名古屋市は、壊滅した。
その言葉は、最初、誰も使いたがらなかった。
大規模被害。
都市機能の重大な損傷。
広域災害。
深海棲艦による都市圏攻撃。
報告書には、いくつもの言い換えが並んだ。
だが、現地を見た者は、最後に同じ言葉へ戻った。
壊滅。
港湾施設は焼け、道路は寸断され、避難所は足りず、通信は断続的にしかつながらない。
市中心部にも被害が及び、庁舎機能はほとんど麻痺した。
死傷率、八割。
市長以下、主要幹部は全滅。
名古屋市という巨大な自治体は、一夜で頭脳と手足の大半を失った。
*
高梨湊の判断により、静岡連合艦隊主力は東京湾へ向かった。
結果、東京中枢と皇居への深海侵攻は阻止された。
戦略的には、正しかった。
誰もがそれを理解していた。
だが、名古屋にいた者たちにとって、その正しさは何の慰めにもならなかった。
現有戦力で持ちこたえろ。
名古屋の提督たちは、その命令に従った。
艦娘たちは、燃える港の前で踏みとどまった。
市職員たちは、庁舎が揺れる中で避難誘導を続けた。
消防、警察、自衛隊、医療班、民間協力者。
誰もが、足りない手で、足りない時間を支えた。
そして、足りなかった。
*
名古屋市役所の臨時対策本部は、崩れた庁舎ではなく、被害を免れた郊外の体育館に置かれた。
そこへ、ひとりの男が入ってきた。
村河隆史。
元名古屋市長。
現職の衆議院議員。
年を取っていた。
だが、声はまだ大きかった。
「生きとる職員を全員集めやあ」
最初の一言が、それだった。
周囲の職員たちは、呆然としていた。
指揮系統は崩れている。
市長はいない。
副市長もいない。
局長級も、ほとんどいない。
誰が何を決めるのか。
誰もわからなかった。
村河は、机を叩いた。
「泣くのは後だぎゃ。名古屋はまだ死んどらん」
その声で、何人かが顔を上げた。
「国とは話をつける。県とも話す。艦娘本部とも話す。わしが市長に戻る。文句は後で言え。今は人を助ける」
誰かが震える声で言った。
「村河先生、市長は」
「死んだ」
村河は言った。
逃げなかった。
「市長は死んだ。副市長も死んだ。幹部も死んだ。だから、今ここにおる者でやる」
体育館が静かになる。
「名簿を作れ。生きとる職員。動ける職員。怪我しとる職員。家族を失った職員。全部だ」
彼は周囲を見回した。
「避難所、医療、遺体収容、上下水道、食料、福祉、孤立地域、子供、高齢者、障害者。担当を立て直す。役職が足りん? なら今ここで作る」
その場にいた若い職員が、泣きながら端末を開いた。
名古屋市は、灰の中で再起動を始めた。
*
福祉課は、ほとんど壊れていた。
課長は死亡。
係長も死亡。
ベテラン職員の多くが、避難誘導中に巻き込まれた。
残ったのは、数名の若手と、応援に来た他部署の職員。
その中に、新人職員がいた。
名は、佐伯真帆。
採用二年目。
本来なら、まだ上司の指示で窓口対応や書類整理を覚えている時期だった。
その佐伯の前に、村河が立った。
「お前さん、福祉課か」
「は、はい」
「上は」
佐伯は答えられなかった。
目が赤い。
村河は少しだけ声を落とした。
「そうか」
「私、まだ新人で」
「名前は」
「佐伯真帆です」
「佐伯。今日からお前さんが福祉課を背負え」
佐伯は固まった。
「無理です」
「無理でもやる」
「できません」
「できるように周りをつける。だが、福祉のことを知っとる生き残りはお前さんだ」
「でも、私、まだ」
「まだ、で人は待ってくれん」
村河は体育館の隅を指した。
高齢者が毛布にくるまっている。
車椅子の人がいる。
薬を失った人がいる。
親とはぐれた子供がいる。
避難所で声を上げられない人たちがいる。
「書類の上では新人でも、あの人らには今、福祉課が要る」
佐伯の手が震えた。
「私が失敗したら」
「わしが責任を取る」
村河は即答した。
「お前さんは背負え。責任はわしが持つ。だから動け」
佐伯は、泣きそうな顔で敬礼しようとして、途中でやめた。
市職員に敬礼の習慣はない。
代わりに、深く頭を下げた。
「やります」
「よし」
村河は大声を上げた。
「誰か! 佐伯の下につけ! 福祉課を立て直す!」
*
福祉課の再編は、机一つから始まった。
紙。
端末。
ホワイトボード。
避難所一覧。
要支援者名簿。
薬が必要な人。
介護が必要な人。
人工透析。
妊婦。
乳幼児。
障害者。
身寄りのない高齢者。
家族を失った子供。
情報は、壊れていた。
同じ人が二重に載っている。
必要な人が載っていない。
避難所名が古い。
通信がつながらない。
佐伯は泣く暇もなく、線を引いた。
「この避難所に、介護職の応援を」
「薬のリストを医療班へ」
「この人、昨日移送済みです。二重登録を消してください」
「子供だけでいる避難者は、児童相談系の応援へ」
「福祉車両、動くもの全部確認してください」
「電源が必要な人を優先して、発電機のある避難所へ」
声は震えていた。
それでも、指示になっていた。
周囲の職員たちが動き始める。
誰かが言った。
「佐伯さん、次は」
佐伯は一瞬だけ止まった。
自分が呼ばれている。
上司ではなく、自分が。
怖かった。
でも、村河の声が頭に残っていた。
まだ、で人は待ってくれん。
「次は、独居高齢者の安否確認です」
佐伯は言った。
「消防と自治会の生存者に協力を。あと、艦娘本部の輸送支援が使えるか確認してください」
*
名古屋の惨状は、浜松にも届いた。
結有は報告を読んで、言葉を失った。
死傷率八割。
市長以下幹部全滅。
村河隆史、緊急的に市長へ復帰。
福祉課、新人職員が実務指揮。
アイが横から見る。
「名古屋、壊れた」
「うん」
「高梨、苦しい?」
「すごく」
結有は端末を握った。
自分たちは東京湾へ行った。
それで東京は守られた。
だが、名古屋は壊れた。
どちらかを選んだ結果。
神通が静かに言った。
「各務原提督」
「はい」
「これは、背負うものです」
「はい」
「ただし、潰れるためではありません」
結有は顔を上げた。
「助けるためです」
神通は続けた。
「名古屋はまだ終わっていません。復興支援、避難者支援、輸送、医療。できることがあります」
アイが言う。
「直す」
「うん」
結有はうなずいた。
「直す」
*
高梨湊は、名古屋の臨時対策本部へ通信を入れた。
画面に映った村河は、疲れ切っていた。
だが、目は死んでいない。
『高梨一佐か』
「村河市長」
『まだ正式には市長に戻ったばかりだがな』
「名古屋への主力救援を送れなかったことを」
『謝るな』
村河は遮った。
『謝られたら、こっちは怒れんくなる』
高梨は言葉を失った。
村河は続ける。
『怒っとる。わしは怒っとるぞ。名古屋は焼けた。人も死んだ。市長も幹部も死んだ。あんたの判断で助かった命もあるだろうが、助からんかった命もある』
「はい」
『だから、謝罪は後だ。今は物資を寄越せ。人を寄越せ。福祉車両、医薬品、仮設トイレ、発電機、通信機、事務屋。謝罪より先に、復興の弾を寄越せ』
高梨の目が少し揺れた。
「送ります」
『よし』
「名古屋は」
『死んどらん』
村河は言った。
『壊れたが、死んどらん。わしらが死なせん』
通信が切れた後、高梨はしばらく黙っていた。
隣にいた鷹取が言う。
「高梨一佐」
「はい」
「物資リスト、作成済みです」
高梨は彼を見た。
鷹取は端末を差し出す。
「福祉、医療、電源、通信を優先。浜松、富士田子の浦、沼津から出せる分を仮計算しました」
高梨は端末を受け取った。
「ありがとう」
「副官ですから」
高梨は少しだけ微笑んだ。
「では、送ります。謝罪より先に、復興の弾を」
*
その日の公式記録には、こう記された。
『名古屋市、深海棲艦による大規模攻撃により壊滅的被害。死傷率八割。市長以下主要幹部全滅。元名古屋市長・村河隆史衆議院議員が緊急的に市長職へ復帰し、復興指揮を開始。行政機能は生存職員を中心に再編。福祉課は新人職員佐伯真帆を中心に暫定再建』
非公式日誌には、こう書かれた。
『名古屋、壊滅』
『村河隆史、名古屋市長へ返り咲き』
『第一声:生きとる職員を全員集めやあ』
『新人福祉課職員、佐伯真帆が福祉課を背負う』
『村河発言:まだ、で人は待ってくれん』
『高梨、謝罪より先に物資を求められる』
『鷹取、復興支援物資リストを即時作成』
『結有とアイ、名古屋を直すと決める』
最後に、誰かが追記した。
『都市は建物ではなく、人が諦めた時に死ぬ』
名古屋は、まだ死んでいなかった。
灰の中で、村河が怒鳴っている。
体育館の机で、佐伯が名簿を直している。
避難所で、誰かが誰かの名前を呼んでいる。
燃え残った街で、まだ人が立っている。
高梨湊は、その報告を読み、静かに目を閉じた。
そして、次の輸送計画を書き始めた。
東京を守った判断の代償を、名古屋の復興で少しでも返すために。