各務原裕二一等陸佐は、怪異を信じていなかった。
深海棲艦が出た世界で何を言っているのか、という話ではある。
艦娘がいて。
妖精さんがいて。
深海棲艦がいて。
自分の娘が深海棲艦を刺身にしたことがある。
それでも裕二は、都市伝説や怪談の類には懐疑的だった。
理由は単純である。
「見たことがない」
それが彼の結論だった。
そして、その夜。
各務原裕二は、初めて怪異に遭遇した。
*
時刻は深夜二時十三分。
場所は、陸上自衛隊某駐屯地の一角。
裕二は夜間訓練後の報告書を処理していた。
机の上には資料。
横には冷めた缶コーヒー。
壁には訓練計画表。
携帯端末が鳴った。
非通知。
裕二は眉をひそめた。
出た。
『私、メリーさん』
少女の声だった。
裕二は無言で時計を見る。
深夜二時十三分。
『今、あなたの駐屯地の正門にいるの』
通話が切れた。
裕二は端末を見た。
「迷子か」
まず出た結論がそれだった。
五分後、また鳴った。
『私、メリーさん。今、あなたの隊舎の前にいるの』
通話が切れた。
裕二は立ち上がり、窓の外を見る。
誰もいない。
「警衛は何をしている」
さらに三分後。
『私、メリーさん。今、あなたの部屋の前にいるの』
裕二は扉を見た。
気配がない。
だが、妙な寒気だけがある。
戦場の勘が、わずかに警報を鳴らした。
普通ではない。
裕二は扉の前へ立つ。
開けた。
誰もいない。
廊下は静かだった。
「……怪異か?」
初めて、その可能性を口にした。
その瞬間、背後で声がした。
「私、メリーさん」
裕二の身体が先に動いた。
「貴方の後ろにい」
言い終わる前だった。
裕二は振り向きざま、相手の中心線へ入った。
骨法の踏み込み。
無意識の間合い。
反射。
戦場で何度も命を拾った動き。
膝が、少女の腹に入った。
正確には、みぞおち。
「ぐえっ」
怪異らしからぬ声がした。
白いワンピースの少女が、その場に崩れ落ちた。
長い金髪。
人形のような顔。
青ざめた肌。
片手には古びた人形。
少女は床で丸くなり、声にならない声を漏らしている。
「……」
裕二は固まった。
数秒後。
「しまった」
そう言った。
*
各務原裕二は、戦場で迷わない。
深海棲艦が相手なら突っ込む。
武装した敵なら制圧する。
ヤクザの事務所なら、若気の至りで突入する。
しかし、床で悶絶する怪異少女を前にした時、彼は迷った。
「大丈夫か」
「だ、だいじょうぶに見える……?」
少女は涙目で言った。
怪異が涙目になるのか。
裕二は知らなかった。
「すまん。身体が反応した」
「ひどい……私、まだ台詞の途中だったのに……」
「背後を取る方が悪い」
「メリーさんだから!」
「そうか」
裕二は少し考えた。
「救護室へ行くか」
「怪異を救護室に連れていくの……?」
「怪我人だろう」
「怪異だけど」
「腹は痛むのか」
「痛い……」
「なら怪我人だ」
裕二は少女を抱え上げた。
軽かった。
あまりにも軽い。
怪異だからなのか、少女だからなのか、裕二には判断がつかなかった。
メリーさんは抵抗しようとした。
「ちょ、ちょっと、私、呪う側なんだけど」
「後にしろ」
「後にされる呪いって何……?」
結局、裕二は救護室へ向かった。
当直の衛生隊員は、白いワンピースの少女を抱えた鬼の各務原を見て、三秒固まった。
「一佐」
「診てくれ」
「どちら様ですか」
「メリーさんだ」
「はい?」
「怪異らしい」
「はい?」
「俺が膝を入れた」
「はい?」
衛生隊員は、その夜だけで一生分の「はい?」を言った。
*
診察の結果、メリーさんに骨折はなかった。
怪異なので骨があるのかも微妙だったが、とにかく致命的ではなかった。
ただし、みぞおちへの膝蹴りはかなり効いたらしく、メリーさんはしばらくベッドで丸くなっていた。
「私、メリーさん……今、救護室にいるの……」
「実況しなくていい」
裕二は椅子に座っていた。
「お前は、俺を呪いに来たのか」
「そう。電話して、だんだん近づいて、最後に後ろに立つの」
「その後は」
「怖がらせる」
「殺すのか」
「相手による」
「俺はどうするつもりだった」
「ちょっと怖がらせて、泣かせようかなって」
「無理だ」
「今ならわかる」
メリーさんは布団を握った。
「人間が振り向きざまに膝蹴りしてくるなんて聞いてない」
「戦場では背後を取られたら死ぬ」
「都市伝説では背後に立つものなの!」
「相性が悪かったな」
「悪すぎる……」
裕二は腕を組んだ。
メリーさんは、怪異である。
人間ではない。
おそらく戸籍もない。
年齢も不明。
だが、見た目は少女だった。
そして裕二は、少女のみぞおちに膝を叩き込んだ。
いくら怪異とはいえ、かなり後味が悪い。
時雨が生きていたら何と言うか。
裕二さん。
その声が脳裏に浮かんだ。
裕二の背筋が伸びた。
メリーさんがそれを見て、少し怯えた。
「何? また蹴るの?」
「蹴らん」
「本当?」
「本当だ」
「怪しい」
「俺は一度制圧した相手を、理由なく二度蹴らん」
「一度目は理由あったの?」
「背後を取った」
「メリーさんなのに……」
裕二は深く息を吐いた。
「責任を取る」
「え」
「俺がやったことは、過剰だった」
「まあ、過剰だったけど」
「怪異とはいえ、少女に膝を入れた。俺の落ち度もある」
「ようやく認めた」
「行く場所はあるのか」
メリーさんは黙った。
少しだけ、表情が変わる。
人形のような顔から、都市伝説の冷たさが薄れた。
「電話が繋がるところ」
「家は」
「ない」
「保護者は」
「いない」
「戸籍は」
「何それ」
裕二はうなずいた。
「よし」
「何が?」
「うちで引き取る」
メリーさんは固まった。
「……は?」
「養女にする」
「はあ!?」
救護室の衛生隊員も、奥で何かを落とした。
裕二は真顔だった。
「人間の制度上、可能かは確認する。怪異登録が必要かもしれん。艦娘本部か大貫空将に聞く」
「待って待って待って。私、呪いに来たの」
「失敗した」
「失敗したけど!」
「なら次の進路を考えるべきだ」
「進路指導!?」
「教育も必要だ。背後の取り方が雑だ」
「そこを教育するの!?」
「いや、まず倫理からだな」
「怪異に倫理教育!?」
裕二は重々しくうなずいた。
「俺も若い頃、教育の大切さを学んだ」
「何があったの」
「バッジが増えた」
「何の話!?」
*
翌朝。
艦娘本部長、大貫悟空将は、早朝から頭を抱えていた。
理由は、各務原裕二からの電話である。
『怪異を養女にしたい』
第一声がそれだった。
大貫はしばらく黙った。
「各務原一佐」
『はい』
「私はまだ朝のコーヒーも飲んでいない」
『申し訳ありません』
「もう一度、最初から説明してくれ」
裕二は説明した。
メリーさんが電話をかけてきたこと。
背後に立ったこと。
身体が反応して膝蹴りをみぞおちに叩き込んだこと。
少女が悶絶したこと。
罪悪感を覚えたこと。
引き取ることにしたこと。
大貫は最後まで聞いた。
そして、深く息を吐いた。
「なぜ、そうなる」
『責任を取るべきかと』
「責任の取り方が特殊すぎる」
『怪異とはいえ、見た目は少女です』
「そこは理解する」
『行く場所もないようです』
「それも理解する」
『ならば保護を』
「なぜ各務原家で」
『俺が蹴ったので』
大貫は頭を抱えた。
「君は、何かにつけて家族を増やす方向に行くのか」
『結有にも妹分が必要かと』
「娘さんに相談したのか」
『これからします』
「先にしろ」
『了解しました』
「それと、膝蹴りの件は」
『反省しています』
「本当に?」
『背後を取られた際の反射制圧について、今後は相手の体格と敵性を確認します』
「反省の方向が違う」
大貫は机に肘をついた。
「怪異の法的扱いは、前例がない。艦娘本部、警察庁、内閣法制局、場合によっては陰陽方面の民間研究者にも確認が必要だ」
『では一時保護で』
「そうなるだろう」
『ありがとうございます』
「礼を言うな。私はまた新しい頭痛を抱えた」
通話が切れた後、大貫は副官に言った。
「怪異の保護制度について、資料を集めてくれ」
副官は固まった。
「怪異、ですか」
「私も言いたくない」
*
その日の夕方。
浜松鎮守府の結有の端末に、父からビデオ通話が入った。
結有は談話室にいた。
隣にはアイ。
向かいには暁。
少し離れて神通が書類を読んでいる。
「父さん?」
『結有』
「何?」
『お前に紹介したい子がいる』
結有は固まった。
「え?」
画面の中で、裕二が少し横へずれた。
そこに、白いワンピースの少女がいた。
金髪。
人形のような顔。
どこか不満そうに頬を膨らませている。
『メリーだ』
「めりー」
アイが復唱した。
暁が身を乗り出す。
「誰!?」
裕二は真顔で言った。
『怪異だ』
結有は目を閉じた。
「父さん」
『何だ』
「最初から説明して」
『俺を呪いに来た』
「うん」
『背後に立った』
「うん」
『膝を入れた』
「うん?」
『悶絶した』
「うん!?」
『罪悪感がある』
「だろうね!」
『引き取ることにした』
「なんで!?」
暁が叫んだ。
「話の飛び方が結有さん以上よ!」
アイは画面を見ていた。
「メリー、強い?」
メリーさんはむっとした。
『本来は強いの! 背後に立てば怖いの!』
「裕二に負けた」
『あれは事故!』
神通が静かに立ち上がった。
「各務原一佐」
『神通か』
「状況は把握しました。把握したくありませんでしたが、把握しました」
『すまん』
「メリーさんは、現在保護下に?」
『そうだ。大貫空将にも連絡した』
「大貫空将が気の毒です」
『俺もそう思う』
結有は画面のメリーを見る。
「えっと、メリーちゃん?」
『ちゃん付けしないで。私、怪異だから』
「じゃあメリー」
『それでいい』
「僕は各務原結有」
『知ってる。娘でしょ』
「うん。父が膝蹴りしてごめん」
『あなたが謝ることじゃないけど、受け取っておく』
メリーは少しだけ視線を逸らした。
アイが言う。
「メリーは、妹?」
結有は額に手を当てた。
「たぶん、そうなるのかな」
『私は怪異! 妹じゃない!』
裕二が言った。
『戸籍上どうなるかは未定だが、保護者としては俺になる』
『勝手に決めないで!』
『嫌なら別の保護先を探す』
メリーは黙った。
少しだけ、小さな声になる。
『……電話が繋がるところ以外、よく知らない』
結有はその声で、少し表情を変えた。
怪異。
都市伝説。
人を怖がらせる存在。
でも、行く場所がない少女。
アイが浜松に流れ着いた時と、少しだけ重なった。
結有は言った。
「じゃあ、うちにいればいいよ」
メリーが画面越しに結有を見る。
『怖くないの?』
「父さんに膝蹴りされて悶絶した子を、そんなに怖がれない」
『ひどい!』
「ごめん」
アイが短く言った。
「仲間」
メリーはアイを見る。
『あなたは何?』
「アイ。深海で艦娘。結有のパートナー」
『情報量が多い』
「メリーも怪異で妹」
『妹じゃない!』
暁が腕を組んだ。
「でも、各務原家に入るなら、まず礼儀を覚えないとだめね。一人前のレディとして、私が教えてあげるわ」
結有は言った。
「暁、また教育対象増えたね」
「任せなさい」
神通が静かに言う。
「背後に立つ前に、相手へ声をかけることも教える必要があります」
『それだとメリーさんじゃなくなる!』
メリーが叫んだ。
裕二は腕を組んで言った。
『背後に立つなら、せめて間合いを考えろ』
『そこ!?』
*
数日後。
メリーさんは、各務原家の一時保護対象として正式に登録された。
法的分類は、仮に「人型怪異保護対象」。
大貫空将は、その書類に判を押しながら三度ため息をついたという。
浜松鎮守府の非公式日誌には、こう記された。
『各務原裕二一佐、メリーさんに狙われる』
『私メリーさん、貴方の後ろにいるの、を言い終わる前に膝蹴り』
『メリーさん、みぞおちを撃沈』
『裕二、罪悪感から養女として引き取りを申し出る』
『大貫空将、また頭を抱える』
『結有、突然妹分ができる』
『アイ、怪異妹と認識』
『暁、礼儀教育対象が増える』
『神通、背後に立つ時の安全教育を提案』
最後に、誰かが追記した。
『各務原家、深海・艦娘・怪異方面に対応範囲を拡大』
夜。
結有は父との通話を終え、しばらく天井を見ていた。
アイが隣で言う。
「妹、できた」
「できたね」
「怪異」
「怪異だね」
「結有の家、変」
「否定できない」
「でも、悪くない」
結有は少し笑った。
「アイが言うと説得力あるな」
「メリー、浜松に来る?」
「そのうち来るんじゃない?」
「背後に立つ?」
「立つかも」
「蹴る?」
「僕は蹴らないよ」
廊下の向こうから神通の声がした。
「各務原提督」
「はい」
「反射制圧訓練に、背後確認項目を追加します」
「僕もですか?」
「各務原家全体の傾向として必要です」
「はい」
アイは小さく言った。
「メリー、強く生きて」
結有は笑った。
各務原家に、新しい怪異の妹分が増えた。
海の戦争とは、たぶん関係ない。
たぶん。
そう思いたかった。