高梨湊は、静かな声で恐ろしいことを言う。
それを、各務原結有はもう知っていた。
敵の三倍、できれば四倍を揃えて袋叩き。
準備不足を奇策と呼ぶな。
現場への丸投げは作戦ではない。
戦略を戦術で覆そうとするのは馬鹿のやること。
どれも柔らかい声で言われる。
だから余計に逃げ場がない。
その日、富士田子の浦鎮守府の談話室で、高梨は一冊の本を閉じた。
「今日は、“魔術師、還らず”について話しましょう」
結有は少し身構えた。
隣にはアイ。
正面には暁。
神通は少し離れた席でお茶を飲んでいる。
鷹取修平もいた。最近は、高梨の勉強会に半ば強制参加している。
机の上には『銀河英雄伝説』の該当巻。
その横には、現実の歴史資料。
表紙には、2001年9月11日の文字があった。
アイが首を傾げる。
「九、一一」
「アメリカで起きた大規模テロです」
高梨は答えた。
「多くの人が亡くなり、世界の安全保障、政治、社会の空気を大きく変えました」
暁が少し表情を曇らせる。
「現実の話なのね」
「はい。だから、軽く扱ってはいけません」
高梨の声はいつも通り穏やかだった。
だが、その穏やかさには、線が引かれていた。
ここから先は冗談にしない、という線。
結有は黙って背筋を伸ばした。
*
「ヤンさんの死は、物語の中で大きな転換点です」
高梨は言った。
「ひとりの優れた人物が、テロによって失われる。戦場で正面から敗れたのではなく、政治的暴力によって突然消される。残された人々は、怒り、悲しみ、混乱します」
アイが小さく言う。
「卑怯」
「はい。卑怯です」
高梨はうなずいた。
「テロは、そういうものです。弱い手段ではありません。むしろ、社会の急所を狙う暴力です」
鷹取が口を開く。
「軍事的には、非正規の攻撃ですね」
「それだけでは足りません」
高梨はすぐに言った。
「テロの目的は、単に人を殺すことではありません。恐怖を広げること。社会に疑心暗鬼を植え付けること。被害を受けた側に、冷静さを失わせることです」
神通が静かに目を伏せる。
高梨は続けた。
「テロリストは、歴史を停滞させられます」
結有はその言葉を繰り返した。
「停滞」
「はい。社会を傷つけ、時間を止める。人々を、あの日の恐怖に縛りつける。何かを進めようとしていた国や組織を、一度立ち止まらせる」
高梨はそこで、少し声を低くした。
「ですが、歴史を逆行させるのは被害者側です」
談話室が静かになった。
暁が眉をひそめる。
「どういう意味?」
「テロを受けた側は、怒ります。当然です。悲しみます。恐怖します。それも当然です」
高梨はゆっくりと言った。
「でも、その後に何を選ぶかは、被害を受けた側の責任です」
結有は言葉を失った。
高梨の目は、まっすぐ結有を見ていた。
「自由を捨てるのか。法を曲げるのか。手続きを壊すのか。疑わしいというだけで誰かを罰するのか。敵に似ているという理由で、別の誰かを道具扱いするのか」
アイの指が、結有の袖を掴んだ。
高梨は言った。
「テロリストは、そこまでは強制できません。彼らは傷をつけます。恐怖を植えます。でも、その恐怖を理由に、自分たちの社会を過去へ戻すかどうかは、こちら側の選択です」
*
高梨は資料を開いた。
「9.11の後、世界は大きく変わりました。安全保障体制、監視、戦争、敵味方の線引き。もちろん、必要な対策もありました。何もしないという選択はあり得ません」
鷹取がうなずく。
「攻撃された以上、反撃と防衛強化は当然です」
「はい。当然です」
高梨は認めた。
「ただし、“当然”の中に、危険が混ざります」
「危険?」
「被害を受けたから、こちらは何をしてもよい。敵が残虐だから、こちらも手続きを省いてよい。恐怖があるから、疑わしい者をまとめて敵として扱ってよい」
高梨の声は、少しだけ冷たくなった。
「その考えは、歴史を逆行させます」
結有は、アイを見た。
白髪。
黒い目。
深海反応を持つ少女。
もし、深海棲艦が浜松をもっとひどく襲ったら。
もし、暁が傷ついたら。
もし、神通が沈みかけたら。
もし、アイが敵と共鳴して暴走しかけたら。
自分は、冷静でいられるのか。
アイを疑う人間を、殴らずにいられるのか。
アイを兵器として使おうとする本部に、手続き通り反論できるのか。
わからなかった。
高梨は、そこを見透かしたように言った。
「結有ちゃん」
「はい」
「あなたは、怒る人です」
「……はい」
「それは悪いことではありません。怒るべき時に怒れない人は、守るべきものを守れません」
結有は少しだけ顔を上げた。
「ですが」
来た。
結有は思った。
「怒りは、免許ではありません」
高梨は言った。
「アイさんが傷つけられた。暁さんが撃たれた。神通が倒れた。だから何をしてもいい。そう考えた瞬間、あなたは守る側から壊す側へ近づきます」
アイの指に力が入る。
「結有は、ならない」
アイが言った。
高梨は優しくアイを見る。
「そう信じたいですね。でも、信じるだけでは足りません」
「足りない?」
「はい。仕組みが必要です。止める人が必要です。手続きが必要です。怒っている時ほど、誰かに見てもらう必要があります」
神通が静かに言った。
「そのために、私たちがいます」
暁も胸を張る。
「私も止めるわ。大声で」
アイが言う。
「私は物理で」
結有は少し笑った。
「全方向から止められる」
高梨も微笑んだ。
「それがよいんです」
*
鷹取が手を上げた。
「高梨二佐」
「はい」
「テロを受けた側が、強硬策に傾くのは避けがたいのではありませんか。弱腰と見られれば、次の攻撃を招く」
「その通りです」
高梨はあっさり言った。
「だから難しいんです」
鷹取は少し驚いたようだった。
高梨は続ける。
「強く出る必要がある時はあります。敵の拠点を叩く。資金源を断つ。協力者を拘束する。監視を強化する。どれも必要になり得ます」
「では」
「ですが、必要な強硬策と、怒りに任せた逆行は違います」
高梨は指を一本立てた。
「目的が明確か」
二本目。
「期限があるか」
三本目。
「監督する仕組みがあるか」
四本目。
「無関係の人を巻き込まない設計があるか」
五本目。
「終わった後に元へ戻せるか」
高梨は鷹取を見た。
「これがない強硬策は、だいたい毒になります」
鷹取は黙ってノートに書き込んだ。
以前なら反論していただろう。
今は違う。
恥をかいた人間は、学ぶしかない。
高梨がそう言っていた。
「フォーク型から脱出中」
アイが小声で言った。
鷹取の手が止まる。
「聞こえているぞ」
「聞こえるように言った」
「厳しいな、君は」
「半分許しただけ」
「残り半分は?」
「今後」
結有は少し笑った。
鷹取は苦い顔をしたが、怒らなかった。
*
高梨は『銀河英雄伝説』の本へ手を置いた。
「ヤンさんの死後、残された人々は難しい局面に立たされます。怒りで報復するのか。理念を捨てるのか。ヤンさんの名を使って、ヤンさんが嫌ったものになるのか」
暁が小さく言う。
「ヤンさんが嫌ったもの」
「はい」
高梨は結有を見た。
「時雨さんの名でも、同じことが起こり得ます」
結有の呼吸が止まった。
「母さんの?」
「はい」
「どういう」
「時雨さんは英雄です。優しく、強く、最後に多くの人を守った。その名は、人を動かします」
高梨の声は柔らかい。
でも、結有の胸にまっすぐ入ってくる。
「だから危険です。時雨さんの名を使って、誰かが結有ちゃんを前へ出そうとするかもしれない。時雨さんならそうした、と言うかもしれない。時雨さんの娘ならできる、と言うかもしれない」
神通の目が鋭くなった。
それは、彼女も恐れていたことだった。
「そして、結有ちゃん自身も」
高梨は続けた。
「母さんなら行った、と自分に言うかもしれません」
結有は何も言えなかった。
言いそうだと思った。
きっと言う。
戦場で、誰かが危ない時、自分にそう言う。
母さんなら行った。
それは勇気に見える。
でも、呪いにもなる。
アイが結有の袖を強く掴んだ。
「結有は、時雨じゃない」
結有はアイを見た。
「うん」
神通も言う。
「あなたは、時雨さんではありません」
暁も続ける。
「結有さんは結有さんよ。無茶はするけど」
「最後いる?」
「いるわ」
高梨は微笑んだ。
「そうです。過去の英雄を、今を壊す理由にしてはいけません」
*
勉強会が終わった後、結有は高梨と二人で港を歩いた。
夕暮れの富士田子の浦。
潮の匂い。
遠くで鳴く鳥。
港の灯りが少しずつつき始めている。
高梨はのんびり歩いている。
「高梨さん」
「はい」
「テロリストは歴史を停滞させられる。でも、逆行させるのは被害者側」
「はい」
「それって、被害を受けた側を責めてるみたいに聞こえることもありませんか」
「あります」
高梨はすぐに答えた。
「だから、言い方には気をつけなければいけません。傷ついた人に、すぐ言う言葉ではありません」
「じゃあ、なんで僕に?」
高梨は足を止めた。
海を見た。
「結有ちゃんは、これから傷つくからです」
静かな言葉だった。
「アイさんも、神通も、暁さんも、浜松の皆さんも。戦いが進めば、傷つきます。誰かを失う可能性もあります」
結有は拳を握った。
高梨はその拳を見て、優しく言う。
「その時、あなたは怒ります」
「はい」
「怒ってよいです」
「いいんですか」
「はい。怒らない方がおかしい」
高梨は結有を見る。
「でも、怒りで自分の守りたい世界を壊してはいけません」
結有は、海を見た。
深海棲艦が奪った海。
母が消えた海。
アイが来た海。
「難しいです」
「難しいですよお」
高梨はいつもの調子で言った。
「だから、今のうちに考えるんです。傷ついてからでは、考えられないことがあります」
「高梨さんは、考えてるんですか」
「毎日」
その答えは軽かった。
でも、軽くはなかった。
「怒りで部隊を動かさないこと。恐怖で規則を壊さないこと。大義で誰かを使い潰さないこと。勝つために、勝った後の世界を壊さないこと」
高梨は笑った。
「提督の仕事は、面倒ですねえ」
「本当に」
結有は小さく笑った。
「僕、向いてますかね」
「向いている部分と、危ない部分があります」
「ですよね」
「でも、危ないと知っているなら、まだ大丈夫です」
高梨は港の方へ歩き出した。
「知らない人が、一番危ないですから」
*
浜松へ戻った夜。
結有は談話室でノートを開いた。
神通から出された感想文ではない。
自分用のメモだった。
『テロは時間を止める』
『でも、戻るかどうかはこっちが選ぶ』
『怒りは免許じゃない』
『時雨の名前を呪いにしない』
『アイを敵の残虐さへの言い訳にしない』
『守る世界を、守る側が壊さない』
アイが隣に座った。
「何を書いてる」
「忘れないため」
「忘れる?」
「たぶん」
「なら、私が言う」
「何を?」
アイは結有を見る。
「怒りは免許じゃない」
結有は少し目を丸くした。
「覚えたんだ」
「うん」
「ありがとう」
「結有が逆行しそうなら、止める」
「物理で?」
「言葉で止まらなければ」
「怖いな」
「高梨より?」
「それは別の怖さ」
アイは少し考えた。
「私は、結有の帰る場所」
結有は息を止めた。
それは、父と高梨が言った言葉だった。
「うん」
結有は小さく答えた。
「僕も、アイの帰る場所でいる」
アイは袖をつまんだ。
「なら、逆行しない」
「うん」
「停滞もしない」
「できればね」
窓の外には、夜の海があった。
深海の声は、まだ遠くで鳴っている。
戦争は終わっていない。
傷つく日は、きっと来る。
でも、その時に何を選ぶか。
それだけは、今から準備できる。
その日の浜松鎮守府非公式日誌には、こう記された。
『高梨湊二佐、魔術師還らずと9.11を教材に講義』
『警句:テロリストは歴史を停滞させられますが、逆行させるのは被害者側です』
『結有、かなり刺さる』
『アイ、怒りは免許じゃないを学習』
『鷹取、強硬策の条件をノートに取る』
『暁、大声で止める役を再確認』
『神通、時雨の名を呪いにしないと静かに同意』
最後に、誰かが追記した。
『守る世界を、守る側が壊さないこと』
結有はその一文を見て、しばらく黙っていた。
そして、ノートに同じ言葉を書いた。
忘れないために。