明石は、その日、珍しく笑っていなかった。
浜松鎮守府の工廠ではなく、研究棟の一室。
机の上には、複数の測定記録。
アイの専用艤装のログ。
結有の霊子反応データ。
神通の艤装出力推移。
時雨のハワイ攻防戦時の断片的な記録。
そして、深海提督未来が市ヶ谷急襲時に残した黒い霊子波形。
明石は眼鏡を押し上げ、静かに言った。
「霊子の根源について、かなり重要な仮説が立ちました」
部屋には、結有、アイ、神通、暁、高梨湊がいた。
高梨は富士田子の浦から通信で参加している。
画面の向こうの顔は、いつものように穏やかだが、目は真剣だった。
結有は椅子に座り直した。
「霊子の根源?」
「はい」
明石は端末を操作した。
画面に、複数の波形が並ぶ。
「これまで霊子は、艦娘や深海棲艦に特有のエネルギー、あるいは情報粒子のように扱われてきました。妖精さんとの同調、艤装の制御、深海棲艦への干渉。それらを説明するための概念です」
暁がうなずく。
「難しいけど、なんとなくわかるわ」
「ですが、ずっと説明しきれないことがありました」
明石は結有を見る。
「各務原提督の徒手空拳です」
「僕?」
「はい。あなたは艦娘ではありません。艤装も装備していない状態で、深海棲艦へ直接打撃を通せる」
結有は少しだけ気まずそうに言った。
「軽巡イ級とか」
「刺身にしたやつですね」
「そこまで言わなくても」
神通が静かに言う。
「事実です」
「はい」
明石は続ける。
「それから、各務原裕二本部長の戦争初期の近接戦闘。霊子処理ナイフを使っていたとはいえ、深海棲艦の装甲継ぎ目へ有効打を与えていました」
画面に、古い横須賀の戦闘記録が出る。
若い裕二。
返り血を浴びた神通。
水際の戦闘。
神通は少しだけ目を伏せた。
「さらに、艦娘の艤装暴走。時雨さんの最後。アイさんの深海干渉拒絶。これらはすべて、単なる出力値では説明しきれません」
アイが首を傾げる。
「じゃあ、何」
明石は一度、息を吸った。
「霊子の根源は、意志力です」
部屋が静かになった。
結有はその言葉を繰り返す。
「意志力」
「はい。何かを成そうとする意志。守る、帰る、沈める、戻る、拒む、進む。そういう意志が、何らかの形で圧縮され、発露したもの。それが霊子の根本ではないかと」
暁が眉をひそめる。
「気合いとか根性ってこと?」
「近いですが、同じではありません」
明石は首を横に振る。
「精神論ではなく、実際に観測される干渉力です。強い意志が肉体、艤装、妖精さん、あるいは深海核を通じて世界へ作用する。その作用が霊子として見えている」
高梨が通信越しに言った。
『なるほど。だから、艦船の砲撃は逸れる』
明石はうなずいた。
「はい」
結有が顔を上げる。
「どういうことですか」
高梨が説明を引き継ぐ。
『人間の艦船から放たれる砲弾やミサイルは、機械的には強力です。でも、攻撃主体が機械システムになりやすい。もちろん乗員の意志はありますが、深海棲艦へ干渉するほど直接的に乗りません』
明石が続ける。
「一方、艦娘の砲撃は違います。艦娘本人の意志、艤装に宿る艦の記憶、妖精さんの制御。それらが一体化して弾に乗ります」
「だから当たる」
結有が言った。
「はい」
明石は結有を見た。
「そして、人間本人が直接殴る、蹴る、刺す場合」
結有の目が少しだけ開いた。
「身体を通して、意志が直接乗る」
「その通りです」
結有は、ゆっくり息を吐いた。
「だから深海棲艦には、人間の直接攻撃が効くのか」
その言葉に、部屋の空気が変わった。
長い間、経験則として知られていた異常。
結有の拳。
裕二のナイフ。
霊子適性者の直接干渉。
それが、初めて一本につながった。
*
明石はさらに資料を表示する。
「各務原提督が砲弾を蹴った時、足に集まった霊子は通常の出力上昇とは違いました。危険を止める、当てさせない、守る。その意志が一点に集中していました」
「僕、そんなこと考えてたかな」
結有が言う。
アイが即答した。
「考えてない」
「ひどい」
「でも、思ってた」
結有は黙った。
たしかに、あの時は考えるより先に身体が動いた。
当たったら危ない。
止める。
それだけだった。
明石はうなずく。
「言語化されていなくても、意志としては十分です。むしろ純度が高い」
神通が口を開く。
「では、時雨さんの最後は」
部屋が重くなる。
明石は、少し慎重に答えた。
「時雨さんの場合、守る意志が大きすぎたのだと思います」
結有の手が動く。
アイがそっと袖をつまむ。
明石は続ける。
「味方を逃がす。輸送船団を守る。深海中枢を止める。その意志が、時雨さんの高すぎる霊子と結びつき、艤装のリミッタを吹き飛ばした」
神通は目を閉じた。
「守る意志が、彼女自身を爆弾にした」
「はい」
明石の声は小さかった。
「だから、強い意志は美しいだけではありません。危険です。制御されなければ、本人を壊します」
高梨が静かに言った。
『強い個人に頼りすぎる危険と同じですねえ』
「はい」
明石はうなずく。
「意志力が霊子の根源なら、意志の強い人ほど危ない。結有提督も、アイさんも、神通さんも」
結有は自分の手を見る。
拳。
深海棲艦を殴れる手。
誰かを守れる手。
でも、制御を失えば壊す手。
「僕、怖いですね」
ぽつりと言った。
暁がすぐに言う。
「怖がれるなら大丈夫よ」
「暁」
「怖がらない脳筋が一番危ないって、前にも言ったでしょう」
アイがうなずく。
「怖がる脳筋は、まだよい」
「褒め方が独特」
神通が静かに言う。
「意志を持つことと、意志に呑まれることは違います。そこを訓練しましょう」
「はい」
*
アイは、自分の艤装を見ていた。
がうがう。
ろング。
ぴか。
それらは、明石が作った兵器だ。
だが、ただの兵器ではない。
帰るための武器。
結有を止めるための武器。
浜松を選んだアイの意志を形にしたもの。
「私は」
アイが言った。
「深海の意志もある?」
部屋が静かになる。
明石は少し迷った。
高梨が代わりに答える。
『あります』
アイは画面を見る。
『アイさんの中には、深海側の意志もあると思います。戻れ、沈め、奪われたものを返せ、というような強い残響が』
「艦娘の意志も?」
『あります』
「時雨も?」
結有の呼吸が止まる。
高梨は静かに言った。
『おそらく』
アイは自分の胸に手を当てた。
「たくさんある」
「うん」
結有は小さく言った。
アイは続ける。
「でも、私の意志もある」
明石がうなずいた。
「それが一番重要です」
アイは少しだけ目を細めた。
「私は戻らない。私は浜松側。結有のパートナー」
暁がすかさず言う。
「嫁は?」
「保留」
「よし」
結有は少し笑った。
アイは真面目に続けた。
「私の意志が、私の霊子?」
「はい」
明石は答えた。
「だから、深海の声に対抗できたのだと思います。外からの意志に、自分の意志をぶつけた」
アイは小さくうなずいた。
「なら、強くする」
神通が言う。
「強くするだけではなく、整える必要があります」
「整える」
「はい。強いだけでは、暴走します」
アイは結有を見る。
「結有も」
「うん」
「一緒に整える」
「そうだね」
*
高梨は画面越しに、少しだけ考え込んでいた。
「高梨さん?」
結有が呼ぶ。
『この仮説が正しければ、未来の戦い方も説明できます』
「未来さんの?」
『はい。未来は深海棲艦を単に命令しているのではなく、深海側の意志を束ねているのかもしれません』
神通が目を細める。
「深海提督とは、深海の意志を指揮する者」
『そう考えると、未来の危険性がさらに増します』
高梨の声が少し低くなる。
『未来は、人類への失望と絶望を深海側の意志に接続している。だから深海棲艦が、あれほど人間的な指揮を受ける』
結有は、市ヶ谷急襲を思い出した。
人を殺しすぎず、施設を選んで壊し、大貫を討った未来。
あれは、ただの深海棲艦の暴力ではない。
意志を持った攻撃だった。
「じゃあ、未来さんを止めるには」
高梨は答えた。
『未来の意志に負けない意志が必要です』
アイが言う。
「殴るだけじゃだめ?」
『だめです』
高梨は即答した。
『未来は、自分の絶望に理屈を与えています。帰る場所は腐っている、だから沈めるべきだと。そこに対抗するには、こちらも何を守るのかを明確にしなければなりません』
結有はうなずいた。
「帰る場所」
『はい』
高梨の声は、少しだけ柔らかくなった。
『意志力が霊子の根源なら、私たちはただ勝ちたいだけでは足りません。何のために勝つのか。誰を帰すのか。どんな場所を残すのか。それを間違えれば、霊子は歪むでしょう』
神通が言った。
「深海棲艦は、歪んだ意志の塊でもある」
明石は頷く。
「可能性はあります。沈んだもの。帰れなかったもの。奪われたもの。そうした意志が反転し、深海霊子として凝固した存在」
暁が少し顔を曇らせた。
「じゃあ、敵もただの化け物じゃないの?」
誰もすぐには答えなかった。
アイが静かに言った。
「深海にも、意志がある」
結有は深く息を吸った。
「でも、来るなら止める」
アイが結有を見る。
「うん」
「意志があるからって、浜松を沈められていいわけじゃない」
神通がうなずく。
「その通りです。理解することと、許すことは違います」
高梨も言った。
『そして、止めることと、憎しみに呑まれることも違います』
*
その日の午後、結有は訓練場に立った。
目の前には、深海棲艦を模した霊子標的。
隣にはアイ。
少し離れて神通。
暁は記録係。
明石は測定器の前。
「各務原提督」
神通が言う。
「はい」
「今日は、出力を上げる訓練ではありません。意志を整える訓練です」
「意志を整える」
「はい。殴る前に、何のために殴るのかを言葉にしてください」
結有は標的を見た。
拳を握る。
今までなら、考えるより先に踏み込んでいた。
だが、今日は違う。
「僕は」
結有は言った。
「浜松を守るために殴る」
足元に霊子が集まる。
「アイを帰すために殴る」
拳が熱くなる。
「神通さんや暁や、みんなと帰るために殴る」
霊子が暴れかける。
アイが袖を掴んだ。
「結有」
「うん」
結有は息を吐いた。
「壊すためじゃない」
霊子が少し落ち着く。
「帰るために」
踏み込む。
拳が標的に入った。
霊子標的が砕ける。
だが、爆ぜすぎない。
出力は高いが、散らない。
明石が声を上げた。
「安定しています! 出力は高いですが、暴走波形なし!」
神通がうなずく。
「よいです」
暁が笑った。
「やればできるじゃない!」
アイも言う。
「八点」
「十点じゃないの?」
「まだ顔が飛び蹴り」
「顔って何」
結有は笑った。
*
次はアイだった。
アイは海面に立つ。
専用艤装を装着している。
深海霊子を含む模擬干渉が、明石の装置から流される。
戻れ、という疑似信号。
アイの艤装が少し震える。
結有は岸壁から見ていた。
「アイ!」
「平気」
アイは目を閉じた。
「私は、戻らない」
がうがうが静かに展開する。
「私は、沈めるためじゃない」
ろングが低くうなる。
「私は、帰るために撃つ」
ぴかのレンズに白い光が宿る。
「私は、アイ」
深海干渉が押し返される。
明石が測定器を見て叫ぶ。
「干渉、低下! アイさんの固有波形が優勢です!」
神通が静かに言う。
「よくできました」
アイは結有を見る。
「何点?」
結有は笑った。
「十点」
アイは少しだけ満足そうにうなずいた。
*
その日の公式研究記録には、こう記された。
『霊子の根源に関する新仮説。霊子は単なる艦娘・深海棲艦固有エネルギーではなく、意志力の発露である可能性が高い。艦娘、深海棲艦、人間適性者の霊子波形に共通する基盤として、目的志向性、自己定義、帰属意識、保護・攻撃意図が観測される』
非公式日誌には、こう書かれた。
『霊子の根源は意志力らしい』
『結有、だから深海棲艦には人間の直接攻撃が効くのかと納得』
『時雨の最後は、守る意志が強すぎた危険例』
『アイ、自分の意志が自分の霊子だと理解』
『未来は深海の意志を束ねる深海提督と推定』
『神通、意志を整える訓練を開始』
『結有、帰るために殴ると宣言』
『アイ、帰るために撃つと宣言』
最後に、誰かが追記した。
『根性論ではない。だが、根性が世界に干渉していた』
結有はその一文を見て、少し笑った。
夜。
結有とアイは岸壁に座っていた。
海は暗い。
深海の声は聞こえない。
「アイ」
「何?」
「意志力って言われると、急に恥ずかしいね」
「なぜ」
「僕、だいたい考える前に動いてたから」
「でも、思ってた」
「うん」
「守る。帰る。隣」
「うん」
アイは海を見る。
「深海にも、意志がある」
「うん」
「未来にも」
「うん」
「なら、強い」
「強いね」
「でも、私たちもある」
結有はアイを見る。
白い髪。
黒い目。
深海でも艦娘でもある少女。
でも、今はそれ以上に、アイ自身だった。
「うん。ある」
アイは結有の袖をつまんだ。
「帰る意志」
結有は笑った。
「それ、強そうだ」
「強い」
アイは短く言った。
「がうがうより」
結有は少し驚いて、それから笑った。
「それはかなり強いな」
夜の海が、静かに鳴った。
戦争は終わっていない。
未来はまだいる。
深海はまだ呼んでいる。
けれど、結有は少しだけわかった。
自分の拳が何のためにあるのか。
アイの艤装が何のためにあるのか。
時雨が何を守ろうとしたのか。
意志は、力になる。
ならば、間違えてはいけない。
何を成したいのかを。
誰と帰りたいのかを。