艦隊これくしょん 残響のアイ   作:SAMICO

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第9話 鷹取修平、逆侵攻作戦を提案する

 浜松鎮守府の会議室には、嫌な静けさがあった。

 

 静けさには種類がある。

 

 神通が怒っている時の静けさ。

 高梨湊が笑顔のまま相手を逃がさない時の静けさ。

 アイが新兵装を見て「撃つ?」と考えている時の静けさ。

 

 そして、今日の静けさはその全部に近かった。

 

 原因は、会議室前方のスクリーンに映された作戦案である。

 

『深海支配海域への逆侵攻作戦案』

『提案者:鷹取修平 三等海尉』

 

 結有は、椅子に座ったまま小さく息を吐いた。

 

「鷹取さんか」

 

 隣のアイが言う。

 

「前に乱闘した人」

 

「うん」

 

「また殴る?」

 

「今日は殴らない」

 

「本当?」

 

「たぶん」

 

 前列に座っていた暁が振り向いた。

 

「たぶんじゃなくて、殴らないの!」

 

 神通の視線も飛んでくる。

 

 結有は背筋を伸ばした。

 

「殴りません」

 

 アイが小さく言った。

 

「十点」

 

「先に採点された」

 

 今日の会議は、艦娘本部主催の東海方面戦略検討会だった。

 

 浜松鎮守府からは、結有、神通、暁、アイ。

 富士田子の浦鎮守府からは、高梨湊、大和、川内、那珂。

 その他、複数の鎮守府や自衛隊関係者も参加している。

 

 議題は、浜松大侵攻後の深海棲艦の動向と、東海道側シーレーン回復計画。

 

 要するに、どう守り、どこまで押し返すか。

 

 そこへ、鷹取修平が作戦案を提出した。

 

 結有と鷹取は、正式提督任官試験で揉めた相手である。

 彼は正規の海自推薦候補として訓練を受けており、規律と手順に強い自負を持っていた。

 だが、アイを「深海混じり」と呼び、結有と乱闘になった。

 

 その後、彼にも処分と再教育があったらしい。

 

 それでも今、鷹取は制服をきっちり着こなし、自信を崩さず前に立っていた。

 

 彼はレーザーポインタで海図を示す。

 

「浜松大侵攻において、深海側はアイ個体の回収を目的に大規模戦力を投入したと推定されます。つまり、敵は同個体に強い関心を持っています」

 

 アイが小さく言う。

 

「同個体」

 

「アイのことだね」

 

「嫌な呼び方」

 

「うん」

 

 結有は少し眉を寄せたが、口は挟まなかった。

 

 鷹取は続ける。

 

「であれば、防御に徹するのではなく、こちらから深海支配海域へ逆侵攻し、敵の中枢に圧力をかけるべきです。具体的には、アイ個体を囮として前進させ、浜松・富士田子の浦連合部隊をもって敵主力を誘引、集結したところを集中攻撃します」

 

 会議室の空気が、少し硬くなった。

 

 結有の手が拳になりかける。

 

 アイがその手を見た。

 

「結有」

 

「大丈夫」

 

「まだ?」

 

「まだ」

 

 暁が小声で言う。

 

「まだって言わないで」

 

 鷹取はさらにスライドを進めた。

 

「作戦の要点は三つです。第一に、敵の関心対象であるアイ個体を前線投入し、敵主力を引き出すこと。第二に、艦娘部隊を高速展開し、敵集結前に打撃を与えること。第三に、結有提督の高霊子戦闘能力を切り札として投入し、敵指揮個体を撃破することです」

 

 結有は思わず言った。

 

「僕も囮側?」

 

 鷹取は結有を見た。

 

「あなたの突撃能力は、使いどころを誤らなければ有効です」

 

「使いどころ」

 

「ええ。感情で動くのではなく、作戦資産として運用すれば、ですが」

 

 暁の眉が上がった。

 

 神通はまだ黙っている。

 

 高梨湊は、にこにこしていた。

 

 とても、にこにこしていた。

 

 結有はそれに気づき、少しだけ背筋が冷えた。

 

 鷹取は気づいていない。

 

「現状、我々は敵の出方を待ちすぎています。浜松大侵攻では勝利しましたが、それは受動的防衛に過ぎません。戦争の主導権を握るには、こちらから敵中枢へ踏み込む必要があります」

 

 自衛隊側の何人かがうなずく。

 

 ただ、艦娘たちの表情はまちまちだった。

 

 大和は静かに聞いている。

 川内は腕を組み、少し目を細めている。

 那珂は笑顔を消していた。

 神通は静か。

 高梨は笑顔。

 

 怖いくらいの笑顔。

 

 鷹取は最後のスライドを表示した。

 

『逆侵攻第一段階』

『アイ個体を先行投入』

『高速艦娘部隊による敵誘引』

『結有提督による中枢候補への直接打撃』

『敵支配海域の一部奪還』

 

「以上です。リスクはありますが、勝つためには攻勢が必要です」

 

 会議室に沈黙が落ちた。

 

 司会役の本部士官が言う。

 

「意見を求めます」

 

 誰より先に、高梨湊が手を上げた。

 

「はい」

 

 声は柔らかかった。

 

「高梨二佐、お願いします」

 

 高梨はにこりと笑った。

 

「鷹取三尉。まず確認です」

 

「はい」

 

「この作戦に必要な補給量は、計算しましたか?」

 

 鷹取は一瞬だけ間を置いた。

 

「概算は」

 

「数字でお願いします」

 

 高梨は穏やかだった。

 

 鷹取は資料をめくる。

 

「第一段階では、三日分の作戦行動を想定し、弾薬、燃料、修理資材を通常防衛戦の一・七倍」

 

「足りません」

 

 即答だった。

 

 鷹取の表情が少し固まる。

 

「なぜですか」

 

「逆侵攻は、防衛ではありません。敵支配海域へ入るということは、こちらが補給線を伸ばし、敵は補給線の内側で戦うということです。通常防衛戦の一・七倍では、初日の接触で消えます」

 

 高梨は画面の海図を指した。

 

「ここからここまで、あなたの想定進路では敵の哨戒圏を二つ横切ります。ここで交戦。ここで機雷型、もしくは潜伏型の妨害。ここで航空型が出れば、対空弾薬が減ります。ここで撤退戦になれば、燃料消費は倍です」

 

 鷹取は口を開こうとした。

 

 高梨は続けた。

 

「次に、退路は?」

 

「敵を撃破すれば」

 

「撃破できなかった時の退路です」

 

 鷹取は黙った。

 

「敵主力を誘引する作戦なのですよね。ならば、敵主力が想定以上だった場合、どこへ逃げますか。損傷艦はどこで回収しますか。アイさんが深海側の干渉を受けて動けなくなった場合、誰が背負って帰りますか。結有ちゃんが敵中枢候補へ突撃して負傷した場合、誰が回収しますか」

 

 結有は小さく言った。

 

「僕、回収される前提なんだ」

 

 アイが言う。

 

「される」

 

 暁もうなずく。

 

「当然よ」

 

 高梨の声は変わらない。

 

「三つ目。敵中枢候補の位置特定根拠は?」

 

 鷹取が言う。

 

「浜松大侵攻時の深海反応パターンから」

 

「推定ですね」

 

「戦場で完全な確証は得られません」

 

「はい。その通りです。では、推定が外れた場合の第二目標は?」

 

「敵主力への打撃に切り替えます」

 

「敵主力とは?」

 

「集結した深海棲艦群です」

 

「どの規模までを想定していますか」

 

「戦艦級複数を含む艦隊規模」

 

「少なすぎます」

 

 会議室が静かになる。

 

 高梨は笑顔のまま言った。

 

「敵はアイさんを回収したがっている。あなたはそう分析しました。その分析自体は間違っていないと思います。ですが、であれば敵はアイさんを奪うために、こちらの想定より多い戦力を出すと考えるべきです」

 

 鷹取の顔が赤くなり始めた。

 

「過大評価では?」

 

「過小評価よりましです」

 

 高梨は即答した。

 

「四つ目。アイさんを囮として先行投入するとのことですが、深海側からの精神干渉、霊子干渉、艤装乗っ取り、深海中枢との共鳴暴走への対策は?」

 

「浜松鎮守府が監視を」

 

「具体策は?」

 

「神通さんと結有提督が」

 

「二人に頼るのですね」

 

 鷹取は少し言葉に詰まる。

 

 高梨は穏やかに続けた。

 

「それは作戦ではなく、現場への丸投げです」

 

 その一言は、柔らかい声で言われた。

 

 だからこそ、逃げ場がなかった。

 

 神通が目を伏せる。

 

 結有は、胸の奥が少し痛んだ。

 

 高梨はさらにスライドを見た。

 

「五つ目。結有ちゃんの高霊子戦闘能力を切り札として投入、とあります」

 

「はい」

 

「その後の冷却、治療、霊子暴走対策、時雨さんの事例を踏まえたリミッタ管理は?」

 

 結有の呼吸が少し止まった。

 

 時雨。

 

 会議室の空気が変わる。

 

 高梨の声は静かだった。

 

「各務原結有提督は、高い霊子を持つ貴重な戦力です。ですが、高い霊子を持つ者を切り札と呼んで前へ出す時、指揮官はその帰り道と限界を同時に設計しなければなりません」

 

 鷹取は強張った顔で言った。

 

「彼女自身も、前線戦闘を望んでいるのでは」

 

 高梨の笑顔が、少しだけ冷たくなった。

 

「望んでいれば、壊してよいのですか?」

 

 誰も声を出さなかった。

 

 高梨は続ける。

 

「神通さんは前に出ます。大和さんは撃ちます。川内さんは斬り込みます。那珂ちゃんは笑顔で士気を支えます。結有ちゃんは飛び出します。アイさんは強い兵装を持っています。では、その強さを全部前に並べれば勝てるのか」

 

 高梨は首を横に振った。

 

「勝てません」

 

 鷹取が反論する。

 

「しかし、攻勢に出なければ主導権は」

 

「攻勢と無謀は違います」

 

 高梨の声が、少しだけ低くなった。

 

「主導権を握るというのは、敵より先に死地へ走ることではありません。敵が嫌がる場所に戦力を置き、敵が困る時間に補給を断ち、敵が動きたくない状況を作ることです」

 

 彼女は海図を指した。

 

「本当に逆侵攻したいなら、まずここです」

 

 示したのは、敵支配海域ではなく、その手前の島嶼線だった。

 

「前進補給拠点を作る。対空監視網を置く。偵察を増やす。潜伏型への掃討を行う。撤退用の救助線を作る。修理施設を仮設する。富士田子の浦と浜松の火力支援範囲を重ねる。そこまでやって、初めて第一歩です」

 

 鷹取は苦い顔で言った。

 

「それでは時間がかかります」

 

「はい」

 

「敵に準備時間を与える」

 

「こちらも準備できます」

 

「機を逃す可能性がある」

 

「準備不足で全滅するよりはましです」

 

 高梨はバッサリ言った。

 

「鷹取三尉。あなたの案は、勇ましいです。図上では派手です。週刊誌なら見出しになります」

 

 そこで、彼女は一拍置いた。

 

「ですが、作戦としては雑です」

 

 鷹取の顔がさらに赤くなった。

 

「雑、ですか」

 

「はい」

 

「私の案は、敵の中枢へ圧力をかけるための」

 

「アイさんを餌にし、結有ちゃんを槍にし、神通さんと浜松の艦娘に後始末をさせる案です」

 

 結有は、思わず高梨を見た。

 

 アイも見る。

 

 高梨は笑っていなかった。

 

「あなたは戦力を見ています。でも、人を見ていません」

 

 会議室が、さらに静かになった。

 

「アイさんは未確認個体ではありません。浜松鎮守府で保護され、訓練し、自分の艤装を得た子です。結有ちゃんは高霊子突撃兵器ではありません。提督です。神通さんは便利な後始末役ではありません。艦娘です」

 

 高梨の声は穏やかに戻った。

 

 だが、言葉は止まらない。

 

「大和さんの砲撃も、川内さんの突撃も、那珂ちゃんの通信支援も、全部ただの駒ではありません。疲れます。壊れます。帰れなければ、次の戦いにはいません」

 

 鷹取は何か言おうとした。

 

 高梨は先に言った。

 

「戦争で人を駒として扱わなければならない瞬間はあります。きれいごとでは済みません。でも、最初から駒としてしか見ない指揮官は、いつか必ず味方を無駄にします」

 

 その一言は、鷹取だけに向けられてはいなかった。

 

 会議室にいる全員へ向けられていた。

 

 結有は、拳を握っていない自分に気づいた。

 

 怒っている。

 でも、殴りたい怒りではなかった。

 

 高梨が代わりに、言葉で殴っている。

 

 しかも、急所だけを。

 

 鷹取は唇を噛んだ。

 

「では、高梨二佐は攻勢を否定するのですか」

 

「いいえ」

 

「ならば」

 

「私は勝てる攻勢を準備しろと言っています」

 

 高梨は、再び海図を見る。

 

「逆侵攻そのものは、将来的に必要です。ですが、今やるなら順番が逆です。まず防衛線の再構築。次に前進拠点。次に偵察と掃討。次に補給路。そして敵の反応を見る。アイさんを囮にするのは最後の最後、それも本人の同意と安全策がある場合だけです」

 

 アイが小さく言う。

 

「同意」

 

 結有はうなずいた。

 

「大事」

 

 高梨は鷹取へ向き直った。

 

「あなたの案は、最初から戦略を戦術で覆そうとしています。敵中枢を叩けば全部解決する。強い子を前に出せば状況が変わる。そういう発想です」

 

 高梨の目が細くなる。

 

「それは馬鹿のやることです」

 

 ついに、誰かが息を呑んだ。

 

 鷹取の顔は真っ赤だった。

 

 だが、高梨は追い打ちを止めなかった。

 

「勇気と無謀を混同してはいけません。攻勢精神と準備不足を混同してはいけません。現場の能力を信じることと、現場に丸投げすることを混同してはいけません」

 

 彼女は資料を閉じた。

 

「以上です」

 

 会議室は沈黙した。

 

 司会役の本部士官が、少し遅れて咳払いする。

 

「高梨二佐の意見を踏まえ、本案は継続検討とし、現段階での実施は見送りとします」

 

 ほぼ却下だった。

 

 鷹取はうつむいた。

 

 彼の手は震えている。

 

 恥をかいた。

 

 それは明らかだった。

 

      *

 

 会議後、廊下で結有は鷹取を見つけた。

 

 彼は一人で、資料端末を抱えて立っていた。

 

 結有は少し迷った。

 

 暁なら「余計なことを言わない方がいい」と言うかもしれない。

 神通なら「言葉を選んでください」と言うだろう。

 アイなら「殴る?」と聞く。

 

 結有は近づいた。

 

「鷹取さん」

 

 鷹取は顔を上げた。

 

「笑いに来たのか」

 

「いや」

 

「なら何だ」

 

「高梨さん、怖いですよね」

 

 鷹取は一瞬、呆気に取られた顔をした。

 

「……何だ、それは」

 

「僕も何回か刺されてます。言葉で」

 

「一緒にするな」

 

「しない方がいい?」

 

「するな」

 

 鷹取はそう言ったが、以前より刺々しさは少し減っていた。

 

 結有は壁にもたれた。

 

「僕、怒りました。アイを囮にするとか、僕を切り札として突っ込ませるとか」

 

「事実、使える戦力だろう」

 

「うん。使えると思う」

 

 鷹取は眉を寄せた。

 

 結有は続けた。

 

「でも、使うなら帰り道も考えてほしい。僕もアイも、使い捨てじゃないから」

 

「そんなつもりは」

 

「なくても、そう見えた」

 

 鷹取は黙った。

 

 結有は少しだけ笑った。

 

「僕もよくやります。そんなつもりはないけど、周りから見ると無茶に見えるやつ」

 

「君の場合は実際に無茶だ」

 

「それはそう」

 

 廊下の向こうで、アイがじっと見ている。

 暁も見ている。

 神通も見ている。

 

 監視されている。

 

 結有は思った。

 

 ありがたいような、逃げ場がないような。

 

 鷹取は低く言った。

 

「私は、勝ちたかっただけだ」

 

「うん」

 

「防衛ばかりでは、いつか押し潰される。こちらから深海側へ踏み込まなければ、戦争は終わらない」

 

「それは、たぶん合ってる」

 

 結有は言った。

 

「でも、今の案だとアイが最初に壊れる」

 

 鷹取はアイを見た。

 

 アイは無表情で見返している。

 

 鷹取は気まずそうに目を逸らした。

 

「……同個体、という呼び方は不適切だった」

 

 アイが言った。

 

「不快」

 

 鷹取の肩がわずかに跳ねる。

 

「すまなかった」

 

 アイは少し考えた。

 

「半分許す」

 

「半分?」

 

「次で決める」

 

「厳しいな」

 

「普通」

 

 結有は笑いかけて、やめた。

 

 鷹取がこちらを見たからだ。

 

「各務原提督」

 

「はい」

 

「君は、なぜあの時、私を殴らなかった」

 

 正式任官試験の乱闘のことだ。

 

 結有は少し考えた。

 

「殴ったら、僕の負けだと思ったから」

 

「勝負としては、私が床に転がされた」

 

「そうじゃなくて。怒って殴ったら、たぶん僕は自分の拳を正当化した。アイを侮辱されたから仕方ない、時雨の娘って言われたから仕方ない、相手が悪いから仕方ないって」

 

 結有は自分の手を見る。

 

「それを始めたら、止まれなくなる気がした」

 

 鷹取は黙って聞いていた。

 

「高梨さんの言葉も、たぶん同じです。作戦って名前をつけたら、いろんな無茶が正当化できる。でも、正当化できるからって、やっていいわけじゃない」

 

 鷹取は苦い顔で言った。

 

「君に説教される日が来るとは」

 

「僕もびっくりです」

 

「そこは否定しろ」

 

「無理です」

 

 少しだけ、空気が緩んだ。

 

 その時、高梨湊が廊下の角から現れた。

 

「鷹取三尉」

 

 鷹取が固まる。

 

「はい」

 

 高梨は、いつものゆるふわな笑顔だった。

 

「先ほどは、少し強く言いました」

 

「いえ」

 

「でも、撤回はしません」

 

「はい」

 

「あなたの案には、よい部分もありました。敵がアイさんへ執着している点を攻勢のきっかけと見る分析は、間違っていません」

 

 鷹取が顔を上げる。

 

「では」

 

「ですから、作り直してください」

 

 高梨はにこりと笑った。

 

「補給、退路、前進拠点、損害許容、撤退条件、アイさんの同意と安全策、結有ちゃんの霊子管理、神通さんの負担軽減、浜松と富士田子の浦の戦力比。全部入れて」

 

 鷹取の顔が、また少し青くなった。

 

「全部、ですか」

 

「はい。全部です」

 

「期限は」

 

「三日後に草案を」

 

「三日」

 

「できますよね?」

 

 可愛い声だった。

 

 逃げられない声だった。

 

 鷹取は姿勢を正した。

 

「……やります」

 

「よろしいです」

 

 高梨は結有を見る。

 

「結有ちゃん」

 

「はい」

 

「あなたも協力してください」

 

「僕も?」

 

「囮にされる側の意見は大切です」

 

「それは、たしかに」

 

「アイさんも」

 

 アイは無表情で言った。

 

「嫌なところは嫌と言う」

 

「とても大事です」

 

 高梨は満足そうにうなずいた。

 

 神通が近づいてきた。

 

「高梨提督」

 

「はい、神通ちゃん」

 

「神通です」

 

「では神通。浜松側の霊子管理と撤退線について、鷹取三尉へ資料提供をお願いします」

 

「承知しました」

 

 鷹取は、神通に頭を下げた。

 

「お願いします」

 

 神通は静かにうなずいた。

 

「こちらこそ。作戦である以上、現場が帰れるものにしましょう」

 

 鷹取の表情に、少しだけ悔しさとは違うものが混じった。

 

 それはたぶん、恥をかいた後に残る、学ぶしかないという顔だった。

 

      *

 

 その日の浜松鎮守府非公式日誌には、こう記された。

 

『鷹取修平三尉、逆侵攻作戦を提案』

『アイを囮、結有を切り札として投入する案で会議室が冷える』

『高梨湊二佐、補給・退路・安全策・戦力見積もり・人の扱いについて大論破』

『名言:現場への丸投げは作戦ではありません』

『名言:あなたは戦力を見ています。でも、人を見ていません』

『名言:戦略を戦術で覆そうとするのは馬鹿のやることです』

『鷹取、かなり恥をかく』

『ただし再提出を命じられる』

『結有、殴らなかった』

『アイ、鷹取を半分許す』

 

 最後に、誰かが追記した。

 

『高梨提督は、怒っていない時の方が怖い』

 

 結有はそれを読んで、心の底から同意した。

 

 隣でアイが言う。

 

「結有」

 

「何?」

 

「逆侵攻、いつかやる?」

 

「たぶん」

 

「怖い?」

 

「怖い」

 

「でも行く?」

 

「準備して、帰り道を作って、それでも必要なら」

 

 アイは結有の袖をつまんだ。

 

「なら、行く」

 

「一緒に?」

 

「隣」

 

 結有は小さく笑った。

 

「うん。隣」

 

 窓の外には、夜の海が広がっていた。

 

 まだ遠い敵地。

 まだ届かない深海中枢。

 いつか踏み込まなければならない場所。

 

 でも今は、まだ準備の時間だった。

 

 殴る前に、補給。

 飛ぶ前に、退路。

 怒る前に、味方の位置。

 

 そして、誰かを作戦の駒にする前に、その人の帰り道を考えること。

 

 結有は、その全部を忘れないようにしようと思った。

 

 たぶん忘れる。

 その時は、神通が静かに怒る。

 暁が叫ぶ。

 アイが袖を掴む。

 高梨が笑顔で論破する。

 

 なら、きっと大丈夫だ。

 

 少なくとも、殴る前に一度くらいは止まれる。

 

 結有はそう思った。

 

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