艦隊これくしょん 残響のアイ   作:SAMICO

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第12話 市ヶ谷急襲

 その日の市ヶ谷は、いつも通りに見えた。

 

 門を出入りする車両。

 警備に立つ隊員。

 庁舎内を足早に歩く制服姿の人々。

 会議室へ向かう官僚。

 通信室で交わされる短い報告。

 

 海から遠い場所だった。

 

 だが、海の戦争は、もう海だけに収まらない。

 

 艦娘本部長、大貫悟空将は、執務室で報告書を読んでいた。

 

 机の隅には、太田胃散の箱がある。

 

 副官がそれを見て、少しだけ苦笑する。

 

「本部長、また浜松から報告です」

 

「今度は何だ」

 

「メリーさんの背後出現安全講習について、神通さんより実施計画が」

 

「……平和な報告に聞こえる日が来るとは思わなかった」

 

 大貫は書類を受け取った。

 

 怪異。

 艦娘。

 深海提督。

 飛び蹴り提督。

 八十センチ砲で飛ぶ白い少女。

 

 この十五年で、常識は何度も壊れた。

 

 それでも、大貫は組織を作った。

 艦娘と人間が一緒に戦う場所を作った。

 拙くても、継ぎ接ぎでも、帰る場所を作ろうとした。

 

 そこへ、警報が鳴った。

 

 短く、鋭く。

 

 副官の顔が変わる。

 

「霊子警報?」

 

 通信士の声が、廊下の向こうから飛ぶ。

 

「市ヶ谷外縁に深海霊子反応! 複数! 地下通信線にも干渉!」

 

 大貫は立ち上がった。

 

「深海棲艦が市ヶ谷に?」

 

「いえ、反応が局所的です! 海域出現ではありません!」

 

 次の瞬間、窓の外が暗くなった。

 

 昼間の空に、黒い霧が広がっていた。

 

      *

 

 最初に現れたのは、深海棲艦ではなかった。

 

 黒い霧の中から、一人の女性が歩いてきた。

 

 高梨湊と同じ顔。

 

 だが、瞳は冷たく、肌には深海の黒い霊子がまとわりついている。

 

 高梨未来。

 

 深海提督。

 

 市ヶ谷の門前で、警備隊が銃を構えた。

 

「止まれ!」

 

 未来は足を止めない。

 

「警告する! 止まれ!」

 

 未来は微笑んだ。

 

「市ヶ谷。人類側の指揮中枢の一つ。海から遠いと思っていた?」

 

 黒い霧の中から、深海棲艦が現れた。

 

 数は少ない。

 

 だが、どれも精鋭だった。

 

 小型の深海個体が壁を滑るように移動し、通信設備へ向かう。

 異形の砲塔を持つ個体が、警備車両の足元だけを撃ち抜く。

 人を殺すより、機能を止める動き。

 

 指揮されている。

 

 明らかに。

 

 未来は片手を上げた。

 

「殺しすぎないで。今日は壊すものを選ぶ」

 

 深海棲艦が従った。

 

 その様子を、庁舎内のモニター越しに見た大貫は、静かに言った。

 

「未来か」

 

 副官が振り向く。

 

「本部長、退避を」

 

「指揮系統を維持する」

 

「ですが」

 

「退避経路を開け。民間職員を先に出せ。通信が切れる前に各鎮守府へ警報を出す」

 

「本部長!」

 

「命令だ」

 

 大貫の声は揺れなかった。

 

「浜松、富士田子の浦、横須賀、呉、佐世保。全鎮守府へ。深海提督未来、市ヶ谷を急襲。敵は指揮中枢を狙っている」

 

 副官は唇を噛み、敬礼した。

 

「了解」

 

      *

 

 浜松鎮守府に、その通信が届いた時、結有は訓練後の反省会にいた。

 

 反省会の議題は、結有が高速艇の上で「ちょっとだけ跳べる距離」を測った件である。

 

 神通が静かに言っていた。

 

「各務原提督」

 

「はい」

 

「ちょっとだけ、という言葉を使う時は、だいたい危険です」

 

「はい」

 

 その時、管制警報が鳴った。

 

 結有の背筋が伸びる。

 

 通信士の声が震えていた。

 

「市ヶ谷、深海急襲! 深海提督未来を確認!」

 

 部屋の空気が凍った。

 

 アイが立ち上がる。

 

「未来」

 

 神通の表情が変わる。

 

「大貫本部長は」

 

「市ヶ谷で指揮継続中とのこと!」

 

 結有は拳を握った。

 

「行けますか」

 

 神通は即座に判断した。

 

「距離があります。浜松から即応しても間に合わない可能性が高い。富士田子の浦は」

 

 通信士が叫ぶ。

 

「高梨提督、すでに出撃準備中!」

 

      *

 

 富士田子の浦鎮守府。

 

 高梨湊は、通信を聞いた瞬間に立ち上がった。

 

 周囲の隊員たちが息を呑む。

 

 高梨は、いつものように笑っていなかった。

 

「大和さん、川内さん、那珂ちゃん。即応態勢。市ヶ谷へ」

 

 大和が目を伏せる。

 

「了解」

 

 川内は歯を噛む。

 

「未来が」

 

 那珂も笑っていなかった。

 

「湊さん」

 

 高梨は端末を握る手に、力を込めていた。

 

 白くなるほど。

 

「未来……」

 

 その声には、怒りがあった。

 

 普段の高梨湊が見せる、静かで冷たい怒りではない。

 

 もっと熱い。

 もっと痛い。

 もっと危うい。

 

 神通なら、すぐに気づいたはずだ。

 

 高梨湊が、我を忘れかけている。

 

      *

 

 市ヶ谷では、戦闘が続いていた。

 

 庁舎内の通路に、深海の霧が入り込んでいる。

 

 大貫は地下指揮所へ移る途中だった。

 

 副官が前を走る。

 警備隊が周囲を固める。

 

 だが、未来はそこにいた。

 

 廊下の先。

 

 黒い霧の中。

 

 高梨未来が、静かに立っていた。

 

「大貫悟空将」

 

 大貫は足を止めた。

 

 警備隊が銃を構える。

 

 未来は動じない。

 

「艦娘本部を作った人。人類と艦娘を同じ戦争へ縫い付けた人」

 

「人類と艦娘が協力しなければ、世界は終わっていた」

 

「ええ。だからあなたは有能です」

 

 未来は微笑んだ。

 

「有能だから、先に討つ」

 

 警備隊が発砲した。

 

 弾丸は未来の前で黒い霧に呑まれた。

 

 深海棲艦の小型個体が天井から落ち、警備隊を弾き飛ばす。

 殺さない。

 だが、確実に排除する。

 

 大貫は副官を押し下げた。

 

「下がれ」

 

「本部長!」

 

「下がれ!」

 

 大貫は未来を見た。

 

「君は、湊二佐の姉か」

 

「はい」

 

「なぜ、ここまでした」

 

「帰る場所を壊すため」

 

 未来は言った。

 

「湊は帰り道を作る。あなたは帰る場所の制度を作った。だから、あなたを討つ」

 

「私一人を討っても、本部は止まらん」

 

「知っています」

 

 未来は静かに近づく。

 

「でも、歴史は止まる。少しだけ。恐怖が生まれる。怒りが生まれる。誰かが手続きを捨てたくなる。誰かがアイを兵器として扱いたくなる。誰かが深海側を皆殺しにすべきだと言い出す」

 

 大貫の目が鋭くなる。

 

「それが狙いか」

 

「ええ」

 

「高梨湊を怒らせるためでもあるな」

 

 未来は初めて、少し笑みを深くした。

 

「よくおわかりで」

 

「君は姉だろう。妹の弱点くらい知っている」

 

「湊は、怒っても理屈に変える子です。でも、大切な柱を折られたら?」

 

 未来は手を伸ばした。

 

「帰り道を作る人は、帰る場所を壊された時、何になるのでしょうね」

 

 大貫は一歩も下がらなかった。

 

「君の望むものにはならん」

 

「なぜ」

 

「高梨湊は、私より強い」

 

 未来の目がわずかに細くなった。

 

 大貫は続けた。

 

「そして、彼女を止める者もいる。神通がいる。浜松がいる。各務原結有がいる。アイがいる」

 

「ずいぶん信じるのですね」

 

「信じるのが本部長の仕事だ」

 

 未来の手が、大貫の胸に触れた。

 

 黒い霊子が、刃のように伸びる。

 

 副官が叫んだ。

 

「本部長!」

 

 大貫は、最後に副官へ言った。

 

「記録を残せ」

 

 そして、低く続けた。

 

「次代本部長は、各務原裕二一等陸佐。緊急昇任、陸将補。補職手続きを進めろ」

 

「本部長、そんな」

 

「命令だ」

 

 未来の霊子刃が、大貫を貫いた。

 

 大貫悟空将は、崩れなかった。

 

 膝をつく直前まで、未来を見ていた。

 

「海は……まだ、人類のものではない」

 

 血が落ちる。

 

「だが、諦める理由にもならん」

 

 それが、最後の言葉だった。

 

      *

 

 富士田子の浦の高梨湊は、その報告を受けた。

 

 市ヶ谷、指揮所損壊。

 大貫悟空将、戦死。

 深海提督未来、撤退。

 次代艦娘本部長候補、各務原裕二一等陸佐。

 緊急昇任、陸将補。

 

 高梨は、通信端末を握ったまま動かなかった。

 

 那珂が小さく呼ぶ。

 

「湊さん」

 

 返事がない。

 

 川内が一歩近づく。

 

「湊」

 

 高梨の肩が震えていた。

 

 怒りで。

 

「未来……」

 

 その声は、低かった。

 

 普段の高梨湊なら、ここで分析する。

 被害確認。

 敵の目的。

 未来の撤退方向。

 次に狙う場所。

 味方の再配置。

 

 だが、今の高梨は違った。

 

 彼女は端末を閉じ、言った。

 

「追います」

 

 大和が静かに目を見開く。

 

「提督」

 

「追います。未来を、今ここで」

 

 川内の表情が変わった。

 

「待って。敵は撤退したんでしょ。誘いかもしれない」

 

「追います」

 

 那珂が声を震わせる。

 

「湊さん、だめ。今の顔、だめだよ」

 

 高梨は振り向いた。

 

 その目は、いつもの湊ではなかった。

 

「大貫本部長が討たれました」

 

「わかってる」

 

「未来が討ちました」

 

「わかってる!」

 

「なら、止める理由はありません」

 

 高梨が叫んだ。

 

 その場の全員が凍った。

 

 高梨湊が、声を荒げた。

 

 初めてだった。

 

 高梨はすぐに自分の声に気づいたように息を呑んだ。

 

 だが、怒りは収まらない。

 

「未来は、帰る場所を壊した。制度を、柱を、あの人を」

 

 高梨の手が震えている。

 

「止めないと」

 

 その時、通信が入った。

 

 浜松鎮守府からだった。

 

 画面に神通が映る。

 

『高梨提督』

 

 高梨は画面を見た。

 

「神通」

 

『追撃は許可できません』

 

「あなたに許可を求めていません」

 

 その声は冷たかった。

 

 神通は怯まない。

 

『今のあなたは、追撃判断ができる状態ではありません』

 

「神通」

 

『神通です』

 

 いつもの返しだった。

 

 だが、重かった。

 

『あなたは以前、結有提督に言いました。怒りは免許ではないと』

 

 高梨の顔が歪む。

 

『今度は、私が言います。怒りは免許ではありません』

 

 高梨は唇を噛んだ。

 

 さらに画面に結有が映る。

 

『高梨さん』

 

「結有ちゃん」

 

『僕、よく怒って飛び出します』

 

「知っています」

 

『だから、止められる側の気持ちは少しわかります。今の高梨さん、止められる側です』

 

 高梨は何も言えなかった。

 

 アイも画面に入る。

 

『高梨』

 

「アイさん」

 

『未来は、言葉で引っ張る。今も引っ張ってる』

 

 高梨の目が揺れる。

 

『追ったら、未来の側』

 

「……」

 

『帰る側にいて』

 

 短い言葉だった。

 

 高梨は、そこで初めて目を閉じた。

 

 長い沈黙。

 

 その間、誰も何も言わなかった。

 

 やがて、高梨は深く息を吐いた。

 

「……追撃を中止します」

 

 大和が静かにうなずいた。

 

 川内も息を吐く。

 

 那珂は涙ぐんでいた。

 

 高梨は画面の向こうの神通を見た。

 

「ありがとうございます」

 

 神通は静かに答えた。

 

『こちらこそ、戻ってきてくれてありがとうございます』

 

 高梨は、少しだけ笑おうとした。

 

 笑えなかった。

 

      *

 

 その夜、緊急人事が発令された。

 

 各務原裕二一等陸佐。

 

 陸将補へ昇任。

 

 艦娘本部長に補職。

 

 本人は、しばらく黙って辞令を見ていた。

 

 大貫の死。

 市ヶ谷の損害。

 深海提督未来。

 高梨湊の怒り。

 結有のいる浜松。

 アイ。

 

 すべてが、一枚の辞令に乗っていた。

 

 裕二は低く言った。

 

「大貫空将」

 

 返事はない。

 

「胃薬、返せませんでしたな」

 

 冗談のようで、冗談ではなかった。

 

 メリーさんが横で見ていた。

 

「裕二」

 

「何だ」

 

「泣く?」

 

「泣かん」

 

「嘘」

 

「少しだけだ」

 

 裕二は辞令を畳み、胸ポケットに入れた。

 

「本部へ行く」

 

「背後、取る?」

 

「今は取らん」

 

「敵は?」

 

「取るかもしれん」

 

 メリーさんはうなずいた。

 

「私も行く?」

 

「お前は待機」

 

「なぜ」

 

「市ヶ谷で怪異が背後に立つと、全員の胃が死ぬ」

 

「太田胃散がある」

 

「足りん」

 

      *

 

 浜松鎮守府では、全員が重い夜を迎えていた。

 

 結有は岸壁で海を見ていた。

 

 アイが隣にいる。

 神通も少し離れて立っている。

 暁は泣いた後の顔で、それでも背筋を伸ばしていた。

 

「大貫さん」

 

 結有は小さく言った。

 

 何度も頭を抱えていた人。

 父の発言に苦しめられていた人。

 太田胃散を贈られていた人。

 でも、人類と艦娘の帰る場所を作った人。

 

 その人が、未来に討たれた。

 

 怒りがあった。

 

 でも、それ以上に、重かった。

 

 アイが袖を掴む。

 

「結有」

 

「何?」

 

「怒りは免許じゃない」

 

 結有は目を閉じた。

 

「うん」

 

「でも、怒っていい」

 

「うん」

 

「私も怒ってる」

 

 結有はアイを見た。

 

 アイの黒い目は、静かに燃えていた。

 

 神通が言った。

 

「怒りを、作戦にしてはいけません」

 

「はい」

 

「ですが、怒りを忘れる必要はありません」

 

 結有はうなずいた。

 

 遠く、市ヶ谷の方角には何も見えない。

 

 だが、戦争の形が変わったことだけはわかった。

 

      *

 

 その日の公式記録には、こう残された。

 

『深海提督高梨未来、市ヶ谷を急襲。艦娘本部施設に甚大な損害。艦娘本部長、大貫悟空将、戦死。死の直前、次代本部長に各務原裕二一等陸佐を指名。緊急人事により各務原裕二を陸将補へ昇任、艦娘本部長に補職』

 

 非公式日誌には、短く書かれた。

 

『大貫本部長、戦死』

『未来、市ヶ谷を急襲』

『湊、初めて怒りで我を忘れる』

『神通、湊を止める』

『結有、止められる側の言葉で湊を引き戻す』

『アイ、帰る側にいてと告げる』

『各務原裕二、陸将補へ昇任し本部長に』

『太田胃散では足りない日』

 

 最後に、誰かが追記した。

 

『帰る場所を壊された日。だからこそ、帰る場所を作り直す日』

 

 その一文を、結有は何度も読んだ。

 

 そして、ノートに書いた。

 

 忘れないために。

 

 怒りで逆行しないために。

 

 未来が壊したものを、未来の望む形で終わらせないために。

 

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