艦隊これくしょん 残響のアイ   作:SAMICO

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第10話 アイ、深海を拒む

 その日の海は、妙に静かだった。

 

 浜松鎮守府の訓練海域。

 風は弱く、波も低い。

 空は薄く曇り、水平線は少し霞んでいる。

 

 結有は高速艇の上で、アイを見ていた。

 

 アイは専用艤装を装着し、海面に立っている。

 

 白髪。

 黒い目。

 白と黒の艤装。

 背にはロングバレルレールキャノン。

 側面にはLAWS。

 そして、対艦対空ダブル三十ミリガトリングガン、愛称がうがう。

 

 浜松に来た頃の、ただ波間に漂っていた白い流れ者とは違う。

 

 今のアイは、自分の艤装で海に立っていた。

 

「アイ、状態は?」

 

 結有が通信で聞く。

 

『平気』

 

「深海の声は?」

 

『遠い』

 

「無理しないで」

 

『脳筋に言われたくない』

 

「それはそう」

 

 岸壁側では神通が監督している。

 暁は救助班。

 最上と夕立は外縁警戒。

 明石は遠隔モニターの前で、アイの艤装データを確認していた。

 

 今日は、新兵装の連携試験だった。

 

 ガトリングで小型目標を止める。

 LAWSで誘導弾を焼く。

 レールキャノンで重装甲標的を抜く。

 

 アイの動きは安定していた。

 

 強い。

 でも、以前のような危うさは少ない。

 

 結有は少し誇らしかった。

 

 その時だった。

 

 海が、鳴った。

 

 音ではない。

 通信でもない。

 だが、その場にいた全員が、何かを感じた。

 

 低い。

 深い。

 海底から、重い鐘が鳴るような感覚。

 

 アイの動きが止まった。

 

 結有はすぐに叫ぶ。

 

「アイ!」

 

 アイは返事をしなかった。

 

 黒い目が、沖の方を見ている。

 

 神通の声が通信に入る。

 

『各員警戒。深海霊子反応、訓練海域外縁に発生』

 

 明石の声も慌ただしい。

 

『アイさんの艤装に外部干渉! 出力は安定していますが、深海側の霊子波形が重なっています!』

 

 暁が岸壁から叫ぶ。

 

「アイ! 聞こえる!?」

 

 アイはゆっくりと口を開いた。

 

「聞こえる」

 

 その声は、通信を通さずに海面へ落ちた。

 

 次の瞬間、海の向こうから声がした。

 

 戻レ。

 

 結有の背筋が冷えた。

 

 何度か聞いた声だった。

 

 深海の声。

 アイを呼ぶ声。

 どこか命令に似ていて、どこか懇願にも似ている。

 

 戻レ。

 戻レ。

 戻レ。

 

 海面に黒い泡が浮かぶ。

 遠くの波が、不自然に盛り上がる。

 

 深海棲艦の姿はまだない。

 

 だが、何かがいる。

 

 アイだけを見ている何かが。

 

「アイ、下がって!」

 

 結有が叫ぶ。

 

 アイは動かなかった。

 

 神通が冷静に命じる。

 

『各務原提督、接近しすぎないでください。アイさん、応答を』

 

 アイは沖を見たまま言った。

 

「うるさい」

 

 暁が不安そうに息を呑む。

 

「アイ……?」

 

 深海の声が、また響く。

 

 戻レ。

 オ前ハ、コチラノモノ。

 海ノ底ヘ。

 深キ場所ヘ。

 戻レ。

 

 アイの艤装が微かに震えた。

 

 がうがうの銃身が、勝手に動きかける。

 レールキャノンの制御コイルに黒い光が混じる。

 LAWSのレンズが曇る。

 

 明石が叫んだ。

 

『外部干渉強度、上昇! 艤装制御、持っていますが圧が強いです!』

 

 神通が言う。

 

『アイさん、艤装を解除できますか』

 

「できる」

 

『では一度解除を』

 

「しない」

 

 結有が叫んだ。

 

「アイ!」

 

 アイは、ようやく結有を見た。

 

 黒い目。

 

 そこに、揺れはあった。

 

 恐怖ではない。

 迷いでもない。

 

 怒りだった。

 

「これは、私の艤装」

 

 アイは言った。

 

「私の服。私の武器。私の帰るためのもの」

 

 深海の声が強くなる。

 

 戻レ。

 戻レ。

 戻レ。

 

 アイは沖へ向き直った。

 

「嫌」

 

 短い言葉だった。

 

 しかし、海が一瞬止まったように感じた。

 

 結有は息を呑んだ。

 

 アイが、深海へ向けて、はっきり拒絶した。

 

 初めてだった。

 

 今までは「知らない」「戻らない」「うるさい」だった。

 でも、今の言葉は違う。

 

 嫌。

 

 自分で選んだ拒絶だった。

 

 深海の声が歪む。

 

 ナゼ。

 オ前ハ、此方ノ残響。

 沈ンダ者タチノ欠片。

 深海ノ核。

 戻ルベキモノ。

 

 アイは一歩、海面を踏んだ。

 

 専用艤装が白く光る。

 黒い干渉が押し返される。

 

「違う」

 

 アイの声は静かだった。

 

「私は、アイ」

 

 結有の胸が熱くなる。

 

 アイは続けた。

 

「浜松鎮守府のアイ」

 

 暁が目を見開いた。

 

「アイ……」

 

「赤いレディが、服を選ぶ。うるさいけど、悪くない」

 

「暁よ! でも今は許すわ!」

 

「神通は怖い。鬼。でも、帰れと言う」

 

 神通の目が少し揺れた。

 

「明石は危ない。飛ばす。でも、私の艤装を作った」

 

 工廠側の明石が涙声で言う。

 

『アイさん……!』

 

「高梨は怖い。しらす丼。帰り道を教える」

 

 通信の向こうで、高梨が聞いていたら、おそらく微笑んだだろう。

 

 アイは最後に、結有を見た。

 

「結有」

 

「うん」

 

「脳筋。すぐ飛ぶ。すぐ殴る。うるさい。痛いのに大丈夫と言う」

 

「うん」

 

「でも、隣」

 

 結有は何も言えなかった。

 

 アイは沖へ向き直り、はっきりと言った。

 

「私は結有のパートナー」

 

 そこまでは、よかった。

 

 そこまでは、全員が感動していた。

 

 そしてアイは、続けた。

 

「つまり嫁」

 

 海が止まった。

 

 深海の声も止まった。

 

 結有も止まった。

 

 暁が、真っ赤になって叫んだ。

 

「ちょっと待ちなさい!」

 

 神通が額に手を当てた。

 

 明石が遠隔モニターの向こうで何かを落とした音がした。

 

 最上の通信が入る。

 

『今、嫁って言った?』

 

 夕立も続く。

 

『言ったっぽい!』

 

 結有は高速艇の上で固まっていた。

 

「アイ」

 

「何」

 

「その言葉、どこで覚えた?」

 

「百合アニメ」

 

「やっぱり」

 

 暁が叫ぶ。

 

「違うの! そういう言葉は意味をちゃんと理解してから使うものなの!」

 

 アイは首を傾げた。

 

「理解してる」

 

「本当に!?」

 

「特別。隣。帰る場所。手を繋ぐ。壁ドン。共犯。しらす丼を分ける」

 

「後半がだいぶ混ざってる!」

 

 神通が静かに言った。

 

「アイさん」

 

「何」

 

「その言葉に、性的な意味や法的な意味を含めていますか」

 

「含めてない」

 

「では、どういう意味ですか」

 

「結有の一番近くで、結有を止めて、結有を帰す。結有が怒ったら袖を掴む。結有が飛んだら怒る。結有が泣いたら隣にいる」

 

 神通は少し黙った。

 

「それなら、パートナーという言葉で十分です」

 

「でも、嫁の方が強い」

 

「強い」

 

「うん」

 

 結有は顔を片手で覆った。

 

「アイ、今すごくいいこと言ってるのに、言葉選びが強すぎる」

 

 アイは無表情で言った。

 

「脳筋のパートナーだから、強い言葉が必要」

 

「僕のせい?」

 

「うん」

 

 暁が叫ぶ。

 

「とにかく! 今は深海の声を追い払うのが先!」

 

 それは正しかった。

 

 忘れかけていたが、状況は戦闘寸前だった。

 

 深海の声が、怒りを帯びて戻ってくる。

 

 否。

 否。

 戻レ。

 オ前ハ、海ノ底ノモノ。

 

 アイはがうがうを展開した。

 

 銃身が回る。

 

「違う」

 

 レールキャノンがゆっくりと沖へ向く。

 LAWSのレンズに白い光が宿る。

 

「私は、帰る場所を選んだ」

 

 黒い泡の奥から、深海棲艦が現れた。

 

 駆逐級ではない。

 軽巡級でもない。

 

 人の形に近い深海個体。

 白い装甲と黒い髪。

 顔のない、声だけのような存在。

 

 それがアイへ手を伸ばした。

 

 戻レ。

 

 アイは答えた。

 

「拒否」

 

 LAWSが光った。

 

 静かな白い線が、深海個体の伸ばした腕を焼く。

 

 続けて、がうがうが火を噴いた。

 三十ミリHEIAP弾が海面を裂き、敵の装甲を削る。

 

 深海個体が叫んだ。

 

 アイは前へ出る。

 

 結有が叫ぶ。

 

「アイ、単独突出しない!」

 

 アイは返す。

 

「隣」

 

「行く!」

 

 結有は高速艇のアクセルを開いた。

 

 神通も海面を蹴る。

 

『各務原提督、左から。私は右を抑えます。アイさん、中央を維持』

 

「了解!」

 

「了解」

 

 深海個体が黒い砲撃を放つ。

 

 結有は高速艇を滑らせて避ける。

 神通の砲撃が敵の側面を叩く。

 アイのレールキャノンが低く唸った。

 

 明石の通信が飛ぶ。

 

『第一段階まで! 上限解除なしです!』

 

「わかってる」

 

 アイは短く答えた。

 

 レールキャノン発射。

 

 弾体が空気を裂き、深海個体の胸部装甲を貫いた。

 

 敵の体が大きく揺れる。

 

 結有は高速艇から跳びかけた。

 

 その瞬間、アイが叫んだ。

 

「飛ばない!」

 

 結有の足が止まった。

 

 高速艇の上で踏みとどまる。

 

「飛ばない!」

 

 暁が通信で叫ぶ。

 

『えらい!』

 

 神通も言う。

 

『そのまま誘導してください』

 

「はい!」

 

 結有は敵の注意を引きつけるように艇を走らせた。

 

 アイが横から回り込む。

 がうがうは撃たない。

 撃てるのに、撃たない。

 

 高梨から学んだこと。

 

 強い武器ほど、撃つ前に考える。

 

 アイは敵の砲口だけを狙った。

 

 短い連射。

 

 砲口が砕ける。

 

 神通の砲撃が追撃し、敵の足を止めた。

 

 最後にアイがLAWSを照射する。

 深海個体の周囲にまとわりついていた黒い霊子が焼け、海へ溶けた。

 

 敵は崩れた。

 

 消える間際、まだ声がした。

 

 戻レ。

 戻レ。

 戻レ。

 

 アイは、もう一度だけ言った。

 

「嫌」

 

 深海個体は黒い泡になって消えた。

 

      *

 

 帰投後、浜松鎮守府の空気は少しおかしかった。

 

 戦闘には勝った。

 

 アイは深海の呼び声を拒絶した。

 専用艤装も干渉に耐えた。

 結有も飛ばなかった。

 

 本来なら、かなりよい結果である。

 

 だが、問題は別にあった。

 

「嫁、ですって」

 

 暁が腕を組んでいる。

 

 顔が赤い。

 

「嫁」

 

 最上が楽しそうに繰り返す。

 

「ぽいぽい嫁っぽい!」

 

 夕立も乗った。

 

 神通は静かに咳払いする。

 

「皆さん。アイさんの発言は、本人なりの特別なパートナー関係の表現です。過度に茶化さないように」

 

 その声で全員が少し静かになった。

 

 アイは結有の隣に座っている。

 

 結有はまだ少し顔が赤い。

 

「アイ」

 

「何」

 

「パートナーでよくない?」

 

「嫁の方が強い」

 

「強さの問題なんだ」

 

「うん」

 

「じゃあ、僕は?」

 

「結有は、結有」

 

「僕だけ肩書きなし?」

 

「脳筋」

 

「それ肩書き?」

 

「うん」

 

 暁が言った。

 

「せめて結有さんもパートナーって言ってあげなさいよ」

 

 アイは少し考えた。

 

「結有は、私の帰る場所」

 

 結有は黙った。

 

 さっきまでの茶化した空気が、少しだけ柔らかく変わる。

 

 アイは続ける。

 

「だから、名前でいい」

 

 結有は、ゆっくり息を吐いた。

 

「そっか」

 

「うん」

 

「じゃあ、アイは僕のパートナー」

 

「嫁?」

 

「そこは、パートナーから始めよう」

 

「わかった」

 

 アイは納得したようにうなずいた。

 

「昇格待ち」

 

「待って、何が?」

 

 暁が叫ぶ。

 

「昇格制なの!?」

 

 最上が笑いをこらえきれなかった。

 

 神通も、ほんの少しだけ口元を緩めた。

 

      *

 

 その日の公式記録には、こう残された。

 

『訓練海域にて深海霊子干渉個体と接触。未確認個体アイに対する呼び戻し干渉を確認。アイは明確に拒絶し、浜松鎮守府所属として戦闘継続。専用艤装による干渉耐性、戦闘能力ともに良好』

 

 非公式日誌には、もっと長く書かれた。

 

『アイ、深海の呼び声を拒絶』

『発言:私は結有のパートナー。つまり嫁』

『結有、固まる』

『暁、赤面してツッコミ』

『神通、用語確認と同意確認を実施』

『アイの嫁は性的・法的意味ではなく、特別な相棒と帰る場所共有者の意味』

『結有、飛ばなかった』

『アイ、深海へ明確に嫌と言う』

 

 最後に、誰かが追記した。

 

『深海より先に暁が大混乱した』

 

 夜。

 

 結有とアイは、談話室の窓際に座っていた。

 

 外には海が見える。

 深海の声は、今は聞こえない。

 

 アイは結有の袖をつまんでいる。

 

「怖かった?」

 

 結有が聞いた。

 

「少し」

 

「戻りたくなった?」

 

「ならない」

 

「そっか」

 

「でも、強かった」

 

「声が?」

 

「うん」

 

 アイは海を見た。

 

「前は、どこに行けばいいかわからなかった。呼ばれたら、少し揺れた」

 

「今は?」

 

「ここ」

 

 アイは結有の袖を軽く引いた。

 

「浜松。暁。神通。明石。しらす丼。がうがう。ろング。ぴか」

 

「混ざってるなあ」

 

「あと、結有」

 

「うん」

 

「だから、戻らない」

 

 結有は少し黙ってから言った。

 

「ありがとう」

 

「なぜ」

 

「選んでくれて」

 

 アイは結有を見た。

 

「結有も選んだ」

 

「うん」

 

「なら、お互い」

 

 結有は笑った。

 

「お互いか」

 

「うん」

 

 アイは少しだけ結有の肩に寄った。

 

「パートナー」

 

「うん」

 

「嫁は保留」

 

「保留でお願いします」

 

 窓の外で、波が静かに鳴っていた。

 

 深海はまだ遠くでアイを呼んでいるのかもしれない。

 

 でも、アイはもう答えを持っていた。

 

 戻らない。

 

 私はアイ。

 

 浜松鎮守府のアイ。

 

 結有の隣にいる者。

 

 その答えは、海の底よりも深く、白い少女の中に沈んでいた。

 

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