浜松鎮守府にアイが保護されてから、三日が過ぎた。
公式には、彼女は「未確認霊子反応個体」と呼ばれていた。
艦娘反応あり。
深海反応あり。
艤装適性、測定不能。
敵性、未確定。
保護区分、監視対象。
報告書の上では、アイはそういう存在だった。
だが、食堂では違った。
「赤いレディ、醤油」
「暁よ! あと、取ってください、でしょ!」
「醤油取って、暁」
「……まあ、いいわ」
暁は少し不満そうにしながらも、醤油差しをアイの前に置いた。
アイは白い髪を揺らし、無表情のまま焼き魚に醤油をかける。量が多い。かなり多い。
結有が横から手を伸ばして止めた。
「それ以上かけると、魚じゃなくて醤油を食べることになる」
「醤油は食べられない」
「今それに近いことをしてた」
「脳筋に言われたくない」
「脳筋は味覚とは関係ないだろ」
「ある」
「あるの?」
アイは答えず、焼き魚を食べた。
その表情は変わらない。
しかし、箸は止まらない。
暁が胸を張った。
「どう? 鎮守府の朝ご飯は悪くないでしょう」
「しょっぱい」
「自分で醤油をかけすぎたからよ!」
近くの席で最上が笑いをこらえていた。夕立は「アイ、だいぶ馴染んできたっぽい」と楽しそうに言う。扶桑は穏やかに見守り、山城は「不幸な平和ね」と言いながらも、アイの皿が空になると黙って小鉢を押し出した。
アイはそれを見て、山城を見る。
「くれるの」
「余っただけよ」
「嘘」
「……食べないなら下げるわ」
「食べる」
アイは小鉢を取った。
山城はそっぽを向いた。耳が少し赤い。
結有はその様子を見て、少し笑った。
アイはまだ鎮守府に慣れていない。
誰かに話しかけられると露骨に面倒そうな顔をするし、廊下の曲がり角にいる妖精さんをじっと見つめて、相手を泣かせかけたこともある。夜中に海を見に出ようとして、神通に無言で捕獲されたこともあった。
けれど、逃げてはいない。
戻れ、という深海の声が聞こえているのかはわからない。
それでもアイは、今のところ浜松鎮守府にいる。
結有の隣にいる。
その事実が、結有には少しだけ嬉しかった。
もっとも、その穏やかな朝は長く続かなかった。
食堂の扉が開いた。
入ってきたのは、警備隊の女性自衛官だった。顔色が悪い。肩を貸している相手がいる。
艦娘だった。
駆逐艦らしい。年若い姿で、制服は汚れ、片足を引きずっている。頬には腫れの跡があり、手首には包帯が巻かれていた。
食堂の空気が、瞬時に変わった。
神通が立ち上がる。
「医務室へ」
「すみません、本人が先に話したいと」
女性自衛官はそう言ったが、声は硬かった。
艦娘は顔を上げた。
怯えた目だった。
「浜松の……提督さんは、どこですか」
結有は立ち上がった。
「僕は候補生だけど、話は聞ける」
艦娘は結有を見た。
その視線が、結有の背後にいる神通、暁、夕立たちを順に見て、最後にアイで止まる。
アイの黒い目が、艦娘を見返した。
艦娘は小さく震えた。
「ごめんなさい。私、逃げてきました」
その一言で、朝の食堂から音が消えた。
*
逃げてきた艦娘は、近隣の小規模鎮守府に所属していた。
名は初霜。
その鎮守府は、浜松からそう遠くない沿岸にある。表向きには、哨戒任務と小規模輸送路の護衛を担当し、戦果も悪くない。むしろ、限られた戦力でよくやっていると評価されていた。
だが実態は違った。
補給制限。
過剰な懲罰。
戦果の水増し。
資材の横流し。
そして、提督による艦娘と女性隊員への圧力。
初霜は、最初は口を閉ざした。
医務室で手当てを受けながらも、「私が悪かったんです」「命令を守れなかったから」と繰り返した。
結有は黙って聞いていた。
神通も、暁も、扶桑も、山城も、夕立も、最上も、誰も急かさなかった。
アイだけが、医務室の壁際に立ち、じっと初霜を見ていた。
やがて初霜は、少しずつ話し始めた。
出撃で損傷しても、修理を後回しにされる。
戦果が足りないと食事を減らされる。
提督の私室へ呼ばれ、断ると出撃停止や解体申請をちらつかされる。
身体検査や面談を名目に、嫌なことを言われ、触れられ、逆らえば「艦娘は命令を聞くためにいる」と怒鳴られる。
それは、戦場の厳しさではなかった。
支配だった。
初霜は包帯を巻かれた手を握りしめた。
「でも、私たちが我慢すれば、海域は守れるから」
結有は、そこで初めて口を開いた。
「違う」
声は低かった。
初霜がびくりとする。
結有はすぐに表情を緩めた。
「ごめん。君を責めたんじゃない」
「でも」
「それは命令じゃない。守るための厳しさでもない。ただの支配だ」
アイが壁際から言った。
「女の敵」
短い言葉だった。
けれど、医務室の温度が下がったように感じた。
暁が唇を噛んでいる。
夕立の目から明るさが消えていた。
扶桑は静かに初霜の肩へ手を置き、山城は今にも呪いの言葉を吐きそうな顔をしている。最上は笑っていなかった。
神通は、端末に記録を残しながら言った。
「証言だけでは、すぐに強制介入は難しいです。ですが、保護と監査要請は可能です」
「監査要請って、どれくらいかかるの」
結有が聞いた。
「最短でも数日。相手側が証拠を消す可能性があります」
「数日」
結有は繰り返した。
その数日の間に、初霜の仲間たちはどうなる。
逃げたことが知られれば、何をされる。
結有の拳が、自然に握られた。
暁がそれに気づいた。
「結有さん」
「何?」
「今、殴り込みの顔をしてる」
「してない」
「してるわ」
「少し」
「やっぱり!」
神通が結有を見た。
「各務原候補生。勝手な行動は許可できません」
「はい」
「本部への報告と、正式な監査要請が先です」
「はい」
「理解していますね」
「理解しています」
結有は答えた。
嘘ではない。
理解はしている。
だが、納得はしていなかった。
アイが結有の横に来た。
「殴ればいい」
「だよね」
「だよねじゃない!」
暁が叫んだ。
「気持ちはわかるわ! すごくわかるけど、勝手に行ったらだめなの!」
「じゃあ許可を取る」
「出るわけないでしょ!」
神通はしばらく沈黙した。
そして、静かに言った。
「証拠が必要です」
結有が顔を上げる。
「神通さん?」
「監査を通すにも、即時介入を正当化するにも、証拠が必要です。初霜さんの証言だけでは、相手に逃げられる可能性があります」
暁が神通を見た。
「神通さん、それって」
「私は、無許可の襲撃を認めません」
神通の声は、いつも通り穏やかだった。
「ですが、浜松鎮守府所属候補生が、保護対象の証言に基づき、近隣鎮守府の状況確認を行うことまでは、完全には否定しません」
最上が小さく笑った。
「神通、言い方がすごいね」
「最上さんには、通信記録の確保をお願いします」
「了解」
暁が慌てた。
「待って、本当に行くの!?」
「暁さん」
神通は暁を見た。
「あなたも行きます」
「私も!?」
「はい。各務原候補生の監視です」
「監視なら仕方ないわね!」
暁は一瞬で使命感に満ちた顔になった。
結有はアイを見た。
「アイは?」
「行く」
「危ないよ」
「脳筋の方が危ない」
「それは否定しづらい」
神通は結有に向き直った。
「条件があります」
「はい」
「一つ。証拠を持ち帰ること。二つ。艦娘を傷つけないこと。三つ。相手が人間であることを忘れないこと。四つ」
そこで神通の声が少しだけ低くなった。
「死なないこと」
結有は背筋を伸ばした。
「了解しました」
アイも小さく言った。
「死なせない」
神通はアイを見た。
「お願いします」
アイは少しだけ目を細めた。
頼まれることにも、まだ慣れていない顔だった。
*
夜。
結有、アイ、暁の三人は、浜松鎮守府を出た。
正式には、近隣鎮守府への状況確認。
非公式には、殴り込み未遂。
結有の心の中では、ほぼ殴り込みだった。
移動には小型車両を使った。
運転は浜松の女性自衛官。最上が別ルートから通信記録の確保に動き、神通は浜松で本部との連絡と介入手続きの準備を進める。
暁は後部座席で腕を組んでいた。
「いい? 結有さん。私たちは証拠を取りに行くの。最初から殴るために行くんじゃないの」
「わかってる」
「本当に?」
「半分」
「半分!」
アイが窓の外を見ながら言った。
「殴るのは後」
「アイまで!」
「順番は大事」
「そういう意味じゃないの!」
結有は思わず笑いそうになったが、笑えなかった。
頭の中には、初霜の声が残っている。
私が悪かったんです。
あれは、言わされ続けた人の声だった。
自分が傷つけられた理由を、自分の中に探すしかなくなった人の声。
結有は、その声が嫌いだった。
胸の奥が熱い。
深海棲艦を前にした時とは違う熱だ。
もっと人間くさくて、どろどろしていて、乱暴な熱。
アイがこちらを見る。
「怒ってる」
「うん」
「殺したい?」
暁が息を呑んだ。
結有は少しだけ黙った。
「少し」
車内が静かになる。
結有は続けた。
「でも、殺さない」
「なぜ」
「殺したら、そいつと同じ場所に落ちる気がする」
「場所」
「うん。人を物みたいに扱っていいと思う場所」
アイは結有を見続けた。
「脳筋なのに、考える」
「脳筋でも考えるよ」
「少し」
「少しは余計だな」
暁が小さく息を吐いた。
「……本当に、殺しちゃだめよ」
「わかってる」
「殴りすぎもだめ」
「それは状況による」
「よらない!」
車は夜道を走った。
海沿いの道には、時折、対深海用の監視灯が並んでいる。遠くの海は黒く、見えない敵を隠している。
やがて、目的の鎮守府が見えてきた。
小さな基地だった。
古い庁舎。
暗い岸壁。
警備灯は少なく、整備状態もよくない。
だが、提督執務棟だけは妙に明るかった。
結有はそれを見て、拳を握った。
「趣味悪い」
アイが言った。
「わかる?」
「においがする」
「何の」
「嫌な人間」
暁は少し震えた。
「アイ、そういうのわかるの?」
「少し」
結有は小声で言った。
「じゃあ案内して」
「殴る場所へ?」
「証拠の場所へ」
「残念」
「残念なんだ」
三人は裏手から敷地に入った。もちろん正規の手続きではない。だが、神通が用意した通行権限と、最上が確保した警備システムの穴がある。
暁は小声で文句を言いながらも、動きは的確だった。
「こっち。巡回が来るわ」
「暁、すごいな」
「当然よ。一人前のレディは潜入もできるの」
「レディって幅広いね」
「うるさいわね」
アイは無言で先を歩いた。
彼女は不思議なほど気配が薄い。白い髪は目立つはずなのに、影の中に入ると、そこにいるのかいないのかわからなくなる。
やがて三人は、倉庫棟の脇で足を止めた。
中から声がする。
怒鳴り声。
男の声。
そして、押し殺したような女性の声。
結有の目が細くなる。
暁が袖を掴んだ。
「待って。録音」
「わかってる」
結有は端末を起動する。神通から渡された記録用端末だ。通信は最上の回線へつながっている。
中の声が、はっきり聞こえた。
「初霜の件は忘れろ。あいつは命令違反で処分する。お前らも余計なことを言えば、同じだ」
「でも、提督……」
「でもじゃない。艦娘は俺の命令を聞いていればいい。補給も修理も、誰に回すかは俺が決める」
別の声が、小さく言った。
「私室への呼び出しは、もう」
男が笑った。
「面談だ。お前らの状態を確認してやっているんだ。嫌なら出撃停止にする。解体申請だって通せるんだぞ」
結有の視界が赤くなった。
暁の手が震えている。
アイの表情は変わらない。
だが、足元の影がわずかに揺れた。
「女の敵」
アイが言った。
結有は端末を握りしめた。
「録れた?」
最上の声が通信から返る。
『ばっちり。神通にも送った。あと三十秒で正式介入の名目が立つ』
「三十秒」
『結有、待てる?』
結有は倉庫の扉を見た。
中で、また男の声がした。
「泣くな。そういう顔をされると、こっちが悪いみたいだろう」
何かが切れた。
結有は扉に手をかけた。
暁が叫ぶ。
「結有さん!」
「三十秒は無理」
結有は扉を蹴破った。
金属製の扉が歪み、内側へ吹き飛ぶ。
倉庫の中には、数人の艦娘と女性隊員がいた。怯えた顔で壁際に立たされている。その前に、中年の男がいた。制服は上等で、腹だけが少し出ている。顔には、自分が何かを間違えているとは一度も思ったことがない人間の油断があった。
男が振り向く。
「何だ、お前らは!」
結有は名乗らなかった。
踏み込む。
男が腰の警棒に手を伸ばす。
遅い。
結有の拳が、男の腹に入った。
空気が潰れる音がした。
男は声も出せず、膝から崩れ落ちる。
艦娘たちが息を呑んだ。
暁が遅れて飛び込んでくる。
「結有さん! いきなり殴った!」
「腹だからセーフ」
「セーフじゃない!」
男が床で咳き込みながら、顔を上げた。
「き、貴様……どこの」
アイが男の背後に立っていた。
逃げ道を塞ぐように。
白髪。黒い目。青白い肌。
夜の倉庫の中で、アイは人間よりも深海に近く見えた。
男の顔が引きつった。
「ば、化け物」
アイの目が、ほんの少しだけ冷たくなった。
「喋るな」
男は懐へ手を入れた。小型拳銃。
結有が動いた。
手首を取る。捻る。床へ叩きつける。
拳銃が滑った。暁が即座に蹴って遠ざける。
「武器まで!」
「正当防衛寄りになった」
「そういう問題じゃない!」
男は悲鳴を上げた。
結有はその腕を極めたまま、低く言った。
「初霜に何をした」
「し、知らん! あいつは命令違反を」
「補給を絞った。修理を止めた。私室に呼んだ。解体で脅した。違うか」
「必要な指導だ!」
その言葉で、結有の顔から表情が消えた。
「指導」
「艦娘は兵器だ! 兵器を管理して何が悪い!」
倉庫の中で、誰かが小さく泣いた。
結有は男の腕を離した。
男は一瞬、逃げられると思ったらしい。
だが、立ち上がる前に、結有の拳が顔面に入った。
一発。
乾いた音がした。
男は床に転がった。
結有は追撃しなかった。
拳を握ったまま、肩で息をしている。
アイが横に立った。
「まだやる?」
その声は、男に向けたものだった。
男は震えていた。返事はない。
暁が艦娘たちの方へ走る。
「大丈夫? もう大丈夫よ。浜松鎮守府が来たわ」
その声に、壁際の艦娘が膝から崩れた。
泣き出す者もいた。
女性隊員が口元を押さえ、何度も頭を下げる。
結有は、それを見て拳を下ろした。
怒りは消えていない。
むしろ、まだ燃えている。
でも、ここで殴り続けたら違う。
そう思った。
倉庫の外から足音が近づいてくる。
「そこまでです」
神通の声だった。
結有は振り向いた。
神通が、鎮守府警備隊を伴って入ってくる。
その後ろには最上もいた。
神通は床に転がる男を見て、結有を見た。
「各務原候補生」
「はい」
「殴りましたね」
「はい」
「何発ですか」
「腹に一発、顔に一発です」
「腕も極めましたね」
「拳銃を出したので」
「記録されています」
「はい」
神通は深く息を吐いた。
「反省文です」
「何枚ですか」
「三十枚」
「昨日より増えた」
「今の発言で三十五枚です」
「はい」
暁が泣きそうな顔で怒った。
「もう! でも……でも、今回はちょっとだけ、仕方ないわ!」
神通は男の拘束を警備隊に命じ、艦娘たちの保護を始めた。
最上が結有の横に来る。
「よく二発で止めたね」
「本当はもっと殴りたかった」
「うん。だと思った」
最上は少しだけ真面目な顔で言った。
「止まれてよかったよ」
結有は何も言えなかった。
*
浜松鎮守府へ戻ったのは、夜明け前だった。
ブラック鎮守府の提督は拘束。
艦娘と女性隊員は浜松で一時保護。
資材横流しの記録、通信ログ、私室呼び出しの記録、脅迫音声、すべて最上と神通が押さえた。
正式な処分は本部が行う。
結有には厳重注意が出る見込みだった。
ただし、現場で拳銃が出たことと、証拠確保に成功したことから、神通いわく「反省文で済む可能性が高い」とのことだった。
反省文で済むのか、と結有は少し思った。
父の血を感じる。嫌な感じに。
医務室で拳を冷やしていると、アイが入ってきた。
白い外套のまま、音もなく近づいてくる。
「脳筋」
「はい」
「手」
アイは結有の右手を取った。
冷たい指だった。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
結有の拳は少し腫れていた。
アイは無表情でそれを見つめる。
「痛い?」
「少し」
「嘘」
「そこそこ」
「震えてる」
結有は自分の手を見た。
本当だ。
指先が、少し震えている。
怒りのせいだと思っていた。
でも、違う。
怖かったのだ。
自分が、あの男を殺したいと思ったことが。
「殺したかった?」
アイが聞いた。
「うん」
「殺さなかった」
「神通さんに怒られるから」
アイは結有を見た。
「それだけ?」
結有は少し黙った。
窓の外には、夜明け前の海がある。
黒から青へ変わる直前の、静かな海。
「それだけじゃない」
「何」
「あの人と同じになりたくなかった」
アイは黙っている。
「人を、艦娘を、自分の都合で壊していいって思う人間にはなりたくなかった。だから、止まった」
「脳筋なのに」
「脳筋でも、そこは止まる」
「なら」
アイは結有の手を離さなかった。
「見てる」
「何を?」
「脳筋が、あっちに行かないように」
結有はアイを見た。
白い髪。
黒い目。
幼い顔。
深海の気配をまとった、どこにも属していない少女。
その子が、自分を見ていると言った。
不思議だった。
安心してしまった。
「じゃあ、お願い」
「任された」
「あと任せた、みたいだな」
結有がそう言った瞬間、アイの黒い目が少し揺れた。
「それ、知ってる」
「何を?」
「言葉」
「あと任せた?」
「うん」
アイは自分の胸に手を当てた。
「ここにある」
結有の呼吸が止まりかけた。
母の声。
ハワイ攻防戦。
時雨の最後。
その断片が、アイの中にあるのかもしれない。
けれど、今は聞かなかった。
聞けば、何かが壊れる気がした。
アイも、自分も。
だから結有は、ただ言った。
「そっか」
「聞かないの」
「今はいい」
「なぜ」
「アイがアイでいる時間を、先に増やしたい」
アイはわからない、という顔をした。
「意味不明」
「うん。僕も半分しかわかってない」
「脳筋」
「便利だな、それ」
アイは、ほんの少しだけ口元を動かした。
笑ったのかどうかは、わからない。
でも結有には、少しだけ柔らかく見えた。
医務室の扉が開いた。
暁が顔を出す。
「結有さん、反省文の用紙を持ってきたわ。あと、アイの分も」
アイが振り向く。
「私も?」
「当然よ! あなたも勝手についていったんだから!」
「命令された」
「誰に?」
「脳筋に」
「してないしてない」
結有は慌てた。
暁は腕を組んだ。
「二人とも、共犯みたいな顔をしてるわ」
アイは結有を見る。
結有もアイを見る。
そして、二人で同時に言った。
「共犯?」
暁は頭を抱えた。
「そこから確認しないで!」
夜明けの浜松鎮守府に、久しぶりに少しだけ笑い声が戻った。
その日、公式記録にはこう残された。
『近隣鎮守府における不正行為および人権侵害疑いについて、浜松鎮守府が証拠を確保。関係者を保護。該当提督を拘束』
非公式記録には、こう追加された。
『各務原結有候補生、また殴った』
『未確認個体アイ、共犯意識あり』
『暁、胃痛』
『神通、反省文三十五枚を命じる』
そして食堂では、さらに短く語られた。
白い流れ者と脳筋提督が、女の敵をぶっ飛ばした。
その噂は、浜松鎮守府中に広まった。
誰も、あまり訂正しなかった。