東京湾は、二度目の戦場になった。
最初の東京湾防衛戦では、高梨湊が名古屋を背負い、東京中枢と皇居を守った。
だが、未来は諦めていなかった。
深海提督、高梨未来。
彼女は今度、陽動ではなく本命として東京湾へ来た。
しかも、自ら前線に出て。
*
警報は夜明け前に鳴った。
『東京湾外縁に深海反応多数!』
『湾口部に戦艦級、重巡級、空母型らしき反応!』
『深海霊子、指揮統制波形あり!』
『高梨未来、前線に出ています!』
浜松鎮守府の管制室で、結有はその報告を聞いた。
隣にはアイ。
神通。
暁。
最上と夕立もいる。
画面には、高梨湊が映っていた。
彼女の表情は静かだった。
だが、結有にはわかる。
これは静けさではない。
研ぎ澄まされた怒りだ。
『未来が前に出たということは、決着をつけるつもりです』
高梨は言った。
『こちらも、全力で止めます』
裕二新本部長の声が通信に入る。
『各鎮守府、東京湾防衛戦へ移行。高梨一佐を現場指揮官とする。浜松、富士田子の浦、横須賀方面戦力を集中。敵指揮個体、高梨未来を最優先警戒対象とせよ』
結有は拳を握った。
アイが袖をつまむ。
「結有」
「大丈夫」
「嘘?」
「少し」
アイは黒い目で見た。
「未来は、言葉で引っ張る」
「うん」
「今日は、近い」
「うん」
「私たちで止める」
結有は息を吸った。
「止める」
神通が静かに言った。
「討つ覚悟も必要です」
部屋が一瞬、重くなる。
討つ。
それは、倒すでも止めるでもない。
高梨湊の双子の姉を、殺すという意味だった。
結有は黙った。
アイも黙った。
高梨の画面の向こうで、鷹取修平が副官席に立っている。
彼もまた、何も言わなかった。
*
東京湾は黒い霧に覆われていた。
大和の主砲が、第一射を放つ。
遠方で水柱が上がり、深海棲艦の前衛が崩れる。
だが、敵は止まらない。
未来の指揮は、以前よりさらに鋭かった。
深海棲艦たちは、ただ突っ込んでくるのではない。
射線を重ね、囮を使い、損傷艦を下げ、こちらの救助線を狙ってくる。
未来は人間の戦術を深海に与えていた。
そして、深海の異常な耐久と怨念を、人間的な指揮で動かしていた。
『中央、押されています!』
『左翼に空母型!』
『湾内へ抜ける小型、三!』
那珂の通信整理が飛ぶ。
『全員、落ち着いて! 中央は神通さん、左翼は川内ちゃん、抜けた小型は浜松第二線!』
川内が低く笑う。
『夜明け前の海戦か。悪くないね』
神通は静かに砲を構える。
「悪くありません。ですが、油断はしないでください」
結有は高速艇で第二線へ入っていた。
隣をアイが走る。
アイの専用艤装が、黒い霧の中で白く光る。
がうがう。
ろング。
ぴか。
帰るための武器。
「アイ、右!」
「見えた」
がうがうが短く火を噴く。
小型深海棲艦の砲口が砕ける。
結有は高速艇を滑らせ、敵の注意を引く。
アイのLAWSが黒い霊子の膜を焼く。
神通の砲撃が追撃した。
『各務原提督、突出しすぎです』
「はい!」
『今、少し飛ぼうとしましたね』
「してません!」
アイが言う。
『顔が飛んだ』
「顔だけ!」
『減点』
暁の通信が割り込む。
『戦闘中に採点しない! あと結有さん、本当に飛ばない!』
結有は少しだけ笑った。
笑える。
まだ笑える。
だから、まだ崩れていない。
*
未来は、湾口中央にいた。
黒い外套をまとい、海面に立つ。
周囲には深海棲艦の護衛。
その背後に、巨大な戦艦級。
高梨湊は指揮艦上で未来を見ていた。
『未来』
通信がつながる。
未来は微笑んだ。
『湊。今日は逃げないわ』
「逃がしません」
『言うようになった』
「あなたが教えたのです。帰る場所を壊す者は、止めなければならないと」
未来は笑った。
『いい顔。昔のあなたは、もっと優しかった』
「今も優しいですよ」
『そう?』
「あなたを止めるくらいには」
未来の周囲の霧が濃くなる。
『なら、止めてみて』
深海棲艦が一斉に動いた。
未来自身も前へ出る。
速い。
艦娘ではないはずなのに、海面を滑る速度は軽巡に近い。
黒い霊子が刃となり、川内の進路を切る。
川内が舌打ちした。
『こいつ、前線でもやるね』
未来は答えた。
「深海提督が後ろにいるだけだと思った?」
神通が横から入る。
「前へ出る指揮官は危険です」
「あなたに言われると重いわね、横須賀の鬼妹」
「その呼び名はやめてください」
神通の砲撃が未来の足元を撃つ。
未来は避けた。
その一瞬。
結有の視界に、未来への道が開いた。
「アイ!」
「行く」
二人は同時に動いた。
神通が叫ぶ。
『各務原提督!』
「神通さん!」
結有は高速艇のアクセルを開く。
「今回は、必要です!」
神通は一瞬だけ黙った。
そして言った。
『三十秒。私が退路を作ります』
「了解!」
アイが結有の横へ並ぶ。
「飛ぶ?」
「最後だけ」
「許可?」
「たぶん」
「減点」
「あとで!」
*
未来は、結有とアイを見た。
「来たのね」
「止めに来ました」
結有は言った。
未来はアイを見る。
「アイ。まだ間に合うわ」
「戻らない」
「人類はあなたを利用する」
「知ってる」
アイの答えに、未来が少し目を細める。
「知っていて、そちらにいるの?」
「利用しようとする人もいる。でも、結有は違う。浜松は違う。高梨も、神通も、暁も、明石も」
「甘い」
「甘いかもしれない」
アイはがうがうを展開した。
「でも、私が選んだ」
未来は微笑んだ。
「選んだ、ね」
黒い霊子が伸びる。
結有の高速艇を狙う。
アイのLAWSがそれを焼く。
結有は艇を捨てた。
海面を蹴るように跳ぶ。
足に霊子が集まる。
梶本真太の蹴り。
母・時雨の霊子。
父・裕二の踏み込み。
自分の意志。
守るため。
帰るため。
止めるため。
「だあああああッ!」
結有の飛び蹴りが未来へ向かう。
未来は黒い霊子の盾を作った。
それを、アイのろングが貫いた。
第一段階出力。
未来の盾に穴が開く。
結有の足が、その穴を通る。
未来の胸部へ、蹴りが入った。
未来の身体が大きく揺れる。
だが、まだ倒れない。
彼女は結有の足を掴んだ。
「やはり、あなたは危険」
黒い霊子が結有を絡め取る。
アイが叫んだ。
「結有!」
がうがうを撃とうとして、止める。
結有に当たる。
撃てない。
未来は笑った。
「強い武器は、撃てない時が一番重いでしょう?」
アイの目が揺れる。
その時、結有が叫んだ。
「アイ!」
「何!」
「撃たなくていい!」
結有は未来の腕を掴んだ。
「一緒に来て!」
アイは理解した。
ろングではない。
がうがうでもない。
ぴかでもない。
アイ自身が動いた。
海面を蹴り、未来へ体当たりする。
白黒の艤装が未来の黒い霊子を押し潰す。
結有は未来の腕を極める。
梶本の教え。
裕二の骨法。
神通に叩き込まれた制御。
壊すためではない。
止めるために。
未来が初めて苦しげに息を吐いた。
「二人で」
アイが言う。
「隣だから」
結有が言う。
「僕たちは、帰るために戦う」
未来の黒い霊子が膨れ上がる。
暴走する。
このままでは、周囲を巻き込む。
高梨の声が通信に飛ぶ。
『未来!』
未来は笑った。
「来ないで、湊」
未来の胸元に、深海核のようなものが見えた。
アイが叫ぶ。
「そこ!」
結有は拳を握る。
撃つか。
殴るか。
止めるか。
一瞬。
結有は、梶本の声を聞いた気がした。
足より先に心が突っ込むな。
結有は拳を開いた。
掌底。
霊子を一点に集め、深海核を叩く。
アイが同時に、自分の霊子をぶつける。
深海の意志を、アイの意志で押し返す。
「私は、戻らない!」
黒い核が割れた。
未来の霊子が、海面へ散った。
*
未来は倒れた。
黒い霧が薄れていく。
深海棲艦たちの統制が乱れた。
大和の砲撃が戦艦級を押し返し、神通と川内が中央を閉じる。
那珂が叫ぶ。
『敵指揮波形、崩壊! 全艦、押し返して!』
戦況は、一気に人類側へ傾いた。
だが、結有は動けなかった。
アイも。
未来は、海面に膝をついていた。
胸元から黒い霊子が漏れている。
高梨湊が駆け寄る。
「未来!」
未来は倒れかけ、高梨の腕に抱き止められた。
双子の姉妹。
同じ顔。
違う道を選んだ二人。
未来は、高梨の顔を見上げた。
「湊」
「喋らないで」
「無理ね」
高梨の手が震えていた。
未来は少し笑った。
「あなた、また泣かないのね」
「泣きます」
「嘘」
「泣きます」
「なら、あとで」
高梨は唇を噛んだ。
「なぜ、ここまで」
未来は、遠くを見るような目をした。
「全部、そこからだった」
「何が」
未来の声は、かすれていく。
「深海の底。沈んだ鉄。燃えた船。帰れなかった声。人間の戦争が、海の底で腐って、意志になって、深海になった」
アイが息を呑んだ。
未来はアイを見る。
「あなたも……その残響」
「どこ」
アイが聞く。
「どこから?」
未来は、最後の力で言った。
「全ての原因は……アイアンボトムサウンド」
高梨の目が見開かれる。
「ソロモン……」
未来は、ほんの少しだけ笑った。
「行きなさい、湊。あなたの帰り道が……そこまで届くなら」
「未来」
「私には……届かなかった」
未来の手が、高梨の袖を弱く掴んだ。
「ごめんね」
高梨は、もう何も言えなかった。
未来は、高梨の腕の中で息絶えた。
*
第二次東京湾海戦は、人類側の勝利で終わった。
敵指揮個体、高梨未来、死亡。
深海統制波形、崩壊。
東京湾防衛、成功。
だが、誰も勝利に沸かなかった。
高梨湊は、未来の遺体を抱いたまま、しばらく動かなかった。
鷹取が近づいた。
何も言わず、そばに立った。
神通は結有の肩に手を置いた。
「各務原提督」
「はい」
「あなたとアイさんが、止めました」
「討ちました」
結有の声は震えていた。
神通は否定しなかった。
「はい」
アイは、自分の手を見ていた。
「私も」
「うん」
「討った」
「うん」
結有はアイの手を握った。
アイは握り返した。
*
その日の公式記録には、こう残された。
『第二次東京湾海戦。深海提督高梨未来、自ら前線に出撃。浜松・富士田子の浦・東京湾防衛部隊と交戦。乱戦の中、各務原結有提督および未確認個体アイが未来の深海核を破壊。高梨未来、死亡。死亡直前、全ての原因はアイアンボトムサウンドとの言葉を残す』
非公式日誌には、短く書かれた。
『未来、前線に出る』
『結有とアイ、未来を討つ』
『湊、未来を腕の中で看取る』
『最期の言葉:全ての原因はアイアンボトムサウンド』
『第二次東京湾海戦、人類側勝利』
『誰も勝った気がしない』
最後に、誰かが追記した。
『帰れなかった声は、海の底でまだ終わっていない』
*
夜。
浜松鎮守府に戻った結有は、岸壁に座っていた。
アイが隣にいる。
「アイアンボトムサウンド」
結有が言った。
「鉄底海峡」
アイが言う。
「そこに、原因」
「たぶん」
「行く?」
結有は海を見た。
東京湾の戦いは終わった。
未来は死んだ。
でも、深海は終わっていない。
むしろ、初めて本当の場所が見えた。
アイアンボトムサウンド。
ソロモンの海。
多くの艦が沈み、多くの人が帰れなかった海。
深海の根源。
「行くことになると思う」
「隣?」
「うん」
アイは結有の袖をつまんだ。
「なら、行く」
結有は小さくうなずいた。
「帰るために」
「帰るために」
夜の海は、静かだった。
だが、その静けさの奥で、遠い南の海が呼んでいる気がした。