その日の海は、妙に静かだった。
浜松鎮守府の訓練海域。
風は弱く、波も低い。
空は薄く曇り、水平線は少し霞んでいる。
結有は高速艇の上で、アイを見ていた。
アイは専用艤装を装着し、海面に立っている。
白髪。
黒い目。
白と黒の艤装。
背にはロングバレルレールキャノン。
側面にはLAWS。
そして、対艦対空ダブル三十ミリガトリングガン、愛称がうがう。
浜松に来た頃の、ただ波間に漂っていた白い流れ者とは違う。
今のアイは、自分の艤装で海に立っていた。
「アイ、状態は?」
結有が通信で聞く。
『平気』
「深海の声は?」
『遠い』
「無理しないで」
『脳筋に言われたくない』
「それはそう」
岸壁側では神通が監督している。
暁は救助班。
最上と夕立は外縁警戒。
明石は遠隔モニターの前で、アイの艤装データを確認していた。
今日は、新兵装の連携試験だった。
ガトリングで小型目標を止める。
LAWSで誘導弾を焼く。
レールキャノンで重装甲標的を抜く。
アイの動きは安定していた。
強い。
でも、以前のような危うさは少ない。
結有は少し誇らしかった。
その時だった。
海が、鳴った。
音ではない。
通信でもない。
だが、その場にいた全員が、何かを感じた。
低い。
深い。
海底から、重い鐘が鳴るような感覚。
アイの動きが止まった。
結有はすぐに叫ぶ。
「アイ!」
アイは返事をしなかった。
黒い目が、沖の方を見ている。
神通の声が通信に入る。
『各員警戒。深海霊子反応、訓練海域外縁に発生』
明石の声も慌ただしい。
『アイさんの艤装に外部干渉! 出力は安定していますが、深海側の霊子波形が重なっています!』
暁が岸壁から叫ぶ。
「アイ! 聞こえる!?」
アイはゆっくりと口を開いた。
「聞こえる」
その声は、通信を通さずに海面へ落ちた。
次の瞬間、海の向こうから声がした。
戻レ。
結有の背筋が冷えた。
何度か聞いた声だった。
深海の声。
アイを呼ぶ声。
どこか命令に似ていて、どこか懇願にも似ている。
戻レ。
戻レ。
戻レ。
海面に黒い泡が浮かぶ。
遠くの波が、不自然に盛り上がる。
深海棲艦の姿はまだない。
だが、何かがいる。
アイだけを見ている何かが。
「アイ、下がって!」
結有が叫ぶ。
アイは動かなかった。
神通が冷静に命じる。
『各務原提督、接近しすぎないでください。アイさん、応答を』
アイは沖を見たまま言った。
「うるさい」
暁が不安そうに息を呑む。
「アイ……?」
深海の声が、また響く。
戻レ。
オ前ハ、コチラノモノ。
海ノ底ヘ。
深キ場所ヘ。
戻レ。
アイの艤装が微かに震えた。
がうがうの銃身が、勝手に動きかける。
レールキャノンの制御コイルに黒い光が混じる。
LAWSのレンズが曇る。
明石が叫んだ。
『外部干渉強度、上昇! 艤装制御、持っていますが圧が強いです!』
神通が言う。
『アイさん、艤装を解除できますか』
「できる」
『では一度解除を』
「しない」
結有が叫んだ。
「アイ!」
アイは、ようやく結有を見た。
黒い目。
そこに、揺れはあった。
恐怖ではない。
迷いでもない。
怒りだった。
「これは、私の艤装」
アイは言った。
「私の服。私の武器。私の帰るためのもの」
深海の声が強くなる。
戻レ。
戻レ。
戻レ。
アイは沖へ向き直った。
「嫌」
短い言葉だった。
しかし、海が一瞬止まったように感じた。
結有は息を呑んだ。
アイが、深海へ向けて、はっきり拒絶した。
初めてだった。
今までは「知らない」「戻らない」「うるさい」だった。
でも、今の言葉は違う。
嫌。
自分で選んだ拒絶だった。
深海の声が歪む。
ナゼ。
オ前ハ、此方ノ残響。
沈ンダ者タチノ欠片。
深海ノ核。
戻ルベキモノ。
アイは一歩、海面を踏んだ。
専用艤装が白く光る。
黒い干渉が押し返される。
「違う」
アイの声は静かだった。
「私は、アイ」
結有の胸が熱くなる。
アイは続けた。
「浜松鎮守府のアイ」
暁が目を見開いた。
「アイ……」
「赤いレディが、服を選ぶ。うるさいけど、悪くない」
「暁よ! でも今は許すわ!」
「神通は怖い。鬼。でも、帰れと言う」
神通の目が少し揺れた。
「明石は危ない。飛ばす。でも、私の艤装を作った」
工廠側の明石が涙声で言う。
『アイさん……!』
「高梨は怖い。しらす丼。帰り道を教える」
通信の向こうで、高梨が聞いていたら、おそらく微笑んだだろう。
アイは最後に、結有を見た。
「結有」
「うん」
「脳筋。すぐ飛ぶ。すぐ殴る。うるさい。痛いのに大丈夫と言う」
「うん」
「でも、隣」
結有は何も言えなかった。
アイは沖へ向き直り、はっきりと言った。
「私は結有のパートナー」
そこまでは、よかった。
そこまでは、全員が感動していた。
そしてアイは、続けた。
「つまり嫁」
海が止まった。
深海の声も止まった。
結有も止まった。
暁が、真っ赤になって叫んだ。
「ちょっと待ちなさい!」
神通が額に手を当てた。
明石が遠隔モニターの向こうで何かを落とした音がした。
最上の通信が入る。
『今、嫁って言った?』
夕立も続く。
『言ったっぽい!』
結有は高速艇の上で固まっていた。
「アイ」
「何」
「その言葉、どこで覚えた?」
「百合アニメ」
「やっぱり」
暁が叫ぶ。
「違うの! そういう言葉は意味をちゃんと理解してから使うものなの!」
アイは首を傾げた。
「理解してる」
「本当に!?」
「特別。隣。帰る場所。手を繋ぐ。壁ドン。共犯。しらす丼を分ける」
「後半がだいぶ混ざってる!」
神通が静かに言った。
「アイさん」
「何」
「その言葉に、性的な意味や法的な意味を含めていますか」
「含めてない」
「では、どういう意味ですか」
「結有の一番近くで、結有を止めて、結有を帰す。結有が怒ったら袖を掴む。結有が飛んだら怒る。結有が泣いたら隣にいる」
神通は少し黙った。
「それなら、パートナーという言葉で十分です」
「でも、嫁の方が強い」
「強い」
「うん」
結有は顔を片手で覆った。
「アイ、今すごくいいこと言ってるのに、言葉選びが強すぎる」
アイは無表情で言った。
「脳筋のパートナーだから、強い言葉が必要」
「僕のせい?」
「うん」
暁が叫ぶ。
「とにかく! 今は深海の声を追い払うのが先!」
それは正しかった。
忘れかけていたが、状況は戦闘寸前だった。
深海の声が、怒りを帯びて戻ってくる。
否。
否。
戻レ。
オ前ハ、海ノ底ノモノ。
アイはがうがうを展開した。
銃身が回る。
「違う」
レールキャノンがゆっくりと沖へ向く。
LAWSのレンズに白い光が宿る。
「私は、帰る場所を選んだ」
黒い泡の奥から、深海棲艦が現れた。
駆逐級ではない。
軽巡級でもない。
人の形に近い深海個体。
白い装甲と黒い髪。
顔のない、声だけのような存在。
それがアイへ手を伸ばした。
戻レ。
アイは答えた。
「拒否」
LAWSが光った。
静かな白い線が、深海個体の伸ばした腕を焼く。
続けて、がうがうが火を噴いた。
三十ミリHEIAP弾が海面を裂き、敵の装甲を削る。
深海個体が叫んだ。
アイは前へ出る。
結有が叫ぶ。
「アイ、単独突出しない!」
アイは返す。
「隣」
「行く!」
結有は高速艇のアクセルを開いた。
神通も海面を蹴る。
『各務原提督、左から。私は右を抑えます。アイさん、中央を維持』
「了解!」
「了解」
深海個体が黒い砲撃を放つ。
結有は高速艇を滑らせて避ける。
神通の砲撃が敵の側面を叩く。
アイのレールキャノンが低く唸った。
明石の通信が飛ぶ。
『第一段階まで! 上限解除なしです!』
「わかってる」
アイは短く答えた。
レールキャノン発射。
弾体が空気を裂き、深海個体の胸部装甲を貫いた。
敵の体が大きく揺れる。
結有は高速艇から跳びかけた。
その瞬間、アイが叫んだ。
「飛ばない!」
結有の足が止まった。
高速艇の上で踏みとどまる。
「飛ばない!」
暁が通信で叫ぶ。
『えらい!』
神通も言う。
『そのまま誘導してください』
「はい!」
結有は敵の注意を引きつけるように艇を走らせた。
アイが横から回り込む。
がうがうは撃たない。
撃てるのに、撃たない。
高梨から学んだこと。
強い武器ほど、撃つ前に考える。
アイは敵の砲口だけを狙った。
短い連射。
砲口が砕ける。
神通の砲撃が追撃し、敵の足を止めた。
最後にアイがLAWSを照射する。
深海個体の周囲にまとわりついていた黒い霊子が焼け、海へ溶けた。
敵は崩れた。
消える間際、まだ声がした。
戻レ。
戻レ。
戻レ。
アイは、もう一度だけ言った。
「嫌」
深海個体は黒い泡になって消えた。
*
帰投後、浜松鎮守府の空気は少しおかしかった。
戦闘には勝った。
アイは深海の呼び声を拒絶した。
専用艤装も干渉に耐えた。
結有も飛ばなかった。
本来なら、かなりよい結果である。
だが、問題は別にあった。
「嫁、ですって」
暁が腕を組んでいる。
顔が赤い。
「嫁」
最上が楽しそうに繰り返す。
「ぽいぽい嫁っぽい!」
夕立も乗った。
神通は静かに咳払いする。
「皆さん。アイさんの発言は、本人なりの特別なパートナー関係の表現です。過度に茶化さないように」
その声で全員が少し静かになった。
アイは結有の隣に座っている。
結有はまだ少し顔が赤い。
「アイ」
「何」
「パートナーでよくない?」
「嫁の方が強い」
「強さの問題なんだ」
「うん」
「じゃあ、僕は?」
「結有は、結有」
「僕だけ肩書きなし?」
「脳筋」
「それ肩書き?」
「うん」
暁が言った。
「せめて結有さんもパートナーって言ってあげなさいよ」
アイは少し考えた。
「結有は、私の帰る場所」
結有は黙った。
さっきまでの茶化した空気が、少しだけ柔らかく変わる。
アイは続ける。
「だから、名前でいい」
結有は、ゆっくり息を吐いた。
「そっか」
「うん」
「じゃあ、アイは僕のパートナー」
「嫁?」
「そこは、パートナーから始めよう」
「わかった」
アイは納得したようにうなずいた。
「昇格待ち」
「待って、何が?」
暁が叫ぶ。
「昇格制なの!?」
最上が笑いをこらえきれなかった。
神通も、ほんの少しだけ口元を緩めた。
*
その日の公式記録には、こう残された。
『訓練海域にて深海霊子干渉個体と接触。未確認個体アイに対する呼び戻し干渉を確認。アイは明確に拒絶し、浜松鎮守府所属として戦闘継続。専用艤装による干渉耐性、戦闘能力ともに良好』
非公式日誌には、もっと長く書かれた。
『アイ、深海の呼び声を拒絶』
『発言:私は結有のパートナー。つまり嫁』
『結有、固まる』
『暁、赤面してツッコミ』
『神通、用語確認と同意確認を実施』
『アイの嫁は性的・法的意味ではなく、特別な相棒と帰る場所共有者の意味』
『結有、飛ばなかった』
『アイ、深海へ明確に嫌と言う』
最後に、誰かが追記した。
『深海より先に暁が大混乱した』
夜。
結有とアイは、談話室の窓際に座っていた。
外には海が見える。
深海の声は、今は聞こえない。
アイは結有の袖をつまんでいる。
「怖かった?」
結有が聞いた。
「少し」
「戻りたくなった?」
「ならない」
「そっか」
「でも、強かった」
「声が?」
「うん」
アイは海を見た。
「前は、どこに行けばいいかわからなかった。呼ばれたら、少し揺れた」
「今は?」
「ここ」
アイは結有の袖を軽く引いた。
「浜松。暁。神通。明石。しらす丼。がうがう。ろング。ぴか」
「混ざってるなあ」
「あと、結有」
「うん」
「だから、戻らない」
結有は少し黙ってから言った。
「ありがとう」
「なぜ」
「選んでくれて」
アイは結有を見た。
「結有も選んだ」
「うん」
「なら、お互い」
結有は笑った。
「お互いか」
「うん」
アイは少しだけ結有の肩に寄った。
「パートナー」
「うん」
「嫁は保留」
「保留でお願いします」
窓の外で、波が静かに鳴っていた。
深海はまだ遠くでアイを呼んでいるのかもしれない。
でも、アイはもう答えを持っていた。
戻らない。
私はアイ。
浜松鎮守府のアイ。
結有の隣にいる者。
その答えは、海の底よりも深く、白い少女の中に沈んでいた。