浜松鎮守府には、いくつかの警報がある。
深海棲艦の接近を知らせるもの。
空襲の可能性を知らせるもの。
艤装事故を知らせるもの。
そして、訓練場で各務原結有が救助用モーターボートの方を見た時に、暁が個人的に発するもの。
「結有さん、そっちはだめ!」
「まだ何もしてない」
「目がしてたわ!」
昼の訓練場に、暁の声が響いた。
結有は岸壁の端で、海を見ていた。
その横には、両腕を組んだ暁が立っている。さらに少し離れた場所に、神通と最上がいた。
昨日と同じ未確認霊子反応。
艦娘反応と深海反応が混ざっている。
測定器の故障ではない。複数系統の観測装置が、同じ異常を拾っていた。
海は穏やかだった。
春の遠州灘はきらきらと光り、遠目には戦争など知らない顔をしている。
だが、結有の胸の奥は熱かった。
昨日、波間に見えた白い少女。
あれは見間違いではない。
結有には、そういう確信があった。
「各務原候補生」
神通が振り向いた。
「はい」
「今回は、こちらの指示があるまで待機です」
「はい」
「救助艇に近づかない」
「はい」
「走らない」
「はい」
「飛ばない」
「はい」
暁が隣でうなずいた。
「大事ね」
「なんで飛ぶ前提で注意されてるんだろう」
「昨日飛んだからよ」
「それはそう」
結有は素直に納得した。
神通は管制塔からの通信を受けている。
最上は海面を見ながら、軽く首を傾げた。
「反応、近いね。深海棲艦ならもう姿が見えてもいい距離だけど」
「潜っている可能性は?」
神通が問う。
「ある。でも潜水艦っぽい反応じゃない。もっとこう……漂ってる感じ」
「漂ってる?」
「うん。自分から進んでるというより、潮に流されてる」
暁が眉をひそめる。
「遭難者?」
「普通の遭難者なら、深海反応は出ません」
神通の声は静かだった。
その時、管制塔から声が入った。
『浜松沖、三番ブイ南東二百。目視確認。人影あり』
場の空気が締まった。
『繰り返す。人影あり。小柄。白髪。海面に浮遊、または立位。詳細不明』
結有は一歩前に出た。
暁が即座に袖を掴む。
「待機!」
「まだ走ってない」
「走る前の筋肉だった!」
「筋肉で判断するのやめてほしい」
「じゃあ判断されない動きをして!」
神通は短く指示を出した。
「最上さん、援護位置へ。暁さんは各務原候補生の護衛。私は接近します」
「了解」
最上が海面へ出る。
神通も艤装を展開し、静かに波の上へ進んだ。
艦娘が海に立つ姿は、何度見ても不思議だった。
人間の形をしている。だが、海は彼女たちを沈めない。艤装の重みを背負い、砲を構え、少女たちは水面を走る。
結有の胸が少しざわつく。
母も、こうして海に立っていた。
時雨も。
その背中を、結有は幼い頃から何度も見てきた。
優しくて、少し寂しそうで、それでも戦う時には絶対に前を向いていた背中。
結有は拳を握った。
海の向こうに、白い点が見える。
少女だった。
波の上に、立っているようにも、浮いているようにも見えた。
白髪は濡れていて、顔の横に張りついている。肌は青白い。黒い目は、空も海も映さないように深かった。
服は、服と呼んでいいのかわからない。
黒い外套のようなもの。布に見えるが、ところどころ深海棲艦の装甲片にも似ている。裾からは白い脚がのぞいていた。
少女は、逃げなかった。
近づく神通を、ただ見ていた。
「こちら浜松鎮守府所属、軽巡神通です」
神通の声が海上に響く。
「あなたは何者ですか。所属と氏名を答えてください」
少女は答えない。
神通は砲を下げたまま、距離を保った。
「負傷しているなら保護します。敵対の意思があるなら、こちらは対応せざるを得ません」
少女の黒い目が、ゆっくり動いた。
神通ではなく、その後方。
岸壁にいる結有を見た。
結有の背中に、ぞくりとしたものが走る。
怖いのとは違う。
懐かしいのとも違う。
でも、知らないはずなのに、どこかで知っているような感覚。
少女の唇が、わずかに動いた。
「……うるさい」
神通が目を細めた。
「聞こえました。会話は可能ですね」
少女は黙る。
最上が横合いから声をかけた。
「ねえ、君。名前は?」
少しの沈黙。
「……アイ」
それだけだった。
暁が岸壁でつぶやく。
「アイ……」
結有も、その名を口の中で繰り返した。
アイ。
短い名前。
それとも、名前ですらないのかもしれない。
神通はさらに問う。
「アイさん。あなたは艦娘ですか」
「知らない」
「深海棲艦ですか」
「知らない」
「どこから来ましたか」
「海」
最上が苦笑した。
「それはまあ、見ればわかるかな」
神通は表情を変えない。
「あなたの反応は、艦娘と深海棲艦の両方に似ています。こちらとしては、あなたを危険対象として扱わざるを得ません」
アイは神通を見た。
そして、言った。
「勝てない」
神通の周囲の空気が、ほんの少しだけ変わった。
「誰が、ですか」
「あなたたち」
「何に」
アイは沖の方を見た。
「来る」
その瞬間、管制塔の警報が鳴った。
『深海反応、複数! 三番ブイ南東、さらに外縁! 小型三、中型一!』
暁が顔を上げた。
「敵!?」
最上が砲を構える。
「タイミング悪いなあ」
神通は即座に判断した。
「最上さん、敵影を抑えてください。暁さん、各務原候補生の護衛を維持。私はアイさんを確保します」
アイは動かなかった。
ただ、沖を見ている。
黒い水柱が上がった。
深海棲艦が姿を現す。
小型の駆逐級が三。さらにその後方に、軽巡級と思われる個体が一。海面を裂き、白い骨のような装甲をきしませながら接近してくる。
最上が先制射撃した。
砲弾が海を渡り、先頭の駆逐級を吹き飛ばす。
神通がアイの側へ寄る。
「こちらへ」
アイは首を横に振った。
「邪魔」
「危険です」
「そっちが」
神通の眉がわずかに動いた。
次の瞬間、軽巡級の砲口が光った。
狙いは神通ではない。
岸壁。
結有たちがいる場所。
暁が叫んだ。
「結有さん!」
砲弾が飛ぶ。
艦娘の砲弾より粗い。だが、重い。
防御結界が展開されるより、わずかに早い。
結有の体が動いた。
暁が掴んだ袖を振りほどく。
「結有さん!?」
「ごめん!」
結有は走った。
岸壁の端へ。
ボートではない。今回はボートではない。
だから神通さんとの約束は半分守っている。
たぶん。
結有は足に霊子を集めた。
地面を蹴る。
跳ぶ。
暁の悲鳴が聞こえる。
「飛ばないって言ったでしょおおお!」
結有は空中で身をひねり、砲弾へ向けて脚を振り抜いた。
普通なら死ぬ。
当然だ。人間が砲弾を蹴るなど、冗談にもならない。
だが、結有の足先に集まった霊子が、砲弾の表面を叩いた。
衝撃。
全身が軋む。
靴底が焼ける。
足首から膝にかけて、鈍い痛みが抜ける。
それでも砲弾の軌道は逸れた。
岸壁から外れ、海面に着弾する。
巨大な水柱が上がり、結有はその風圧で後方へ吹き飛ばされた。
「っ、あ」
落ちる。
今度は海ではなく、岸壁の上だ。
受け身を取ろうとしたが、距離が足りない。
その体を、誰かが受け止めた。
白い腕。
黒い外套。
青白い肌。
アイだった。
いつの間に岸壁まで来たのか、誰にも見えなかった。
結有はアイの腕の中で瞬きした。
「……速いね」
アイは無表情で言った。
「重い」
「ごめん」
「脳筋」
「初対面で?」
アイは結有を地面に落とした。
「いたっ」
「生きてる」
「うん。ありがとう」
アイは少しだけ首を傾げた。
感謝されることに慣れていないようだった。
暁が駆け寄ってきた。
「結有さん! 大丈夫!? どこか痛い!? というか痛くないわけないわよね!? なんで砲弾を蹴るの!?」
「当たったら危なかったから」
「蹴っても危ないの!」
暁は半泣きだった。
その横で、アイがぼそりと言った。
「うるさい」
「誰がうるさいのよ!」
「赤いの」
「暁よ! 一人前のレディの名前くらい覚えなさい!」
「赤いレディ」
「略さないで!」
結有は痛む足を押さえながら、なぜか少し笑ってしまった。
戦闘中なのに。
アイは無表情で、暁は怒っていて、海では神通と最上が敵を抑えている。状況はまったく笑えない。
それでも、何かが少しだけ噛み合った気がした。
神通の声が通信に乗る。
『各務原候補生、状況は』
「生きてます!」
『アイさんは』
「隣にいます!」
『拘束できますか』
結有はアイを見た。
白い少女は、沖を見ている。
敵を恐れてはいない。
むしろ、敵の方が彼女を見て動揺しているように見えた。
深海棲艦の砲口が揺れている。
アイが一歩前に出た。
海から、低い声のようなものが響いた。
戻レ。
人間の声ではない。
通信でもない。
それでも、その場にいた全員が聞いた。
戻レ。
戻レ。
戻レ。
暁が顔をこわばらせる。
「何、今の……」
アイは表情を変えなかった。
だが、結有にはわかった。
アイの指先が、ほんの少し震えていた。
「アイ」
結有が呼ぶ。
アイは振り向かない。
「戻るの?」
「知らない」
「行きたい?」
「知らない」
「じゃあ、今はここにいれば」
アイの黒い目が結有を見た。
「ここ?」
「うん。浜松鎮守府」
「敵かもしれない」
「かもしれないね」
「撃つかもしれない」
「神通さんは必要なら撃つと思う」
暁が横で慌てた。
「結有さん、そこは否定するところじゃ」
「でも、何もしないうちに撃つ人じゃない」
結有は立ち上がった。足が痛む。
たぶん、あとで神通に怒られる。いや、確実に怒られる。
でも今は、前を見る。
「僕は各務原結有。提督候補生」
「脳筋」
「まだそれ言う?」
「砲弾を蹴った」
「君も僕を受け止めた」
「落ちてきたから」
「じゃあ、お互い様」
「意味不明」
アイは無表情のまま言った。
その時、沖の軽巡級が再び砲を構えた。
今度の狙いは、アイ。
神通が動くより早く、アイが右手を上げた。
空間が軋む。
彼女の背後に、艤装の輪郭が浮かび上がった。
それは駆逐艦のものにも、軽巡のものにも、深海棲艦の装甲にも見えた。形が定まらない。白と黒が混ざり、砲身が生え、消え、また生える。
暁が息を呑む。
「艤装……?」
アイは小さく言った。
「邪魔」
砲撃。
白黒の光が海を裂いた。
軽巡級深海棲艦の砲塔が吹き飛ぶ。
続けて神通の砲撃が胴を抜き、最上の追撃が敵を沈黙させた。
残った小型艦は反転した。
逃げる。
深海棲艦が、逃げた。
最上が追撃姿勢を取ったが、神通が止めた。
「深追いしないでください。こちらは未確認対象の確保を優先します」
「了解」
海上に静けさが戻る。
黒い泡が散っていく。
風が吹き、アイの白髪を揺らした。
神通が岸壁へ戻ってきた。
その目は、アイを見ている。
警戒している。
当然だった。
アイは深海棲艦に呼ばれた。
艤装を出した。
深海棲艦を撃った。
そして、その反応は艦娘と深海の両方に似ている。
危険ではない、とは誰にも言えない。
「アイさん」
神通が言った。
「あなたを浜松鎮守府で保護します。ただし、当面は監視下です。武装の使用は許可制。逃走した場合、敵対行動と見なします」
アイは無表情で聞いていた。
「拒否したら」
「拘束します」
「できる?」
神通の目が細くなる。
「必要なら」
空気が張りつめた。
暁が小さく結有の袖を掴む。
結有は一歩前に出た。
「アイ」
白い少女が見る。
「とりあえず、ご飯食べる?」
神通が、わずかに目を閉じた。
暁が叫んだ。
「今その流れ!?」
最上が海上で吹き出した。
アイは結有を見たまま、しばらく黙っていた。
「ご飯」
「うん。食堂あるよ。味噌汁もある」
「味噌汁」
「あと焼き魚」
「魚」
「深海棲艦じゃない魚」
「……食べたの?」
「前に一回だけ」
「脳筋」
「それ関係ある?」
アイは少し考えた。
「ある」
結有は笑った。
神通は深く息を吐いた。
「各務原候補生」
「はい」
「あなたには、あとで追加の反省文があります」
「何枚ですか」
「十枚」
「昨日より減った」
「今の発言で十五枚です」
「はい」
暁が腕を組んだ。
「当然ね。砲弾を蹴った分と、勝手に飛んだ分と、危ないことをした分よ」
「三つとも同じじゃない?」
「違うわ。全部別々に危ないの」
アイは暁を見た。
「赤いレディ、うるさい」
「暁!」
「暁、うるさい」
「名前だけ覚えて悪口に使わないで!」
結有はまた笑ってしまった。
神通の視線が向く。
結有は咳払いした。
「すみません」
神通はアイに向き直る。
「アイさん。来てください。こちらで検査を行います」
「痛い?」
「必要以上のことはしません」
「嘘なら」
「嘘ではありません」
アイは神通を見た。
その目は、黒く深い。
やがて、アイは小さくうなずいた。
「行く」
そして結有を見た。
「脳筋がいるなら」
暁が目を丸くした。
「それ、信頼してるの?」
「監視」
アイは即答した。
「脳筋は放っておくと死ぬ」
「初対面で完全に理解されてるわね」
「否定しづらい」
結有は痛む足を引きずりながら言った。
神通がすぐに気づく。
「歩けますか」
「歩けます」
「医務室へ」
「食堂は」
「医務室へ」
「はい」
アイが横に並んだ。
白い流れ者。
深海棲艦でもあり、艦娘でもあるかもしれない少女。
海から来て、深海に呼ばれ、それでも今は浜松鎮守府へ向かって歩いている。
結有は、ふと尋ねた。
「アイって、名前?」
「知らない」
「じゃあ、そう呼んでいい?」
「好きにすれば」
「わかった。アイ」
アイは返事をしなかった。
けれど、離れもしなかった。
暁が二人の後ろからついてくる。
「結有さん、医務室が終わったら反省文よ」
「はい」
「あと、アイには服が必要ね。その格好、寒そうだもの」
「寒くない」
「寒くなくてもだめよ。鎮守府には鎮守府の身だしなみがあるの。一人前のレディとして、私が教えてあげるわ」
「赤いのが?」
「暁!」
「暁が?」
「そう!」
「不安」
「なんですって!」
最上が後ろで笑っている。
神通は前を歩きながら、通信で本部への報告を始めていた。
その声には、緊張が残っている。
当然だ。
アイの存在は、ただの漂着者では済まない。
艦娘本部が知れば、必ず動く。
深海棲艦が彼女を呼んだ以上、敵もまた動くだろう。
結有にも、それくらいはわかった。
それでも。
隣を歩く白い少女は、兵器にも怪物にも見えなかった。
無愛想で、口が悪くて、人を脳筋呼ばわりする。
けれど、落ちてきた結有を受け止めた。
戻れという声に、すぐには従わなかった。
だから結有は思った。
この子は、たぶん大丈夫だ。
根拠はない。
神通に言えば、また反省文が増えるだろう。
暁に言えば、もっとちゃんと考えなさいと怒られるだろう。
でも、結有の直感はそう言っていた。
医務室へ向かう廊下で、アイがぽつりと言った。
「ここ、うるさい」
「鎮守府だからね」
「人が多い」
「慣れるよ」
「慣れなかったら」
「その時は、その時考えよう」
「脳筋」
「便利に使ってない?」
「事実」
結有は笑った。
アイは笑わなかった。
けれど、その黒い目は、ほんの少しだけ海から離れていた。
浜松鎮守府は、その日、白い流れ者を迎え入れた。
記録上は、未確認霊子反応個体アイの一時保護。
警戒区分は最高に近く、監視対象。
艦娘本部への報告は即時。
だが、食堂の一部では、その日のうちに別の呼び名が広まり始めた。
白い流れ者と脳筋提督。
本人たちがそれを知るのは、もう少し後のことである。