艦隊これくしょん 残響のアイ   作:SAMICO

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第11話 深海提督、高梨未来

 浜松鎮守府の海は、朝から黒かった。

 

 天気は悪くない。

 空は曇っているが、雨は降っていない。

 風も強すぎるほどではない。

 

 それでも、海が黒く見えた。

 

 アイは岸壁に立ち、沖を見ていた。

 

 白い髪が風に揺れる。

 黒い目は、遠い海の奥を見ている。

 

 結有はその隣に立った。

 

「聞こえる?」

 

「うん」

 

「深海の声?」

 

「違う」

 

 アイは少しだけ眉を寄せた。

 

「声じゃない。指揮」

 

「指揮?」

 

「深海が、揃ってる」

 

 結有は背筋が冷えるのを感じた。

 

 深海棲艦は群れる。

 命令のようなものに従うこともある。

 中枢級がいれば、統制された動きをする。

 

 だが、アイが今言ったのは少し違った。

 

 指揮。

 

 その言葉には、人の気配があった。

 

 神通が岸壁へ来る。

 

「各務原提督。管制室へ」

 

「はい」

 

「アイさんも」

 

「わかった」

 

 暁も駆けてきた。

 

「また深海反応?」

 

「たぶん、今までと違う」

 

 結有が答える。

 

 暁は不安そうに海を見た。

 

「違うって、嫌な言い方ね」

 

「うん。僕も嫌だ」

 

      *

 

 管制室には、浜松の主要メンバーが揃っていた。

 

 神通。

 暁。

 最上。

 夕立。

 扶桑。

 山城。

 明石。

 結有とアイ。

 

 大型海図には、遠州灘沖の深海反応が表示されている。

 

 数は多くない。

 

 駆逐級、軽巡級、重巡級が点在。

 戦艦級らしき反応も一つ。

 

 だが、動きが異常だった。

 

 通常の深海棲艦なら、もっと本能的に押し寄せる。

 あるいは中枢級を中心に集まる。

 

 今回の反応は違う。

 

 距離を取り、互いの射線を塞がず、こちらの防衛線を測るように動いている。

 

 最上が言った。

 

「これ、偵察と威力試験だね」

 

 神通がうなずく。

 

「はい。こちらの出方を見ています」

 

 暁が眉をひそめる。

 

「深海棲艦が?」

 

「誰かが指揮しているなら、あり得ます」

 

 神通の声は硬かった。

 

 その時、通信士が振り向いた。

 

「富士田子の浦鎮守府より緊急通信。高梨提督です」

 

 画面に高梨湊が映った。

 

 いつもの柔らかい笑顔はない。

 

 結有は、それだけで事態の重さを理解した。

 

『浜松鎮守府、聞こえますか』

 

「こちら浜松。聞こえています」

 

 神通が応じる。

 

『深海反応の指揮統制が確認されました。こちらでも同じ波形を拾っています』

 

 高梨は一度だけ目を伏せた。

 

『指揮している相手に、心当たりがあります』

 

 管制室が静かになる。

 

 結有が聞いた。

 

「高梨さん、誰なんですか」

 

 高梨は、少しだけ息を吸った。

 

『高梨未来』

 

 その名を言う時だけ、声がわずかに震えた。

 

『私の双子の姉です』

 

 誰もすぐには言葉を返せなかった。

 

 暁が小さく言う。

 

「双子の、お姉さん?」

 

 アイは画面を見ていた。

 

「高梨と同じ顔?」

 

『はい』

 

 高梨は静かに答えた。

 

『そして、今は深海提督です』

 

 その言葉で、管制室の温度が下がった。

 

 深海提督。

 

 深海棲艦を指揮する、人間。

 あるいは、人間だったもの。

 

 結有は拳を握った。

 

「人類を裏切った、ということですか」

 

『そうです』

 

 高梨の声は穏やかだった。

 

 だが、そこには痛みがあった。

 

『未来は、人類側の戦略運用をよく知っています。私の思考も。こちらの癖も。浜松と富士田子の浦の連携も、ある程度読んでくるでしょう』

 

 神通が問う。

 

「目的は」

 

『アイさんです』

 

 アイは黙っていた。

 

『そして、おそらく私』

 

「高梨さんを?」

 

『はい。未来は、私に見せに来たのだと思います』

 

「何を」

 

『自分が、深海側の提督になったことを』

 

      *

 

 遠州灘沖に、霧が出た。

 

 季節外れの濃い霧だった。

 

 白ではない。

 黒に近い灰色。

 

 その霧の中から、深海棲艦が現れる。

 

 駆逐級。

 軽巡級。

 重巡級。

 

 数は多すぎない。

 

 だが、動きは揃っていた。

 

 結有は岸壁から海を見ていた。

 

 神通、アイとともに迎撃位置へ出る準備をしている。

 暁は後方護衛。

 最上と夕立は左右展開。

 扶桑と山城は砲撃支援。

 

 富士田子の浦からは、高梨湊、大和、川内、那珂が急行中だった。

 

 しかし、その前に敵が動いた。

 

 霧の中央で、深海棲艦たちが道を空ける。

 

 その奥から、一人の女性が現れた。

 

 海面に立っている。

 

 艦娘ではない。

 だが、沈まない。

 

 黒い外套。

 白に近い髪。

 顔立ちは、高梨湊と驚くほど似ていた。

 

 しかし、雰囲気が違う。

 

 湊が春の海なら、彼女は凍った夜の海だった。

 

 女性は浜松の方を見た。

 

 そして、微笑んだ。

 

「初めまして、浜松鎮守府」

 

 声は、湊と似ていた。

 

 だが、温度がない。

 

「私は高梨未来。深海提督です」

 

 通信が開いていたため、その声は管制室にも富士田子の浦にも届いた。

 

 高梨湊の顔が画面の向こうで固まる。

 

『未来……』

 

 未来は、少しだけ首を傾げた。

 

「久しぶり、湊」

 

『どうして』

 

「その質問、あなたらしくないわね。理由が一つで済むと思う?」

 

 未来は笑った。

 

「人類に失望した。艦娘を兵器として扱う本部にも、深海をただの敵としてしか見ない提督たちにも。そして何より、壊れた世界に帰り道を作ろうとするあなたにも」

 

 高梨の目がわずかに揺れる。

 

『帰り道は必要です』

 

「どこへ帰るの?」

 

 未来の声は静かだった。

 

「腐った港? 艦娘を消耗品にする本部? 深海の子を解析対象にしようとする研究室? それとも、テロと恐怖で簡単に逆行する人類社会?」

 

 結有は、高梨の講義を思い出した。

 

 テロリストは歴史を停滞させられる。

 逆行させるのは被害者側。

 

 未来はその言葉を、別の方向から使っている。

 

 未来は続けた。

 

「湊。あなたは帰り道を作る。でも、その帰る場所が腐っていたら? そこへ戻すことは救いなの?」

 

 高梨は答えなかった。

 

 未来は視線をアイへ向ける。

 

「アイ」

 

 アイの艤装がわずかに震えた。

 

 結有が一歩前へ出る。

 

「アイに何の用ですか」

 

 未来は結有を見た。

 

「あなたが各務原結有」

 

「はい」

 

「時雨の娘。高霊子の提督。前に出たがる危険な子」

 

「評価がだいたい合ってるのが嫌ですね」

 

「そして、アイの帰る場所」

 

 結有は黙った。

 

 未来はアイへ向き直る。

 

「アイ。人類はあなたを利用するわ。艤装を与え、名前を与え、居場所を与えたふりをして、最後は深海を撃つための兵器にする」

 

 アイは未来を見ていた。

 

「私は、選んだ」

 

「選ばされたのかもしれない」

 

「違う」

 

「本当に?」

 

 未来の声は優しい。

 

 だが、毒がある。

 

「結有がいるから? 神通がいるから? 暁が服を選んだから? 明石が艤装を作ったから? それは絆かしら。それとも、人類側に繋ぎ止める鎖かしら」

 

 暁が怒鳴った。

 

「違うわ!」

 

 未来は暁を見た。

 

「あなたは優しいのね。だから鎖だと気づかない」

 

「アイは友達よ!」

 

「友達という言葉で縛ることもできる」

 

 暁が言葉に詰まる。

 

 結有は拳を握った。

 

 神通が静かに言う。

 

「各務原提督」

 

「はい」

 

「今は聞きます」

 

「……はい」

 

 未来は神通を見る。

 

「神通。横須賀の鬼妹」

 

 神通の目が鋭くなった。

 

「その呼び名を、深海側から聞くとは思いませんでした」

 

「知っているわ。あなたは強い。返り血を浴びて帰ってきた。時雨の最後も見た」

 

 結有の肩が動いた。

 

 未来は淡々と続ける。

 

「止められなかった。今度は結有を止めるつもり?」

 

 神通は静かに答えた。

 

「はい」

 

 未来は少し意外そうに目を細めた。

 

 神通は続ける。

 

「止めます。必要なら、力ずくでも。時雨さんのようにはさせません」

 

「強い言葉ね」

 

「強くなければ届きません」

 

 未来は微笑んだ。

 

「湊の影響?」

 

「私自身の答えです」

 

      *

 

 通信に、高梨湊の声が入った。

 

『未来』

 

「何、湊」

 

『あなたは、深海棲艦に何を望んだのですか』

 

「終わり」

 

 未来は即答した。

 

「人類が積み上げた、矛盾と欺瞞の終わり。海を支配したと思い込んだ文明の終わり。艦娘を利用しながら、少女の顔をした兵器ではないと言い訳する世界の終わり」

 

『その先は』

 

「静かな海」

 

『人は?』

 

「沈むものは沈む。残るものは残る」

 

 高梨の表情から、柔らかさが消えた。

 

『それは救いではありません』

 

「あなたの帰り道も、救いではないかもしれない」

 

『それでも、私は帰り道を作ります』

 

「なぜ」

 

『帰る場所が腐っているなら、直すためです』

 

 未来の笑みが、初めて消えた。

 

 高梨は続ける。

 

『壊して沈めれば、腐敗も矛盾も見えなくなるでしょう。でも、それは解決ではありません。あなたは人類を裁いているつもりで、ただ海に投げ捨てているだけです』

 

「湊」

 

『未来。あなたは賢い。だから、自分の絶望に理屈をつけるのが上手い』

 

 未来の周囲の深海棲艦がざわめいた。

 

 高梨の声は揺れなかった。

 

『でも、それは作戦ではありません。統治でもありません。救済でもありません。ただの放棄です』

 

 結有は、息を呑んだ。

 

 姉妹の会話ではない。

 これは、二つの思想の衝突だった。

 

 帰る場所を直す湊。

 帰る場所ごと沈めようとする未来。

 

 未来は、ゆっくりと笑った。

 

「相変わらずね。痛いところを、柔らかい声で刺す」

 

『あなたも相変わらずです。絶望を正しそうな言葉で飾る』

 

「なら、試しましょう」

 

 未来が手を上げた。

 

 深海棲艦たちが、一斉に砲口を向ける。

 

 神通が叫ぶ。

 

「全員、戦闘態勢!」

 

 結有は高速艇へ飛び乗った。

 

 アイが海面へ出る。

 がうがうが展開。

 ろングが低く唸る。

 ぴかのレンズに光が宿る。

 

 未来はアイを見た。

 

「アイ。あなたはまだ戻れる」

 

 アイは答えた。

 

「戻らない」

 

「人類の側にいると?」

 

「違う」

 

 アイは結有を見た。

 

 それから、浜松の仲間たちを見た。

 

「私は、私が選んだ側にいる」

 

 未来は少し目を細めた。

 

「それが人類側よ」

 

「違う」

 

 アイは静かに言った。

 

「浜松側」

 

 暁が感極まったように叫ぶ。

 

「アイ!」

 

 結有も笑った。

 

「いいね、それ」

 

 神通の口元も、ほんの少しだけ緩んだ。

 

 未来は、その反応を見ていた。

 

「なるほど。湊が気にするわけね」

 

      *

 

 戦闘は短かった。

 

 未来は本気で浜松を落としに来たわけではなかった。

 

 むしろ、試すような攻撃だった。

 

 深海棲艦は統制された動きで接近し、射線を重ね、撤退路を確保しながら撃ってくる。

 これまでの深海棲艦とは違う。

 

 結有は高速艇を走らせながら、歯を噛んだ。

 

「やりづらい!」

 

 神通が通信で応じる。

 

『相手は指揮されています。深追いしないでください』

 

「はい!」

 

 未来の指揮は高梨に似ていた。

 

 だが、違う。

 

 湊の指揮は、味方を帰すために組まれている。

 未来の指揮は、敵を疲れさせ、迷わせ、感情を削るために組まれていた。

 

 アイが横を抜ける。

 

「結有、右」

 

「見えた!」

 

 軽巡級の砲撃を避ける。

 神通の砲撃が敵を下がらせる。

 アイのLAWSが敵の観測器官を焼く。

 

 未来はまだ後方に立っている。

 

 結有は飛び出したくなった。

 

 あそこまで行けば。

 未来を止めれば。

 この嫌な指揮が止まる。

 

 足に力が入る。

 

 その瞬間、アイが通信で言った。

 

『飛ばない』

 

 結有は息を吐いた。

 

「わかってる」

 

『嘘』

 

「飛びたかった」

 

『十点から減点』

 

「今は何点?」

 

『六点』

 

「厳しい」

 

 神通が言う。

 

『会話は短く。各務原提督、後退してください』

 

「了解!」

 

 その時、富士田子の浦の増援が到着した。

 

 大和の主砲が遠距離から響く。

 深海棲艦の前進が止まる。

 

 川内が左翼へ回り込み、敵の撤退路を牽制する。

 那珂が通信を整理し、浜松側へ敵位置を流す。

 

 そして、高梨湊の指揮が重なった。

 

『未来。これ以上は、お互いに損害が増えます』

 

 未来は湊を見た。

 

「そうね。今日は顔見せ」

 

『次は止めます』

 

「次で止められる?」

 

『止めます』

 

 未来は笑った。

 

「では、次に」

 

 深海棲艦が霧の中へ下がり始める。

 

 逃げるのではない。

 整然とした撤退。

 

 高梨は追撃を命じなかった。

 

 結有は思わず言った。

 

「追わないんですか」

 

『追いません』

 

 高梨の声は冷静だった。

 

『未来は追わせるために隙を見せています。追えば、こちらの隊列が伸びます』

 

 神通も同意する。

 

「追撃禁止。戦線維持」

 

 結有は拳を握った。

 

 悔しい。

 

 だが、前に出なかった。

 

 アイが隣に来る。

 

「えらい」

 

「何点?」

 

「八点」

 

「戻った」

 

「飛ばなかった」

 

「うん」

 

      *

 

 霧が晴れた時、未来の姿は消えていた。

 

 深海棲艦の残骸は少ない。

 損害も軽微。

 

 だが、浜松鎮守府に残ったものは重かった。

 

 深海側にも提督がいる。

 

 しかも、その提督は高梨湊の双子の姉。

 人類側の戦略を知り、湊の思考を知り、アイを狙っている。

 

 会議室で、高梨は静かに座っていた。

 

 結有は、何と言えばいいかわからなかった。

 

「高梨さん」

 

「はい」

 

「未来さんは」

 

「姉です」

 

 高梨は言った。

 

「そして、敵です」

 

 その声は震えていなかった。

 

 だからこそ、痛かった。

 

 神通が言う。

 

「高梨提督」

 

「はい」

 

「あなた一人で背負う必要はありません」

 

 高梨は少しだけ目を伏せた。

 

「ありがとうございます、神通」

 

 ちゃん付けはなかった。

 

 神通も何も言わなかった。

 

 アイが高梨の前に立った。

 

「未来は、私を呼んだ」

 

「はい」

 

「でも、私は行かない」

 

「はい」

 

「私は浜松側」

 

 高梨は、少しだけ微笑んだ。

 

「とてもよい答えです」

 

 アイは続けた。

 

「高梨も、浜松側?」

 

 結有は少し驚いた。

 

 高梨は目を瞬いた。

 

 そして、柔らかく笑った。

 

「はい。私は浜松側で、富士田子の浦側で、人類側です」

 

「多い」

 

「帰る場所は、一つだけとは限りませんから」

 

 アイは納得したようにうなずいた。

 

      *

 

 その日の公式記録には、こう残された。

 

『遠州灘沖にて、深海棲艦群による統制行動を確認。敵指揮個体、高梨未来を視認。高梨未来は元人類側関係者であり、現在は深海棲艦を指揮する深海提督と推定。浜松・富士田子の浦連合部隊は交戦後、防衛線を維持。敵は撤退』

 

 非公式日誌には、もっと短く、重く書かれた。

 

『高梨湊二佐の双子の姉、高梨未来が深海提督として出現』

『未来、人類を裏切り深海側へ』

『アイを深海側へ誘う』

『アイ、私は浜松側と宣言』

『結有、飛ばなかった』

『高梨湊、姉を敵と認める』

『神通、追撃を止める』

『深海側にも指揮官がいる』

 

 最後に、誰かが追記した。

 

『帰る場所を作る妹と、帰る場所を沈める姉』

 

 夜。

 

 結有は岸壁で海を見ていた。

 

 隣にはアイがいる。

 

「未来さん、怖かったね」

 

「うん」

 

「深海の声より?」

 

「違う怖さ」

 

「そっか」

 

 アイは海を見たまま言った。

 

「未来は、言葉で引っ張る」

 

「うん」

 

「高梨は、言葉で帰す」

 

 結有は少し黙った。

 

「いい言い方だね」

 

「うん」

 

 アイは結有の袖をつまむ。

 

「結有は?」

 

「僕?」

 

「結有は、何で帰す?」

 

 結有は考えた。

 

 拳。

 高速艇。

 無茶。

 叫び。

 手。

 

「たぶん、手を伸ばす」

 

 アイは結有を見た。

 

「飛ぶ?」

 

「飛ばない範囲で」

 

「なら、よし」

 

 海の向こうに、未来は消えた。

 

 だが、もういないわけではない。

 

 深海提督、高梨未来。

 

 彼女は必ずまた来る。

 

 アイを呼ぶために。

 湊を揺さぶるために。

 浜松の帰る場所を試すために。

 

 結有は拳を握った。

 

 怒りではなく、覚悟として。

 

 今度の敵は、ただ殴れば終わる相手ではない。

 

 言葉で揺さぶり、戦略で追い込み、帰る場所そのものを疑わせてくる相手だ。

 

 だから、こちらも守らなければならない。

 

 海だけではなく。

 

 帰る場所を。

 

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