高梨湊は、戦略の人である。
補給。
退路。
戦力比。
前進拠点。
撤退条件。
そして、静岡県内における人気飲食店の待ち時間管理。
「今日は、結有ちゃんとアイさんに静岡の重要補給拠点を体験していただきます」
高梨はにこにこと言った。
結有は首を傾げた。
「重要補給拠点?」
「はい」
アイが聞く。
「弾薬?」
「いいえ。ハンバーグです」
「肉」
アイの黒い目が少しだけ鋭くなった。
「肉なら行く」
「判断が早い」
結有は笑った。
富士田子の浦鎮守府との合同書類確認が午前で終わり、午後は非番扱いになった。
そこで高梨が提案したのが、静岡県民なら避けて通れないという店。
炭焼きレストランさわやか。
結有も名前は聞いたことがあった。
だが、実際に行ったことはない。
高梨は端末を操作しながら、穏やかに言った。
「今から向かえば、夕食にはちょうどよいでしょう」
「予約できるんですか?」
「発券します」
「発券」
「はい。戦いは発券から始まります」
アイが真顔でうなずいた。
「戦い」
結有はその時、まだわかっていなかった。
深海棲艦でもなく。
艦娘本部でもなく。
高梨湊でもなく。
静岡の人気ハンバーグ店の待ち時間が、どれほど恐ろしい敵なのかを。
*
店に着いたのは、午後二時過ぎだった。
駐車場には車が多い。
店の前には人がいる。
空気には、肉の焼ける匂いが漂っている。
アイは無言で入口を見た。
「肉の匂い」
「うん。すごいね」
高梨は慣れた様子で発券機へ向かい、番号券を取った。
そして、にこりと笑った。
「三時間半ですねえ」
結有は聞き間違いかと思った。
「三時間半?」
「はい」
「今、午後二時ですよね」
「はい」
「夕方になりますね」
「そうですねえ。ちょうどよいです」
アイが番号券を見た。
「三時間半、待つ?」
「待ちます」
高梨は当然のように言った。
アイは少し黙った。
「戦闘より長い」
「作戦行動には待機時間がつきものです」
「肉、遠い」
「遠い肉ほど、補給計画が大事です」
結有は額に手を当てた。
「高梨さん、これも教材にする気ですね?」
「うふふ」
逃げられない笑顔だった。
*
待ち時間三時間半。
普通なら、ただ苦しい。
だが、高梨湊は違った。
まず、周辺の混雑状況を確認。
次に、近くの休憩場所を選定。
水分補給を確保。
待機中の体力消耗を抑えるため、無駄な徒歩移動は避ける。
呼び出し予定時刻の三十分前には店周辺へ戻る。
完璧な待機計画だった。
「さわやか待機行動計画です」
高梨は端末に工程表まで出した。
結有は思わず言った。
「本当に戦略の人だ」
アイは真剣に工程表を見ている。
「肉のための作戦」
「はい」
高梨はうなずいた。
「待つだけだからと油断すると、士気が下がります。空腹、疲労、退屈、期待値の上昇。どれも部隊を乱します」
「ハンバーグで部隊運用の話になります?」
「なりますよお」
結有は反論できなかった。
実際、三十分後にはアイが無言で店の方向を見始めた。
一時間後には、結有も腹が鳴った。
一時間半後、アイは言った。
「肉は、まだ?」
「まだ」
「深海なら沈めてる」
「店は沈めないで」
二時間後。
アイはベンチに座っていた。
白い髪を風に揺らし、無表情のまま番号券を見つめている。
「番号、進まない」
「少しずつ進んでるよ」
「遅い」
「敵じゃないから」
「敵なら早い」
「敵ならね」
高梨は水筒のお茶を配った。
「補給です」
アイは受け取った。
「ありがとう」
「待機中は、水分と気分転換が大切です」
「肉の前に茶」
「はい。胃を整えます」
「高梨、強い」
「ありがとうございます」
二時間半後。
結有は少しぼんやりしてきた。
「高梨さん」
「はい」
「これ、三時間半待つ価値あるんですか?」
高梨はにこりと笑った。
「あります」
「即答」
「あります」
「二回言った」
アイが聞く。
「肉、強い?」
「強いです」
「がうがうより?」
「方向性が違いますねえ」
「肉の砲撃?」
「近いかもしれません」
結有は笑った。
「ハンバーグを砲撃扱いしないでください」
三時間を過ぎた頃、アイは急に立ち上がった。
「結有」
「何?」
「私は、待てる女」
「うん?」
「肉のために、待てる」
「すごい成長だね」
「褒めて」
「えらい」
「何点?」
「十点」
アイは少しだけ満足そうにうなずいた。
高梨が言う。
「待てることは、本当に大事ですよお。作戦でも食事でも、焦って前に出ると損をします」
結有は目を逸らした。
「僕に言ってます?」
「はい」
「ですよね」
*
三時間半後。
ついに番号が呼ばれた。
アイの黒い目が光った。
「来た」
結有も思わず立ち上がる。
「長かった」
高梨は落ち着いていた。
「では、入店しましょう」
店内に入った瞬間、肉の匂いが濃くなった。
炭焼きの香り。
鉄板の音。
店員の声。
あちこちで、じゅうじゅうとハンバーグが音を立てている。
アイは完全に戦闘態勢だった。
「敵?」
「肉だよ」
「強敵」
席に案内され、注文する。
高梨は迷わず言った。
「げんこつハンバーグをお願いします」
結有も同じものを頼む。
アイも同じ。
しばらくして、鉄板が運ばれてきた。
丸いハンバーグ。
店員がそれを目の前で半分に切り、鉄板に押し付ける。
じゅうううう、と音が鳴った。
アイが硬直した。
「砲撃」
「焼いてるだけ」
「肉の砲撃」
結有は笑いをこらえた。
油が跳ねる。
香りが広がる。
ソースがかかる。
待ち時間三時間半のすべてが、その匂いに吸い込まれていくようだった。
高梨はにこにこしている。
「さあ、どうぞ」
アイは箸ではなくナイフとフォークを見た。
「武器」
「食器」
「肉用武器」
「まあ、そうとも言える」
アイは慎重に切り分け、一口食べた。
無表情。
しかし、目が止まった。
結有は横から聞く。
「どう?」
アイはしばらく噛んだ。
飲み込んだ。
そして言った。
「三時間半、許す」
高梨が嬉しそうに笑った。
「よかったです」
結有も一口食べた。
「うまっ」
思ったより肉だった。
しっかりした食感。
香ばしさ。
熱。
ソースの酸味。
待ったぶん、余計にうまい。
「これは、確かに強い」
「でしょう?」
高梨は穏やかにうなずく。
アイは二口目を食べた。
「肉の中枢を撃破する」
「普通に食べて」
「了解」
しばらく、三人は黙って食べた。
戦争の話も。
深海の話も。
艦娘本部の話も。
今日は少し遠かった。
ただ、鉄板の音と肉の匂いがあった。
*
食後。
アイは椅子に座ったまま、少しだけ満足そうだった。
表情はほとんど変わらない。
だが、結有にはわかる。
これはかなり気に入っている。
「アイ、また来たい?」
「来る」
「三時間半待つ?」
「待つ」
「即答だ」
「肉のためなら」
高梨はお茶を飲みながら言った。
「待機の価値を学びましたねえ」
結有は苦笑する。
「本当に教材になった」
「何事も教材になります。待つこと、補給すること、期待を管理すること、疲れすぎる前に休むこと」
「ハンバーグでここまで」
「戦場でも同じです。お腹が空くと判断が荒くなります」
アイがうなずいた。
「空腹の脳筋は危険」
「僕?」
「うん」
「否定しづらい」
高梨は柔らかく笑った。
「結有ちゃんは、特に食べてから作戦会議に出た方がいいですねえ」
「高梨さんまで」
店を出ると、外はもう夕方だった。
空が赤く染まり、町の灯りがつき始めている。
三時間半待って、食べる時間はあっという間だった。
アイは店を振り返った。
「さわやか」
「覚えた?」
「強い店」
「うん」
「また来る。作戦立てる」
「次は待ち時間を短くする?」
高梨がにこりと笑った。
「それもよいですが、待つ時間も含めてさわやかです」
アイは少し考えた。
「深い」
「深海より?」
「肉海」
「何それ」
結有は笑った。
*
その日の浜松鎮守府非公式日誌には、こう記された。
『高梨湊二佐の案内で、結有とアイがさわやかを経験』
『待ち時間、恐怖の三時間半』
『高梨、待機行動計画を作成』
『アイ、待てる女になる』
『げんこつハンバーグを肉の砲撃と表現』
『三時間半、許す』
『結有、空腹時の作戦会議参加に注意』
『高梨、日常でも兵站教育を実施』
最後に、誰かが追記した。
『さわやかは補給拠点であり、待機訓練であり、肉の戦場である』
夜、浜松へ戻る車内で、アイは結有の隣に座っていた。
「結有」
「何?」
「次は、暁も連れて行く」
「うん。神通さんも」
「神通、三時間半待てる?」
「余裕じゃない?」
「明石は?」
「待ち時間に何か作りそうで怖い」
「危険」
「危険」
アイは少しだけ眠そうに目を細めた。
「肉、よかった」
「よかったね」
「結有と食べた」
「うん」
「高梨もいた」
「うん」
「待った」
「うん」
「帰る」
「うん」
アイは結有の袖をつまんだ。
「こういうのも、帰る場所?」
結有は窓の外の夕闇を見た。
戦場ではない。
作戦でもない。
三時間半待って、肉を食べて、帰るだけの日。
でも、たぶん。
「うん。そうだと思う」
アイは小さくうなずいた。
「なら、また行く」
「また行こう」
車は夜の道を浜松へ向かって走る。
海の向こうでは、まだ戦争が続いている。
けれどその日のアイの中には、深海の声よりも、鉄板の音と肉の香りが残っていた。