国会で、ひとつの法律が成立した。
正式名称は長い。
艦娘本部所属民間人提督等の身分、給与、補償および勤務上の取扱いに関する特別措置法。
長すぎるので、艦娘本部内ではすぐにこう呼ばれた。
提督給与法。
これまで、民間人出身の提督は扱いが曖昧だった。
自衛官ではない。
だが、艦娘部隊を指揮する。
志願者であり、協力者であり、場合によっては鎮守府の実質的な指揮官でもある。
にもかかわらず、制度の隙間に落ちていた。
手当は出る。
交通費も出る。
宿舎や食事は支給される。
だが、給与としては極めて曖昧。
開戦初期はそれどころではなかった。
人類が海を失いかけている時に、給与規程を整える余裕などなかった。
しかし十五年が過ぎた。
いつまでも、善意と志願に甘え続けるわけにはいかない。
大貫悟が生前、最後まで整備を進めていた案件の一つ。
それを各務原裕二新本部長が引き継ぎ、国会で成立させた。
民間人提督は、正式に給与を受ける。
しかも、過去の勤務分へ遡及して。
*
浜松鎮守府。
各務原結有は、端末に届いた通知を見ていた。
『給与明細が発行されました』
「……給与明細?」
結有は首を傾げた。
隣にいたアイが覗き込む。
「給料」
「うん。それはわかる」
「結有、もらってなかった?」
「手当とか食事とか宿舎とかはあったけど、ちゃんとした給与は初めてかな」
暁が顔を上げた。
「提督給与法が通ったからね。民間人提督にも正式に給与が出るって、神通さんが言ってたわ」
「へえ」
結有は軽い気持ちで明細を開いた。
そして固まった。
閉じた。
もう一度開いた。
固まった。
閉じた。
三度目を開いた。
アイが言う。
「三度見」
「待って」
結有は四度目を開いた。
暁が近づいてくる。
「どうしたの?」
結有は五度目を開いた。
神通が静かに言った。
「各務原提督」
「はい」
「五度見は初めて見ました」
「神通さん」
「はい」
「数字が変です」
「見せてください」
結有は端末を神通へ渡した。
神通は確認した。
表情は変わらない。
だが、少しだけ目が止まった。
「正しいようです」
「正しいんですか!?」
「はい。着任日まで遡り、六か月分の給与が一括で支給されています」
「六か月分」
「加えて、提督職手当、危険勤務手当、特殊霊子適性者手当、戦闘指揮手当、一部遡及補填」
「手当が多い」
「あなたの場合、戦闘実績と特殊性が多いので」
「僕、何扱いなんですか」
神通は少しだけ間を置いた。
「三佐相当です」
結有は椅子からずり落ちかけた。
「三佐」
アイが言う。
「三佐脳筋」
「やめて」
暁が目を丸くする。
「三佐扱いって、結有さん十八歳よね?」
「うん」
「高校卒業したばかりよね?」
「うん」
「胃薬いる?」
「いるかも」
アイが真面目に言った。
「太田胃散」
結有は頭を抱えた。
「父さんが給与明細を二度見した気持ち、少しわかった」
「結有は五度見」
「父さんに勝った」
「勝ち?」
「たぶん負け」
*
その日の浜松鎮守府食堂は、給与明細の話題で持ちきりだった。
民間人出身の提督や補佐官、特別適性者たちに、次々と明細が届いている。
最上が面白そうに言う。
「結有、五度見したんだって?」
「しました」
夕立が目を輝かせる。
「ぽいぽいお給料っぽい!」
「ぽいぽいでは処理できない額でした」
山城が湯呑みを持ちながら言う。
「不幸ね。急に責任が数字になるなんて」
扶桑が柔らかく微笑んだ。
「でも、大切なことだと思います。今まで曖昧だった方々に、きちんと報いることになりますから」
神通がうなずく。
「はい。大貫本部長が進めていた制度です」
その名が出ると、空気が少しだけ静かになった。
大貫悟。
胃痛と太田胃散の人。
頭を抱える人。
それでも、制度を作り続けた人。
結有は自分の明細を見た。
急に降ってきた数字。
だが、それはただの金ではない。
今まで曖昧だった責任に、国がようやく名前をつけたものだった。
「大貫さん、こういうのもやってたんだ」
結有が言う。
神通は静かに答える。
「はい。民間人提督を、善意だけで使い続けるべきではないと」
暁がうなずく。
「当たり前よ。どんなに使命感があっても、ちゃんと生活できなきゃだめだもの」
アイが言った。
「給料は、帰る場所?」
結有は少し考えた。
「そうかも。生活できるって、帰る場所の一部だし」
アイは納得したようにうなずいた。
「なら、大事」
*
同じ頃。
沼津鎮守府。
開戦当時から着任している老提督、笹川源三郎は、古い執務室で端末を見ていた。
年齢は七十を越えている。
元は民間の船会社の管理職だった。
深海棲艦出現後、妖精さんが見えることがわかり、なし崩しに沼津鎮守府の提督となった。
彼は十五年半、ほとんどボランティアに近い形で鎮守府を支えてきた。
もちろん食事と住まいはあった。
手当も少しはあった。
だが、給与と呼べるものではなかった。
その笹川提督の端末にも、明細が届いた。
『遡及支給明細』
笹川は眼鏡をかけ直した。
開いた。
黙った。
眼鏡を外した。
拭いた。
かけ直した。
もう一度見た。
固まった。
「……おい」
秘書艦の妙高が振り向く。
「提督?」
「妙高さん」
「はい」
「この数字は、何かね」
妙高が端末を覗き込んだ。
そして、固まった。
十五年半分。
給与。
手当。
危険勤務。
戦闘指揮。
特別補償。
遡及利子相当。
未払い調整。
その合計額は、老提督の想像をはるかに超えていた。
笹川は椅子の背にもたれた。
「腰が抜けそうだ」
「提督、座っています」
「座っていても抜けそうだ」
妙高は慌てて水を持ってきた。
「落ち着いてください」
「落ち着ける額ではない」
「確かに」
「十五年半、わしはただ海を見て、妖精さんに言われるまま書類を出し、艦娘たちに飯を食わせ、深海棲艦が来たら逃げろ撃て戻れと言っていただけだぞ」
「それが提督の仕事です」
「そうなのか」
「そうです」
笹川は明細を見つめた。
「大貫さんめ」
小さくつぶやく。
「こんなものを、最後に残していきおったか」
妙高は何も言わなかった。
笹川は少しだけ目を赤くした。
「ありがたいな」
「はい」
「だが、使い道がわからん」
「まず税務相談を」
「急に現実が来た」
*
その日の午後。
艦娘本部には、各鎮守府から問い合わせが殺到した。
『給与明細の桁は合っていますか』
『遡及支給とは本当に全期間ですか』
『手当の計算根拠を確認したい』
『老提督が腰を抜かしかけました』
『税務相談窓口はありますか』
『家族にどう説明すればよいですか』
『太田胃散は支給対象ですか』
各務原裕二新本部長は、本部長室で報告を受けた。
「混乱しているな」
副官が答える。
「はい。ただ、概ね好意的な混乱です」
「ならよい」
「沼津の笹川提督から、礼状が届いています」
「読もう」
裕二は礼状を受け取った。
短い文だった。
『各務原本部長
提督給与法の成立、誠にありがとうございます。
まさか十五年半分を一括で受け取る日が来るとは思いませんでした。
大貫本部長が進めてくださっていたと聞き、しばらく言葉が出ませんでした。
この金は、私一人のものではありません。
沼津で共に踏ん張ってくれた艦娘たち、隊員たち、妖精さんたちのために使います。
まずは食堂の冷蔵庫を新しくします。
沼津鎮守府
笹川源三郎』
裕二はしばらく黙った。
「冷蔵庫か」
「はい」
「よい使い道だ」
「はい」
裕二は礼状を丁寧に畳んだ。
「大貫空将」
小さく言う。
「あなたの仕事は、まだ人を帰しています」
*
浜松鎮守府では、結有が自分の給与明細をまだ眺めていた。
アイが隣で言う。
「まだ見る?」
「うん」
「六度目?」
「もう数えてない」
「慣れた?」
「慣れない」
暁が呆れたように言う。
「ちゃんと計画的に使うのよ。急にお金が入ったからって、変なものを買っちゃだめ」
「変なものって?」
「モーターボートとか」
結有は目を逸らした。
神通が静かに言う。
「各務原提督」
「はい」
「救助用ではない私用モーターボートの購入は、当面禁止です」
「まだ何も言ってません」
「目が言っていました」
アイがうなずく。
「脳筋、船を見てた」
「見てない」
「見てた」
最上が笑う。
「まあ、まずは貯金じゃない?」
夕立が言う。
「ぽいぽい貯金っぽい!」
山城が真顔で言った。
「税金という不幸も来るわ」
結有は固まった。
「税金」
扶桑が優しく言う。
「大丈夫ですよ。きっと相談窓口があります」
神通が端末を確認する。
「本部が税務相談窓口を設置するそうです」
「大貫さん、そこまで考えてたんですか」
「おそらく」
結有は明細を見た。
金額のインパクトはまだ大きい。
でも、その向こうに見えるものが少し変わった。
これは、自分のためだけの金ではない。
提督という役目を、国がようやく正式に認めた証拠だ。
民間人だから曖昧でいい、ではなく。
志願者だから善意でいい、ではなく。
命を預かるなら。
命を賭けるなら。
その生活と責任にも、ちゃんと名前と数字をつける。
遅すぎたのかもしれない。
でも、何もないよりずっといい。
「大貫さんらしいな」
結有が言う。
アイが首を傾げた。
「大貫、胃痛だけじゃない?」
「うん。胃痛だけじゃなかった」
「制度の人?」
「そうだね」
アイは少し考えた。
「制度は、帰る場所?」
「高梨さんが聞いたら喜びそう」
「なら、そう」
結有は笑った。
*
その日の艦娘本部非公式日誌には、こう記された。
『提督給与法、成立』
『民間人出身提督にも正式給与支給開始』
『過去勤務分へ遡及』
『各務原結有提督、着任から六か月分を三佐扱いで支給』
『給与明細を五度見』
『アイ、太田胃散を提案』
『神通、私用モーターボート購入を事前禁止』
『沼津鎮守府の笹川老提督、十五年半分一括支給で腰を抜かしかける』
『笹川提督、まず食堂の冷蔵庫を新調予定』
『本部、税務相談窓口を設置』
『大貫前本部長の遺した制度が動き始める』
最後に、誰かが追記した。
『善意で戦わせた十五年に、ようやく国が頭を下げた』
結有はその一文を読んで、しばらく黙っていた。
それから、明細を閉じた。
「アイ」
「何?」
「僕、これで何か買うなら、まず浜松のみんなに何か差し入れしたい」
「肉?」
「さわやか?」
「三時間半」
「全員分は無理だな」
「しらす?」
「それもいい」
暁が横から言った。
「まずは貯金!」
「はい」
神通も静かに言う。
「計画的に」
「はい」
アイは結有の袖をつまんだ。
「給料、重い?」
「重い」
「半分持つ?」
「お金を?」
「責任」
結有は少しだけ笑った。
「ありがとう」
アイはうなずいた。
「パートナーだから」
給与明細の数字は、まだ少し怖い。
けれど、その怖さも、提督という仕事の一部なのだろう。
結有はそう思った。