沼津鎮守府の老提督、笹川源三郎は、給与明細を見て腰を抜かしかけた男である。
開戦当時から十五年半。
ほとんどボランティア同然で鎮守府を支え、艦娘を送り出し、迎え入れ、妖精さんと相談し、深海棲艦の接近に胃を痛めてきた。
その十五年半分の給与と手当が、一括で振り込まれた。
笹川は最初に食堂の冷蔵庫を買い替えた。
次に、古くなった休憩室の椅子を替えた。
その次に、沼津鎮守府の艦娘たちへ新しい寝具を入れた。
そして、まだ残っている明細を見て、彼は言った。
「金は墓まで持っていけん」
秘書艦の妙高が聞いた。
「提督?」
「生きている連中に肉を食わせる」
妙高は少しだけ目を瞬いた。
「肉、ですか」
「肉だ」
笹川は重々しくうなずいた。
「静岡県内の周りの提督連中を呼べ。長く踏ん張ってきた者も、最近来た若い者も、まとめてだ」
「鎮守府間交流会ですね」
「焼肉会だ」
「はい」
「肉を焼く会だ」
「承知しました」
こうして、沼津鎮守府主催の焼肉会が決まった。
*
当日。
沼津鎮守府の屋外訓練場には、長机とコンロが並んでいた。
食材は大量。
牛肉。
豚肉。
鶏肉。
野菜。
焼きそば。
海鮮。
沼津らしく干物と魚介もある。
冷蔵庫は新品だった。
妙高が誇らしげに言う。
「新型冷蔵庫、よく冷えています」
笹川は満足そうにうなずいた。
「よいことだ」
静岡県内の提督たちが集まっていた。
浜松鎮守府からは結有、アイ、神通、暁。
富士田子の浦鎮守府からは高梨湊、大和、川内、那珂。
ほかにも、焼津、清水、伊豆方面の小規模鎮守府の提督や艦娘たちが顔を出している。
結有は会場を見て、目を丸くした。
「すごい量ですね」
笹川は笑った。
「十五年半分の一部だ。遠慮するな」
「重い焼肉ですね」
「軽い肉よりいい」
アイは肉の山をじっと見ていた。
「補給拠点」
「今日はかなり強い補給拠点だね」
「肉の弾薬庫」
暁がすかさず言う。
「食べ物を弾薬庫って言わないの!」
アイは網を見る。
「ここが戦場」
「焼肉網ね」
「網上の砲撃」
「焼くだけよ!」
高梨湊がにこにこしながら近づいてきた。
「アイさん、焼肉は兵站と火力管理の勉強にもなりますよお」
暁が頭を抱える。
「高梨さんまで!」
高梨は続ける。
「一度に乗せすぎると焦げます。火力が強すぎてもだめ。食べる人の速度、焼ける速度、網の空き、補給のタイミング。全部大事です」
アイは真剣にうなずいた。
「肉の補給線」
「はい」
「焼きすぎは敗北」
「その通りです」
結有は神通を見る。
「神通さん、これも教材なんですか」
「高梨提督にかかれば、だいたい教材です」
*
焼肉会は、すぐに混沌とした。
川内は「夜戦じゃないけど火力調整は好き」と言って肉を焼いている。
那珂は「焼肉アイドル那珂ちゃんだよー!」と謎の掛け声を上げている。
暁はアイに焼き加減を教えようとして、逆にアイから「赤いレディ、焦げてる」と指摘されている。
「暁よ! あと焦げてないわ、これは香ばしいの!」
「黒い」
「香ばしいの!」
大和は落ち着いて野菜も焼いていた。
「お肉ばかりではなく、お野菜もどうぞ」
アイは皿を見る。
「緑」
「食べましょうね」
「肉の休憩?」
「そうです」
「なら食べる」
結有は笹川の隣に座った。
老提督は、ゆっくり肉を焼いている。
手つきは慣れていた。
「笹川提督」
「何かな、若いの」
「こういう会を開こうと思ったの、どうしてですか」
笹川は肉を裏返した。
「金をもらったからだ」
「それは聞きました」
「なら、使わねばならん」
「貯金とかは」
「する分はする。鎮守府に必要なものも買う。だがな」
笹川は焼けた肉を皿に乗せ、結有に渡した。
「十五年半、みんな腹を空かせながら踏ん張ってきた」
結有は黙った。
「提督も艦娘も隊員も妖精さんも、いつも何かが足りなかった。弾薬、燃料、修理材、時間、寝床、書類を書く人手。飯だけは食わせようと思っても、それすら十分とは言えん日があった」
笹川は自分の皿に肉を取った。
「だから、金が来たなら、まず肉だ」
「まず肉」
「そうだ」
笹川は笑った。
「難しいことは高梨二佐が考える。わしは今日は、肉を焼く」
高梨が少し離れた席から微笑んだ。
「笹川提督、その判断はとてもよいと思います」
「高梨二佐に褒められた。今日はよい日だ」
川内が笑う。
「湊が褒める焼肉会って、かなり優秀だよ」
*
周囲の提督たちも、それぞれに話していた。
焼津鎮守府の若い提督は、給与制度ができたことで親にようやく説明できると笑った。
「今まで、何の仕事してるんだって言われるたび困ってたんですよ」
清水の女性提督は、少し目を伏せた。
「うちは、これで遺族補償の話も進めやすくなります」
その言葉で、少しだけ空気が静かになる。
笹川は、黙って肉を焼いた。
そして、その皿を彼女の前に置いた。
「食べなさい」
「笹川提督」
「今日は食べる日だ。泣くなら食べてからでいい」
女性提督は、少し笑って肉を受け取った。
結有はそれを見ていた。
給与法。
数字の話だと思っていた。
でも、こうして見ると違う。
親に説明できる。
遺族補償を進められる。
食堂の冷蔵庫を替えられる。
仲間に肉を食わせられる。
制度は、生活に降りてくる。
大貫が残したものは、やはり大きかった。
*
アイは網の前で、焼肉を学んでいた。
「乗せすぎない」
高梨が言う。
「うん」
「焦げる前に返す」
「うん」
「自分の皿だけでなく、隣の人の分も見る」
「隣」
「はい」
アイは焼けた肉を結有の皿に置いた。
「結有」
「ありがとう」
「焼けた」
「うまそう」
暁が感心した。
「アイ、ちゃんと焼けてるじゃない」
「高梨が教えた」
「私も教えたわ!」
「赤いレディは焦がした」
「暁!」
神通が静かに肉を返している。
その手つきは非常に正確だった。
結有が言う。
「神通さん、焼肉も上手い」
「焼き加減を見るのは、戦況を見るのと似ています」
「本当に教材になるんだ」
アイが焼き網を見る。
「肉は、待つと強くなる」
「さわやかで学んだやつ?」
「うん」
「焼肉も?」
「うん。早すぎると赤い。遅すぎると黒い」
「真理だ」
高梨が満足そうにうなずいた。
*
会の終盤。
笹川提督が立ち上がった。
ざわめきが静まる。
老提督は紙を持っていなかった。
ただ、集まった提督と艦娘たちを見回した。
「皆さん」
声は大きくない。
だが、よく通った。
「十五年半、よく生きてきた」
誰も笑わなかった。
「深海棲艦が出た日から、我々はずっと、よくわからんまま走ってきた。制度もなかった。金もなかった。人も足りなかった。正解もなかった」
笹川は少しだけ笑った。
「それでも、ここにいる」
海風が吹いた。
「大貫本部長が残してくださった制度で、ようやく国が我々に、すまなかった、ありがとう、と言う形を作った。遅い。実に遅い」
何人かが小さく笑った。
「だが、遅くても来た」
笹川は皿を掲げた。
「なら、今日は食おう。生きている者が肉を食う。それでよい」
沈黙。
そして、拍手が起きた。
艦娘たち。
提督たち。
隊員たち。
妖精さんたちまで、小さな手で拍手している。
結有も拍手した。
アイも、少し遅れて拍手した。
「笹川、強い」
「うん」
「肉の提督」
「いい呼び名かも」
*
その日の沼津鎮守府非公式日誌には、こう記された。
『笹川源三郎提督、給与遡及支給分の一部で静岡県内提督焼肉会を開催』
『参加:浜松、富士田子の浦、沼津、焼津、清水、伊豆方面ほか』
『笹川提督発言:金は墓まで持っていけん。生きている連中に肉を食わせる』
『アイ、焼肉を網上の砲撃と表現』
『高梨湊一佐、焼肉を兵站と火力管理の教材にする』
『暁、焦げていないと主張』
『神通、焼き加減が正確』
『大和、野菜も勧める』
『笹川提督、肉の提督と呼ばれかける』
『提督給与法の意味を、全員が少し理解する』
最後に、誰かが追記した。
『制度は書類で始まり、冷蔵庫と焼肉で人を救う』
帰りの車内。
アイは結有の隣で、少し眠そうにしていた。
「結有」
「何?」
「焼肉、強い」
「強かったね」
「笹川、いい提督」
「うん」
「給料、肉になる」
「全部じゃないけどね」
「でも、肉になる分もある」
「うん」
アイは袖をつまんだ。
「帰る場所は、肉もある」
結有は笑った。
「それ、高梨さんに言ったら喜びそう」
「言う」
「うん」
車は夜の道を浜松へ向かう。
海の向こうには、まだ深海がいる。
未来もいる。
戦争は終わっていない。
でも、その日、静岡の提督たちは肉を焼いた。
十五年半、よく生きてきたから。
そして、明日も生きて帰るために。