高梨湊が昇進した。
正式な辞令は、艦娘本部経由で各鎮守府にも通知された。
高梨湊。
二等空佐相当から、配置換えと統合運用上の整理を経て、一等海佐へ。
二十九歳。
富士田子の浦鎮守府では、那珂が即席の昇進祝いミニライブを開き、川内が「湊、偉くなったねえ」と笑い、大和が静かに祝辞を述べた。
浜松鎮守府にも祝いの通信がつながった。
「高梨さん、おめでとうございます」
結有が敬礼すると、画面の向こうの高梨はいつものようにふわりと笑った。
『ありがとうございます、結有ちゃん』
「一等海佐って、すごいんですよね」
『まあ、責任は増えますねえ』
隣で神通が静かに言った。
「かなり異例です。二十九歳で一等海佐は、通常の人事感覚では相当に早い」
「二十九歳」
結有は繰り返した。
高梨はにこにこしている。
『年齢の話は少し照れますねえ』
アイが画面を見て言った。
「高梨、若い偉い人」
『うふふ。若いかは微妙ですが、ありがとうございます』
「若い」
『アイさんに言われると不思議ですねえ』
結有はふと気づいた。
「そういえば、父さんは今、陸将補ですよね」
神通がうなずく。
「はい。艦娘本部長として補職されています」
「父さん、四十代ですよね」
「はい」
「四十代で陸将補って?」
神通は少しだけ間を置いた。
「かなり早いです」
「かなり」
「はい」
結有は腕を組んだ。
「高梨さんが二十九歳で一等海佐。父さんが四十代で陸将補」
嫌な予感がした。
自分で自分に向かって、扉を開けてしまった気がした。
「じゃあ、僕は?」
談話室が静かになった。
暁が目を逸らした。
最上が口笛を吹こうとして失敗した。
夕立が「ぽい?」と言って固まった。
神通は静かにお茶を置いた。
アイは結有を見る。
「結有は、脳筋提督」
「それは階級じゃない」
「条件付き脳筋提督」
「もっと違う」
結有は神通を見た。
「神通さん」
「はい」
「僕、正式提督ですよね」
「はい」
「十八歳ですよね」
「はい」
「本来なら、何歳くらいの階級なんですか」
神通は沈黙した。
高梨が画面の向こうでにこにこしている。
とても楽しそうだった。
『難しい質問ですねえ』
「高梨さん、逃げないでください」
『逃げていませんよお。ただ、艦娘本部の提督職は通常の自衛隊階級と完全には対応しません』
「それは知ってます」
『妖精さんが見える、艦娘と同調できる、艤装運用を指揮できる。そういう特殊適性に基づく職ですから』
「はい」
『でも、実質的な責任で言えば』
高梨は一度、言葉を切った。
結有は少し身構えた。
『小規模鎮守府の部隊指揮なら、佐官級に近いですねえ』
「佐官」
『作戦規模によっては、もっと上の判断も求められます』
「もっと上」
結有は神通を見た。
神通は否定しなかった。
「つまり、僕は十八歳で佐官級の責任を」
「完全に同じではありません」
神通は言った。
「ですが、責任の重さだけで言えば、それに近い場面があります」
結有は椅子にもたれた。
「急に胃が痛い」
アイがすぐに言う。
「太田胃散」
「大貫さんのやつ」
「もらう?」
「ちょっと欲しい」
暁が腕を組む。
「だからいつも言ってるでしょう。司令官は、どっしり構えて、みんなを生きて帰す責任があるの」
「暁先生」
「何よ」
「急に重い」
「最初から重いのよ!」
結有は頭を抱えた。
「僕、高校卒業したばかりなんだけど」
最上が笑う。
「でも深海棲艦に飛び蹴りしたよね」
「した」
夕立も言う。
「ブラック鎮守府にも殴り込んだっぽい」
「した」
アイが言う。
「砲弾も蹴った」
「蹴った」
神通が静かに言った。
「正式任官試験では乱闘もしました」
「しました」
高梨がにこにこ言う。
『経歴だけ見ると、年齢不詳ですねえ』
「ひどい」
『褒めてはいません』
「ですよね」
*
その日の午後。
ちょうど各務原裕二新本部長から通信が入った。
画面に映った裕二は、陸将補の制服を着ていた。
まだ少し慣れていない顔だった。
『結有』
「父さん」
『高梨が一佐になったそうだな』
「うん。二十九歳の一等海佐」
『早いな』
「父さんも四十代の陸将補でしょ」
『俺は事故のようなものだ』
「事故で陸将補になるの?」
『大貫空将の遺志と人事の暴力だ』
「言い方」
裕二は画面越しに少しだけ眉を寄せた。
『どうした。顔が変だぞ』
「僕、本来なら何歳くらいの階級の責任なのかなって」
裕二は黙った。
結有は嫌な予感がした。
「父さん?」
『考えるな』
「え」
『胃に悪い』
「父さんが言うの?」
『俺も給与明細で二度見した。責任は急に現実になる』
「重いなあ」
『重い』
裕二は否定しなかった。
『だが、年齢で責任が軽くなるわけではない』
「うん」
『同時に、年齢以上の責任を背負っているからといって、一人で大人ぶる必要もない』
結有は少し顔を上げた。
『お前は十八だ。未熟で当然だ。だから神通がいる。暁がいる。アイがいる。浜松がある。俺もいる。高梨もいる』
「高梨さんも入るんだ」
『入る。あれは敵に回すな』
画面の端で高梨が笑っていた。
『聞こえていますよお、各務原本部長』
『聞こえるように言った』
『うふふ』
結有は少し笑った。
裕二は続ける。
『結有。階級や肩書きは、できることの証明ではない。逃げないための札だ』
「逃げないため」
『そうだ。お前は提督だ。だが、一人で全部できる必要はない。ただ、自分の名前で命令を出した時、その結果から逃げるな』
談話室が静かになった。
『怖ければ相談しろ。迷えば止まれ。怒れば誰かに見張らせろ。飛びたくなったら』
「飛びたくなったら?」
『神通に許可を取れ』
神通が静かにうなずいた。
「正しい判断です」
結有は苦笑した。
「許可出ます?」
「必要なら」
「必要なら、か」
アイが言う。
「私も見る」
「うん」
「飛びそうなら、袖を掴む」
「ありがとう」
*
通信が終わった後、結有はしばらく黙っていた。
十八歳。
高校卒業したばかり。
でも、提督。
艦娘を指揮する。
アイの隣に立つ。
浜松鎮守府の一部を背負う。
その重さが、急に肩へ乗った気がした。
暁が少し心配そうに見る。
「結有さん、大丈夫?」
「大丈夫」
アイが即座に言う。
「嘘」
「うん。ちょっと大丈夫じゃない」
神通が静かに言った。
「それでよいと思います」
「いいんですか」
「責任を軽く感じるより、ずっとよいです」
高梨が画面の向こうでうなずく。
『そうですねえ。怖いと思える人の方が、まだ信頼できます』
「高梨さんも怖いんですか?」
『毎日』
「毎日?」
『はい。自分の判断で誰かが帰れなくなる可能性は、いつも怖いです』
結有は、高梨湊を見た。
二十九歳の一等海佐。
ゆるふわで、怖くて、補給と退路の人。
その高梨でも、怖いと言う。
「そっか」
結有は小さく息を吐いた。
「怖くていいんだ」
「はい」
神通が言った。
「怖がりながら、確認し、相談し、準備して、それでも必要な時に命じる。それが指揮官です」
アイが袖をつまむ。
「結有」
「何?」
「脳筋でも、怖がる」
「うん」
「なら、少し安心」
「なんで?」
「怖がらない脳筋は危険」
「それはそう」
暁が大きくうなずいた。
「本当にそうよ」
結有は少し笑った。
*
その日の浜松鎮守府非公式日誌には、こう記された。
『高梨湊、二十九歳で一等海佐へ昇進』
『各務原裕二、四十代で陸将補』
『結有、本来なら何歳くらいの階級なのか聞いてしまう』
『神通、言いにくそうに佐官級相当の責任と説明』
『結有、胃痛を覚える』
『アイ、太田胃散を提案』
『裕二、階級や肩書きは逃げないための札と語る』
『高梨、毎日怖いと明かす』
『結有、怖くていいと学ぶ』
最後に、誰かが追記した。
『十八歳の提督、二十九歳の一佐、四十代の陸将補。艦娘本部の人事は胃に悪い』
結有はそれを読んで、苦笑した。
その通りだった。
でも、胃に悪いからといって、逃げるわけにはいかない。
隣にはアイがいる。
前には海がある。
後ろには浜松がある。
結有は自分の識別票に触れた。
提督。
まだ重い。
きっと、ずっと重い。
でも、その重さから逃げないために、彼女はここにいる。
アイが隣で言った。
「結有」
「何?」
「胃薬、いる?」
「今はいい」
「強がり?」
「少し」
「じゃあ、半分持っておく」
「胃薬を?」
「うん」
結有は笑った。
「ありがとう」
アイは真面目にうなずいた。
「パートナーだから」
結有は少しだけ照れた。
責任は重い。
でも、半分持つと言ってくれる相手がいるなら。
少しだけ、歩ける気がした。