メリーさんは、各務原家に一時保護されてから、いくつかのことを学んだ。
一つ。
各務原裕二の背後に立つ時は、間合いを取ること。
二つ。
名乗りは最後まで言い切ること。
三つ。
みぞおちに膝を入れられたくなければ、殺気を少し抑えること。
四つ。
各務原家の人間は、だいたいおかしい。
「私、怪異なのに」
メリーさんは、各務原家の居間でそうつぶやいた。
白いワンピース。
金髪。
人形のような顔。
そして、腹部にはまだ少し残る幻の痛み。
向かいには、各務原裕二が座っている。
「不満か」
「不満というか、納得がいかない」
「何がだ」
「私、人間を怖がらせる側だったのに、今は礼儀作法と安全な背後の取り方を教わってる」
「基礎は大事だ」
「怪異の基礎じゃない」
「背後を取るなら、相手の反撃線を読む必要がある」
「だからそこじゃない!」
メリーさんは机を叩いた。
その時、裕二の端末が鳴った。
表示は、艦娘本部。
裕二が出る。
「各務原だ」
通話の向こうから、大貫悟空将の疲れた声がした。
『各務原一佐』
「はい」
『君が以前関わった、近隣ブラック鎮守府の元提督だが』
「娘が殴った男ですか」
『そうだ。言い方は正確だが、もう少し何とかならんか』
「女の敵の男ですか」
『悪化した』
大貫はため息をついた。
『護送前の事情聴取中に、逃走を図った。正確には、拘束施設内の協力者を使って外部の証人に接触しようとした疑いがある』
裕二の目が細くなった。
「初霜たちに?」
『可能性がある。現在、警務隊が追っているが、少し厄介だ』
「場所は」
『なぜ聞く』
「制圧します」
『だから君に言うか迷ったのだ』
大貫の声が重くなる。
『これは正式任務ではない。君は動くな』
「了解しました」
裕二は通話を切った。
メリーさんが見ていた。
「今の、動くなって言われたよね」
「言われた」
「動くの?」
「俺は動かん」
裕二はメリーさんを見た。
「お前、背後を取る練習をしていたな」
メリーさんは固まった。
「え」
*
その夜。
元ブラック鎮守府提督は、港湾地区の古い倉庫にいた。
逃亡というには粗い。
潜伏というには目立つ。
だが、彼にはまだ金と、かつての取り巻きが少し残っていた。
「初霜を黙らせれば、証言は崩せる」
男は苛立ちながら言った。
「浜松の連中が余計なことをしただけだ。あの候補生、いや提督になった小娘も、必ず」
その声は、途中で止まった。
倉庫の中が、急に冷えたからだ。
灯りが一つ、また一つと消える。
「何だ」
男が振り向く。
誰もいない。
だが、携帯端末が鳴った。
非通知。
男は舌打ちして出た。
『私、メリーさん』
少女の声。
男は顔をしかめた。
「誰だ」
『今、あなたのいる倉庫の前にいるの』
通話が切れた。
男は周囲を見回す。
「ふざけるな」
また鳴る。
『私、メリーさん。今、倉庫の中にいるの』
「誰だと言っている!」
男は警棒を握った。
さらに鳴る。
『私、メリーさん。今、あなたのすぐ近くにいるの』
男の額に汗が浮かぶ。
深海棲艦でもない。
艦娘でもない。
だが、何かがいる。
男は背後を振り向いた。
誰もいない。
「出てこい!」
その瞬間、耳元で声がした。
「私、メリーさん」
男の身体が固まる。
背中に、冷たい気配。
少女の声が、今度は最後まで言い切った。
「貴方の後ろにいるの」
次の瞬間、男の背中に鋭い痛みが走った。
刃物というより、冷たい針が影ごと縫い止めるような感覚だった。
男は悲鳴を上げて膝をつく。
血はほとんど出ていない。
だが、身体が動かない。
影を刺されている。
彼の背後には、白いワンピースの少女が立っていた。
片手には古びた人形。
もう片方の手には、細い銀色のナイフのようなもの。
メリーさんは、満足そうに言った。
「言い切れた」
「な、何だ、お前は……!」
「私、メリーさん」
「ふざけるな!」
「ふざけてない。正式な名乗り」
男は立ち上がろうとした。
動けない。
影が床に縫われている。
メリーさんは男を見下ろした。
「あなた、女の敵って聞いた」
「誰がそんな」
「結有」
男の顔が歪んだ。
「あの小娘の」
「私の姉」
「は?」
「たぶん」
メリーさんは少し考えた。
「戸籍はまだ。関係性は協議中。でも、各務原家」
男は理解できない顔をした。
「何を言って」
「背後を取る練習にちょうどよかった」
「練習!?」
メリーさんは真顔だった。
「裕二に膝蹴りされたから、改善した」
男はますます混乱した。
「裕二?」
「鬼の各務原」
その名を聞いて、男の顔色が変わった。
「なぜ、あの男が」
「保護者」
「保護者!?」
メリーさんは少し誇らしげに胸を張った。
「私、メリーさん。今、各務原家にいるの」
それは都市伝説として、だいぶおかしな文言だった。
*
五分後。
警務隊が倉庫へ突入した。
元ブラック鎮守府提督は、床に膝をついたまま動けなくなっていた。
背中には浅い刺し傷。
致命傷ではない。
ただ、影のようなものが床に縫い付けられており、誰も最初はどう処理していいかわからなかった。
メリーさんは倉庫の隅で、ちょこんと座っていた。
警務隊員が恐る恐る聞く。
「君は」
「私、メリーさん」
「ええと」
「通報した」
「君が?」
「うん」
「この男を止めたのも?」
「背後から刺した」
隊員たちが固まる。
メリーさんはすぐに付け加えた。
「死なないようにした。裕二に言われた」
「裕二」
「鬼の各務原」
隊員たちは顔を見合わせた。
一人が小声で言う。
「また各務原か」
別の隊員が言う。
「また?」
「娘の方も関係者だ」
「何なんだ、各務原家」
メリーさんは真面目に答えた。
「変」
誰も否定できなかった。
*
翌朝。
浜松鎮守府の談話室で、結有は父からの報告を聞いていた。
「メリーが、ブラック提督を?」
『背後から刺した』
「父さん」
『何だ』
「言い方」
『非致命だ。影縫いに近いらしい』
「らしいって」
『怪異の能力は専門外だ』
結有は額に手を当てた。
隣でアイが聞いている。
暁もいる。
神通は少し離れた場所で、静かに目を閉じていた。
それは瞑想ではない。
頭痛に耐えている顔だった。
画面の中に、メリーさんが映る。
『私、メリーさん』
「うん」
『今、裕二の家にいるの』
「それ、もう怖くないね」
『怖いでしょ』
「生活感がある」
メリーさんは少しむっとした。
『でも、今回はちゃんと言い切れた』
「貴方の後ろにいるの?」
『うん』
アイが言った。
「成長」
メリーさんはアイを見る。
『あなたに言われると、なんか複雑』
「私は、がうがうを撃つ前に考える」
『私は、刺す前に名乗る』
「似てる」
「似てないわよ!」
暁が叫んだ。
「まず刺さない方向にしなさい!」
メリーさんは首を傾げた。
『でも、女の敵だった』
「それはそうだけど!」
神通が静かに口を開いた。
「メリーさん」
『何?』
「今回、証人への接触を防いだことは評価できます」
メリーさんの顔が少し明るくなる。
『うん』
「ですが、刺突行為は危険です」
『浅くした』
「浅くしてもです」
『影を縫った』
「影でもです」
『難しい』
「難しいですが、覚えてください」
メリーさんは少し考えた。
『次は、刺す前に警告する』
神通は目を閉じた。
「一歩前進とします」
暁が叫んだ。
「前進なの!?」
裕二が画面の向こうで言った。
『背後の取り方は改善されていた』
「父さんも評価軸がおかしい!」
『名乗りを最後まで言えたのは大きい』
「怪異教育の成果みたいに言わないで!」
アイがうなずいた。
「メリー、十点」
『本当?』
「うん。言い切った」
『やった』
結有は天井を見た。
「メリーがアイに採点されてる……」
*
その日の艦娘本部では、大貫悟空将がまた頭を抱えていた。
机の上には報告書。
『人型怪異保護対象メリーによる逃亡被疑者制圧事案』
『対象:元近隣鎮守府提督』
『手段:背後出現、名乗り、怪異的刺突、影縫い』
『結果:対象確保、証人接触阻止』
『人的被害:対象に軽傷』
『備考:各務原家関与』
大貫は深く息を吐いた。
「備考の圧が強い」
副官が控えめに言う。
「結果としては、証人保護に成功しています」
「わかっている」
「元提督の身柄も確保されました」
「わかっている」
「メリーさんの能力も、有用性が」
「そこを正式運用するな」
大貫は即座に言った。
「怪異を特殊部隊扱いする書類など、私は見たくない」
「ですが」
「ですが、ではない」
大貫は報告書を閉じた。
「各務原一佐には、メリーさんへの倫理教育を徹底させろ」
「背後から刺さない教育ですか」
「そうだ」
「かなり特殊な教育項目です」
「私もそう思う」
*
浜松鎮守府の非公式日誌には、こう記された。
『メリーさん、元ブラック鎮守府提督を背後から制圧』
『決め台詞:私メリーさん、貴方の後ろにいるの』
『今回は最後まで言えた』
『非致命の怪異的刺突および影縫い』
『ブラック提督、再び確保』
『メリーさん、満足』
『裕二、背後の取り方が改善されたと評価』
『神通、刺突行為は危険と指導』
『暁、まず刺さない方向にしなさいと叫ぶ』
『アイ、十点を付ける』
『大貫空将、また頭を抱える』
最後に、誰かが追記した。
『各務原家、怪異方面でも女の敵に厳しい』
夜。
結有はアイと並んで、談話室のソファに座っていた。
「メリー、浜松に来たらどうなるんだろう」
アイは少し考えた。
「背後に立つ」
「だよね」
「暁が叫ぶ」
「だよね」
「神通が指導する」
「だよね」
「明石が怪異用艤装を作る」
「それは止めよう」
アイは真顔で言った。
「メリー用がうがう」
「絶対だめ」
「ろング?」
「もっとだめ」
「ぴか?」
「怪異がレーザー持つの、絵面がもうだめ」
アイは少し残念そうだった。
「メリー、強くなる」
「別方向でね」
「結有」
「何?」
「妹、増えた」
「うん」
「大変?」
「大変」
「でも、悪くない?」
結有は少し笑った。
「たぶん、悪くない」
アイはうなずいた。
「なら、よし」
海の戦争は続いている。
深海提督も現れた。
人類の未来も、アイの正体も、まだわからない。
それでも各務原家では、怪異の少女が女の敵を背後から刺し、父がその背後の取り方を評価していた。
世界は、かなりおかしい。
でも、そのおかしさの中に、妙な温かさがある。
結有はそう思った。