高梨湊は、名古屋壊滅の報告書を毎日読んでいた。
死傷者数。
避難所別の収容状況。
医療物資の不足。
福祉課の再編状況。
村河隆史市長からの要請。
佐伯真帆がまとめた要支援者リスト。
読むたびに、少しずつ顔色が悪くなる。
それでも高梨は、いつものように微笑んだ。
「次の輸送便は、発電機と医薬品を優先しましょう」
副官席の鷹取修平は、黙ってうなずいた。
「了解しました」
彼はもう知っている。
高梨湊の笑顔には、種類がある。
相手を安心させる笑顔。
相手を逃がさない笑顔。
怒りを隠す笑顔。
痛みを隠す笑顔。
今の笑顔は、最後のものだった。
*
その日の午後、富士田子の浦鎮守府の広報端末に、警告が上がった。
SNS上で、高梨湊の名前が急激に増えている。
最初は、名古屋壊滅に関する議論だった。
『なぜ名古屋に主力を送らなかった』
『東京を守るために名古屋を捨てた』
『高梨湊の判断ミス』
『名古屋壊滅の原因』
『机上の戦略家が都市を殺した』
そこまでは、まだ批判だった。
しかし、すぐに中傷へ変わった。
『名古屋を見捨てた女』
『冷血提督』
『自分の姉との因縁で判断を誤った』
『高梨湊を裁け』
『死んだ人たちに謝れ』
『名古屋壊滅の原因』
鷹取は、画面を見た瞬間、息を止めた。
高梨は隣で端末を見ていた。
表情は変わらない。
「広報に、過剰反応しないよう伝えてください」
声も静かだった。
「事実関係の説明だけでよいです。名古屋支援の実績、東京湾防衛の記録、未来の陽動作戦の分析。感情的な反論は避けましょう」
鷹取は高梨を見た。
「高梨一佐」
「はい」
「あなたは」
「私は大丈夫です」
即答だった。
鷹取は、その即答が嫌だった。
「大丈夫ではないでしょう」
高梨は少しだけ笑った。
「鷹取さん」
「はい」
「私は指揮官です。批判される立場です」
「批判と中傷は違います」
「わかっています」
「なら」
「でも、名古屋が壊滅したのは事実です」
高梨の声は、静かなままだった。
「私が主力を東京湾へ向けたのも事実です。名古屋へ送らなかったのも事実です。名古屋の人たちが私を恨むのは、当然です」
「恨む人がいることと、無責任な人間が安全な場所から石を投げることは違います」
鷹取の声が、少し強くなった。
高梨は彼を見た。
「鷹取さん」
「私は怒っています」
「見ればわかります」
「あなたが怒らないからです」
「怒っていますよ」
「では、なぜそんな顔をするんです」
高梨は答えなかった。
画面には、また新しい投稿が流れていた。
『高梨湊が名古屋を殺した』
鷹取は、拳を握った。
*
その夜。
鷹取は、広報部へ提出する文案を書いていた。
高梨は止めた。
「個人で反論してはいけません」
「個人ではありません。富士田子の浦鎮守府副官として、事実説明案を作っています」
「怒りが出ています」
「出しています」
「出してはだめです」
「あなたが出さないので」
高梨は黙った。
鷹取は端末を机に置いた。
「高梨一佐。私は、以前あなたに論破されました」
「はい」
「逆侵攻作戦で、補給も退路も見ず、アイさんと各務原提督を戦力としてしか見ていなかった。あなたは言いました。私は戦力を見ているが、人を見ていないと」
「言いました」
「今、SNSであなたを叩いている者たちも同じです」
鷹取の声は低かった。
「名古屋を見ているようで、人を見ていない。東京湾を見ていない。未来の陽動を見ていない。名古屋で踏ん張った現地戦力も、東京湾で防いだ艦娘たちも、あなたが背負った判断も見ていない」
「鷹取さん」
「名古屋の人が怒るのは当然です。村河市長が怒るのも当然です。現地の提督が恨むのも当然です」
鷹取は一度、息を吸った。
「でも、何も知らない者が、あなたを“原因”と呼ぶのは違う」
高梨の目が少し揺れた。
「未来が原因です。深海棲艦が原因です。そして、我々が全てを守れなかったことも事実です。だが、あなた一人に都市の死を背負わせる言葉は、ただの暴力です」
高梨は視線を落とした。
「私は、背負うべき立場です」
「背負うことと、殴られ続けることは違います」
鷹取は言った。
「あなたは、名古屋を忘れてはいけない。でも、無責任な中傷まで背負う必要はありません」
高梨は、しばらく黙っていた。
そして、小さく言った。
「怒ってくれるんですね」
「怒ります」
「副官として?」
「副官としても」
「恋人として?」
鷹取は一瞬詰まった。
それでも、答えた。
「恋人としても」
高梨は、少しだけ目を伏せた。
「ありがとうございます」
その声は、いつもよりずっと小さかった。
*
翌朝。
富士田子の浦鎮守府は、公式説明を出した。
内容は淡々としていた。
名古屋攻撃時の深海反応。
東京湾内に潜伏していた深海部隊。
未来の陽動作戦と推定される根拠。
静岡連合艦隊の配置判断。
名古屋への支援内容。
今後の復興支援計画。
感情的な言葉はなかった。
だが、最後に一文だけあった。
『名古屋で失われた命と、名古屋を守るために戦った全ての方々を、富士田子の浦鎮守府は決して忘れません。批判は受け止めます。しかし、現地で戦い、生き残り、復興に立つ人々への敬意を欠く言説には与しません』
その文を見た結有は、浜松の談話室で言った。
「これ、鷹取さんの文章ですね」
神通がうなずいた。
「おそらく」
アイが端末を覗く。
「怒ってる」
「うん」
「でも、整ってる」
「高梨さんの副官になったね」
暁が少しだけ笑った。
「鷹取さん、変わったわね」
最上も言う。
「反省できるフォーク型、だいぶ進化したなあ」
*
名古屋の臨時対策本部でも、その声明は読まれた。
村河隆史市長は、端末を見て鼻を鳴らした。
「高梨一佐のとこか」
佐伯真帆が横で言う。
「SNS、ひどいですね」
「ひどいもんだ」
「高梨一佐の判断がなかったら、東京も」
「わかっとる」
村河は端末を置いた。
「だが、名古屋の人間が怒るのも止められん」
「はい」
「だから、復興で黙らせる」
「復興で」
「そうだ。名古屋が立ち直れば、あの日の判断をただの見捨てた話にはさせん」
村河は立ち上がった。
「佐伯、福祉車両の配分は」
「午前中に第二区へ三台。午後に仮設住宅予定地へ二台回します」
「よし」
村河は少しだけ笑った。
「怒る暇があったら動くぞ」
*
その夜。
高梨湊は、富士田子の浦鎮守府の屋上にいた。
海風が吹いている。
鷹取が後から来た。
「ここでしたか」
「少し、風に当たりたくて」
「冷えます」
「副官らしいですねえ」
「恋人としても言っています」
高梨は少しだけ笑った。
鷹取は彼女の隣に立った。
「投稿は、まだ続いています」
「でしょうね」
「全部は止められません」
「はい」
「ですが、私は怒ります」
高梨は海を見たまま言った。
「鷹取さん」
「はい」
「私は、名古屋を見捨てました」
「あなたは、東京湾を守りました」
「名古屋は壊滅しました」
「未来が壊しました」
「私は主力を送らなかった」
「送れば、東京が壊れていました」
「それでも」
「それでも、痛い」
鷹取の声は静かだった。
「そういう話です」
高梨は、ようやく彼を見る。
鷹取は続けた。
「正しい判断でも、人は傷つきます。あなたはそれを知っている。だから痛い。なら、その痛みはあなたのものです。でも、中傷は違う。あれは、あなたのものではありません」
高梨は何も言わなかった。
鷹取は少しだけ不器用に手を差し出した。
「全部は持てません」
「はい」
「でも、怒ることくらいはできます」
高梨は、その手を見た。
そして、そっと取った。
「ありがとうございます、鷹取さん」
「修平で構いません」
高梨は少しだけ目を丸くした。
「では、修平さん」
「はい」
「今日は、少しだけ怒っていてください」
「ずっと怒っています」
「それは少し困りますねえ」
高梨は、ほんの少しだけ笑った。
今度の笑顔は、痛みを隠すためだけのものではなかった。
*
その日の富士田子の浦鎮守府非公式日誌には、こう記された。
『名古屋壊滅後、SNSで高梨湊一佐への中傷が拡大』
『主な文言:名古屋壊滅の原因』
『湊、表面上平静を取り繕う』
『鷹取修平、副官兼恋人として代わりに怒る』
『発言:背負うことと、殴られ続けることは違います』
『発言:未来が原因です。深海棲艦が原因です』
『公式説明文、鷹取案を基に発出』
『浜松、鷹取の進化を確認』
『村河市長、復興で黙らせると発言』
『湊、少しだけ手を取る』
最後に、誰かが追記した。
『正しい判断で傷ついた人を、無責任な言葉でさらに刺してはならない』
高梨はその一文を見て、削除しなかった。
鷹取も、何も言わなかった。
名古屋はまだ壊れている。
東京湾は守られた。
未来はまだ海の向こうにいる。
そして高梨湊は、今日も傷つきながら、次の補給計画を書いた。
ただ、今は隣に。
代わりに怒ってくれる人がいた。