艦隊これくしょん 残響のアイ   作:SAMICO

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幕間 湊、未来の墓を田子の浦鎮守府内に密かに立てる

 第二次東京湾海戦のあと、富士田子の浦鎮守府には、しばらく笑い声が戻らなかった。

 

 勝った。

 

 書類には、そう書かれた。

 

 東京湾防衛成功。

 東京中枢および皇居への深海棲艦侵攻阻止。

 深海提督・高梨未来、撃破。

 敵主力群、撤退。

 人類側被害、甚大。ただし国家中枢機能は維持。

 

 高梨湊は、その報告書を最後まで読み、朱を入れ、数字の桁を確認し、戦力再編表に次の作戦の余白を作った。

 

 泣かなかった。

 

 泣く場所ではなかったからだ。

 

 彼女が泣けば、富士田子の浦鎮守府が揺れる。

 彼女が崩れれば、静岡連合艦隊が揺れる。

 彼女が「姉を失った妹」になれば、名古屋の瓦礫の下で救助を待つ人々にも、東京湾で傷ついた艦娘にも、次に来るであろうアイアンボトムサウンドへの道にも、説明がつかなくなる。

 

 だから湊は、いつも通りに微笑んだ。

 

「大和さん、修理計画の第二案を。第一案は資材消費が大きすぎます。川内さん、夜戦部隊の再編は無理に急がせないでください。那珂さん、慰問ではなく、今回は士気維持班としてお願いします。歌わなくていい日もあります」

 

 大和は、何か言いかけて、やめた。

 

 川内も、珍しく「夜戦だー」とは言わなかった。

 

 那珂は笑顔を作りかけて、うまく作れず、それでも敬礼だけはきれいにした。

 

「了解しました、湊さん」

 

 湊は頷いた。

 

 その顔は穏やかだった。

 声も柔らかかった。

 指示は正確だった。

 

 だからこそ、鷹取修平は、その日からずっと嫌な予感がしていた。

 

 湊が泣かない時ほど、危ない。

 

 彼女は怒りを戦略に変える。

 悲しみを段取りに変える。

 罪悪感を補給線に変える。

 

 それは強さだった。

 

 同時に、いつか心臓の奥で何かが破裂する種類の強さでもあった。

 

 夕刻、田子の浦の空は、戦闘の煤を遠くに残したまま、妙に澄んでいた。

 

 鎮守府の裏手には、小さな松林がある。

 一般の慰霊碑は正門側にあり、戦没艦娘と殉職者の名はそこに刻まれる。花も供えられる。国の代表者が来る時も、報道が入る時も、そこが使われる。

 

 しかし、松林の奥にある小さな一角は、名簿に載らない者たちのための場所だった。

 

 敵味方の境界が曖昧なまま沈んだ者。

 名を残せない協力者。

 深海棲艦に取り込まれ、最後に一瞬だけ人間の言葉を返した者。

 公文書には「処理」としか書けないもの。

 

 その場所に、新しい石が置かれていた。

 

 大きくはない。

 むしろ、拍子抜けするほど小さい。

 

 灰色の石に、刻まれている文字は短かった。

 

 高梨未来。

 

 それだけだった。

 

 深海提督、とは書かれていない。

 裏切者、とも書かれていない。

 階級も、罪状も、撃破地点も、何もない。

 

 ただ、名前だけがあった。

 

 湊はその前に立っていた。

 

 喪服ではなかった。制服だった。

 弔う者の服ではなく、責任者の服だった。

 

 その横に、鷹取修平が立っている。

 

 彼は何も言わなかった。

 

 ここに墓を立てるまで、かなり無理をした。

 

 深海提督・高梨未来の遺体は、戦場で回収された時点で通常の戦没者ではなかった。深海霊子に汚染された危険個体であり、解析対象であり、敵指揮官の残骸でもあった。

 

 研究部門は欲しがった。

 監察は嫌がった。

 本部は沈黙した。

 政治側は、存在そのものを伏せたがった。

 

 湊は、淡々と書類を書いた。

 

 霊子汚染拡大防止のため、焼却処理。

 解析に必要なサンプルは別途採取済み。

 残余物は富士田子の浦鎮守府管理下の封印慰霊区画に保管。

 責任者、高梨湊一等海佐。

 副署、鷹取修平三等海尉。

 

 言い方を変えれば、湊は姉の遺骨を、規則の隙間ではなく、規則の中にねじ込んだ。

 

 違法ではない。

 だが、誰もやりたがらないことだった。

 

 修平はその書類を見た時、少しだけ手が震えた。

 

「高梨一佐」

 

「はい」

 

「これは、通りますか」

 

「通します」

 

「通らなかった場合は」

 

「通るまで直します」

 

「……未来さんを、ここに置きたいんですね」

 

 その時、湊は初めてペンを止めた。

 

 わずかな沈黙のあと、いつもの柔らかい声で言った。

 

「敵としてではなく、未来として、どこかに置いてあげたいだけです」

 

 修平は、それ以上聞かなかった。

 

 今、その石の下には、荼毘に付された遺骨の一部が納められている。

 

 残りは解析と封印に回された。

 それが現実だった。

 未来がしたことを思えば、すべてを家族のものにはできない。

 

 市ヶ谷を襲った。

 大貫悟を討った。

 名古屋を陽動で壊した。

 東京中枢と皇居を狙った。

 数えきれない人が死んだ。

 

 それでも、湊にとって未来は姉だった。

 

 許せるかどうかとは別に。

 裁けるかどうかとも別に。

 

 姉だった。

 

 湊は小さな花束を石の前に置いた。

 

 白い花だった。

 

「未来」

 

 呼びかける声は、驚くほど普通だった。

 

 戦場で深海提督と対峙した時の声ではない。

 会議で将官を黙らせる時の声でもない。

 神通が頭を上げられなくなる時の声でもない。

 

 ただ、妹の声だった。

 

「帰ってきた、とは言えませんね。あなたは、帰ってくるつもりなんて、たぶんなかった」

 

 潮騒が遠くで鳴った。

 

「でも、ここに置きます。私の鎮守府の中です。私の責任で、私が守る場所です」

 

 修平は、湊の横顔を見ないようにした。

 

 見るべきではない気がした。

 

 湊は続けた。

 

「あなたが壊したものは、戻りません。大貫本部長も、名古屋の人たちも、海で沈んだ子たちも。だから、あなたを許すとは言いません。許したら、私があの人たちに顔向けできません」

 

 声が少しだけ揺れた。

 

「でも、あなたを名前のない敵として捨てることも、私にはできません」

 

 湊はそこで、唇を噛んだ。

 

 それでも涙は落ちなかった。

 

「……昔、あなた、私より先に泣く人でしたよね」

 

 修平は、少しだけ目を伏せた。

 

「私が転んだ時も、私より先に泣いて。私が注射を怖がった時も、あなたのほうが泣いて。私が試験で落ちかけた時も、『湊は頭がいいのに、なんで拳銃なんかで落とすの』って怒って」

 

 微笑みが浮かんだ。

 

 ひどく弱い微笑みだった。

 

「拳銃命中率一パーセントの女を庇って、教官に噛みつく姉なんて、普通いませんよ」

 

 修平は思わず言いそうになった。

 

 その一パーセントは、今も十分伝説です、と。

 

 だが、言わなかった。

 

 言えば湊が笑ってしまう。

 笑わせてしまう。

 今は笑わせる時ではない。

 

 湊は、石にそっと手を置いた。

 

「どうして、そちらに行ったんですか」

 

 答えはない。

 

「どうして、私に言わなかったんですか」

 

 答えはない。

 

「どうして、大貫さんを殺したんですか」

 

 答えはない。

 

「どうして、名古屋だったんですか」

 

 答えはない。

 

 湊の指が、石の縁を掴むように曲がった。

 

「どうして、最後にだけ、答えを残したんですか」

 

 アイアンボトムサウンド。

 

 鉄底海峡。

 

 未来は死に際に、それだけを残した。

 まるで、すべての責任を次の海へ投げるように。

 

 あるいは。

 

 湊にだけ、最後の宿題を渡すように。

 

「未来。私は行きます」

 

 湊の声は低かった。

 

「あなたが何を見たのか。なぜ人類を裏切ったのか。深海が何を欲しがっているのか。アイさんが何なのか。時雨さんの残響が、なぜあの子の中にあるのか」

 

 風が松を揺らした。

 

「全部、調べます。全部、暴きます。必要なら、叩き潰します」

 

 その言葉は冷たかった。

 けれど、戦略家の冷たさではなかった。

 

 家族を奪われた者の、震えるほど熱い冷たさだった。

 

「でも、その前に」

 

 湊は、目を閉じた。

 

「今日は、姉として弔います」

 

 長い沈黙が落ちた。

 

 修平は、時計を見なかった。

 通信端末も見なかった。

 この時間を誰にも邪魔させないため、彼は副官として、恋人として、すでにできる限りの調整をしていた。

 

 大和には、夕方から一時間だけ湊を探さないよう頼んだ。

 川内には、夜戦訓練の開始時刻をずらしてもらった。

 那珂には、鎮守府内の空気を必要以上に明るくしないよう頼んだ。

 浜松への連絡は最小限にした。

 

 神通からは短く返事が来た。

 

『承知しました。高梨さんをお願いします』

 

 結有からは、少し遅れて来た。

 

『湊さんが泣けるなら、泣かせてあげてください。僕はそういうの下手なので、鷹取さんに任せます』

 

 アイからは、一文だった。

 

『嫁の泣く場所を守るのは、パートナーの仕事』

 

 暁からは、その直後に追伸が来た。

 

『アイの言葉は変だけど、意味はたぶん合ってるわ!』

 

 修平はその連絡を見て、少しだけ笑った。

 

 浜松は浜松で、相変わらずだった。

 それが、今はありがたかった。

 

 湊が石から手を離した。

 

「鷹取さん」

 

「はい」

 

「少し、歩きましょうか」

 

「はい」

 

 二人は松林を抜け、鎮守府の裏手にある小さな休憩室へ向かった。

 

 そこは普段、夜勤明けの隊員が仮眠を取ったり、艦娘たちがこっそり菓子を持ち込んだりする場所だった。今日は大和が鍵を預かり、誰も入れないようにしていた。

 

 部屋に入ると、湊はまず窓を閉めた。

 

 それから、カーテンを引いた。

 

 外から見えない。

 外へ声が漏れにくい。

 

 それを確認してから、彼女は椅子に座ろうとした。

 

 だが、座れなかった。

 

 膝から力が抜けたように、その場に崩れた。

 

「湊さん!」

 

 修平が慌てて支える。

 

 湊は彼の腕を掴んだ。

 

 強かった。

 

 戦場で指揮を執る時の強さではない。

 沈まないために、必死で何かを掴む子どもの強さだった。

 

「鷹取さん」

 

「はい」

 

「少しだけ」

 

「はい」

 

「少しだけ、責任者をやめてもいいですか」

 

 修平の喉が詰まった。

 

 そんな許可を、彼女は誰に求めればいいと思っていたのだろう。

 

 上官か。

 本部か。

 国家か。

 死んだ大貫か。

 裏切った未来か。

 壊れた名古屋か。

 守られた東京か。

 

 違う。

 

 今だけは、自分が答えるべきだった。

 

「いいです」

 

 修平は言った。

 

「ここでは、やめていいです」

 

 その瞬間、湊の顔が歪んだ。

 

 声が漏れた。

 

 最初は、息を飲むような小さな音だった。

 

 次に、喉の奥で押し殺したような震えになった。

 

 そして、堰が切れた。

 

「う、あ……っ」

 

 湊は泣いた。

 

 子どものように泣いた。

 

 膝を抱える余裕もなく、体裁を整えることもできず、修平の制服を掴んだまま、顔をぐしゃぐしゃにして泣いた。

 

「なんで……なんで、未来……っ」

 

 修平は、何も言えなかった。

 

「なんで私に殺させたの……っ」

 

 未来を直接討ったのは、結有とアイだ。

 戦術記録上も、撃破主体は浜松の二名だった。

 

 だが、湊にとっては違った。

 

 作戦を組んだのは自分。

 東京湾へ戦力を差し向けたのは自分。

 名古屋を切ったのも自分。

 未来をそこに追い込んだのも、自分。

 

 結有とアイの拳と砲火の先にいたのは、湊の判断だった。

 

「私、あの子を止めなきゃいけなかった……でも、死んでほしくなかった……っ」

 

「はい」

 

「大貫さんを殺したのに……名古屋を壊したのに……許せないのに……っ」

 

「はい」

 

「お姉ちゃんだった……っ」

 

 その一言で、修平の胸が痛んだ。

 

 高梨未来。

 深海提督。

 裏切者。

 市ヶ谷急襲の首謀者。

 名古屋壊滅の実行者。

 

 どれも事実だ。

 

 だが、その全部の下に、たった一つ、消せない事実があった。

 

 お姉ちゃん。

 

 湊はその言葉を、まるで戦争中ずっと飲み込んでいたように吐き出した。

 

「お姉ちゃんだったのに……っ」

 

 修平は、湊を抱きしめた。

 

 強くではない。

 逃げ場を塞ぐようにではなく、崩れても落ちないように。

 

「湊さん」

 

「……っ」

 

「今は、それだけでいいです」

 

 湊は首を横に振った。

 

「だめです……私は、名古屋を」

 

「それは、後で背負いましょう」

 

「東京湾を」

 

「それも、後で」

 

「アイアンボトムサウンドを」

 

「それも後です」

 

 修平は、少しだけ声を強めた。

 

「今は、高梨未来さんの妹でいてください」

 

 湊の呼吸が止まった。

 

「副官命令です」

 

 湊は涙で濡れた目を上げた。

 

「三尉が、一佐に命令するんですか」

 

「恋人権限も併用します」

 

「公私混同です」

 

「承知しています」

 

「反省文ですよ」

 

「書きます。十枚でも二十枚でも」

 

 湊は、泣きながら、少しだけ笑った。

 

 笑った瞬間、また泣いた。

 

「ばか……」

 

「はい」

 

「鷹取さんのくせに……」

 

「はい」

 

「昔のフォーク候補のくせに……」

 

「それはかなり刺さります」

 

「刺さるように言いました……」

 

「知っています」

 

 湊は修平の胸に額を押しつけた。

 

 そして、また泣いた。

 

 今度は言葉にならなかった。

 

 修平はその背を撫でた。

 ぎこちなかった。

 正直、どう撫でればいいのかも分からなかった。

 

 だが、湊は離れなかった。

 

 だから、それでいいのだと思った。

 

 外では、鎮守府の一日が続いている。

 

 修理ドックでは明石が工具を落として怒られているかもしれない。

 大和は報告書を整えながら、たぶん心配している。

 川内は夜戦訓練の時間を見ながら、珍しく黙っている。

 那珂は歌わない慰問の方法を考えている。

 浜松では結有がそわそわし、アイが「泣くとは霊子排出か」と聞き、暁が「違うわよ!」と叫び、神通が静かにお茶を淹れているかもしれない。

 

 世界は止まらない。

 

 戦争も止まらない。

 

 名古屋の瓦礫は片づかない。

 大貫は帰らない。

 未来も帰らない。

 アイアンボトムサウンドは、深い海の向こうで待っている。

 

 それでも、この一時間だけは、誰にも渡してはいけない時間だった。

 

 湊が湊であるために。

 高梨一佐ではなく、高梨未来の妹であるために。

 次に立ち上がる時、壊れたまま立たないために。

 

 修平は、通信端末の電源を切った。

 

 副官としては、失格かもしれない。

 だが、今だけはそれでよかった。

 

 湊が小さく言った。

 

「鷹取さん」

 

「はい」

 

「未来の墓、怒られますかね」

 

「怒られると思います」

 

「ですよね」

 

「でも、書類上は通っています」

 

「あなた、悪いことを覚えましたね」

 

「高梨一佐の副官なので」

 

「責任を押しつけるの、上手くなりましたね」

 

「教育の成果です」

 

 湊はまた少し笑った。

 

 涙でぐしゃぐしゃのまま、子どものように。

 

「鷹取さん」

 

「はい」

 

「ありがとう」

 

 修平は、すぐには返事をしなかった。

 

 軽く返してはいけない気がした。

 

 だから、少しだけ間を置いてから言った。

 

「そばにいます」

 

 湊は目を閉じた。

 

「それ、今はかなり効きます」

 

「では、戦術的効果ありですね」

 

「戦術で言わないでください」

 

「すみません」

 

「でも、もう一回」

 

 修平は息を吸った。

 

「そばにいます」

 

 湊は、彼の制服を掴む指に力を込めた。

 

 その日、富士田子の浦鎮守府の公式記録には、特筆事項は残らなかった。

 

 第二次東京湾海戦後処理。

 損耗確認。

 修理計画更新。

 戦没者名簿整理。

 深海提督個体残余物、規定に基づき焼却および封印管理。

 

 ただ、非公式の日誌に、大和の筆跡で一行だけ残っている。

 

『本日、提督は一時間だけ不在。誰も探さず。探してはいけない日だったため。』

 

 その下に、川内の字で追記があった。

 

『夜戦訓練、延期。理由、たぶん大事なやつ。』

 

 さらに那珂の字で、丸い文字が続いた。

 

『那珂ちゃん、今日は歌わない応援を覚えたよ。』

 

 最後に、鷹取修平の硬い字で、こう書かれていた。

 

『高梨未来の墓は、富士田子の浦鎮守府内にある。公式慰霊碑ではない。許しの碑でもない。ただ、名前を失わせないための石である。管理責任者、高梨湊。副管理者、鷹取修平。』

 

 そのページの端に、後日、湊が小さく書き足した。

 

『未来。次は、アイアンボトムサウンドで会いましょう。今度こそ、全部聞きます。』

 

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