未来の攻撃は、名古屋から始まった。
午前五時二十二分。
伊勢湾外縁に、深海反応多数。
最初の報告では、駆逐級と軽巡級の混成部隊とされた。
だが、五分後には重巡級が確認される。
さらに十分後、戦艦級らしき反応が複数。
名古屋方面の警報が一斉に鳴った。
港湾施設。
工業地帯。
輸送拠点。
避難誘導経路。
すべてが、急に戦場へ変わった。
浜松鎮守府の管制室にも、その情報はすぐに届いた。
「名古屋、深海主力級の攻撃を受けています!」
通信士の声が硬い。
結有は海図を見た。
赤い点が、伊勢湾周辺に広がっている。
「未来ですか」
神通は静かに答えた。
「可能性が高いです」
アイは海図を見ていた。
「指揮されてる」
「わかる?」
「うん。深海が、待ってる。押して、止まって、また押す」
最上が眉をひそめる。
「ただの襲撃じゃないね。こっちの増援を呼び込む動きだ」
暁が拳を握った。
「名古屋を助けに行かないと!」
その時、富士田子の浦から通信が入った。
画面に高梨湊が映る。
顔色は悪い。
だが、目は冷静だった。
『浜松、聞こえますか』
「聞こえています」
神通が応じる。
『静岡県内各鎮守府へ、即応準備。ただし、全戦力を名古屋へ向けないでください』
暁が驚いた。
「どうしてですか!?」
高梨は答えなかった。
代わりに、海図を表示する。
『名古屋の深海反応は大規模です。ですが、少し派手すぎます』
結有は息を呑んだ。
「派手すぎる」
『はい。未来なら、もっと効率よく港湾機能を殺せます。なのに、あえて見えるように大きく動いている』
神通が目を細めた。
「陽動」
『そう見ています』
部屋が静かになった。
名古屋が攻撃されている。
それが陽動。
言葉にすると簡単だ。
だが、その下には人がいる。
港で働く人。
避難する人。
迎撃している艦娘。
現地の提督。
まだ逃げ遅れた民間人。
それを陽動と呼ぶことの重さを、誰もが感じていた。
高梨は続けた。
『未来の真の目標を探します』
「東京ですか」
結有が言った。
高梨はうなずいた。
『東京湾。東京中枢。そして、おそらく皇居』
管制室が凍った。
暁が小さく言う。
「皇居……」
神通の声が硬くなる。
「国家中枢を再び狙う」
『市ヶ谷で大貫本部長を討ちました。次に未来が狙うなら、象徴と統治中枢を同時に揺さぶる場所です』
高梨の声は静かだった。
『名古屋へ静岡連合艦隊を全投入すれば、東京湾防衛が薄くなります。未来はそれを待っている』
結有は拳を握った。
「でも、名古屋は」
『はい』
高梨は言った。
『名古屋は、今、攻撃されています』
その声に、ほんの少しだけ痛みがあった。
*
緊急戦略会議が開かれた。
浜松。
富士田子の浦。
沼津。
焼津。
清水。
伊豆方面。
そして新本部長、各務原裕二陸将補。
通信画面が並ぶ。
各地の提督たちは、名古屋救援を主張した。
『現に攻撃されているのは名古屋です』
『東京湾が狙いという根拠は』
『名古屋を見捨てるのか』
『現地戦力だけでは支えきれない』
『民間被害が出るぞ』
高梨は黙って聞いていた。
結有は、画面の中の高梨を見ていた。
この人は今、痛い判断をしている。
それがわかった。
裕二が低く言う。
『高梨一佐。判断を』
高梨は目を閉じた。
ほんの一秒。
そして開いた。
『静岡連合艦隊主力は、東京湾へ向かいます』
会議がざわついた。
『名古屋はどうする!』
『現有戦力で支えていただきます』
高梨の声は震えなかった。
『周辺からは、機動力の高い小部隊と救助支援のみを送ります。主力は送りません』
『見捨てるのか!』
誰かが叫んだ。
高梨の表情が、わずかに歪んだ。
だが、答えた。
『はい』
その一言で、会議が止まった。
『名古屋を、現有戦力で実質見捨てます』
結有は息を止めた。
高梨は続けた。
『ただし、捨てるのではありません。全てを救えない状況で、何を守るかを選びます。名古屋救援に主力を投じれば、東京中枢と皇居が空きます。そこを未来に突かれれば、国家機能と民心が同時に折られる』
『推測だろう!』
『はい。推測です』
高梨は即答した。
『ですが、未来の目的、過去の市ヶ谷急襲、現在の名古屋攻撃の派手さ、深海反応の配置。総合すれば、東京湾が本命です』
裕二が画面の向こうで目を閉じた。
『各務原本部長』
高梨が呼ぶ。
『責任は私が』
『いや』
裕二は遮った。
『責任は本部長である俺が持つ。高梨一佐、作戦指揮を継続しろ』
高梨の目が少し揺れた。
『了解』
裕二は全体へ告げた。
『静岡連合艦隊主力は東京湾へ。名古屋方面には、現有戦力維持、救助優先、遅滞戦闘。各鎮守府は高梨一佐の指揮に従え』
反論はあった。
怒声もあった。
だが、命令は下った。
*
浜松鎮守府の出撃準備は、重かった。
結有は高速艇の前に立っていた。
アイは専用艤装を装着している。
神通は艤装を展開済み。
暁は避難支援班の準備をしている。
「僕たちは東京湾ですか」
結有が聞く。
神通はうなずく。
「はい。浜松主力は東京湾へ。名古屋へは最上さんと夕立さんが救助支援に向かいます」
暁が唇を噛む。
「名古屋に行かなくていいの?」
「行きたいです」
神通は答えた。
「ですが、行きたい場所と行くべき場所が違うことがあります」
アイが静かに言う。
「高梨、痛い判断」
「うん」
結有は拳を握った。
名古屋へ行きたい。
今、攻撃されている場所へ。
目の前で苦しんでいる人のところへ。
でも、それが未来の狙いなら。
未来が、その怒りと焦りを待っているなら。
「未来さん、嫌なことするな」
結有が言う。
アイがうなずく。
「言葉で引っ張る。戦場でも引っ張る」
「うん」
神通が言った。
「各務原提督。今必要なのは、怒りで飛ぶことではありません」
「はい」
「東京湾で、未来の本命を止めることです」
「はい」
結有は高速艇に乗った。
胸の奥が熱い。
でも、その熱を拳にしない。
今日は、意志を整える。
「行こう、アイ」
「うん」
「帰るために」
「守るために」
神通が短く言う。
「出撃します」
*
名古屋は燃えていた。
伊勢湾の海面に黒い泡が浮かび、港湾設備から煙が上がる。
現地の艦娘たちが必死に防衛線を張っている。
増援は少ない。
来るのは救助艇、応急修理班、機動力の高い小部隊だけ。
現地の提督は叫んだ。
「主力はまだか!」
答えは来ない。
代わりに、通信が入る。
『こちら富士田子の浦、高梨湊』
「高梨一佐! 主力を!」
『送れません』
「なぜ!」
『東京湾が本命です』
「名古屋が落ちるぞ!」
『落とさせないための支援は送っています。ですが、主力は送れません』
「見捨てるのか!」
通信の向こうで、高梨は少しだけ黙った。
『はい』
現地提督は絶句した。
『あなた方に、残れと言っています。支えろと言っています。酷い命令です』
「……」
『それでもお願いします。名古屋を一分でも長く支えてください。その一分で、東京湾を守ります』
現地提督は歯を食いしばった。
「恨みますよ」
『はい』
「それでも、やれと」
『はい』
沈黙。
そして、現地提督は言った。
「了解。名古屋、現有戦力で持ちこたえます」
高梨は目を閉じた。
『ありがとうございます』
*
東京湾。
最初は、静かだった。
静かすぎた。
それが逆に、不自然だった。
静岡連合艦隊主力が湾外に展開する。
大和。
神通。
川内。
那珂。
浜松の艦娘たち。
富士田子の浦の部隊。
各鎮守府から集められた防衛戦力。
結有とアイも、東京湾防衛線に入る。
高梨の指示が通信に流れる。
『大和さん、湾口後方で待機。撃つのは見えてからではなく、私が指示してから。神通、中央。川内さん、夜戦装備ではなく機動迎撃。那珂ちゃん、通信統制。結有ちゃんとアイさんは、第二防衛線』
結有が応じる。
「了解」
アイも言う。
「了解」
高梨の声は、いつもより低い。
『未来は、こちらが名古屋へ行かなかったことに気づいています。なら、別の手を打ってくる』
その瞬間。
東京湾の海面が割れた。
黒い霧が、一気に噴き上がる。
湾外ではない。
湾内に近い。
隠蔽されていた深海反応が、同時に立ち上がった。
通信士が叫ぶ。
『深海反応多数! 湾内側! 皇居方面への進路を取っています!』
結有は息を呑んだ。
「本当に」
アイが言う。
「本命」
高梨は一瞬だけ目を閉じた。
そして開く。
『全艦、迎撃開始。東京中枢へは一隻も通しません』
大和の砲塔が動く。
神通が海面を蹴る。
川内が笑みを消して駆ける。
那珂が叫ぶ。
『通信、那珂ちゃんに任せて! 全員、落ち着いて!』
結有は高速艇を走らせた。
未来の狙いは、名古屋ではなかった。
東京中枢。
皇居。
国家の象徴と心臓。
そこへ向かう深海の黒い群れ。
止めるしかない。
*
未来は、黒い霧の向こうに立っていた。
海面の上。
東京湾を背に。
通信が開く。
『湊』
未来の声。
高梨は答えた。
「未来」
『名古屋を見捨てたのね』
「現有戦力に託しました」
『言い方が上手い』
「あなたほどではありません」
『痛かった?』
未来は優しく聞いた。
『名古屋を助けたいでしょう。今すぐ行きたいでしょう。泣き叫ぶ人がいる。燃える港がある。あなたは、それを見て東京へ来た』
高梨の手が震えた。
鷹取が副官席で気づく。
「高梨一佐」
高梨は短く言った。
「大丈夫です」
未来は続ける。
『これがあなたの帰り道? 誰かの帰る場所を捨てて、別の帰る場所を守る。美しいわね』
高梨の目が鋭くなる。
「未来」
『何?』
「あなたは、名古屋を駒にした」
『戦争ですもの』
「そう。戦争です」
高梨の声が低くなる。
「だから、私はあなたを止めます」
『名古屋を捨てて?』
「名古屋を背負って」
未来の笑みが、一瞬止まった。
高梨は言った。
「私が今日選んだものは、消えません。名古屋で失われるものも、恨みも、痛みも、全部背負います。その上で、東京湾を守ります」
『強がり』
「はい」
高梨は認めた。
「強がらなければ、指揮官などできません」
鷹取が高梨を見た。
高梨は震えている。
だが、戻っている。
怒りに呑まれていない。
未来は小さく笑った。
『なら、見せて。湊。あなたの帰り道が、どれだけの死体の上に伸びるのか』
「その言葉」
高梨の声が冷えた。
「後で後悔させます」
*
東京湾防衛戦は、激しかった。
深海棲艦は二段構えだった。
名古屋で主力に見せた部隊。
東京湾で本命として隠していた機動部隊。
未来の指揮は鋭い。
こちらの砲撃範囲を読み、撤退線を潰そうとし、皇居方向への突破路を作ろうとする。
だが、高梨は読んでいた。
『大和さん、今です』
大和の主砲が火を噴く。
湾内へ入りかけた戦艦級の進路が断たれる。
『神通、中央を閉じて。結有ちゃん、アイさん、第二線へ抜ける軽巡級を止めて』
「了解!」
「了解」
結有は高速艇を走らせる。
アイが横を滑る。
軽巡級深海棲艦が皇居方向へ向かう。
「アイ、足を止めて!」
「がうがう」
短い連射。
敵の砲塔が砕ける。
結有は飛びたくなる。
近い。
行ける。
蹴れる。
だが、飛ばない。
「神通さん、僕が引きます!」
『許可します。飛ばない範囲で』
「はい!」
高速艇が敵の前を横切る。
敵が結有を狙う。
その隙にアイのろングが低く唸る。
「撃つ」
レールキャノンが敵の脚部を貫いた。
神通の砲撃がとどめを刺す。
結有は息を吐いた。
「帰るために」
アイが言う。
「守るために」
*
戦闘は三時間続いた。
名古屋からは、苦しい報告が届き続けた。
港湾施設損傷。
艦娘複数中破。
民間被害あり。
避難進行中。
防衛線、後退。
そのたびに、高梨の顔から色が少しずつ消えた。
それでも、指揮は乱れなかった。
東京湾の深海部隊は、ついに突破できなかった。
未来は撤退を選んだ。
黒い霧の中へ、深海棲艦が下がっていく。
『湊』
未来の声。
『今日はあなたの勝ちね』
「勝ちではありません」
『東京は守った』
「名古屋が燃えました」
『では、何?』
高梨は答えた。
「今日のこれは、負けなかっただけです」
未来は少し黙った。
『あなたらしい』
「あなたは逃がしません」
『今日は逃げるわ』
「次は」
『次も、あなたに選ばせる』
通信が切れた。
*
戦闘後。
高梨は指揮席に座ったまま、しばらく動かなかった。
鷹取がそっと声をかける。
「高梨一佐」
「名古屋の被害報告を」
「今は休んでください」
「報告を」
鷹取は唇を噛んだ。
「了解」
報告が届く。
死者。
負傷者。
損傷艦。
焼けた港。
守られた避難経路。
現有戦力で踏ん張った提督たち。
高梨はすべて聞いた。
途中で一度だけ、目を閉じた。
涙は流さなかった。
結有は、浜松への帰投前に通信をつないだ。
「高梨さん」
『はい』
「名古屋、僕も行きたかったです」
『はい』
「でも、東京湾に来てよかったんですよね」
高梨は、すぐには答えなかった。
『よかった、とは言いたくありません』
「はい」
『でも、必要でした』
結有はうなずいた。
「なら、覚えておきます」
『何を?』
「名古屋を背負って東京を守った日」
高梨の目が少し揺れた。
『重いですよ』
「はい」
『結有ちゃんには、まだ早いかもしれません』
「でも、提督ですから」
高梨は、少しだけ笑った。
悲しそうな笑みだった。
『そうですね』
アイが横から言った。
「高梨」
『はい、アイさん』
「帰る場所、全部は守れない?」
高梨は静かに答えた。
『守れない日があります』
「その時は?」
『忘れない』
アイはうなずいた。
「なら、名古屋も帰る場所」
『はい』
「燃えても?」
『はい』
「なら、直す」
高梨は目を閉じた。
『はい。直しましょう』
*
その日の公式記録には、こう残された。
『深海提督高梨未来、名古屋方面へ大規模陽動攻撃を実施。同時に東京湾内へ隠密侵攻部隊を投入。真の狙いは東京中枢および皇居と推定。高梨湊一佐の判断により、静岡連合艦隊主力を東京湾へ集中。名古屋方面は現有戦力による防衛および救助支援に留めた。結果、東京湾突破を阻止。名古屋方面には大きな被害』
非公式日誌には、もっと短く書かれた。
『未来、名古屋を大規模陽動として急襲』
『湊、名古屋を現有戦力で実質見捨てる判断』
『静岡連合艦隊主力、東京湾へ』
『未来の狙いは東京中枢と皇居』
『東京湾防衛成功』
『名古屋、被害甚大』
『湊、名古屋を背負って東京を守る』
『結有、必要な判断の重さを知る』
『アイ、燃えても帰る場所なら直すと言う』
最後に、誰かが追記した。
『全てを救えない日に、何を捨てたかを忘れないこと』
結有はその一文を見て、しばらく動けなかった。
提督という肩書きは、重い。
前に出るより。
殴るより。
飛び蹴りするより。
選ぶことの方が、ずっと重い。
その日、結有は少しだけ高梨湊の怖さを理解した。
そして、未来の恐ろしさも。
未来は深海棲艦をぶつけてくるだけではない。
こちらに選ばせる。
どこを救うか。
どこを捨てるか。
何を背負うか。
それが、深海提督の戦い方だった。