艦隊これくしょん 残響のアイ   作:SAMICO

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第2話 鬼の娘とバッジコレクター

 各務原結有の浜松鎮守府初日は、公式記録上、こうまとめられた。

 

『提督候補生各務原結有、着任。同日、訓練海域外縁に出現した小型深海棲艦を、軽巡神通、駆逐艦暁と共同で撃破』

 

 そこだけ読めば、実に立派な初陣である。

 

 問題は、非公式記録の方だった。

 

『救助用モーターボートを無断使用』

『候補生本人が深海棲艦へ肉薄』

『ボートから跳躍し、対象へ飛び蹴り』

『軽巡神通、駆逐艦暁、管制室勤務員、整備班、全員の心胆を寒からしめる』

『帰投後、反省文二十枚』

 

 さらにその下に、神通の端正な字で一文が添えられていた。

 

『再発防止のため、救助用モーターボートの鍵管理を厳格化すること』

 

 翌朝。

 

 浜松鎮守府の食堂で、結有は焼き魚定食を前にしていた。

 

 朝の食堂はにぎやかだった。艦娘、自衛官、整備員、妖精さんの姿が見える者と見えない者。全員がそれぞれの朝を抱え、味噌汁の湯気と食器の音の中にいる。

 

 その中央付近で、結有は明らかに注目されていた。

 

 視線が刺さる。

 

 敵意ではない。

 尊敬でもない。

 好奇心と警戒と、「あれが例の」という空気が混ざった、たいへん居心地の悪い視線だった。

 

 結有は箸を持ったまま、正面に座る暁を見た。

 

「僕、なんか見られてる?」

 

「見られてるわね」

 

 暁は牛乳を飲みながら、きっぱりと言った。

 

「昨日あれだけのことをしたんだから、当然よ。一人前のレディなら、着任初日に救助用ボートで深海棲艦へ飛び蹴りなんてしないもの」

 

「レディじゃないからなあ」

 

「そこじゃないの!」

 

 暁は箸を置き、身を乗り出した。

 

「司令官候補としての自覚の話よ。いい? 司令官はどっしり構えて、艦娘に的確な指示を出して、みんなを安心させる存在なの。自分から敵に飛んでいく存在じゃないの」

 

「でも効いたよ」

 

「効いたかどうかじゃないって昨日も言った!」

 

 暁の声に、周囲の席からくすくすと笑いが漏れた。

 

 結有は焼き魚を一口食べた。

 

「うまい」

 

「聞いてる?」

 

「聞いてる。反省してる」

 

「本当に?」

 

「昨日、二十枚書いた」

 

「反省文を書いたことと、反省したことは違うわ」

 

 暁は小さな胸を張った。

 

「神通さんが言ってたわ」

 

「神通さんの言葉は重いな」

 

「でしょ」

 

 その神通は、少し離れた席で静かに朝食を取っていた。姿勢は美しく、箸の使い方にも隙がない。だが、ときおり結有の方へ視線を向ける。そのたびに結有は背筋を伸ばした。

 

 あれは見守りではない。

 

 監視である。

 

 食堂の入口が開き、新たに数人の艦娘が入ってきた。

 

 まず目立ったのは、快活そうな駆逐艦だった。髪を揺らしながら、鼻歌まじりに歩いてくる。

 

「おっ、いたいた。あれが時雨の子っぽい?」

 

 夕立だった。

 

 その後ろから、扶桑と山城が続く。姉の扶桑は穏やかな微笑みを浮かべ、妹の山城はどこか不機嫌そうな目で周囲を見ていた。さらに少し遅れて、最上が軽い足取りで入ってくる。

 

「夕立、声が大きいよ」

 

 最上が苦笑した。

 

「でも気になるっぽい。昨日、ボートから飛んだって聞いたっぽい」

 

「聞いたの、それ?」

 

「鎮守府中で聞いたっぽい」

 

 夕立は悪びれない。

 

 暁が口を尖らせた。

 

「噂になるのが早すぎるわ」

 

「噂じゃない。事実っぽい」

 

「それが問題なのよ」

 

 夕立は結有の前まで来ると、じっと顔を覗き込んだ。

 

 明るい目だった。

 けれどその奥に、ほんの少しだけ探るような色がある。

 

「あなたが結有?」

 

「はい。各務原結有です」

 

「夕立だよ。時雨とは、いっぱい一緒に戦ったっぽい」

 

 時雨。

 

 その名が出た瞬間、結有の周囲の空気がわずかに変わった。

 

 食堂のざわめきが、一拍だけ遅れる。

 扶桑の目が伏せられ、山城の眉が少し動き、神通の箸が一瞬止まる。

 

 結有は、その変化に気づいた。

 

 もう慣れている。

 母の名が出ると、こうなる。

 

 誰もが何かを知っている顔をする。

 でも、誰も最後までは話さない。

 

 結有は茶碗を置いた。

 

「母がお世話になりました」

 

 そう言うと、夕立は少しだけ目を丸くし、それから笑った。

 

「うん。時雨もきっと、結有に会ったらびっくりするっぽい」

 

「ボートの件で?」

 

「それもあるっぽい」

 

 夕立は隣の席に座った。扶桑と山城、最上も近くに腰を下ろす。

 

 これで結有の周囲は、急に艦娘密度が高くなった。

 

 暁はなぜか得意げだった。

 

「結有さんは私たちの司令官候補なの。だから、何か聞きたいことがあったら、まず私を通してもらうわ」

 

「暁が?」

 

 最上が笑いをこらえる。

 

「何よ」

 

「いや、頼もしいなって」

 

「当然よ。一人前のレディだもの」

 

 山城が結有を見た。

 

「それで、あなた。昨日の飛び蹴り、本当に自分の判断でやったの?」

 

「はい」

 

「誰かに命じられたわけでもなく?」

 

「はい」

 

「不幸だわ……浜松鎮守府が」

 

「山城」

 

 扶桑が柔らかくたしなめる。

 

「でも姉様、着任初日にこれよ。次は何をするかわからないわ」

 

「次は許可を取ります」

 

 結有が言うと、山城は額に手を当てた。

 

「許可が出ると思っているところが不幸だわ」

 

 周囲からまた笑いが起きた。

 

 そのとき、整備班の若い隊員が、盆を持ったまま近づいてきた。顔には好奇心がはっきり出ている。後ろに二人、同じような隊員が控えていた。

 

「あの、各務原候補生」

 

「はい」

 

「少し、聞いてもいいですか」

 

「僕に答えられることなら」

 

 隊員は一度周囲を見た。艦娘たちの視線が集まっていることに気づき、少し緊張したらしい。だが好奇心が勝った。

 

「各務原一佐の娘さん、なんですよね」

 

「はい。父は各務原裕二一等陸佐です」

 

 その名に、今度は自衛官側が反応した。

 

 鬼の各務原。

 

 陸自の教導隊長。訓練で泣かされた者、遠巻きに伝説だけ聞いた者、映像教材で見た者。海の鎮守府であっても、その名は妙な通り方をしていた。

 

 隊員は声を落とした。

 

「じゃあ、あの噂って本当なんですか」

 

「噂?」

 

 結有は味噌汁を飲んだ。

 

「父の噂はいろいろあるからなあ。訓練中に熊を睨んで帰らせたとか?」

 

「それも聞きましたけど、違います」

 

「夜間行軍で迷子の隊員を匂いで見つけた?」

 

「それも聞きましたけど」

 

「新隊員の靴音だけで出身県を当てる?」

 

「そんなのもあるんですか」

 

「外れます。父は栃木と茨城をよく間違えます」

 

 暁が小声で言った。

 

「その噂、どれも変じゃない?」

 

 隊員は覚悟を決めたように言った。

 

「バッジコレクター伝説です」

 

 食堂の一部が、ぴたりと静かになった。

 

 最上が「ああ」と苦笑する。

 

 夕立は目を輝かせた。

 

「何それ、面白そうっぽい」

 

 山城はすでに嫌な予感がしている顔だった。

 

 扶桑は困ったように微笑んでいる。神通は少し離れた席から、聞こえていないふりをして聞いていた。

 

 結有は箸を止めた。

 

「バッジコレクター伝説か」

 

「やっぱり知ってるんですか」

 

「知ってるというか、家にある」

 

「あるんですか!?」

 

 隊員の声が裏返った。

 

 暁が身を乗り出した。

 

「待って。バッジコレクターって何?」

 

 結有は少し考えた。

 

「父が、趣味でヤクザの事務所を襲撃して、組の代紋バッジを持ち帰って集めてたっていう噂」

 

 食堂が沈黙した。

 

 完全な沈黙だった。

 

 味噌汁の湯気だけが、のんびり立ちのぼる。

 

 暁が、ぎこちなく笑った。

 

「ま、またまた。そんなことあるわけないじゃない。いくら鬼の各務原さんでも、自衛官でしょう?」

 

「うん」

 

「だったら、そんな犯罪みたいな」

 

「犯罪だね」

 

「認めないで!」

 

 最上が額を押さえた。

 

「いや、それ、さすがに誇張された武勇伝じゃないのかな」

 

 結有は焼き魚の骨を丁寧に外した。

 

「僕も小さい頃はそう思ってた」

 

「小さい頃は?」

 

「ある日、父の部屋を掃除してたら、棚に小箱があって」

 

「小箱」

 

「開けたら、バッジがずらっと」

 

 隊員たちが息を呑んだ。

 

 夕立が楽しそうに聞く。

 

「何個くらい?」

 

「僕が見たときは、二十七個」

 

「多いっぽい!」

 

 山城が青ざめた。

 

「何を集めているの、あの人……」

 

「父いわく、若気の至り」

 

 結有は淡々と言った。

 

「若気で済むの!?」

 

 暁が叫んだ。

 

 結有は首を傾げた。

 

「父は『今はもうやってない』って言ってた」

 

「今は、という言葉の重さ!」

 

「あと『趣味ではない。訓練の一環だ』とも」

 

 神通が、遠くの席で静かに湯飲みを置いた。

 

 音は小さかった。

 だが、その場の何人かは反射的に背筋を伸ばした。

 

 若い隊員は、もう引き返せない顔で聞いた。

 

「襲撃って、具体的には」

 

「父から聞いた話だと、当時はまだ若くて、血の気が多くて、町で因縁をつけられたらしい」

 

「そこから事務所まで行くんですか」

 

「行ったらしい」

 

「一人で?」

 

「一人で」

 

 暁は口をぱくぱくさせている。

 

 扶桑が困ったように言った。

 

「結有さん、その話は食堂でしてよいものなのでしょうか」

 

「だめかもしれません」

 

「ではなぜ」

 

「聞かれたので」

 

 山城が深いため息をついた。

 

「不幸だわ……血筋が」

 

 結有は淡々と続けた。

 

「父は事務所に入って、そこにいた人たちを全員制圧して、壁に飾ってあった代紋を一つ持って帰った。そしたら、後日別の組の人たちが『うちの方が強い』って来て、それも制圧して、またバッジが増えた」

 

 最上が笑っていいのか迷っている顔をした。

 

「何その収集システム」

 

「父は『向こうから来た』って言ってた」

 

「その理屈は危ないなあ」

 

「で、いつの間にか、父の部屋にバッジ箱ができた」

 

 隊員の一人が、恐る恐る言った。

 

「それ、都市伝説じゃなくて、本当なんですか」

 

「本当」

 

「証拠は」

 

「写真あるよ」

 

 結有はポケットからスマートフォンを取り出しかけた。

 

 その瞬間、神通が立ち上がった。

 

「各務原候補生」

 

「はい」

 

「その写真は、ここでは出さないでください」

 

「はい」

 

 結有は素直にスマートフォンをしまった。

 

 神通は静かに歩いてきた。食堂の空気が自然に整列する。誰も号令をかけていないのに、なぜか皆が姿勢を正した。

 

「皆さん」

 

 神通は穏やかに言った。

 

「各務原一佐の過去について、真偽不明の逸話を勤務中に広めることは望ましくありません」

 

「真実です」

 

 結有が言った。

 

「各務原候補生」

 

「はい」

 

「真実であってもです」

 

「はい」

 

 暁が小さく手を上げた。

 

「でも神通さん、私、ちょっとだけ気になるわ」

 

「暁さん」

 

「だって、バッジが二十七個も」

 

「暁さん」

 

「はい」

 

 暁は背筋を伸ばした。

 

 神通は結有に向き直る。

 

「お父様は、その件で処分を受けなかったのですか」

 

「受けたみたいです」

 

「でしょうね」

 

「ただ、相手側がいろいろ表沙汰にしたくなかったのと、父がその後やたら任務で成果を出したのと、あと当時の上官が『あいつを営内に閉じ込めるより、訓練場で走らせた方が社会のためだ』と言ったらしくて」

 

「……」

 

「最終的に、ものすごく怒られて終わったって」

 

 山城がつぶやいた。

 

「怒られて終わる話ではないわ」

 

「父もそう言ってた。『普通は終わらん』って」

 

 結有は味噌汁を飲み干した。

 

「だから父は、自分のことを棚に上げて、僕にはよく言うんだ。無茶をするな、法を守れ、上官の命令を聞けって」

 

 最上が苦笑した。

 

「説得力あるのかないのか、わからないね」

 

「父いわく、『俺のようになるな』は経験者の言葉だから重いらしい」

 

「それは重いっぽい」

 

 夕立がうなずいた。

 

 暁は何かを考え込んでいた。

 

「つまり、結有さんが昨日ボートで飛び蹴りしたのは」

 

「父のせいじゃない」

 

「でも血筋では?」

 

「否定は難しい」

 

「難しいんだ……」

 

 食堂のあちこちで笑いが起きた。

 

 笑いながらも、皆の結有を見る目は少し変わっていた。

 

 時雨の娘。

 

 その重い肩書きだけでなく、鬼の各務原の娘。バッジコレクターの娘。着任初日に深海棲艦へ飛び蹴りした提督候補生。深海棲艦を刺身にしたことのある危険人物。

 

 情報が増えるほど、尊敬から遠ざかっていく。

 その代わり、距離は少し近くなった。

 

 結有は、それを悪くないと思った。

 

 母の名前だけで見られるより、ずっといい。

 

      *

 

 朝食後、結有は神通に呼び止められた。

 

 暁も一緒だった。本人いわく「監督役として当然」らしい。

 

 場所は訓練場脇の小さな会議室。窓の向こうには、朝の海が見える。昨日、結有が飛んだ海だ。

 

 神通は卓上に数枚の書類を置いた。

 

「昨日の件について、正式な処分は訓告です」

 

「訓告」

 

「本来なら、もっと重くなってもおかしくありませんでした。未確認深海棲艦への接近、救助艇の無断使用、命令違反。候補生でなければ、かなり厳しい扱いになります」

 

「はい」

 

 結有は素直に頭を下げた。

 

「すみませんでした」

 

 神通は、そのまましばらく結有を見ていた。

 

「反省はしていますか」

 

「しています」

 

「では、同じ状況でもう一度、同じことをしますか」

 

 暁がぎょっとした。

 

「神通さん?」

 

 結有は答えに詰まった。

 

 ここで「しません」と言えばいい。

 それが正しい。

 それが模範解答だ。

 

 でも。

 

 あの海で、深海棲艦がこちらへ砲を向けた。

 体の奥が熱くなった。

 放っておけないと思った。

 

 結有は嘘が下手だった。

 

「たぶん、します」

 

 暁が頭を抱えた。

 

「なんで正直に言うの!」

 

 神通は怒らなかった。

 

 ただ、静かに言った。

 

「そうですか」

 

「すみません」

 

「謝罪ではなく、理解が必要です。あなたが前に出る人間だということは、昨日でわかりました」

 

 神通は書類を一枚めくった。

 

「あなたの霊子値は、通常の提督適性者を大きく上回っています。艤装への干渉、深海棲艦への直接打撃、妖精さんとの同調。いずれも異常値です」

 

「異常値」

 

「はい」

 

「褒め言葉ですか」

 

「評価語です」

 

「なるほど」

 

 暁が横から言った。

 

「便利な言い方ね」

 

 神通は続けた。

 

「あなたが前線に出ることを、全面的に否定するだけでは、おそらく意味がありません。ですが、無秩序に出られると部隊全体が危険になります」

 

「はい」

 

「ですから、今後はあなたの行動を制御するための訓練を行います」

 

「制御」

 

「まず、勝手に走り出さない訓練です」

 

 暁がうなずいた。

 

「一番大事ね」

 

「次に、艦娘の位置を把握した上で前に出る訓練」

 

「前に出る前提なのね」

 

「最後に、前に出た後で生きて帰る訓練」

 

「そこは本当に大事!」

 

 結有は少し目を丸くした。

 

「神通さん、止めないんですか」

 

「止めます」

 

「ですよね」

 

「ですが、止めきれない状況もあるでしょう。その時に、あなたが勝手に死なないようにします」

 

 神通の声は淡々としていた。

 

 だが、その言葉の奥にあるものは冷たくなかった。

 

 結有は、ふと母のことを思い出した。

 

 時雨も、こういう声で何かを言うことがあった。優しいだけではない。怒っているだけでもない。相手を生かすために、必要なことを言う声。

 

 結有は背筋を伸ばした。

 

「よろしくお願いします」

 

「はい。では本日の午前は基礎座学です」

 

「座学」

 

 結有の顔がわずかに曇った。

 

 暁が目ざとく気づいた。

 

「今、嫌そうな顔したわね」

 

「してない」

 

「したわ」

 

「少し」

 

「したのね」

 

 神通は書類を整えた。

 

「内容は、提督としての部隊指揮、鎮守府規則、救助艇管理規定、そして命令系統についてです」

 

「救助艇管理規定」

 

「昨日の件で追加しました」

 

「僕のせいですね」

 

「はい」

 

 まったく否定されなかった。

 

      *

 

 午前の座学は、結有にとって深海棲艦との戦闘より厳しかった。

 

 神通の説明はわかりやすい。わかりやすいが、逃げ場がない。暁は隣で真面目にノートを取っている。途中で結有が窓の外を見ると、暁が肘でつついた。

 

「司令官候補、集中」

 

「はい」

 

「一人前のレディは、ちゃんと聞くものよ」

 

「暁は偉いな」

 

「と、当然よ」

 

 暁は少し得意げになった。

 

 昼前、座学が終わる頃には、結有のノートにはこう書かれていた。

 

『救助用モーターボートは救助用』

『命令違反はだめ』

『神通さんは怒ると静か』

『暁は牛乳が好き』

『バッジの話は食堂でしない』

 

 神通はそのノートを見て、しばらく黙った。

 

「要点は、ある程度押さえています」

 

「ありがとうございます」

 

「ただし、余計な情報が多いです」

 

「すみません」

 

 その時、会議室の扉がノックされた。

 

 入ってきたのは最上だった。

 

「失礼。神通、ちょっといいかな。管制から連絡」

 

 神通の表情が切り替わる。

 

「何かありましたか」

 

「昨日の未確認反応、また出た。浜松沖、昨日より近い」

 

 結有の胸の奥が、静かに熱を帯びた。

 

 白い髪。

 黒い目。

 波間に立っていた幼い少女。

 

「人影は?」

 

 結有が思わず聞いた。

 

 最上は彼女を見た。

 

「まだ確認中。でも、霊子反応が変なんだ。艦娘反応と深海反応が混ざってる。管制の子が、測定器の故障かって言ってた」

 

 暁が不安そうに神通を見た。

 

「それって、昨日結有さんが見た子?」

 

「可能性はあります」

 

 神通は短く判断した。

 

「最上さん、警戒態勢を。私は管制に入ります。暁さんは各務原候補生と待機」

 

「了解」

 

 最上が出ていく。

 

 結有は立ち上がった。

 

「僕も行きます」

 

「待機です」

 

 神通の声が飛ぶ。

 

 昨日と同じだ。

 

 でも、今日は少し違った。

 

 神通は結有の目を見て、続けた。

 

「出る必要があると判断した場合、こちらから命じます。勝手に走らないこと」

 

「……はい」

 

 結有は拳を握った。

 

 暁が横でじっと見ている。

 

「結有さん」

 

「何?」

 

「今、ボートのこと考えたでしょ」

 

「少し」

 

「考えない!」

 

「はい」

 

 窓の外の海は、昼の光を受けて明るかった。

 

 けれどその向こうに、何かがいる。

 

 敵かもしれない。

 味方かもしれない。

 どちらでもない、何かかもしれない。

 

 結有は、昨日の声を思い出した。

 

 あと任せた。

 

 それが誰の声なのか、まだわからない。

 

 ただ、海の向こうで誰かが待っている。

 

 そんな気がした。

 

      *

 

 同じ頃。

 

 浜松沖の波間に、白い少女が浮かんでいた。

 

 白髪は海水に濡れて頬に張りつき、黒い瞳は瞬きもせず、遠くの鎮守府を見ている。青白い肌。幼い輪郭。人間の子供のように見えて、人間の気配からは少しずれている。

 

 彼女の周囲では、深海棲艦の残骸のような黒い泡が、音もなく弾けていた。

 

 少女は、自分の胸に手を当てた。

 

 そこに鼓動はある。

 

 だが、それが誰のものなのか、彼女自身にもわからない。

 

 深い海から、声がする。

 

 戻れ。

 

 遠い光の方からも、声がする。

 

 行って。

 

 どちらも、自分を呼んでいる気がした。

 

 少女は、小さくつぶやいた。

 

「……アイ」

 

 それが名前なのか、言葉なのか、祈りなのか。

 

 まだ、誰も知らなかった。

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