各務原結有にとって、梶本真太は師匠だった。
父とは違う。
父、各務原裕二は、戦場の身体の使い方を教えた。
倒れないこと。
迷わないこと。
背後を取られたら反応すること。
梶本真太は、リングの上で前に立つことを教えた。
踏み込み。
蹴り。
受け身。
倒れても立つこと。
痛くても目を逸らさないこと。
そして、拳や足は相手を壊すためだけにあるのではないということ。
梶本は理不尽だった。
声が大きく、蹴りが重く、練習が長い。
結有が中学生の頃、初めてミットを蹴った時、梶本は笑って言った。
『お前、いい足してんな。だが心が前に出すぎだ。足より先に心が突っ込むやつは、いつか派手に転ぶぞ』
その言葉は、今でも結有の中に残っている。
なお、結有はその後も派手に突っ込み続けた。
*
梶本真太が復帰する。
その知らせを聞いた時、結有は思わず立ち上がった。
「武道館?」
高梨湊が通信越しにうなずく。
『はい。招待券があります。結有ちゃん、行きますか?』
「行きます」
即答だった。
アイが隣で聞く。
「梶本?」
「僕の格闘術の師匠」
「強い?」
「強い」
「裕二より?」
「方向が違う」
「見たい」
結有は少し困った顔をした。
「今回は、高梨さんと行く約束なんだ」
アイはじっと見る。
「デート?」
「違う」
「お試し?」
「違う」
「湊は鷹取と交際」
「そういう話じゃない」
高梨は画面の向こうでにこにこしていた。
『アイさんも来たいなら、次は一緒に行きましょうね』
「次」
アイは納得したようにうなずいた。
「なら、今回は待つ」
暁が横から言う。
「結有さん、高梨さんをからかいすぎないのよ」
「からかわないよ」
神通が静かに見た。
「本当に?」
「少し」
「少し」
*
日本武道館。
結有は、久しぶりに戦場ではない熱気を浴びた。
人の声。
照明。
入場曲。
リング。
歓声。
拍手。
深海棲艦も艦娘もいない。
ただ、人が人を見る場所だった。
隣には高梨湊がいる。
私服姿の高梨は、いつものゆるふわお姉さん感がさらに強い。
だが、結有はもう知っている。
この人は、笑顔で戦略を切り刻む人だ。
「高梨さん」
「はい?」
「鷹取さんとは、その後どうなんですか」
高梨は微笑んだ。
「順調ですよお」
「お泊まり朝帰りから交際開始って、かなり早かったですよね」
「相性確認が早かっただけです」
「相性確認」
結有は少しにやっとした。
「性交渉とかしたんですか?」
高梨は湯呑みを持っていなかった。
持っていたら、たぶん止まっていた。
彼女はにこりと笑った。
「結有ちゃん」
「はい」
「そういう話題は、相手との距離感と場所を考えて振りましょうね」
「怒ってます?」
「少し」
「すみません」
「あと、神通に報告します」
「それはやめてください」
「検討します」
「それ、やめないやつ」
高梨は楽しそうに笑った。
結有も笑った。
その時、会場が暗くなった。
入場曲が流れる。
梶本真太が出てきた。
年齢を重ねていた。
以前より動きは重い。
体も少し丸くなった。
でも、目は変わっていない。
リングへ向かう梶本は、昔と同じように前を見ていた。
結有は立ち上がった。
「師匠!」
声が届いたかはわからない。
だが、梶本が一瞬だけこちらを見た気がした。
*
試合は、最初から熱かった。
梶本は昔のようには動けない。
それでも、重い蹴りは健在だった。
相手の胸板に叩き込まれるたび、会場が揺れる。
結有は拳を握っていた。
「あれ、教わったやつだ」
高梨が横で言う。
「結有ちゃんの蹴りに似ていますね」
「逆です。僕が師匠に似てるんです」
「そうですね」
高梨は優しく言った。
中盤、梶本は大きな技を受けた。
リングに叩きつけられる。
受け身。
結有は、それを何度も見てきた。
受け身が取れれば立てる。
受け身が取れれば、痛くても続く。
だが、その瞬間。
何かが違った。
音が、嫌だった。
梶本の身体が、不自然に止まった。
会場の歓声が、一拍遅れてざわめきに変わる。
レフェリーが駆け寄る。
相手選手の顔色が変わる。
リングサイドの医師が飛び込む。
結有は立ち上がっていた。
「師匠?」
声が出た。
高梨の表情が変わる。
彼女はすぐに状況を理解した顔をした。
「結有ちゃん、待って」
結有は聞いていなかった。
通路へ出ようとする。
係員が止める。
「関係者以外は」
「僕は」
言葉が出ない。
弟子です。
そう言えば通してくれるのか。
わからない。
リング上で、梶本は動かなかった。
医師たちの動きが、どんどん深刻になっていく。
高梨が結有の肩を掴んだ。
「結有ちゃん」
「高梨さん」
「見て」
「嫌です」
「見て」
その声は、厳しかった。
「あなたの師匠でしょう」
結有は、震える息を吸った。
リングを見た。
梶本真太は、もう立ち上がらなかった。
*
発表は、試合中止の後だった。
頸髄離断。
救命措置は行われた。
だが、梶本真太は帰らなかった。
日本武道館の喧騒は、遠くなっていた。
結有は控室の前の廊下で、壁に背を預けて座り込んでいた。
高梨が隣にいる。
何も言わない。
こういう時、高梨は下手に慰めない。
結有は、自分の手を見ていた。
拳。
師匠に教わった手。
深海棲艦を殴れる手。
誰かを守るためにあると思ってきた手。
その師匠が、リングで死んだ。
「受け身」
結有はつぶやいた。
「受け身、失敗した」
高梨は静かに聞いている。
「師匠、僕にあれだけ言ってたのに。受け身を雑にするなって。倒れる練習をしろって。立つために倒れろって」
声が震える。
「なんで」
高梨は答えなかった。
答えられる問いではなかった。
結有は、壁に額をつけた。
「なんで、目の前で」
*
葬儀は、数日後に行われた。
梶本真太らしい葬儀だった。
リング関係者。
弟子たち。
昔の仲間。
ファン。
家族。
そして、結有。
高梨も来ていた。
神通も、暁も、アイも浜松から来た。
裕二もいた。
黒い喪服の裕二は、いつもの鬼の気配を少しだけ抑えていた。
結有は、遺族から告げられた。
『梶本が、生前に言っていました。自分の棺桶は、弟子たちにも持ってほしいと』
結有は黙ってうなずいた。
出棺。
棺を持つ。
重かった。
物理的な重さ以上に、重かった。
結有は歯を食いしばった。
泣かなかった。
泣けなかった。
隣で、別の弟子が嗚咽している。
誰かが「ありがとう」と言っている。
誰かが泣きながら拍手している。
結有は棺を持った。
師匠の遺言通りに。
最後まで。
*
葬儀が終わった後、結有は外へ出た。
空は曇っていた。
人が少しずつ帰っていく。
高梨は遺族へ挨拶している。
神通は遠くで裕二と短く話している。
暁は泣きすぎて目を赤くしていた。
アイが、結有の隣に来た。
「結有」
「うん」
「泣かないの」
「泣かない」
「嘘」
「泣けない」
アイは結有を見た。
結有の顔は、ひどく静かだった。
静かすぎた。
アイは何も言わず、結有の手を取った。
冷たい手だった。
結有はそれを見た。
「アイ」
「何」
「師匠、死んだ」
「うん」
「目の前で」
「うん」
「受け身、失敗して」
「うん」
「僕、何もできなかった」
声が割れた。
アイは結有の前に立った。
そして、抱きしめた。
結有は最初、動かなかった。
それから、ゆっくりとアイの背に手を回した。
「アイ」
「いる」
「師匠が」
「うん」
「師匠が、いない」
「うん」
その瞬間、結有の中で何かが崩れた。
声が出た。
叫びに近かった。
葬儀場の外で、各務原結有は泣いた。
母の時雨を失った時も。
大貫が討たれた時も。
怒りや痛みを、どこかで拳に変えてきた。
でも、今は拳にならなかった。
ただ、泣いた。
アイに抱きしめられながら。
喉が裂けるように。
胸が壊れるように。
子供のように。
高梨は遠くでそれを見ていた。
神通も見ていた。
裕二は、目を閉じていた。
誰も止めなかった。
*
夜。
浜松へ戻った結有は、談話室でぼんやり座っていた。
アイは隣にいる。
袖ではなく、手を握っていた。
神通が静かにお茶を置く。
「各務原提督」
「はい」
「しばらく訓練は軽くします」
「大丈夫です」
「大丈夫ではありません」
結有は黙った。
神通は続ける。
「悲しみを、すぐ拳に変えないでください」
その言葉が、深く入った。
結有は小さくうなずいた。
「はい」
アイが言う。
「拳は、後」
「うん」
「今は泣く」
「うん」
「泣いて、食べて、寝る」
「アイ、すごくまとも」
「高梨が言ってた。補給」
結有は少しだけ笑った。
すぐに涙が出た。
アイはまた抱きしめた。
*
その日の浜松鎮守府非公式日誌には、短く書かれた。
『梶本真太、復帰試合中の事故により逝去』
『結有、高梨湊と武道館で目撃』
『葬儀にて、遺言通り結有が棺を持つ』
『結有、アイに抱きしめられながら慟哭』
『神通、しばらく訓練軽減を決定』
『アイ、泣いて、食べて、寝ると指示』
最後に、誰かが追記した。
『拳にする前に、悲しみは悲しみとして抱えること』
結有はその一文を読まなかった。
まだ読めなかった。
ただ、アイの手を握っていた。
梶本真太は帰らなかった。
でも、彼が教えたものは、結有の中に残っている。
踏み込み。
蹴り。
受け身。
倒れても立つこと。
そして。
立つためには、倒れた痛みをなかったことにしてはいけないということ。
結有は、その夜、泣き疲れて眠った。
アイは朝まで、手を離さなかった。