早い。早すぎるように見えて、実際には遅くない』
「浜松でもそうだった」
『だろうな』
「高梨さん、僕に言ったよ。アイの帰る場所でいろって」
『いい言葉だ』
「父さんなら?」
『敵を殴って帰る場所を作れと言う』
「父さんらしい」
『だが、高梨の方が正しいことも多い』
結有は少し驚いた。
父が他人の方が正しいと言うのは珍しい。
『結有』
「何?」
『お前は俺に似ている』
「うん。最近よく言われる」
『悪い意味でもだ』
「そこも自覚ある」
『前に出るなとは言わん。言っても無駄だ』
「神通さんにも同じこと言われた」
『だろうな。だが、高梨の話は聞け。殴る力は、殴る前の準備があって初めて意味を持つ』
「補給と退路」
『そうだ』
「拳銃命中率一パーセントでも?」
『一パーセントでもだ』
結有は机の上の課題を見る。
『補給線と退路確保の重要性について』。
神通と高梨と父。
全員が違う言い方で、同じことを言っている気がした。
生きて帰れ。
前に出るなら、帰り道を持て。
結有は小さく息を吐いた。
「わかった。高梨さんの話、ちゃんと聞く」
『いい』
「あと、HOIも勉強する」
『何だそれは』
「高梨さんの趣味。日本プレイでアメリカを倒すゲーム」
電話の向こうで、裕二が少し黙った。
『あいつ、まだやってるのか』
「知ってるんだ」
『昔、休憩室で見た。画面上でアメリカ西海岸が日本色になっていた』
「やっぱり昔からなんだ」
『高梨は笑っていた。“補給線が通りましたあ”とな』
「怖」
『怖いぞ』
その時、部屋の扉がノックされた。
「結有」
アイの声だった。
「開いてる」
扉が開き、アイが入ってくる。
白い髪。
黒い目。
手には、富士田子の浦でもらったしらすの小袋。
「しらす、食べる?」
「今?」
「今」
結有は端末を見た。
「父さん、アイが来た」
『代われ』
「え」
『少し話す』
結有はアイを見る。
「父さんが話したいって」
アイは端末を見た。
「鬼の父」
「その呼び方、本人に言うの?」
「言う」
結有は通話をスピーカーにした。
「父さん、アイ」
アイが端末に向かって言った。
「鬼の父」
裕二は一拍置いて答えた。
『各務原裕二だ』
「鬼ではない?」
『場合による』
「認めた」
結有は額に手を当てた。
裕二は続けた。
『結有を見ているそうだな』
「見てる」
『無茶をするだろう』
「する」
『止められるか』
「物理で」
『よし』
「よしなの?」
結有が突っ込む。
裕二は気にしない。
『必要なら蹴れ』
「了解」
「了解しないで」
『ただし、死なせるな』
アイは少し黙った。
そして、短く答えた。
「死なせない」
裕二の声が、少しだけ柔らかくなった。
『頼む』
アイは端末をじっと見た。
「頼まれた」
「うん」
「結有は、帰る場所?」
結有は目を瞬いた。
裕二が電話の向こうで静かに言った。
『そうだ。あいつは前に出る。だから、誰かが帰る場所でいてやる必要がある。お前も、あいつの帰る場所になってやれ』
アイは考えた。
「難しい」
『難しいが、やれ』
「命令?」
『頼みだ』
アイは結有を見る。
「なら、やる」
結有は、少し照れて視線を逸らした。
「父さん、そういう話を本人の前でする?」
『必要な話だ』
「そうかもしれないけど」
裕二は短く笑ったようだった。
『結有』
「何?」
『高梨は、実技落第寸前でも指揮官になった。お前は実技で暴れすぎても提督になった。どちらも極端だ』
「否定できない」
『なら、足りないところは他人から学べ。神通からは自制を。高梨からは準備を。アイからは』
「アイからは?」
裕二は少し考えた。
『隣を見ることを』
結有はアイを見た。
アイはしらすの小袋を持ったまま、結有を見返している。
「うん」
結有は小さく答えた。
「学ぶ」
『よし。では課題をやれ』
「なぜ知ってるの」
『神通から連絡があった』
「神通さん、父さんにも報告してるの?」
『監督体制の一部だ』
「包囲されてる」
『逃げ道はない』
「退路を確保しろって話の直後に?」
『課題からの退路は不要だ』
通話はそこで終わった。
結有は端末を机に置き、深く息を吐いた。
アイがしらすの袋を差し出す。
「食べる?」
「食べる」
二人は小袋を開け、しらすを少しつまんだ。
しょっぱい。
海の味がした。
結有は課題用紙を見る。
補給線と退路。
高梨湊。
拳銃命中率一パーセント。
戦略と運営と頭脳系満点。
総合成績、真ん中。
「すごい人って、いろんな種類があるんだな」
結有が言う。
アイはしらすを食べながら答えた。
「高梨は、殴れないけど怖い」
「うん」
「結有は、殴れるけど危ない」
「うん」
「神通は、静かに怖い」
「うん」
「私は?」
結有は少し考えた。
「白くて、隣にいてくれる」
アイは無表情のまま、しらすを一つ食べた。
「悪くない」
その日の浜松鎮守府非公式日誌には、こう記された。
『各務原一佐、高梨湊二佐について娘に語る』
『高梨二佐、実技落第寸前』
『拳銃命中率一パーセント』
『戦略・運営・頭脳系満点』
『総合成績は真ん中』
『結論、怒らせてはいけない』
最後に、誰かが追記した。
『強さには種類がある。課題からは逃げられない』