富士田子の浦鎮守府の朝は、いつもより少しだけ静かだった。
高梨湊一佐は、定刻より七分遅れて執務室に入った。
七分。
遅刻ではない。
業務上は何の問題もない。
だが、高梨湊という人物を知る者にとっては、かなり珍しい数字だった。
秘書艦の大和は、書類を揃えながら顔を上げた。
「おはようございます、提督」
「おはようございます、大和さん」
高梨はいつものように微笑んだ。
穏やか。
柔らかい。
少し眠そう。
大和はそこで、ほんの少しだけ目を細めた。
高梨の首筋。
制服の襟元から、うっすらと赤い痕が見えていた。
大和は一瞬、動きを止めた。
それから、何事もなかったように書類を置いた。
「提督」
「はい?」
「襟元が、少し乱れております」
高梨は指先で襟を直した。
その動きが、珍しく少しだけ慌てていた。
「ありがとうございます」
「いえ」
大和は微笑んだ。
高梨は椅子に座る。
その数秒後、鷹取修平が副官として入ってきた。
「失礼します」
きっちりした制服。
真面目な顔。
だが、耳が少し赤い。
大和は、すべてを理解した。
那珂なら叫んでいた。
川内ならにやにやしていた。
大和は叫ばなかった。
ただ、少しだけ安堵した。
高梨湊は、ずっと背負いすぎていた。
名古屋。
未来。
大貫。
東京湾。
帰り道。
中傷。
責任。
その人が、誰かに支えられる場所を持った。
なら、それは悪いことではない。
大和はそう思った。
ただし。
それと、浜松に知らせないことは別だった。
*
浜松鎮守府の談話室で、結有は朝食後の茶を飲んでいた。
アイは隣で焼き魚を食べている。
暁は今日の予定表を確認している。
神通は書類を読んでいる。
そこへ、大和から通信が入った。
結有が端末を開く。
「大和さん?」
『おはようございます、皆さん』
「おはようございます」
大和は穏やかに微笑んでいた。
『大したことではないのですが、共有しておいた方がよいかと思いまして』
神通が顔を上げた。
「何かありましたか」
『高梨提督が、本日少しだけお疲れのご様子です』
「高梨さんが?」
『はい』
大和は少しだけ間を置いた。
『それと、首筋に少し赤い痕が』
談話室が止まった。
結有の湯呑みが止まる。
暁の予定表が落ちる。
アイが顔を上げる。
「赤い痕」
大和は穏やかに言った。
『おそらく、虫刺されではないかと』
神通が静かに目を閉じた。
「大和さん」
『はい』
「それは、わざとですね」
『少しだけ』
結有が口を開いた。
「え、つまり」
暁が真っ赤になった。
「ちょっ、ちょっと待って! そういうこと!? 高梨さんと鷹取さんが!?」
アイが首を傾げる。
「虫刺されじゃない?」
結有は顔を赤くした。
「アイ、それは」
神通が即座に言った。
「アイさん。今は深く学習しなくてよい語彙です」
「なぜ」
「必要な時に、適切な文脈で説明します」
「今は?」
「今ではありません」
アイは不満そうに結有を見る。
「結有は知ってる?」
「えっと、まあ」
「教えて」
「神通さんに止められたので」
「脳筋、逃げた」
「これは逃げる」
暁はまだ赤い。
「高梨さん、朝帰りの次は……次は……」
最上が通りがかりに通信を覗き込んだ。
「何の話?」
夕立も来る。
「ぽい?」
結有は端末を伏せようとしたが、遅かった。
大和はにこにこしている。
『高梨提督には内緒ですよ』
神通が静かに言う。
「大和さん。浜松へリークしておいて、内緒とは」
『少し、皆さんにも安心していただきたかったので』
その言葉で、談話室の空気が少し変わった。
結有は大和を見る。
「安心?」
『はい』
大和は穏やかに言った。
『高梨提督は、ずっとお一人で背負いすぎていました。もちろん、私たちも支えているつもりです。でも、鷹取副官が隣に立ってくださるようになってから、少しだけ表情が変わりました』
神通は静かに聞いていた。
『昨夜、何があったかを詮索するつもりはありません。ただ、提督が誰かに寄りかかれる時間を持てたなら、それはよいことだと思います』
暁の赤い顔が、少しだけ落ち着いた。
「……それは、そうね」
結有もうなずいた。
「高梨さん、いつも強すぎるから」
アイが言う。
「高梨も、帰る場所がいる」
大和は微笑んだ。
『はい。そう思います』
*
その頃。
富士田子の浦鎮守府の執務室で、高梨湊は書類を読んでいた。
鷹取修平は副官席で端末を操作している。
二人とも、表面上は普段通りだった。
ただし、那珂はさっきからちらちら見ている。
川内は完全ににやにやしている。
「湊さん」
那珂が言った。
「何でしょう」
「今日、ちょっと眠そうだね」
「少し寝不足です」
川内が笑う。
「へえ。何してたの?」
鷹取の手が止まった。
高梨は微笑んだ。
「人生について話していました」
「長い話だったんだ?」
「はい」
「首に跡が残るくらい?」
鷹取がむせた。
高梨はにこりと笑う。
「川内さん」
「はいはい、これ以上はやめるよ」
大和が執務室に戻ってきた。
高梨が少し首を傾げる。
「大和さん、どちらへ?」
「浜松へ、少し連絡を」
高梨の笑顔が止まった。
「何を?」
「提督が少しお疲れのようです、と」
「大和さん」
「はい」
「他には?」
大和は穏やかに微笑んだ。
「虫刺されかもしれない、と」
鷹取が顔を覆った。
高梨は、しばらく大和を見ていた。
それから、静かに言った。
「大和さん」
「はい」
「あとで、お茶を淹れてください」
「承知しました」
「濃いめで」
「はい」
川内が笑いをこらえている。
那珂は小声で言った。
「浜松、大騒ぎだろうなあ」
*
浜松は、実際に少し大騒ぎだった。
暁はまだ落ち着かない。
「大人って、大人って……!」
最上が笑っている。
「暁、語彙がなくなってる」
夕立が首を傾げる。
「キスマークっぽい?」
暁が叫ぶ。
「夕立まで言わない!」
アイがすぐに反応した。
「キスマーク」
神通が言った。
「アイさん」
「何」
「その単語は、今は保留です」
「また保留」
「はい」
「嫁も保留」
「それとは別です」
結有は顔を赤くしていた。
アイがじっと見る。
「結有、赤い」
「そういう話題は慣れてない」
「高梨は大人」
「うん」
「鷹取も大人」
「うん」
「結有は?」
「十八」
「私は?」
「年齢不詳」
「なら、保留」
「何を?」
「いろいろ」
神通が静かに咳払いした。
「皆さん。高梨提督と鷹取副官の私生活について、過度に騒がないように」
「神通さん、冷静ですね」
結有が言う。
神通は少しだけ目を逸らした。
「大人ですから」
「今、少し目を逸らしました?」
「大人ですから」
最上が肩を震わせて笑っていた。
*
その日の富士田子の浦鎮守府非公式日誌には、こう記された。
『高梨湊一佐、少し寝不足で出勤』
『秘書艦大和、首筋の赤い痕を発見』
『大和、少し安堵』
『大和、浜松へリーク』
『鷹取修平副官、終日やや赤い』
『川内、にやにや』
『那珂、大騒ぎ未遂』
『高梨、濃いめのお茶を要求』
浜松鎮守府の非公式日誌には、こう追記された。
『大和より情報提供』
『高梨提督、虫刺されではなさそう』
『暁、混乱』
『アイ、キスマークという単語を学習しかけるも神通に止められる』
『結有、赤くなる』
『神通、大人ですからと繰り返す』
『最上、笑う』
『アイ、各種保留事項が増える』
最後に、誰かが追記した。
『帰る場所には、時々こういう朝もある』
夜。
結有とアイは談話室で並んで座っていた。
「結有」
「何?」
「高梨、幸せ?」
「たぶん」
「鷹取も?」
「たぶん」
「なら、いい」
「うん」
アイは少し考えた。
「帰る場所は、人?」
「人でもあると思う」
「なら、鷹取は高梨の帰る場所?」
「そうかもね」
アイは結有の袖をつまんだ。
「私は?」
結有は少しだけ照れた。
「僕の帰る場所」
アイはうなずいた。
「なら、よし」
そこに性的な意味はない。
ただ、隣にいるという意味がある。
今の二人には、それで十分だった。
たぶん。
保留事項は、まだいくつか残っている。