高梨湊は、歴史マニアである。
ただし、観光地で甲冑を見て「かっこいいですねえ」と微笑むだけの人ではない。
戦略。
兵站。
統治。
教育。
倫理。
権力の継承。
部下の扱い。
勝った後の国の形。
彼女は、歴史上の人物をそこから見る。
だから時々、笑顔のまま大変きついことを言う。
その日、浜松鎮守府の談話室で、暁が何気なく言った。
「戦国の三英傑って、やっぱりすごいのよね」
その瞬間、高梨湊の湯呑みが止まった。
神通が、わずかに姿勢を正した。
結有はそれを見た。
「あ」
アイも見た。
「地雷?」
結有は小声で答える。
「たぶん」
高梨はにこりと笑った。
「暁さん」
「は、はい?」
「三英傑という言葉は、あまり好きではありません」
暁は困惑した。
「え? 信長、秀吉、家康のことよね?」
「はい」
高梨の笑顔は柔らかい。
だが、神通はすでに諦めた顔をしていた。
「信長公も、家康公も、武家の出です」
高梨は静かに語り始めた。
「つまり、武士教育と倫理教育を受けています。もちろん、時代の倫理ですから現代とは違います。それでも、幼い頃から支配者階級としての振る舞い、家の維持、家臣団との関係、武家社会の規範を学んでいる」
結有は小さくうなずいた。
「特に家康公は、人質時代に戦国最高級の教育を受けています。今川の環境は、単なる拘束ではありません。政治、軍事、教養、統治。あの時期の教育が、後の家康公を作った面は大きいです」
高梨の声は穏やかだった。
ここまでは、普通の歴史講義だった。
問題は次だった。
「それに比べて、あのサルは」
談話室が止まった。
暁が目を丸くする。
「サル?」
アイが首を傾げる。
「動物?」
結有は額に手を当てた。
「秀吉のことだね」
神通が静かに言った。
「高梨提督」
「はい、神通ちゃん」
「神通です」
「はい、神通」
「言葉を少し」
「控えめにしています」
「それで?」
「はい」
高梨はにこにこしていた。
「あのサル、つまり秀吉は、今日でいう教育を受けていません。人たらしの才、上昇志向、現場感覚、発想力。そこは否定しません。むしろ極めて優秀です」
暁は少し安心した。
「褒めるところもあるのね」
「あります」
高梨はうなずく。
「ただし、教育と倫理の欠落した才能は危険です」
空気が少し重くなった。
「三木の干殺し。鳥取の飢え殺し。兵站を断つ戦術として見れば、効果はあります。ですが、あれを“うまい作戦”の一言で済ませるのは、私は嫌いです」
高梨の声が、わずかに冷えた。
「飢えは、人を壊します。さらに飢餓状態の人へ急に食を与えれば、再栄養症候群による大量死も起こり得ます。攻めている側がそこまで理解していたかは別として、結果として人を食糧で壊す戦いです」
アイは静かに聞いていた。
「食べ物で殺す?」
「はい」
高梨は答えた。
「補給は、人を生かすものです。それを断ち、飢えを武器にする。戦争ではあり得る手段です。でも、あり得ることと、無邪気に称賛してよいことは違います」
結有は、高梨のさわやか待機計画を思い出した。
補給。
水分。
待機。
空腹で判断が荒くなる。
高梨にとって、食べ物はただの日常ではない。
生死の線でもある。
高梨は続けた。
「秀吉の晩年の暴走も、私には偶然とは思えません。朝鮮出兵。継承問題。権力の私物化。制御できない肥大した野心。教育と倫理の基盤が弱いまま、巨大な権力を持ってしまった人間の末路です」
暁は少し難しい顔をした。
「でも、天下を取ったのは事実でしょう?」
「はい」
「なら、やっぱりすごいんじゃない?」
「すごいです」
高梨はすぐに認めた。
「ただし、それを秀吉個人の才だけで語るのが嫌なのです」
「どういうこと?」
「秀長公です」
高梨の声が、少し柔らかくなった。
「豊臣秀長公。私は、秀吉政権の安定は、むしろ秀長公の人徳と調整力に大きく支えられていたと見ています」
神通が静かにうなずいた。
「兄の才を、弟が支えた」
「はい」
高梨は言った。
「才能のある人は、前へ出ます。勝ちます。目立ちます。歴史の中心に見えます。でも、その周囲で調整し、宥め、つなぎ、壊れないようにしている人がいます」
結有は、少しだけ胸に刺さった。
前へ出る人。
それを支える人。
自分と、神通。
自分と、アイ。
高梨と、前線の艦娘たち。
「秀長公がいたから、秀吉は天下へ届いた。少なくとも私はそう考えます。秀長公がいなくなった後の崩れ方を見ると、なおさらです」
アイが言った。
「高梨は、秀長が好き?」
「はい。かなり」
「サルは嫌い?」
「歴史上の人物としては非常に面白いです」
「嫌い?」
「統治者としては、かなり嫌です」
結有は笑いそうになった。
高梨の評価は容赦がない。
*
鷹取修平は、ノートを取っていた。
最近、彼は高梨の話を聞く時、必ずノートを取る。
以前のような反論の構えは少し減った。
ただ、今日は質問した。
「高梨二佐。教育を受けていない者が権力を持つべきではない、という意味ですか」
「違います」
高梨は即答した。
「教育を受けていないことそのものを罪とは言いません。出自で人を切る気もありません」
「では」
「問題は、自分に足りないものを知っているかです」
高梨は鷹取を見た。
「秀吉には、足りないものを補う人がいました。秀長公です。だから、ある時期までは政権が回った。でも、その補助輪が外れた時、本人の欠落が一気に出た」
鷹取は黙った。
「才能がある人ほど、自分の欠落を軽く見ます。勝てたから正しい。登れたから問題ない。周囲が従ったから自分には統治の資格がある。そう思い込む」
高梨の目が、今度は結有を見る。
「結有ちゃん」
「はい」
「あなたは強いです。霊子も高い。現場感覚もあります。人を惹きつける力もある」
「はい」
「だからこそ、自分に足りないものを忘れないでください」
結有は背筋を伸ばした。
「はい」
「あなたには神通がいます。暁さんがいます。アイさんがいます。浜松の皆さんがいます。お父様も、高梨もいます」
「自分で高梨って言いました?」
「言いました」
「そこも入るんですね」
「入ります」
高梨はにこにこしている。
「足りないものを補ってくれる人を、邪魔だと思ってはいけません」
結有は、神通の静かな制止や暁の叫びを思い出した。
たまに邪魔だと思ったことはある。
いや、かなりある。
アイが横から言う。
「結有、思ってる顔」
「うん」
「だめ」
「はい」
暁が腕を組んだ。
「そうよ。私のツッコミは結有さんのためなんだから」
「いつも助かってる」
「本当に?」
「本当に」
暁は少し赤くなった。
「ならいいわ」
*
高梨の歴史講義は、さらに続いた。
「三英傑という括りが嫌いなのは、三人を同じ棚に置いてしまうからです」
結有が聞く。
「同じ時代の大物だから、じゃだめなんですか?」
「便利な言葉としてはよいです。でも、便利な言葉は雑な理解を生みます」
高梨は指を折る。
「信長公の革新性。家康公の制度構築。秀吉の上昇と破綻。全部違います。違うものを、三英傑という響きのよい言葉で並べると、見えなくなるものがあります」
アイが言った。
「高梨、分類に厳しい」
「はい」
「しらすと白い魚も別?」
「別です」
「重要」
「重要です」
結有は小さく笑った。
高梨は真面目に続ける。
「信長公も問題はあります。苛烈です。家康公も清廉なだけではありません。権力者ですから、当然汚い判断もします」
「でも評価してる」
「はい。少なくとも、彼らには支配者としての教育と規範の土台があります。倫理的に完璧という意味ではありません。ですが、武家社会の中で、何をすると秩序が壊れるかを知っている」
高梨は本を閉じた。
「秀吉は、そこが危うい。だから私は、三人を同列に“英傑”と並べるのが好きではありません」
鷹取が言う。
「才能ではなく、教育と倫理を見る」
「はい」
「それは、現代の提督にも当てはまりますか」
「もちろんです」
高梨は微笑んだ。
「戦術の才能だけある提督は危険です。人を惹きつけるだけの提督も危険です。勝てるだけの提督は、もっと危険です」
暁が首を傾げた。
「勝てるだけでもだめなの?」
「はい」
高梨は即答した。
「勝った後に、何を壊したかを見ない人は危険です」
神通が静かに言った。
「勝利の形を見る必要がある」
「その通りです」
高梨はうなずいた。
「どれだけ勝っても、部隊が壊れ、制度が壊れ、倫理が壊れ、帰る場所が壊れたなら、それはよい勝利ではありません」
結有は、深く息を吸った。
勝つこと。
帰ること。
守ること。
壊さないこと。
高梨の話は、どこから始まっても結局そこへ戻ってくる。
*
講義が終わる頃、アイが手を上げた。
「質問」
「はい、アイさん」
「秀長は、何?」
「支える人です」
「神通?」
神通が少し目を瞬いた。
高梨は微笑む。
「近いところはありますね」
「暁も?」
「はい。常識を支えています」
暁が胸を張った。
「当然よ。一人前のレディだもの」
「高梨も?」
「私は、帰り道係です」
「結有は?」
高梨は結有を見た。
「前に出る人です」
アイはうなずいた。
「私は?」
「隣にいる人です」
アイは少し考えた。
「なら、結有がサルにならないようにする」
結有がむせた。
「アイ、言い方」
「高梨が言った」
「高梨さんの言葉をそのまま使わないで」
高梨はにこにこしている。
「いい目標ですねえ」
「いいんですか?」
「はい。才能が暴走しないよう、隣の人が止める。とても大切です」
アイは真剣に言った。
「結有がサルになったら、止める」
「僕、ならないよう努力する」
神通が静かに言った。
「努力では困ります」
「なりません」
「よろしい」
鷹取が小さく笑った。
「各務原提督は、周囲に補助輪が多いな」
「補助輪って言いました?」
「必要だろう」
「否定しづらい」
アイが言う。
「私は補助輪?」
「いや、アイは隣」
「なら、よし」
*
その日の浜松鎮守府非公式日誌には、こう記された。
『高梨湊二佐、三英傑という言葉がお嫌い』
『信長公と家康公は武家教育・倫理教育を受けていると評価』
『特に家康公は人質時代に戦国最高級の教育を受けたと高評価』
『秀吉については、あのサル呼び』
『人たらしの才は認めるが、三木・鳥取の飢餓戦術、再栄養症候群を含む大量死、晩年の暴走を厳しく批判』
『秀吉の天下取りは、むしろ秀長公の人徳と調整力のおかげと評価』
『結有、才能だけでは危険と刺される』
『アイ、結有がサルにならないよう止めると宣言』
『暁、常識支え役として再評価』
『神通、秀長枠に近いと言われ少し困る』
最後に、誰かが追記した。
『高梨提督は歴史上の人物にも容赦がない』
夜。
結有は談話室でアイと並んで座っていた。
「僕、サルになるかな」
アイは即答した。
「ならない」
「本当に?」
「私が止める」
「どうやって?」
「袖を掴む。だめなら物理」
「物理かあ」
「神通もいる。暁もうるさい。高梨も怖い」
「うん」
「だから、ならない」
結有は少し笑った。
「ありがたいね」
「うん」
アイは結有の袖をつまんだ。
「結有は、前に出る人」
「うん」
「私は、隣にいる人」
「うん」
「帰る」
「うん。帰る」
窓の外には、夜の海があった。
歴史の中で、才能は何度も人を救い、何度も人を壊した。
結有はまだ、自分の力の扱い方を学んでいる途中だ。
でも、隣にはアイがいる。
背後には神通がいる。
横から暁が叫ぶ。
遠くから高梨がにこにこ見ている。
なら、たぶん。
才能だけで突っ走る怪物にはならずに済む。
少なくとも、なりかけた時に止めてくれる人はいる。
結有は、それを少し心強く思った。