高梨湊は、怒らせると怖い。
それは艦娘本部内で、もはや常識に近かった。
だが、別の意味で怖いものもある。
親族からのお見合い攻勢である。
「湊ちゃんも、もう二十九でしょう?」
「一等海佐になったんですって? すごいわねえ」
「でも、お仕事ばかりじゃ」
「いい方がいるのよ」
「防衛関係のお家でね」
「お医者様もいるのよ」
「一度会うだけでも」
高梨湊は、通信端末を閉じた。
富士田子の浦鎮守府の執務室に、静かな圧が満ちる。
那珂がそっと後ずさった。
「湊さん、怒ってる?」
「怒っていませんよお」
川内が小声で言った。
「怒ってるね」
大和も少し困ったように微笑んでいる。
高梨は机に両肘をつき、珍しく深いため息をついた。
「お見合いの話が、週に三件です」
那珂が目を丸くした。
「多い!」
「しかも、全員が“湊ちゃんの仕事を理解してくれる人”だそうです」
川内が苦笑した。
「その時点で、たぶん理解してないね」
「はい」
高梨はにこりと笑った。
怖かった。
「私の仕事を理解している人など、そう多くありません」
その時、執務室の扉がノックされた。
「失礼します」
入ってきたのは、鷹取修平だった。
かつて結有と衝突し、正式任官試験で乱闘になり、高梨に逆侵攻作戦を大論破された海自出身の三尉である。
最近は反省と再教育の一環で、富士田子の浦鎮守府へ戦略資料を届けたり、演習補助に来たりしていた。
高梨は、鷹取を見た。
じっと見た。
鷹取は背筋を伸ばした。
「高梨一佐?」
「……鷹取さんでいいや」
執務室が凍った。
鷹取の顔も凍った。
「はい?」
「いえ、すみません。言い方が悪かったですね」
高梨は微笑んだ。
「お見合い攻勢が面倒なので、鷹取さんと一度お出かけすれば、しばらく静かになるかなと」
鷹取は、明らかに傷ついた顔をした。
「私は、遮蔽物か何かですか」
「人間です」
「そこから確認するのですか」
「失礼しました」
那珂が小声で言う。
「湊さん、それはさすがにひどいよ」
川内もうなずく。
「鷹取、今のは傷ついていい」
大和が穏やかに言った。
「高梨提督。言葉を選びましょう」
高梨は少しだけ反省した顔になった。
「そうですね。鷹取さん、ごめんなさい」
「いえ」
「お詫びに、きちんとお誘いします」
「お詫びで誘うのも、なかなか複雑ですが」
「では、改めて」
高梨は椅子から立ち上がった。
「鷹取修平さん。今度の非番に、私とお試しでデートしていただけませんか」
鷹取は数秒固まった。
「……私でよろしいのですか」
「はい」
「“で”ではなく?」
高梨は少し困ったように笑った。
「そこは本当に反省しています」
*
お試しデートは、沼津で行われた。
高梨湊は、淡い色のワンピースに薄手のカーディガン。
いつもの制服姿より、さらに柔らかく見える。
鷹取は、休日なのにきっちりしすぎた服装だった。
待ち合わせ場所に現れた瞬間、高梨はにこりと笑った。
「鷹取さん」
「はい」
「休日の服装にも規律が出ていますねえ」
「褒めていますか」
「半分」
「残り半分は」
「少し硬いです」
「……努力します」
最初は、ぎこちなかった。
水族館を歩く。
深海魚の展示を見る。
鷹取が魚の分類を真面目に読み上げる。
高梨が「深海棲艦とは違いますねえ」と言う。
昼食は海鮮丼。
鷹取は店の混雑状況と提供速度を確認し、自然に座席位置を選んだ。
高梨がそれを見て、少し目を細めた。
「鷹取さん」
「はい」
「いま、出口と厨房動線を見ましたね」
「癖で」
「よい癖です」
「そうですか」
「はい。前は、前に出ることばかり考えていましたが、最近は退路を見るようになりましたね」
鷹取は少しだけ黙った。
「高梨一佐に、かなり刺されましたから」
「言葉で?」
「はい」
「痛かったですか」
「痛かったです」
高梨は微笑んだ。
「でも、腐らずに残りました」
「恥を教材にしろと言われましたので」
「よく覚えていますね」
「忘れられません」
そのあたりから、会話が変わった。
戦略。
補給。
撤退条件。
深海提督未来の指揮傾向。
アイの霊子干渉耐性。
結有の突撃欲をどう作戦に組み込むか。
神通の負担をどう減らすか。
那珂の士気維持能力を、定量評価できるか。
デートだった。
たぶん。
だが、話題は完全に作戦会議だった。
それなのに、二人は妙に楽しそうだった。
*
夕方。
海沿いの道を歩きながら、鷹取は言った。
「高梨一佐」
「はい」
「私は、あなたに惹かれているのか、それともあなたの戦略思想に心酔しているのか、少し判別がつきません」
高梨は足を止めた。
そして、ふっと笑った。
「かなり正直ですねえ」
「取り繕っても、あなたには見抜かれるでしょう」
「そうですねえ」
「否定しないのですね」
「はい」
高梨は海を見た。
「私も、鷹取さんを便利な盾くらいに見ていたかもしれません」
「最初の“鷹取でいいや”で、だいたいわかりました」
「本当にごめんなさい」
「傷つきました」
「はい」
「ですが、今日話してみて、あなたが私をただの再教育対象としてだけ見ていないことも、少しわかりました」
高梨は鷹取を見る。
「鷹取さんは、思ったより粘り強いですね」
「褒めていますか」
「かなり」
鷹取は少しだけ目を逸らした。
「それは、光栄です」
高梨は微笑んだ。
「もう少し、一緒に歩きますか」
「はい」
それは、かなり自然な返事だった。
*
翌朝。
富士田子の浦鎮守府は、妙な空気に包まれていた。
高梨湊が、朝帰りしたからである。
高梨は普段通りだった。
少し眠そうではある。
だが、服装も髪も整っている。
表情も穏やか。
鷹取も一緒だった。
こちらは明らかに緊張していた。
那珂が目を輝かせた。
「湊さん!」
「はい?」
「朝帰り!」
川内がにやにやしている。
「へえ。意外と早かったね」
大和は少し頬を赤くしながらも、静かに言った。
「お、お帰りなさいませ」
鷹取は直立した。
「誤解のないよう申し上げますが」
川内が笑う。
「何を誤解されたくないのかな?」
「宿泊先の都合で」
那珂が畳みかける。
「お泊まり!」
「ですから」
高梨がにこにこ言った。
「交際することになりました」
沈黙。
那珂が叫んだ。
「展開が早い!」
川内が吹き出した。
「お試しデートからそのまま本採用?」
「言い方が業務っぽいですねえ」
大和がほっとしたように微笑んだ。
「おめでとうございます」
鷹取は耳まで赤くなっていた。
「よろしくお願いします」
高梨はさらに続けた。
「それと、鷹取さんには富士田子の浦鎮守府へ異動していただきます。副官として」
鷹取が固まった。
「今、初めて聞きました」
「今、言いました」
「高梨一佐」
「はい」
「交際と人事が同時に来るのは、情報量が多すぎます」
「大丈夫です。人事手続きは通しています」
「そこは早い」
「仕事ですから」
川内が腹を抱えて笑った。
「湊らしい!」
那珂も笑いながら言う。
「副官兼彼氏だ!」
鷹取は真っ赤になった。
「その呼称はやめてください」
*
浜松鎮守府にその報告が来た時、結有は茶を吹きかけた。
「高梨さんと鷹取さんが!?」
アイが首を傾げる。
「鷹取、半分許した人」
「そう。その人」
「高梨の副官?」
「そう」
「交際?」
「そう」
「強い」
暁は目を丸くしている。
「お試しデートからお泊まり朝帰りで交際開始って、展開が早すぎない!?」
神通は静かにお茶を置いた。
「高梨提督らしいとも言えます」
「神通さん、そこ納得するんですか」
「高梨提督は、判断が早い方です」
最上が笑う。
「しかも副官に異動かあ。鷹取、逃げられないね」
夕立が言う。
「ぽいぽい副官っぽい!」
アイは少し考えた。
「鷹取、フォーク型から副官型」
「進化したね」
結有が言う。
神通が通信端末を開いた。
画面に高梨と鷹取が映る。
高梨はにこにこしている。
鷹取はやや硬い。
「高梨提督。おめでとうございます」
『ありがとうございます、神通』
暁が手を上げた。
「質問があります!」
『はい、暁さん』
「本当に“鷹取でいいや”から始まったんですか?」
鷹取の顔が痛そうになった。
高梨は少し反省した顔をした。
『そこは、私の失言です』
「傷ついた?」
アイが聞く。
鷹取は正直に答えた。
『傷ついた』
「でも、交際」
『そうなった』
「人間、難しい」
結有は笑いをこらえた。
「鷹取さん」
『何だ、各務原提督』
「高梨さん、怒らせると怖いですよ」
『知っている』
「なら大丈夫です」
『何がだ』
「たぶん全部」
鷹取は少しだけ苦笑した。
『君に言われるとはな』
「僕も高梨さんにかなり刺されてきたので」
『私もだ』
高梨は嬉しそうに言った。
『刺した甲斐がありましたねえ』
鷹取と結有は同時に言った。
「怖い」
『怖い』
高梨はにこにこしていた。
*
その日の富士田子の浦鎮守府非公式日誌には、こう記された。
『高梨湊一佐、お見合い攻勢に辟易』
『発言:鷹取さんでいいや』
『鷹取、傷つく』
『お試しデート実施』
『海鮮丼を食べながら補給と撤退条件で意気投合』
『そのままお泊まり朝帰り』
『交際開始』
『鷹取修平、富士田子の浦鎮守府副官へ異動』
『副官兼彼氏という呼称は本人が拒否』
『那珂、騒ぐ』
『川内、笑う』
『大和、祝福』
浜松鎮守府の非公式日誌には、こう追記された。
『鷹取、反省できるフォーク型から高梨副官型へ進化』
『アイ、半分許した相手をもう少し許すか検討中』
『暁、展開の速さに混乱』
『神通、高梨提督らしいと評価』
『結有、高梨さんと付き合うには胃が強くないと無理だと思う』
夜。
アイは結有の隣で言った。
「結有」
「何?」
「お試しデートとは」
「試しに一緒に出かけることかな」
「行く?」
「誰と?」
「私」
結有は少し固まった。
「アイと?」
「うん」
「僕ら、もうさわやか行ったよね」
「三時間半待った」
「それ、デートだったの?」
「高梨もいた」
「三人だったね」
「なら、次は二人」
結有は顔を赤くした。
「……考えておく」
アイは袖をつまんだ。
「保留?」
「保留」
「嫁も保留」
「そこに並べる?」
アイは真面目にうなずいた。
「重要案件」
結有は笑った。
富士田子の浦で、高梨湊と鷹取修平の新しい関係が始まった。
戦争は続いている。
未来はまだ深海にいる。
大貫のいない本部は、まだ痛みの中にある。
それでも、人は誰かと食事をし、話し、傷つき、少し意気投合して、朝帰りして、交際を始めたりする。
世界は滅びかけても、案外そういう形で続いていくのかもしれなかった。