艦隊これくしょん 残響のアイ   作:SAMICO

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幕間 浜松ブラック企業退職代行事件

 浜松鎮守府において、「妖精さんが見える」という言葉は、基本的には祝福である。

 

 艦娘本部が提督を選抜する上で、妖精さんを視認できるかどうかは重要な基準だった。

 妖精さんが見える者は、艤装の声を聞き、艦娘の状態を直感的に読み、戦場で通常の人間には見えない綻びを見つけることがある。

 

 もちろん、それだけで提督になれるわけではない。

 判断力。

 責任感。

 最低限の体力。

 艦娘を道具扱いしない倫理。

 そして、深海棲艦を前にしても逃げるべき時に逃げ、立つべき時に立てる精神。

 

 それらを総合して、提督適性は測られる。

 

 だから本来、妖精さんが見えることが発覚した者は、各鎮守府でそれなりに丁重に扱われる。

 

 少なくとも。

 

 月五百時間勤務の果てに、会社の給湯室で妖精さんと会話し始める、という形で発見されるべきものではなかった。

 

「……月、五百時間?」

 

 浜松鎮守府の執務室で、各務原結有は資料を二度見した。

 

 アイが横から覗き込む。

 

「一月は、何時間」

 

「だいたい七百二十時間くらい」

 

「寝ていない」

 

「うん。僕もそう思う」

 

 暁が資料の別紙を見て、顔を青くした。

 

「ちょっと待って。これ、勤務表じゃなくて、ほぼ生存記録じゃないの」

 

 神通は黙っていた。

 

 黙っている時の神通は危険である。

 

 書類を持ってきた最上が、肩をすくめた。

 

「浜松市内の中堅物流会社。名前は一応伏せるけど、労基署案件としては相当ひどいね。本人は二十七歳、事務兼配車兼現場応援兼クレーム対応兼夜間警備兼社長の犬の散歩係」

 

「最後おかしいだろ!」

 

 結有が叫んだ。

 

「社長の犬の散歩は業務なの?」

 

 アイが真顔で聞いた。

 

「業務じゃないわよ!」

 

 暁が即答する。

 

 最上は資料をめくった。

 

「その職員、名前は佐野誠一さん。昨日、深夜三時に会社の倉庫で倒れかけたところ、妖精さんに『お前もう寝ろ』と言われたらしい」

 

「妖精さんがまとも!」

 

「そのまま妖精さんと会話しているところを、たまたま補給品搬入で来ていた明石さんの妖精さんが目撃。浜松鎮守府に通報」

 

「妖精さんネットワーク、怖いわね……」

 

 暁が呟いた。

 

 アイは首を傾げた。

 

「妖精、労働監督もする」

 

「いや、今回は見かねたんだと思う」

 

 結有は資料に視線を戻した。

 

 佐野誠一。

 二十七歳。

 浜松市内在住。

 独身。

 物流会社勤務。

 父母は県外。

 健康診断は三年未実施。

 残業代は固定残業代の名目で実質未払い。

 有給休暇取得実績なし。

 休日出勤は「自主的な応援」扱い。

 退職希望を複数回伝えるも、会社側は受理拒否。

 

 そして、特記事項。

 

 妖精さん視認。

 簡易霊子反応あり。

 提督適性検査、一次合格。

 

「この人、提督希望なんだよね」

 

 結有が言うと、最上は頷いた。

 

「うん。本人は『会社より深海棲艦のほうがまだ労働時間を区切ってくれそう』って」

 

「笑えないわよ!」

 

 暁が机を叩いた。

 

 神通が静かに立ち上がった。

 

「会社は、退職を拒否しているのですね」

 

 室温が二度下がったような気がした。

 

 最上は少しだけ姿勢を正した。

 

「はい。本人が退職届を出したところ、『戦時下で物流を止めるのは非国民』、『損害賠償を請求する』、『艦娘本部に行くなら推薦状を出さない』、『社宅扱いの寮から即日追い出す』などと言われたそうです」

 

「推薦状?」

 

 結有が眉をひそめる。

 

「会社の推薦状なんて、提督適性に関係ないよね」

 

「関係ありません」

 

 神通が即答した。

 

「では、脅しですね」

 

 その声は、完全に戦闘時の神通だった。

 

 アイがぽつりと言った。

 

「沈める?」

 

「沈めない!」

 

 暁が叫ぶ。

 

「まだ沈めちゃだめ! 会社は海に浮いてないから!」

 

「陸上なら、結有が殴れる」

 

「僕を便利な行政執行装置みたいに言うな」

 

 結有はそう言ったが、拳は少し握られていた。

 

 神通がちらりと見た。

 

「結有さん」

 

「はい」

 

「殴る前に」

 

「報告」

 

「今回は」

 

「弁護士」

 

「よろしい」

 

 そこへ、扉が開いた。

 

「話は聞きました」

 

 柔らかな声だった。

 

 しかし、執務室にいた全員が背筋を伸ばした。

 

 高梨湊一等海佐が入ってきた。

 

 いつものゆるふわした笑み。

 穏やかな目。

 ふわりとした髪。

 

 だが、その手には分厚いファイルがあった。

 

 表紙には、整った字でこう書かれている。

 

『佐野誠一氏退職支援および提督候補者保護案件』

 

 その後ろから、鷹取修平が入ってくる。

 さらに、その横には、各務原裕二陸将補がいた。

 

 浜松鎮守府の空気が、一瞬で変わった。

 

 結有が目を丸くする。

 

「父さん?」

 

「本部案件になった」

 

 裕二は短く言った。

 

「提督適性者を会社が不当に拘束している。国防上も労務上も看過できん」

 

 アイが裕二を見上げた。

 

「殴る?」

 

「最後の手段だ」

 

 裕二は真顔で言った。

 

 神通が目を細めた。

 

「最後にも置かないでください」

 

「比喩だ」

 

「各務原陸将補の比喩は、比喩で済まないことがあります」

 

「善処する」

 

 湊が椅子に座り、ファイルを開いた。

 

「今回、私は法務担当として入ります。念のため言っておきますが、弁護士資格は持っていますので、退職代行、労務交渉、証拠保全、未払い賃金請求の入口整理までは対応できます」

 

 結有が固まった。

 

「湊さん、弁護士資格も持ってるんですか」

 

「はい」

 

「なんで?」

 

「必要だったので」

 

「必要だったので、で取れる資格じゃないですよね?」

 

 湊はにこりと笑った。

 

「拳銃の命中率一パーセントを補うために、頭脳系で点を取りました」

 

「補い方が極端!」

 

 暁が叫んだ。

 

 鷹取が咳払いをした。

 

「高梨一佐は、法務、戦略、兵站、交渉の複合対応が可能です」

 

「鷹取さん、彼氏になってから湊さんの取扱説明書みたいになってる」

 

 結有が小声で言う。

 

 湊が笑顔のまま言った。

 

「結有さん?」

 

「はい、反省します」

 

 裕二がファイルを覗いた。

 

「悪質だな」

 

「ええ」

 

 湊の声は穏やかだった。

 

「退職届の受理拒否だけなら、まだよくある違法寄りの無理解で済ませられました。ですが、今回は本人の私物と資格書類を会社が預かる名目で囲い込み、寮の鍵も会社管理。さらに『艦娘本部に行ったら損害賠償』と文書で脅している」

 

「文書で?」

 

 神通が聞いた。

 

「文書で」

 

 湊は頷いた。

 

「悪質な相手ほど、なぜか証拠を自分で作ってくださるので助かります」

 

 笑顔だった。

 

 怖かった。

 

 裕二が腕を組む。

 

「行くか」

 

「はい。現地で交渉します」

 

「僕も行く!」

 

 結有が立ち上がった。

 

「駄目です」

 

 神通、湊、暁、最上が同時に言った。

 

「なんで!?」

 

 アイが手を挙げた。

 

「結有は、飛び蹴りする」

 

「しないよ!」

 

 全員が黙った。

 

「……今回は、しないよ!」

 

「今回は、という時点で信用を落としています」

 

 神通が静かに言った。

 

 湊は微笑んだ。

 

「結有さんは、佐野さんが浜松鎮守府へ来た時に受け入れる側として待機してください。あの方は、今かなり疲弊しています。最初に会う提督が飛び蹴りで会社に突入した十八歳だと、情報量が多すぎます」

 

「僕の紹介文、悪意ないですか?」

 

「事実だけです」

 

 鷹取が補足した。

 

「事実だけが一番刺さるんですよ、鷹取さん」

 

 結有は椅子に座り直した。

 

 アイがその横に座る。

 

「待機も戦い」

 

「うん。そうだね」

 

「でも、必要なら殴る」

 

「アイ?」

 

「冗談」

 

「冗談の顔じゃない」

 

 その日の午後。

 

 浜松市内の物流会社、遠州中央流通株式会社の本社応接室には、異様な面子が揃っていた。

 

 会社側。

 代表取締役社長。

 専務。

 総務部長。

 顧問社労士らしき人物。

 

 対するは。

 

 高梨湊一等海佐。

 弁護士資格保有。

 富士田子の浦鎮守府司令。

 

 各務原裕二陸将補。

 艦娘本部責任者。

 元教導隊長。

 通称、鬼の各務原。

 

 鷹取修平三等海尉。

 副官。

 記録担当。

 

 そして、部屋の隅には艦娘本部の監察官が一名。

 

 社長は最初、明らかに舐めていた。

 

 湊を見て、若い女だと思ったのだろう。

 柔らかい声と穏やかな笑みを見て、押せば引くと思ったのだろう。

 

 彼はふんぞり返ったまま言った。

 

「いやあ、国防も大事でしょうけどね、こちらも戦時下の物流を支えているわけですよ。佐野君が急に辞めるなどと言い出されても困るんです。社会人としての責任というものが」

 

「退職の意思表示は、本人の自由です」

 

 湊は穏やかに言った。

 

「期間の定めのない雇用契約であれば、民法上、原則として退職の意思表示から一定期間経過で終了します。会社側が受理するか否かは、本質的な要件ではありません」

 

 社長の顔が少し歪んだ。

 

「いや、しかし就業規則で三か月前と」

 

「就業規則は法律に優越しません」

 

 湊は即答した。

 

 声は柔らかい。

 だが、一文字も逃がさない。

 

 専務が割り込んだ。

 

「ですが、彼には重要な取引先を任せておりまして、引き継ぎもなしに辞められては損害が」

 

「引き継ぎの必要性と退職の自由は別問題です。なお、佐野さんは過去三回、退職希望と引き継ぎ資料作成の申し出をしていますね。こちらが写しです」

 

 鷹取が無言で書類を出した。

 

 湊は続ける。

 

「いずれも上長が破棄、または未処理。さらに直近では、退職届を目の前で破り、『辞めたら損害賠償』と発言。録音があります」

 

 社長が固まった。

 

「ろ、録音?」

 

「はい」

 

「本人が勝手に録ったものは」

 

「自分の会話の録音ですので、証拠能力について争う余地はありますが、少なくとも交渉材料としては十分です」

 

 湊は微笑んだ。

 

「それと、こちら」

 

 次の書類が出た。

 

 勤務実態表。

 入退館記録。

 配送管理システムのログ。

 夜間警備チェック表。

 社長宅の犬の散歩メモ。

 

 神通がこの場にいなくてよかった、と鷹取は少し思った。

 いたら、空気がもっと冷えていた。

 

 湊が言う。

 

「月五百時間級の拘束。固定残業代を超える残業代の未払い。有給取得妨害。健康診断未実施。深夜労働の管理不備。安全配慮義務違反の疑い。さらに、社長個人の私用を業務として行わせている」

 

「い、犬の散歩は、彼が自主的に」

 

「では、社長宅の鍵を会社の業務用キーボックスで管理していた理由を説明してください」

 

 社長が黙った。

 

 裕二はずっと黙っていた。

 

 ただ、座っているだけだった。

 

 だが、その沈黙が重い。

 

 総務部長が汗を拭く。

 

「あの、各務原陸将補は、なぜこちらに」

 

 裕二がようやく口を開いた。

 

「佐野誠一氏は、艦娘本部の一次適性検査を通過した」

 

「それは、本人の希望であって、弊社とは」

 

「妖精さんが見える人材は希少だ」

 

 裕二の声は低かった。

 

「だが、我々は本人の意思なく徴用しない。本人が望むなら受け入れる。望まないなら保護対象として扱う。それが本部の方針だ」

 

 社長が少し勢いを取り戻した。

 

「では、本人が弊社に残るよう説得すれば」

 

「月五百時間働かせ、倒れるまで追い込み、退職届を破り、私物を囲い込み、損害賠償で脅した会社に、本人の自由意思が残っていると?」

 

 裕二は社長を見た。

 

 ただ見ただけだった。

 

 社長は目を逸らした。

 

「それは、現場の行き違いで」

 

「行き違いで人は死ぬ」

 

 裕二は言った。

 

「深海棲艦相手でも、ブラック企業相手でも同じだ。責任者が現場を知らないと言った瞬間、責任者である意味が消える」

 

 湊が横で静かに頷いた。

 

「本日、こちらの要求は四点です」

 

 彼女は指を一本立てた。

 

「一つ。佐野誠一氏の退職意思を即時確認し、会社として妨害しないこと」

 

 二本目。

 

「二つ。私物、資格書類、個人データ、寮の私物を即時返還すること」

 

 三本目。

 

「三つ。未払い賃金、残業代、有給、健康診断未実施等について、弁護士間または労基署を含む正式手続きで協議すること」

 

 四本目。

 

「四つ。艦娘本部および浜松鎮守府への志願について、会社として一切の妨害、接触、誹謗、推薦状不発行を口実とした圧力を行わないこと」

 

 専務が唇を歪めた。

 

「拒否した場合は?」

 

 湊は笑った。

 

 それは、浜松鎮守府の面々が見たら一斉に姿勢を正す笑みだった。

 

「労働基準監督署、警察、艦娘本部監察、必要に応じて報道対応。さらに未払い賃金請求、損害賠償請求、証拠保全申立てを検討します」

 

 声は柔らかい。

 

「なお、戦時下における提督適性者の不当拘束という観点では、艦娘本部から関係省庁へ情報提供します。御社が物流上重要な役割を担っていると主張されるなら、なおさら労務管理の健全性は公的関心事になります」

 

 専務は黙った。

 

 社長が額に汗を浮かべる。

 

「そ、そこまで大げさにすることでは」

 

「人を月五百時間働かせておいて、大げさですか」

 

 湊の声が、ほんの少しだけ低くなった。

 

 応接室の空気が止まった。

 

「佐野さんは、給湯室で妖精さんと話していたそうです。理由は、睡眠不足と過労で倒れかけていたからです。妖精さんに『寝ろ』と言われるまで、誰も止めなかった」

 

 湊は書類を閉じた。

 

「深海棲艦より先に、御社が人を沈めかけたんです」

 

 誰も何も言えなかった。

 

 裕二が短く言った。

 

「退職届を出せ」

 

 鷹取が封筒を置いた。

 

 佐野本人の署名入り退職届。

 委任状。

 私物返還リスト。

 連絡禁止通知。

 

 社長はしばらく封筒を見ていた。

 

 そして、震える手で受け取った。

 

 交渉は二時間で終わった。

 

 本来なら十五分で終わる話だった。

 だが、会社側が途中で「彼は家族のようなもの」「恩を仇で返すのか」「今辞めたら現場が回らない」「うちも被害者だ」と、見事なまでに悪質企業語録を並べたため、そのたびに湊が法的に解体し、裕二が物理的存在感で沈黙を促すことになった。

 

 最後に社長が言った。

 

「彼がいなくなったら、うちは困るんですよ」

 

 湊は穏やかに返した。

 

「一人が抜けたら回らない組織は、すでに回っていません」

 

 その一言で、交渉は終わった。

 

 夕方。

 

 佐野誠一は、浜松鎮守府の門をくぐった。

 

 痩せていた。

 目の下に濃い隈があった。

 スーツはよれ、靴はすり減っていた。

 

 だが、手には自分の鞄があった。

 会社に預けさせられていた資格証も、印鑑も、通帳も戻っていた。

 

 門の前で待っていた結有が、少し緊張した顔で敬礼する。

 

「浜松鎮守府提督、各務原結有です。佐野さん、お疲れさまでした」

 

 佐野はぽかんとした。

 

「提督って、もっと年上の方かと」

 

「よく言われます」

 

 結有は苦笑した。

 

 アイが横から出てくる。

 

「白い流れ者、アイ」

 

「えっ」

 

「怖くない。たぶん」

 

「たぶん!?」

 

 暁が後ろから飛び出した。

 

「そこは言い切りなさいよ! 佐野さん、私は暁よ。一人前のレディとして、まずはあなたを医務室に連れていくわ」

 

 佐野は困惑しながらも、少しだけ笑った。

 

「妖精さんが、あの」

 

 彼の視線が空中を追った。

 

 そこには、小さな妖精さんが数名、彼の鞄の上に座っていた。

 

 一体が、紙に何かを書いて掲げる。

 

『ねろ』

 

 結有は深く頷いた。

 

「まず寝ましょう」

 

「でも、手続きとか」

 

「寝てから」

 

「適性検査の続きが」

 

「寝てから」

 

「会社から電話が」

 

 アイが佐野のスマホを見た。

 

「着信、消す?」

 

「消しちゃだめ!」

 

 暁が止める。

 

 神通が静かに現れた。

 

「連絡はすべて代理人経由です。佐野さんが直接対応する必要はありません」

 

「でも、迷惑が」

 

 神通は佐野の前に立った。

 

 その声は静かだった。

 

「あなたが倒れることのほうが、迷惑です」

 

 佐野は目を見開いた。

 

 怒られたのではない。

 責められたのでもない。

 

 ただ、生きている前提で扱われた。

 

 それが久しぶりだったのだろう。

 

 彼は、鞄を抱えたまま、少しだけ俯いた。

 

「……寝ても、いいんですか」

 

 結有は頷いた。

 

「はい。提督候補の最初の任務です。寝てください」

 

 アイが付け加える。

 

「睡眠は、補給」

 

 暁も胸を張った。

 

「一人前のレディも寝るわ!」

 

「暁、それは普通だよ」

 

 最上が笑った。

 

 佐野は、今度こそ小さく笑った。

 

 その笑い方は弱々しかったが、会社で見せるための笑顔ではなかった。

 

 その夜。

 

 佐野誠一は浜松鎮守府の仮眠室で十四時間眠った。

 

 途中、妖精さんが枕元に来て、毛布を直した。

 明石の妖精さんが健康チェック用のメモを置いた。

 暁が三回様子を見に行こうとして神通に止められた。

 アイは「寝るとは長い待機」と言い、結有に「そうだけど今は黙ってようね」と言われた。

 

 一方、執務室では、湊と裕二が報告書をまとめていた。

 

 結有が恐る恐る聞く。

 

「父さん、あの会社、どうなるの」

 

「労基署が入る」

 

 裕二は言った。

 

「艦娘本部からも関係部署に情報を回す。提督適性者云々以前に、労務が悪質すぎる」

 

 湊が紅茶を一口飲んだ。

 

「未払い賃金請求も進めます。佐野さんの体調回復を優先しますが、証拠はかなり揃っています」

 

「湊さん、本当に何でもできますね」

 

「何でもはできません。拳銃は当たりません」

 

「それ一個で帳消しにならないです」

 

 湊は微笑んだ。

 

「ただ、今回の件で一つ分かりました」

 

「何がですか」

 

「妖精さんが見えるほど働かせてはいけません」

 

 執務室が静まり返った。

 

 そして、結有が吹き出した。

 

「いや、それ標語として最悪だけど、分かりやすい!」

 

 暁が腕を組む。

 

「でも本当にそうよ。妖精さんが『寝ろ』って言う職場、もう職場じゃないわ」

 

 アイが言った。

 

「深海」

 

 神通が静かに首を振った。

 

「深海に失礼かもしれません」

 

「神通さん!?」

 

 最上が笑いをこらえながら机に伏せた。

 

 裕二は真顔だった。

 

「浜松鎮守府内に掲示するか」

 

「やめて父さん!」

 

 結有が叫ぶ。

 

「『妖精が見えるほど働かせるな』って貼ってある鎮守府、嫌すぎる!」

 

 湊はにこにこしている。

 

「でも、良い教訓です。人材は資源ではありません。人です。妖精さんが見える人も、艦娘も、提督も、候補者も。国防の名で使い潰していい存在ではありません」

 

 その言葉に、少しだけ空気が変わった。

 

 大貫が築いた艦娘本部。

 裕二が引き継いだ責任。

 湊が守ろうとする帰り道。

 結有が学び続けている、強さの使い方。

 

 それらは全部、同じ場所に繋がっていた。

 

 人を、道具にしない。

 

 深海棲艦との戦争は、人間から多くを奪った。

 だからこそ、人間側が人間を沈めるような真似をしてはいけない。

 

 結有は、拳を開いた。

 

「佐野さん、提督になれるかな」

 

 神通が答えた。

 

「まずは眠り、食べ、回復することです。その先は本人次第です」

 

 アイが頷いた。

 

「寝る。食べる。選ぶ」

 

「うん」

 

 結有は笑った。

 

「それが一番大事だね」

 

 後日、浜松鎮守府の休憩室には、小さな紙が貼られた。

 

『妖精さんが「寝ろ」と言ったら寝ること』

 

 その下に、暁の字で追記があった。

 

『一人前のレディとの約束よ!』

 

 さらにアイの字で、ぎこちなく書かれていた。

 

『睡眠は補給』

 

 最後に、神通の美しい字で一文。

 

『補給を怠る者に、長期戦は任せられません。』

 

 結有はそれを見て、少し笑った。

 

 そして、隅に小さく書き足した。

 

『提督も含む。各務原結有』

 

 その日の非公式日誌には、最上の筆跡でこう残っている。

 

『浜松市内ブラック企業より提督候補者一名を保護。高梨一佐、法務で敵を沈める。各務原陸将補、座っているだけで敵を沈黙させる。結有、待機成功。アイ、会社を深海認定しかける。暁、常識担当として過労。神通、静かに怒る。標語案「妖精が見えるほど働かせるな」は、採用未定。』

 

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