富士田子の浦鎮守府の談話室には、奇妙な静けさがあった。
原因は、高梨湊である。
彼女はソファに座り、分厚い文庫本を膝に置いていた。
湯呑みには温かいお茶。
テーブルにはしらすせんべい。
窓の外には、穏やかな港と富士山。
たいへん平和な光景だった。
ただし、高梨湊の目は平和ではなかった。
「……なるほど」
高梨は本を閉じた。
隣にいた那珂が、嫌な予感を覚えた顔をする。
「湊さん?」
「はい?」
「その顔、作戦会議で誰かを逃がさない時の顔だよ?」
「そんなことありませんよお」
高梨はにこりと笑った。
その笑顔を見て、川内は小さく言った。
「うわ、怒ってる」
大和は静かにお茶を置いた。
「何を読まれていたのですか?」
「銀河英雄伝説です」
高梨は本の表紙を撫でた。
「名作ですねえ。たいへん面白かったです」
那珂がほっとした。
「なんだ、面白かったんだ」
「はい。面白かったです」
高梨は穏やかに続けた。
「ただ、主要人物の大半は指揮官としてだいぶ問題があります」
那珂は黙った。
川内は笑った。
「始まった」
*
数日後。
浜松鎮守府との合同戦略勉強会で、高梨は一冊の本を机に置いた。
結有、アイ、神通、暁。
そこに鷹取修平もいた。
鷹取は前回の逆侵攻作戦案で高梨に大論破され、現在は再提出案の作成中である。
顔つきは以前より少しだけ慎重になっていた。
高梨はいつもの柔らかい声で言った。
「今日は、教材として銀河英雄伝説を扱います」
結有は目を瞬いた。
「小説が教材ですか?」
「はい。戦略、統治、責任、組織、英雄依存。学ぶところがたくさんあります」
アイが本を見た。
「宇宙?」
「宇宙です」
「深海は?」
「出ません」
「残念」
暁は腕を組んだ。
「一人前のレディとして、名作から教養を学ぶのは大事ね」
神通は高梨を見ていた。
「高梨提督」
「はい、神通ちゃん」
「神通です」
「はい、神通」
「教材にすると言いつつ、かなり辛口なのでは」
「うふふ」
神通は少しだけ目を伏せた。
「やはり」
高梨は本を開いた。
「まず、ラインハルトさんから」
鷹取が少し身を乗り出した。
「銀河帝国を改革した天才ですね」
「私怨で国を壊した大罪人です」
会議室が静かになった。
結有が小声で言う。
「初手が強い」
アイがうなずく。
「袋叩き」
高梨はにこにこしている。
「もちろん、旧体制が腐敗していたことは事実です。能力もあります。魅力もあります。軍事的才能も、政治的実行力も高いです」
「では」
鷹取が言いかける。
高梨は続けた。
「ですが、出発点が姉を奪われた私怨です。結果として改革したからといって、権力掌握と戦争拡大の動機が美化されるわけではありません」
暁が眉をひそめる。
「でも、悪い貴族を倒したんでしょう?」
「はい。そこは評価できます」
高梨はうなずいた。
「ですが、キルヒアイスさんの死後は、かなり危うい。戦いそのものが趣味に近づいています。無駄に将兵を死なせ、戦争を終わらせられる立場にいながら、戦う理由を自分の中に作り続けている」
高梨の声は柔らかいままだった。
「これは指揮官として極悪です」
鷹取が顔をしかめる。
「極悪、とまで言いますか」
「言います」
高梨は即答した。
「戦争を終わらせる権力を持った者が、自分の空虚さを埋めるために戦争を続ける。それは才能の問題ではなく、罪の問題です」
結有は黙った。
強い人が、戦う理由を失えない。
その怖さは、少しわかる気がした。
高梨は次の名を出した。
「次に、キルヒアイスさん」
暁が言った。
「いい人なんでしょう?」
「はい。人格は非常によいです」
「じゃあ」
「ですが、自身の重要性を測り損ねた愚か者です」
暁が固まった。
「いい人なのに?」
「いい人であることと、責任を果たせることは別です」
高梨は静かに言った。
「キルヒアイスさんは、ラインハルトさんの歯止めでした。友人であり、補佐であり、倫理的制御装置でもあった。その自覚が足りません」
神通が少し目を伏せる。
高梨は続ける。
「自分が死んだら、ラインハルトさんがどうなるか。自分がそばにいなければ、どれだけ多くの人が巻き込まれるか。そこを軽く見た。善良さだけでは足りません。重要な人間は、生き残る責任があります」
結有は、神通に言われたことを思い出した。
時雨と同じ終わり方を選ばなくていい。
アイが結有の袖をつまむ。
「結有」
「何?」
「生き残る責任」
「うん」
「覚えて」
「覚える」
高梨の視線が少しだけ結有へ向いた。
優しい。
でも逃がさない目だった。
「次に、ヤンさん」
鷹取が少し身構えた。
「自由惑星同盟の名将ですね」
「言行不一致です」
結有は思わず笑いそうになった。
高梨は容赦がない。
「ヤンさんは民主主義を信奉しています。そこはよいです。権力への警戒、個人崇拝への嫌悪、軍人が政治を壟断することへの危機感。正しい部分は多い」
「では、なぜ言行不一致と?」
鷹取が問う。
「最終的に、ヤン艦隊で同盟から離反し、私兵団を作ったからです」
高梨は本を閉じた。
「事情はあります。政府の腐敗も、状況の逼迫も、彼個人の苦悩も理解できます。でも、民主主義を信じると言いながら、制度の外で武装集団を維持する。これはかなり危険です」
神通が静かに言った。
「非常時の例外が、原則を壊す」
「はい」
高梨はうなずいた。
「その通りです。ヤンさんは権力を欲しがらない。だから安全に見える。でも、欲しがらない人の周りに権力が集まることもあります。本人が望まなくても、結果として私兵団になる」
結有は少し考えた。
「でも、ヤンさんがいなかったらもっとひどいことになったんじゃ」
「その可能性はあります」
高梨は認めた。
「だからこそ難しい。私はヤンさんを無能とは言いません。むしろ非常に優秀です。ただ、自分の言葉と自分の行動の矛盾を、最後まで解消できなかった人だと思います」
アイが言う。
「優秀でも、だめ?」
「優秀だからこそ、だめなところが大きくなります」
「結有も?」
「はい」
「私も?」
「はい」
アイは少しだけ嫌そうな顔をした。
「面倒」
「責任は面倒です」
高梨は微笑んだ。
「でも、面倒から逃げると、誰かが死にます」
会議室は静かになった。
高梨は次の人物へ移る。
「ユリアンさんは、及第点です」
暁が目を丸くした。
「及第点なんだ」
「はい。完璧ではありません。でも、自分が何を継いだのかを考え、現実の中で責任を引き受けようとしている。若さを考えると、かなりよいです」
「高梨さんの及第点って、かなり高評価では?」
結有が言う。
高梨はにこりと笑った。
「そうですねえ。私の及第点は、褒め言葉です」
神通が小さく言う。
「高梨提督の及第点は、実質かなり高評価です」
「神通ちゃんも、昔は及第点でしたよ」
「神通です」
川内が通信越しに笑っていた。
『神通、よかったじゃん』
那珂も言う。
『那珂ちゃんは? 那珂ちゃんは何点?』
「那珂ちゃんは士気維持能力が非常に高いので、別枠です」
『やったー!』
アイが小声で言った。
「別枠」
「那珂さんっぽいね」
高梨は次に、少し意外な名前を出した。
「トリューニヒトさん」
鷹取が眉をひそめる。
「評価するのですか?」
「善悪は別です」
高梨は即座に釘を刺した。
「彼の行動を善いとは言いません。ですが、首尾一貫しています」
「首尾一貫?」
「はい。自分の保身、権力維持、生存を最優先する。そのために言葉を選び、立場を変え、状況に適応する。道徳的には問題がありますが、行動原理は一貫しています」
暁は少し嫌そうな顔をした。
「それって、嫌な人じゃない」
「嫌な人です」
高梨はあっさり言った。
「でも、嫌な人だからといって、分析しなくてよいわけではありません。むしろ、こういう人ほど組織には現れます。理念ではなく自己保存で動く人。理想を語る人より、ある意味では読みやすい」
鷹取は黙って聞いていた。
高梨は最後に、少し声を低くした。
「そして、フォークさん」
会議室の空気が変わった。
高梨の視線が、鷹取に向く。
「鷹取三尉」
「はい」
「あなたがなりかけた教訓です」
鷹取の顔が強張った。
結有も息を呑む。
高梨は容赦しなかった。
「願望を作戦と呼ぶ。準備不足を勇気と呼ぶ。現実的な補給や退路を軽視し、壮大な構想を掲げる。成功すれば自分の功績、失敗すれば現場の努力不足。これは最悪です」
鷹取は拳を握った。
だが、反論しなかった。
高梨は続ける。
「あなたの逆侵攻案は、そこまでひどくはありませんでした。敵のアイさんへの執着に着目した点は悪くない。ですが、補給と退路と現場の負担を軽く見た。そのまま進めれば、フォークさんの失敗に近づいたでしょう」
鷹取は小さく息を吐いた。
「……認めます」
暁が少し驚いた顔をした。
アイも鷹取を見る。
「認めた」
「認めるしかない」
鷹取は苦々しく言った。
「再提出案を作っていて、思い知りました。補給がまったく足りない。撤退線を作るだけで戦力が減る。アイさんへの干渉対策を入れると、突入速度が落ちる」
高梨はうなずいた。
「それが作戦です」
「派手さが消えます」
「はい」
「勝てるかわからなくなる」
「いえ。勝てるかどうかが、ようやく見えるようになります」
鷹取は黙った。
高梨は少しだけ柔らかく言った。
「恥をかいたなら、教材にしましょう。恥は使えます。使わずに隠すと腐ります」
結有は小声で言う。
「怖いけどいいこと言う」
アイがうなずく。
「高梨、しらす丼みたい」
「どういう意味?」
「白いけど強い」
「たぶん違う」
*
勉強会の後半は、各人物を提督教育に置き換える時間になった。
高梨はホワイトボードに書く。
『ラインハルト型』
『強烈な個人目的で組織を動かす。能力が高いほど危険』
『キルヒアイス型』
『善良だが、自分の重要性を軽く見る。死んではいけない人が死ぬ危険』
『ヤン型』
『理念と現実の矛盾。本人の意志に反して私兵団化する危険』
『トリューニヒト型』
『自己保存で一貫。悪徳だが予測可能』
『フォーク型』
『願望を作戦と呼ぶ。最悪』
結有はホワイトボードを見て、うなった。
「僕はどれですか」
「現状は、キルヒアイス型とラインハルト型の危険を少しずつ持っています」
「重い」
「前に出すぎる。自分がいなければいけない場所を軽く見る。怒りで戦場を選びかねない」
「はい」
アイが言う。
「私は?」
「キルヒアイス型の危険があります」
アイは首を傾げた。
「赤い人?」
「赤毛の方ですね。アイさんは、結有ちゃんのために自分を軽く扱う危険があります」
アイは少し考えた。
「結有が死ぬよりはいい」
「それが危険です」
高梨の声が、少しだけ鋭くなった。
「アイさんが自分を軽く扱えば、結有ちゃんも壊れます」
アイは結有を見た。
結有もアイを見た。
高梨は続ける。
「隣にいるというのは、相手のために消えることではありません。一緒に帰ることです」
アイは黙った。
それから、小さく言った。
「わかった」
暁が手を上げた。
「私は?」
「暁さんは、今のところ非常に大事な常識ブレーキです」
「常識ブレーキ」
「はい。とても重要です」
暁は胸を張った。
「当然よ。一人前のレディだもの」
「ただし、声が大きい」
「そこは仕方ないわ!」
神通が言った。
「私は?」
高梨はにこりと笑った。
「神通ちゃんは、昔はキルヒアイス型とルーデル型の混合でした」
「神通です」
「今は、帰り道を作る側になりました」
神通は少し黙った。
「及第点でしょうか」
「かなり高得点です」
神通は目を伏せた。
「ありがとうございます」
鷹取が自分から口を開いた。
「私は、フォーク型ですか」
「なりかけでした」
「今は?」
「反省できるフォーク型です」
結有が思わず言った。
「それ、褒めてます?」
「褒めていますよお」
高梨は笑った。
「反省できるだけで、だいぶ違います」
鷹取は複雑そうな顔をした。
「嬉しくはありませんが、受け取ります」
「よろしいです」
*
勉強会の最後、高梨は本を閉じた。
「物語の英雄は魅力的です。強い人、賢い人、美しい理想を持つ人。そういう人たちを見ると、私たちはつい憧れます」
全員が黙って聞いた。
「でも、現実の指揮官は、物語の美しさに酔ってはいけません。誰が死んだか。誰が責任を取ったか。誰が帰り道を用意したか。そこを見なければいけません」
高梨は穏やかに笑った。
「銀河英雄伝説は名作です。だからこそ、批判しながら読む価値があります」
アイが手を上げた。
「高梨」
「はい」
「面白い?」
「とても」
「批判してるのに?」
「好きだから、真面目に批判するんです」
アイは少し考えた。
「なら、読む」
「ぜひ」
結有が言った。
「アイ、長いよ?」
「結有も読む」
「僕も?」
「隣」
「読書も隣なんだ」
「うん」
暁が胸を張る。
「なら、読書会ね。一人前のレディとして、私も参加するわ」
神通が言った。
「感想文も書きましょう」
結有が固まった。
「感想文」
「はい」
「何枚ですか」
「まず五枚」
「まず?」
「内容次第で増えます」
アイが結有を見る。
「脳筋、読書で反省文」
「反省文じゃなくて感想文」
「似てる」
「似てるかも」
鷹取が小さく笑った。
結有はそれを見て少し驚いた。
以前の鷹取なら、笑わなかったかもしれない。
高梨は満足そうにお茶を飲んだ。
*
その日の浜松鎮守府非公式日誌には、こう記された。
『高梨湊二佐、銀河英雄伝説を教材化』
『ラインハルト評:私怨で国を壊した大罪人。キルヒアイス死後は戦いを趣味にした極悪人』
『キルヒアイス評:自身の重要性を測り損ねた愚か者』
『ヤン評:民主主義を信奉しつつ私兵団を作った言行不一致』
『ユリアン評:及第点』
『トリューニヒト評:善悪は別として首尾一貫』
『フォーク評:鷹取がなりかけた教訓』
『鷹取、反省できるフォーク型へ進化』
『暁、常識ブレーキとして評価』
『結有とアイ、読書会参加決定』
『神通、感想文を命じる』
最後に、誰かが追記した。
『高梨提督は、好きな作品ほど容赦なく読む』
夜。
結有とアイは、談話室のソファに並んで座っていた。
机の上には、銀河英雄伝説の一巻。
隣にはノート。
神通が用意した感想文用紙もある。
結有は本を開いた。
「長いな」
「読む」
「うん」
「結有」
「何?」
「私、消えない」
結有はアイを見た。
アイは本を見たまま言った。
「キルヒアイスにならない」
結有は少しだけ息を止めた。
それから、笑った。
「僕も、戦いを趣味にしない」
「ラインハルトにならない?」
「たぶん」
「たぶん?」
「ならない」
「よし」
アイは結有の袖をつまんだ。
「隣で読む」
「うん。隣で」
窓の外には、夜の海があった。
物語の宇宙は遠い。
でも、そこにある失敗や責任は、海の戦場にもつながっている。
結有はページをめくった。
戦争の物語を、戦争の中で読む。
それは少し不思議で、少し怖くて、たぶん必要なことだった。