浜松鎮守府の海は、朝から黒かった。
天気は悪くない。
空は曇っているが、雨は降っていない。
風も強すぎるほどではない。
それでも、海が黒く見えた。
アイは岸壁に立ち、沖を見ていた。
白い髪が風に揺れる。
黒い目は、遠い海の奥を見ている。
結有はその隣に立った。
「聞こえる?」
「うん」
「深海の声?」
「違う」
アイは少しだけ眉を寄せた。
「声じゃない。指揮」
「指揮?」
「深海が、揃ってる」
結有は背筋が冷えるのを感じた。
深海棲艦は群れる。
命令のようなものに従うこともある。
中枢級がいれば、統制された動きをする。
だが、アイが今言ったのは少し違った。
指揮。
その言葉には、人の気配があった。
神通が岸壁へ来る。
「各務原提督。管制室へ」
「はい」
「アイさんも」
「わかった」
暁も駆けてきた。
「また深海反応?」
「たぶん、今までと違う」
結有が答える。
暁は不安そうに海を見た。
「違うって、嫌な言い方ね」
「うん。僕も嫌だ」
*
管制室には、浜松の主要メンバーが揃っていた。
神通。
暁。
最上。
夕立。
扶桑。
山城。
明石。
結有とアイ。
大型海図には、遠州灘沖の深海反応が表示されている。
数は多くない。
駆逐級、軽巡級、重巡級が点在。
戦艦級らしき反応も一つ。
だが、動きが異常だった。
通常の深海棲艦なら、もっと本能的に押し寄せる。
あるいは中枢級を中心に集まる。
今回の反応は違う。
距離を取り、互いの射線を塞がず、こちらの防衛線を測るように動いている。
最上が言った。
「これ、偵察と威力試験だね」
神通がうなずく。
「はい。こちらの出方を見ています」
暁が眉をひそめる。
「深海棲艦が?」
「誰かが指揮しているなら、あり得ます」
神通の声は硬かった。
その時、通信士が振り向いた。
「富士田子の浦鎮守府より緊急通信。高梨提督です」
画面に高梨湊が映った。
いつもの柔らかい笑顔はない。
結有は、それだけで事態の重さを理解した。
『浜松鎮守府、聞こえますか』
「こちら浜松。聞こえています」
神通が応じる。
『深海反応の指揮統制が確認されました。こちらでも同じ波形を拾っています』
高梨は一度だけ目を伏せた。
『指揮している相手に、心当たりがあります』
管制室が静かになる。
結有が聞いた。
「高梨さん、誰なんですか」
高梨は、少しだけ息を吸った。
『高梨未来』
その名を言う時だけ、声がわずかに震えた。
『私の双子の姉です』
誰もすぐには言葉を返せなかった。
暁が小さく言う。
「双子の、お姉さん?」
アイは画面を見ていた。
「高梨と同じ顔?」
『はい』
高梨は静かに答えた。
『そして、今は深海提督です』
その言葉で、管制室の温度が下がった。
深海提督。
深海棲艦を指揮する、人間。
あるいは、人間だったもの。
結有は拳を握った。
「人類を裏切った、ということですか」
『そうです』
高梨の声は穏やかだった。
だが、そこには痛みがあった。
『未来は、人類側の戦略運用をよく知っています。私の思考も。こちらの癖も。浜松と富士田子の浦の連携も、ある程度読んでくるでしょう』
神通が問う。
「目的は」
『アイさんです』
アイは黙っていた。
『そして、おそらく私』
「高梨さんを?」
『はい。未来は、私に見せに来たのだと思います』
「何を」
『自分が、深海側の提督になったことを』
*
遠州灘沖に、霧が出た。
季節外れの濃い霧だった。
白ではない。
黒に近い灰色。
その霧の中から、深海棲艦が現れる。
駆逐級。
軽巡級。
重巡級。
数は多すぎない。
だが、動きは揃っていた。
結有は岸壁から海を見ていた。
神通、アイとともに迎撃位置へ出る準備をしている。
暁は後方護衛。
最上と夕立は左右展開。
扶桑と山城は砲撃支援。
富士田子の浦からは、高梨湊、大和、川内、那珂が急行中だった。
しかし、その前に敵が動いた。
霧の中央で、深海棲艦たちが道を空ける。
その奥から、一人の女性が現れた。
海面に立っている。
艦娘ではない。
だが、沈まない。
黒い外套。
白に近い髪。
顔立ちは、高梨湊と驚くほど似ていた。
しかし、雰囲気が違う。
湊が春の海なら、彼女は凍った夜の海だった。
女性は浜松の方を見た。
そして、微笑んだ。
「初めまして、浜松鎮守府」
声は、湊と似ていた。
だが、温度がない。
「私は高梨未来。深海提督です」
通信が開いていたため、その声は管制室にも富士田子の浦にも届いた。
高梨湊の顔が画面の向こうで固まる。
『未来……』
未来は、少しだけ首を傾げた。
「久しぶり、湊」
『どうして』
「その質問、あなたらしくないわね。理由が一つで済むと思う?」
未来は笑った。
「人類に失望した。艦娘を兵器として扱う本部にも、深海をただの敵としてしか見ない提督たちにも。そして何より、壊れた世界に帰り道を作ろうとするあなたにも」
高梨の目がわずかに揺れる。
『帰り道は必要です』
「どこへ帰るの?」
未来の声は静かだった。
「腐った港? 艦娘を消耗品にする本部? 深海の子を解析対象にしようとする研究室? それとも、テロと恐怖で簡単に逆行する人類社会?」
結有は、高梨の講義を思い出した。
テロリストは歴史を停滞させられる。
逆行させるのは被害者側。
未来はその言葉を、別の方向から使っている。
未来は続けた。
「湊。あなたは帰り道を作る。でも、その帰る場所が腐っていたら? そこへ戻すことは救いなの?」
高梨は答えなかった。
未来は視線をアイへ向ける。
「アイ」
アイの艤装がわずかに震えた。
結有が一歩前へ出る。
「アイに何の用ですか」
未来は結有を見た。
「あなたが各務原結有」
「はい」
「時雨の娘。高霊子の提督。前に出たがる危険な子」
「評価がだいたい合ってるのが嫌ですね」
「そして、アイの帰る場所」
結有は黙った。
未来はアイへ向き直る。
「アイ。人類はあなたを利用するわ。艤装を与え、名前を与え、居場所を与えたふりをして、最後は深海を撃つための兵器にする」
アイは未来を見ていた。
「私は、選んだ」
「選ばされたのかもしれない」
「違う」
「本当に?」
未来の声は優しい。
だが、毒がある。
「結有がいるから? 神通がいるから? 暁が服を選んだから? 明石が艤装を作ったから? それは絆かしら。それとも、人類側に繋ぎ止める鎖かしら」
暁が怒鳴った。
「違うわ!」
未来は暁を見た。
「あなたは優しいのね。だから鎖だと気づかない」
「アイは友達よ!」
「友達という言葉で縛ることもできる」
暁が言葉に詰まる。
結有は拳を握った。
神通が静かに言う。
「各務原提督」
「はい」
「今は聞きます」
「……はい」
未来は神通を見る。
「神通。横須賀の鬼妹」
神通の目が鋭くなった。
「その呼び名を、深海側から聞くとは思いませんでした」
「知っているわ。あなたは強い。返り血を浴びて帰ってきた。時雨の最後も見た」
結有の肩が動いた。
未来は淡々と続ける。
「止められなかった。今度は結有を止めるつもり?」
神通は静かに答えた。
「はい」
未来は少し意外そうに目を細めた。
神通は続ける。
「止めます。必要なら、力ずくでも。時雨さんのようにはさせません」
「強い言葉ね」
「強くなければ届きません」
未来は微笑んだ。
「湊の影響?」
「私自身の答えです」
*
通信に、高梨湊の声が入った。
『未来』
「何、湊」
『あなたは、深海棲艦に何を望んだのですか』
「終わり」
未来は即答した。
「人類が積み上げた、矛盾と欺瞞の終わり。海を支配したと思い込んだ文明の終わり。艦娘を利用しながら、少女の顔をした兵器ではないと言い訳する世界の終わり」
『その先は』
「静かな海」
『人は?』
「沈むものは沈む。残るものは残る」
高梨の表情から、柔らかさが消えた。
『それは救いではありません』
「あなたの帰り道も、救いではないかもしれない」
『それでも、私は帰り道を作ります』
「なぜ」
『帰る場所が腐っているなら、直すためです』
未来の笑みが、初めて消えた。
高梨は続ける。
『壊して沈めれば、腐敗も矛盾も見えなくなるでしょう。でも、それは解決ではありません。あなたは人類を裁いているつもりで、ただ海に投げ捨てているだけです』
「湊」
『未来。あなたは賢い。だから、自分の絶望に理屈をつけるのが上手い』
未来の周囲の深海棲艦がざわめいた。
高梨の声は揺れなかった。
『でも、それは作戦ではありません。統治でもありません。救済でもありません。ただの放棄です』
結有は、息を呑んだ。
姉妹の会話ではない。
これは、二つの思想の衝突だった。
帰る場所を直す湊。
帰る場所ごと沈めようとする未来。
未来は、ゆっくりと笑った。
「相変わらずね。痛いところを、柔らかい声で刺す」
『あなたも相変わらずです。絶望を正しそうな言葉で飾る』
「なら、試しましょう」
未来が手を上げた。
深海棲艦たちが、一斉に砲口を向ける。
神通が叫ぶ。
「全員、戦闘態勢!」
結有は高速艇へ飛び乗った。
アイが海面へ出る。
がうがうが展開。
ろングが低く唸る。
ぴかのレンズに光が宿る。
未来はアイを見た。
「アイ。あなたはまだ戻れる」
アイは答えた。
「戻らない」
「人類の側にいると?」
「違う」
アイは結有を見た。
それから、浜松の仲間たちを見た。
「私は、私が選んだ側にいる」
未来は少し目を細めた。
「それが人類側よ」
「違う」
アイは静かに言った。
「浜松側」
暁が感極まったように叫ぶ。
「アイ!」
結有も笑った。
「いいね、それ」
神通の口元も、ほんの少しだけ緩んだ。
未来は、その反応を見ていた。
「なるほど。湊が気にするわけね」
*
戦闘は短かった。
未来は本気で浜松を落としに来たわけではなかった。
むしろ、試すような攻撃だった。
深海棲艦は統制された動きで接近し、射線を重ね、撤退路を確保しながら撃ってくる。
これまでの深海棲艦とは違う。
結有は高速艇を走らせながら、歯を噛んだ。
「やりづらい!」
神通が通信で応じる。
『相手は指揮されています。深追いしないでください』
「はい!」
未来の指揮は高梨に似ていた。
だが、違う。
湊の指揮は、味方を帰すために組まれている。
未来の指揮は、敵を疲れさせ、迷わせ、感情を削るために組まれていた。
アイが横を抜ける。
「結有、右」
「見えた!」
軽巡級の砲撃を避ける。
神通の砲撃が敵を下がらせる。
アイのLAWSが敵の観測器官を焼く。
未来はまだ後方に立っている。
結有は飛び出したくなった。
あそこまで行けば。
未来を止めれば。
この嫌な指揮が止まる。
足に力が入る。
その瞬間、アイが通信で言った。
『飛ばない』
結有は息を吐いた。
「わかってる」
『嘘』
「飛びたかった」
『十点から減点』
「今は何点?」
『六点』
「厳しい」
神通が言う。
『会話は短く。各務原提督、後退してください』
「了解!」
その時、富士田子の浦の増援が到着した。
大和の主砲が遠距離から響く。
深海棲艦の前進が止まる。
川内が左翼へ回り込み、敵の撤退路を牽制する。
那珂が通信を整理し、浜松側へ敵位置を流す。
そして、高梨湊の指揮が重なった。
『未来。これ以上は、お互いに損害が増えます』
未来は湊を見た。
「そうね。今日は顔見せ」
『次は止めます』
「次で止められる?」
『止めます』
未来は笑った。
「では、次に」
深海棲艦が霧の中へ下がり始める。
逃げるのではない。
整然とした撤退。
高梨は追撃を命じなかった。
結有は思わず言った。
「追わないんですか」
『追いません』
高梨の声は冷静だった。
『未来は追わせるために隙を見せています。追えば、こちらの隊列が伸びます』
神通も同意する。
「追撃禁止。戦線維持」
結有は拳を握った。
悔しい。
だが、前に出なかった。
アイが隣に来る。
「えらい」
「何点?」
「八点」
「戻った」
「飛ばなかった」
「うん」
*
霧が晴れた時、未来の姿は消えていた。
深海棲艦の残骸は少ない。
損害も軽微。
だが、浜松鎮守府に残ったものは重かった。
深海側にも提督がいる。
しかも、その提督は高梨湊の双子の姉。
人類側の戦略を知り、湊の思考を知り、アイを狙っている。
会議室で、高梨は静かに座っていた。
結有は、何と言えばいいかわからなかった。
「高梨さん」
「はい」
「未来さんは」
「姉です」
高梨は言った。
「そして、敵です」
その声は震えていなかった。
だからこそ、痛かった。
神通が言う。
「高梨提督」
「はい」
「あなた一人で背負う必要はありません」
高梨は少しだけ目を伏せた。
「ありがとうございます、神通」
ちゃん付けはなかった。
神通も何も言わなかった。
アイが高梨の前に立った。
「未来は、私を呼んだ」
「はい」
「でも、私は行かない」
「はい」
「私は浜松側」
高梨は、少しだけ微笑んだ。
「とてもよい答えです」
アイは続けた。
「高梨も、浜松側?」
結有は少し驚いた。
高梨は目を瞬いた。
そして、柔らかく笑った。
「はい。私は浜松側で、富士田子の浦側で、人類側です」
「多い」
「帰る場所は、一つだけとは限りませんから」
アイは納得したようにうなずいた。
*
その日の公式記録には、こう残された。
『遠州灘沖にて、深海棲艦群による統制行動を確認。敵指揮個体、高梨未来を視認。高梨未来は元人類側関係者であり、現在は深海棲艦を指揮する深海提督と推定。浜松・富士田子の浦連合部隊は交戦後、防衛線を維持。敵は撤退』
非公式日誌には、もっと短く、重く書かれた。
『高梨湊二佐の双子の姉、高梨未来が深海提督として出現』
『未来、人類を裏切り深海側へ』
『アイを深海側へ誘う』
『アイ、私は浜松側と宣言』
『結有、飛ばなかった』
『高梨湊、姉を敵と認める』
『神通、追撃を止める』
『深海側にも指揮官がいる』
最後に、誰かが追記した。
『帰る場所を作る妹と、帰る場所を沈める姉』
夜。
結有は岸壁で海を見ていた。
隣にはアイがいる。
「未来さん、怖かったね」
「うん」
「深海の声より?」
「違う怖さ」
「そっか」
アイは海を見たまま言った。
「未来は、言葉で引っ張る」
「うん」
「高梨は、言葉で帰す」
結有は少し黙った。
「いい言い方だね」
「うん」
アイは結有の袖をつまむ。
「結有は?」
「僕?」
「結有は、何で帰す?」
結有は考えた。
拳。
高速艇。
無茶。
叫び。
手。
「たぶん、手を伸ばす」
アイは結有を見た。
「飛ぶ?」
「飛ばない範囲で」
「なら、よし」
海の向こうに、未来は消えた。
だが、もういないわけではない。
深海提督、高梨未来。
彼女は必ずまた来る。
アイを呼ぶために。
湊を揺さぶるために。
浜松の帰る場所を試すために。
結有は拳を握った。
怒りではなく、覚悟として。
今度の敵は、ただ殴れば終わる相手ではない。
言葉で揺さぶり、戦略で追い込み、帰る場所そのものを疑わせてくる相手だ。
だから、こちらも守らなければならない。
海だけではなく。
帰る場所を。