各務原裕二は、金に頓着しない男である。
若い頃から、給料の多寡より訓練の質を気にした。
食事は食えればいい。
服は動ければいい。
趣味は、本人いわく訓練。
なお、その訓練の一環として代紋バッジが増えたことについては、現在も大貫悟空将から「訓練ではない」と言われ続けていた。
いや。
もう、言われることはない。
各務原裕二は、陸上自衛隊一等陸佐から陸将補へ昇任した。
そして、大貫の後任として艦娘本部長に補職された。
辞令は重かった。
だが、その重さとは別のものが、今日、裕二の机に置かれていた。
給与明細である。
「……」
裕二はそれを見た。
一度見た。
閉じた。
もう一度開いた。
二度見だった。
副官が横で言う。
「本部長?」
「これは」
「給与明細です」
「わかっている」
「では」
「数字が変だ」
副官は少しだけ困った顔をした。
「昇任および補職に伴う給与、各種手当、特別勤務分が反映されています」
「手当」
「はい」
「責任が増えると、こうなるのか」
「一般的には」
裕二は明細を見つめた。
基本給。
管理職手当。
広域指揮関連の手当。
特別勤務分。
その他、見慣れない項目。
戦場で深海棲艦に斬りかかるより、こちらの方が理解に時間がかかった。
「副官」
「はい」
「桁は合っているか」
「合っています」
「本当にか」
「はい」
「大貫空将は、これを毎月見ていたのか」
「おそらく」
「それでも胃を痛めていたのか」
「給与では胃痛は相殺されないかと」
「そうだな」
裕二は明細を机に置いた。
しばらく黙る。
そして、低く言った。
「大貫空将。これは重いですな」
*
その日の昼。
裕二は結有にビデオ通話をかけた。
浜松鎮守府の談話室。
結有はアイと昼食後の茶を飲んでいた。
暁は横でノートを整理している。
神通は書類を読んでいる。
「父さん?」
『結有』
「何?」
『給与明細を見た』
結有は少し沈黙した。
「それを娘に報告するの?」
『二度見した』
「そんなに?」
『そんなにだ』
アイが画面を覗く。
「鬼の父、金で驚く?」
『驚いた』
「弱点?」
『違う』
暁が興味津々で身を乗り出した。
「陸将補って、やっぱりお給料も上がるの?」
神通が静かに言う。
「暁さん」
「だって気になるじゃない!」
裕二は真顔で答えた。
『上がる』
暁が目を丸くする。
『責任も上がる。胃痛も上がる。書類も上がる。大貫空将の苦労もわかる』
「最後が一番重いね」
結有は苦笑した。
裕二は明細を画面には映さなかった。
だが、手元に置いているらしい。
『結有』
「何?」
『金というのは、責任の形でもあるのだな』
結有は少しだけ表情を変えた。
父がこういう言い方をするのは珍しい。
『俺は前線で殴る方が楽だ』
「知ってる」
『本部長は、殴る前に考えねばならん』
「高梨さんみたい」
『あの女ほどは考えられん』
「父さんが自分で言うんだ」
『だが、考える』
裕二は言った。
『大貫空将が最後に残した場所だ。俺が雑に壊すわけにはいかん』
談話室が静かになった。
神通が書類から顔を上げる。
「各務原本部長」
『神通か』
「大貫本部長は、各務原本部長に任せたのだと思います」
『俺でよかったのかはわからん』
「わからないまま引き受けるしかないこともあります」
『そうだな』
アイが言った。
「胃薬、いる?」
裕二は一瞬だけ黙った。
『いるかもしれん』
「太田胃散」
『本部に山ほどある』
「よし」
結有は少し笑った。
*
午後。
艦娘本部の新本部長室に、高梨湊から通信が入った。
『各務原本部長、ご就任後の初給与明細を見たそうですねえ』
裕二は眉をひそめた。
「なぜ知っている」
『結有ちゃんから』
「娘め」
『二度見したとか』
「した」
『うふふ』
「笑うな」
『笑っていませんよお』
「笑っている」
画面の向こうで、高梨はいつものように穏やかだった。
ただ、その目の奥にはまだ少し疲労がある。
大貫の死。
未来の急襲。
怒りで我を忘れかけた自分。
その全部を、高梨はまだ抱えている。
『本部長』
「何だ」
『給与は、責任の対価でもあります。でも、責任そのものではありません』
「わかっている」
『なら、よかったです』
「俺は金で動かん」
『はい。知っています』
「だが、数字を見ると現実味が出る」
『そうですねえ』
高梨は少しだけ目を伏せた。
『大貫本部長も、たぶん同じように見ていたと思います』
「大貫空将は二度見したと思うか」
『したと思います』
「そうか」
『そして、太田胃散を飲んだと思います』
「それもそうだな」
二人は少しだけ黙った。
笑い話の形をしているが、そこには大貫がいない。
それが、まだ痛い。
高梨は静かに言った。
『各務原本部長』
「何だ」
『前線で殴るより、書類で人を帰す方が難しい日があります』
「だろうな」
『でも、あなたなら殴るべき時と殴らないべき時を、少なくとも身体で知っています』
「褒めているのか」
『半分』
「残り半分は」
『心配です』
「正直だな」
『はい』
裕二は少しだけ笑った。
「大貫空将にも、よく心配された」
『でしょうねえ』
「俺は、あの人ほど上手くやれん」
『大貫本部長と同じである必要はありません』
高梨の声は穏やかだった。
『あなたは、あなたのやり方で帰る場所を守ってください』
裕二は机の上の給与明細を見た。
数字は変わらない。
だが、少しだけ見え方が変わった。
「了解した」
*
その日の夕方。
艦娘本部の非公式日誌には、こう記された。
『各務原裕二新本部長、陸将補としての初給与明細を確認』
『二度見』
『桁が合っているか副官に確認』
『責任が増えるとこうなるのか、と発言』
『結有に報告』
『アイ、胃薬を提案』
『高梨湊二佐、給与は責任の対価だが責任そのものではないと助言』
『太田胃散、引き続き必要』
最後に、誰かが追記した。
『鬼の各務原、給与明細には一瞬負ける』
裕二はそれを見た。
しばらく黙った。
そして、副官に言った。
「誰が書いた」
「不明です」
「探すか」
「おやめください。本部長」
「なぜ」
「最初の粛清が非公式日誌の追記者では、士気に関わります」
「粛清はせん。腕立てをさせるだけだ」
「それも士気に関わります」
裕二は少し考えた。
「なら、今回は見逃す」
「賢明です」
副官はそっと太田胃散を机に置いた。
裕二はそれを見て、苦笑した。
「大貫空将」
小さくつぶやく。
「あなたの胃痛、少しわかりました」
窓の外には、市ヶ谷の夜が広がっていた。
壊された場所は、まだ完全には戻っていない。
それでも、明かりはついている。
人は働いている。
通信はつながっている。
帰る場所は、まだここにある。
各務原裕二陸将補は、給与明細を引き出しにしまった。
そして、次の書類を手に取った。
殴るより難しい戦いが、そこにあった。