その日の市ヶ谷は、いつも通りに見えた。
門を出入りする車両。
警備に立つ隊員。
庁舎内を足早に歩く制服姿の人々。
会議室へ向かう官僚。
通信室で交わされる短い報告。
海から遠い場所だった。
だが、海の戦争は、もう海だけに収まらない。
艦娘本部長、大貫悟空将は、執務室で報告書を読んでいた。
机の隅には、太田胃散の箱がある。
副官がそれを見て、少しだけ苦笑する。
「本部長、また浜松から報告です」
「今度は何だ」
「メリーさんの背後出現安全講習について、神通さんより実施計画が」
「……平和な報告に聞こえる日が来るとは思わなかった」
大貫は書類を受け取った。
怪異。
艦娘。
深海提督。
飛び蹴り提督。
八十センチ砲で飛ぶ白い少女。
この十五年で、常識は何度も壊れた。
それでも、大貫は組織を作った。
艦娘と人間が一緒に戦う場所を作った。
拙くても、継ぎ接ぎでも、帰る場所を作ろうとした。
そこへ、警報が鳴った。
短く、鋭く。
副官の顔が変わる。
「霊子警報?」
通信士の声が、廊下の向こうから飛ぶ。
「市ヶ谷外縁に深海霊子反応! 複数! 地下通信線にも干渉!」
大貫は立ち上がった。
「深海棲艦が市ヶ谷に?」
「いえ、反応が局所的です! 海域出現ではありません!」
次の瞬間、窓の外が暗くなった。
昼間の空に、黒い霧が広がっていた。
*
最初に現れたのは、深海棲艦ではなかった。
黒い霧の中から、一人の女性が歩いてきた。
高梨湊と同じ顔。
だが、瞳は冷たく、肌には深海の黒い霊子がまとわりついている。
高梨未来。
深海提督。
市ヶ谷の門前で、警備隊が銃を構えた。
「止まれ!」
未来は足を止めない。
「警告する! 止まれ!」
未来は微笑んだ。
「市ヶ谷。人類側の指揮中枢の一つ。海から遠いと思っていた?」
黒い霧の中から、深海棲艦が現れた。
数は少ない。
だが、どれも精鋭だった。
小型の深海個体が壁を滑るように移動し、通信設備へ向かう。
異形の砲塔を持つ個体が、警備車両の足元だけを撃ち抜く。
人を殺すより、機能を止める動き。
指揮されている。
明らかに。
未来は片手を上げた。
「殺しすぎないで。今日は壊すものを選ぶ」
深海棲艦が従った。
その様子を、庁舎内のモニター越しに見た大貫は、静かに言った。
「未来か」
副官が振り向く。
「本部長、退避を」
「指揮系統を維持する」
「ですが」
「退避経路を開け。民間職員を先に出せ。通信が切れる前に各鎮守府へ警報を出す」
「本部長!」
「命令だ」
大貫の声は揺れなかった。
「浜松、富士田子の浦、横須賀、呉、佐世保。全鎮守府へ。深海提督未来、市ヶ谷を急襲。敵は指揮中枢を狙っている」
副官は唇を噛み、敬礼した。
「了解」
*
浜松鎮守府に、その通信が届いた時、結有は訓練後の反省会にいた。
反省会の議題は、結有が高速艇の上で「ちょっとだけ跳べる距離」を測った件である。
神通が静かに言っていた。
「各務原提督」
「はい」
「ちょっとだけ、という言葉を使う時は、だいたい危険です」
「はい」
その時、管制警報が鳴った。
結有の背筋が伸びる。
通信士の声が震えていた。
「市ヶ谷、深海急襲! 深海提督未来を確認!」
部屋の空気が凍った。
アイが立ち上がる。
「未来」
神通の表情が変わる。
「大貫本部長は」
「市ヶ谷で指揮継続中とのこと!」
結有は拳を握った。
「行けますか」
神通は即座に判断した。
「距離があります。浜松から即応しても間に合わない可能性が高い。富士田子の浦は」
通信士が叫ぶ。
「高梨提督、すでに出撃準備中!」
*
富士田子の浦鎮守府。
高梨湊は、通信を聞いた瞬間に立ち上がった。
周囲の隊員たちが息を呑む。
高梨は、いつものように笑っていなかった。
「大和さん、川内さん、那珂ちゃん。即応態勢。市ヶ谷へ」
大和が目を伏せる。
「了解」
川内は歯を噛む。
「未来が」
那珂も笑っていなかった。
「湊さん」
高梨は端末を握る手に、力を込めていた。
白くなるほど。
「未来……」
その声には、怒りがあった。
普段の高梨湊が見せる、静かで冷たい怒りではない。
もっと熱い。
もっと痛い。
もっと危うい。
神通なら、すぐに気づいたはずだ。
高梨湊が、我を忘れかけている。
*
市ヶ谷では、戦闘が続いていた。
庁舎内の通路に、深海の霧が入り込んでいる。
大貫は地下指揮所へ移る途中だった。
副官が前を走る。
警備隊が周囲を固める。
だが、未来はそこにいた。
廊下の先。
黒い霧の中。
高梨未来が、静かに立っていた。
「大貫悟空将」
大貫は足を止めた。
警備隊が銃を構える。
未来は動じない。
「艦娘本部を作った人。人類と艦娘を同じ戦争へ縫い付けた人」
「人類と艦娘が協力しなければ、世界は終わっていた」
「ええ。だからあなたは有能です」
未来は微笑んだ。
「有能だから、先に討つ」
警備隊が発砲した。
弾丸は未来の前で黒い霧に呑まれた。
深海棲艦の小型個体が天井から落ち、警備隊を弾き飛ばす。
殺さない。
だが、確実に排除する。
大貫は副官を押し下げた。
「下がれ」
「本部長!」
「下がれ!」
大貫は未来を見た。
「君は、湊二佐の姉か」
「はい」
「なぜ、ここまでした」
「帰る場所を壊すため」
未来は言った。
「湊は帰り道を作る。あなたは帰る場所の制度を作った。だから、あなたを討つ」
「私一人を討っても、本部は止まらん」
「知っています」
未来は静かに近づく。
「でも、歴史は止まる。少しだけ。恐怖が生まれる。怒りが生まれる。誰かが手続きを捨てたくなる。誰かがアイを兵器として扱いたくなる。誰かが深海側を皆殺しにすべきだと言い出す」
大貫の目が鋭くなる。
「それが狙いか」
「ええ」
「高梨湊を怒らせるためでもあるな」
未来は初めて、少し笑みを深くした。
「よくおわかりで」
「君は姉だろう。妹の弱点くらい知っている」
「湊は、怒っても理屈に変える子です。でも、大切な柱を折られたら?」
未来は手を伸ばした。
「帰り道を作る人は、帰る場所を壊された時、何になるのでしょうね」
大貫は一歩も下がらなかった。
「君の望むものにはならん」
「なぜ」
「高梨湊は、私より強い」
未来の目がわずかに細くなった。
大貫は続けた。
「そして、彼女を止める者もいる。神通がいる。浜松がいる。各務原結有がいる。アイがいる」
「ずいぶん信じるのですね」
「信じるのが本部長の仕事だ」
未来の手が、大貫の胸に触れた。
黒い霊子が、刃のように伸びる。
副官が叫んだ。
「本部長!」
大貫は、最後に副官へ言った。
「記録を残せ」
そして、低く続けた。
「次代本部長は、各務原裕二一等陸佐。緊急昇任、陸将補。補職手続きを進めろ」
「本部長、そんな」
「命令だ」
未来の霊子刃が、大貫を貫いた。
大貫悟空将は、崩れなかった。
膝をつく直前まで、未来を見ていた。
「海は……まだ、人類のものではない」
血が落ちる。
「だが、諦める理由にもならん」
それが、最後の言葉だった。
*
富士田子の浦の高梨湊は、その報告を受けた。
市ヶ谷、指揮所損壊。
大貫悟空将、戦死。
深海提督未来、撤退。
次代艦娘本部長候補、各務原裕二一等陸佐。
緊急昇任、陸将補。
高梨は、通信端末を握ったまま動かなかった。
那珂が小さく呼ぶ。
「湊さん」
返事がない。
川内が一歩近づく。
「湊」
高梨の肩が震えていた。
怒りで。
「未来……」
その声は、低かった。
普段の高梨湊なら、ここで分析する。
被害確認。
敵の目的。
未来の撤退方向。
次に狙う場所。
味方の再配置。
だが、今の高梨は違った。
彼女は端末を閉じ、言った。
「追います」
大和が静かに目を見開く。
「提督」
「追います。未来を、今ここで」
川内の表情が変わった。
「待って。敵は撤退したんでしょ。誘いかもしれない」
「追います」
那珂が声を震わせる。
「湊さん、だめ。今の顔、だめだよ」
高梨は振り向いた。
その目は、いつもの湊ではなかった。
「大貫本部長が討たれました」
「わかってる」
「未来が討ちました」
「わかってる!」
「なら、止める理由はありません」
高梨が叫んだ。
その場の全員が凍った。
高梨湊が、声を荒げた。
初めてだった。
高梨はすぐに自分の声に気づいたように息を呑んだ。
だが、怒りは収まらない。
「未来は、帰る場所を壊した。制度を、柱を、あの人を」
高梨の手が震えている。
「止めないと」
その時、通信が入った。
浜松鎮守府からだった。
画面に神通が映る。
『高梨提督』
高梨は画面を見た。
「神通」
『追撃は許可できません』
「あなたに許可を求めていません」
その声は冷たかった。
神通は怯まない。
『今のあなたは、追撃判断ができる状態ではありません』
「神通」
『神通です』
いつもの返しだった。
だが、重かった。
『あなたは以前、結有提督に言いました。怒りは免許ではないと』
高梨の顔が歪む。
『今度は、私が言います。怒りは免許ではありません』
高梨は唇を噛んだ。
さらに画面に結有が映る。
『高梨さん』
「結有ちゃん」
『僕、よく怒って飛び出します』
「知っています」
『だから、止められる側の気持ちは少しわかります。今の高梨さん、止められる側です』
高梨は何も言えなかった。
アイも画面に入る。
『高梨』
「アイさん」
『未来は、言葉で引っ張る。今も引っ張ってる』
高梨の目が揺れる。
『追ったら、未来の側』
「……」
『帰る側にいて』
短い言葉だった。
高梨は、そこで初めて目を閉じた。
長い沈黙。
その間、誰も何も言わなかった。
やがて、高梨は深く息を吐いた。
「……追撃を中止します」
大和が静かにうなずいた。
川内も息を吐く。
那珂は涙ぐんでいた。
高梨は画面の向こうの神通を見た。
「ありがとうございます」
神通は静かに答えた。
『こちらこそ、戻ってきてくれてありがとうございます』
高梨は、少しだけ笑おうとした。
笑えなかった。
*
その夜、緊急人事が発令された。
各務原裕二一等陸佐。
陸将補へ昇任。
艦娘本部長に補職。
本人は、しばらく黙って辞令を見ていた。
大貫の死。
市ヶ谷の損害。
深海提督未来。
高梨湊の怒り。
結有のいる浜松。
アイ。
すべてが、一枚の辞令に乗っていた。
裕二は低く言った。
「大貫空将」
返事はない。
「胃薬、返せませんでしたな」
冗談のようで、冗談ではなかった。
メリーさんが横で見ていた。
「裕二」
「何だ」
「泣く?」
「泣かん」
「嘘」
「少しだけだ」
裕二は辞令を畳み、胸ポケットに入れた。
「本部へ行く」
「背後、取る?」
「今は取らん」
「敵は?」
「取るかもしれん」
メリーさんはうなずいた。
「私も行く?」
「お前は待機」
「なぜ」
「市ヶ谷で怪異が背後に立つと、全員の胃が死ぬ」
「太田胃散がある」
「足りん」
*
浜松鎮守府では、全員が重い夜を迎えていた。
結有は岸壁で海を見ていた。
アイが隣にいる。
神通も少し離れて立っている。
暁は泣いた後の顔で、それでも背筋を伸ばしていた。
「大貫さん」
結有は小さく言った。
何度も頭を抱えていた人。
父の発言に苦しめられていた人。
太田胃散を贈られていた人。
でも、人類と艦娘の帰る場所を作った人。
その人が、未来に討たれた。
怒りがあった。
でも、それ以上に、重かった。
アイが袖を掴む。
「結有」
「何?」
「怒りは免許じゃない」
結有は目を閉じた。
「うん」
「でも、怒っていい」
「うん」
「私も怒ってる」
結有はアイを見た。
アイの黒い目は、静かに燃えていた。
神通が言った。
「怒りを、作戦にしてはいけません」
「はい」
「ですが、怒りを忘れる必要はありません」
結有はうなずいた。
遠く、市ヶ谷の方角には何も見えない。
だが、戦争の形が変わったことだけはわかった。
*
その日の公式記録には、こう残された。
『深海提督高梨未来、市ヶ谷を急襲。艦娘本部施設に甚大な損害。艦娘本部長、大貫悟空将、戦死。死の直前、次代本部長に各務原裕二一等陸佐を指名。緊急人事により各務原裕二を陸将補へ昇任、艦娘本部長に補職』
非公式日誌には、短く書かれた。
『大貫本部長、戦死』
『未来、市ヶ谷を急襲』
『湊、初めて怒りで我を忘れる』
『神通、湊を止める』
『結有、止められる側の言葉で湊を引き戻す』
『アイ、帰る側にいてと告げる』
『各務原裕二、陸将補へ昇任し本部長に』
『太田胃散では足りない日』
最後に、誰かが追記した。
『帰る場所を壊された日。だからこそ、帰る場所を作り直す日』
その一文を、結有は何度も読んだ。
そして、ノートに書いた。
忘れないために。
怒りで逆行しないために。
未来が壊したものを、未来の望む形で終わらせないために。