浜松ブラック企業退職代行事件は、佐野誠一が浜松鎮守府の仮眠室で十四時間眠ったところで終わった。
少なくとも、結有はそう思っていた。
甘かった。
「結有さん」
翌週、富士田子の浦鎮守府から来た高梨湊は、いつもの穏やかな笑顔で分厚いファイルを机に置いた。
どん、と音がした。
結有はその音だけで嫌な予感がした。
「な、何ですか、それ」
「始末記です」
「始末記って、そんな鈍器みたいな厚さになるんですか」
「なりました」
湊はにこにこしている。
横に立つ鷹取修平は、やや疲れた顔をしていた。
各務原裕二陸将補は、腕を組んで無言。
神通は静かに座っている。
暁はすでに顔をしかめていた。
アイはファイルを見て、短く言った。
「砲弾?」
「書類です」
湊が答える。
「当たったら死ぬ?」
「社会的には、場合によります」
「やっぱり砲弾」
最上が苦笑しながら、別の資料を配った。
「佐野さんの勤務実態、再計算したんだけどね。最初の月五百時間って、かなり控えめな数字だったみたい」
「控えめ?」
結有は資料を見た。
そして、固まった。
月間実質拘束時間、五百八十六時間。
別月、六百十二時間。
繁忙期、六百二十七時間。
「……六百?」
結有の声が裏返った。
暁が表を覗き込んで、叫んだ。
「ちょっと待って! 一か月って何時間あるの!?」
アイが即答した。
「三十日は七百二十時間。三十一日は七百四十四時間」
「なんで即答できるのよ!」
「待機時間を数えた」
「それはそれで怖いわ!」
湊は穏やかに頷いた。
「三十一日の月でも、総時間は七百四十四時間です。そこから睡眠、食事、入浴、通勤、最低限の生活時間を引けば、人間として維持できる勤務時間ではありません」
神通が資料を一枚めくる。
「これは勤務ではなく、拘束ですね」
「はい」
湊の声は柔らかいままだった。
「しかも会社側は、これを『本人の自主的な責任感』として処理していました」
裕二が低く言った。
「責任感を絞れば金が出ると思っている連中か」
「そのようです」
湊はにこりと笑った。
「ですので、金を出していただきました」
結有は嫌な予感をさらに強めた。
「湊さん。何をしたんですか」
「交渉です」
「その笑顔で言う交渉、だいたい敵が沈むやつですよね」
「沈めてはいません。払っていただいただけです」
鷹取が咳払いをした。
「過去三年分の未払い残業代、深夜割増、休日割増、遅延損害金、健康診断未実施に関する慰謝料、退職妨害、私物および資格書類の囲い込み、寮を使った事実上の拘束、精神的損害」
淡々と項目を読み上げる。
「これらを総合し、会社側が当初提示した解決金の、約二・一倍で合意しました」
執務室が沈黙した。
暁がぽつりと言う。
「倍……」
アイが首を傾げる。
「むしった?」
「法律上適正な範囲で回収しました」
湊が即答した。
アイは少し考えた。
「合法むしり」
「妙な言葉を覚えないでください」
神通が静かに止める。
結有は資料の金額欄を見た。
そして、五度見した。
「えっ。えっ、これ、佐野さんに?」
「はい」
「これ、僕の給与明細五度見の時より桁が怖いんですけど」
「三年分ですから」
「三年分って、こんなことになるんですか」
湊は首を横に振った。
「本来は、なってはいけません。三年も未払いと過労を積み上げた結果です。これは勝利ではなく、会社が本来払うべきものを、ようやく払っただけです」
裕二が資料を見た。
「慰謝料込みで倍か」
「はい。裁判で争えばさらに細かく詰められましたが、佐野さんの体力と回復を優先しました。長期化させるより、早期にまとまった資金を確保し、療養と生活再建に回すべきと判断しています」
鷹取が補足する。
「会社側は最初、『払えない』の一点張りでした」
「払えたの?」
結有が聞く。
「社長車三台と不要不急の役員保養施設を処分すれば払えます、と高梨一佐が資料つきで説明しました」
「湊さん?」
湊は紅茶を飲んだ。
「資産状況を見るのは基本です」
暁が引きつった顔で言う。
「相手の財布の中まで制圧してる……」
「兵站です」
「ここで兵站って言葉が出るの、怖いわよ!」
最上が笑いをこらえながら言った。
「しかもね、社長が最後に『会社が潰れたら社員が路頭に迷う』って言ったらしいよ」
結有は眉をひそめた。
「人質じゃん」
「はい」
湊の笑みが少しだけ冷えた。
「ですので、『社員の生活を盾に未払い賃金を踏み倒す経営者は、深海棲艦より先に社員の帰る場所を沈めています』と申し上げました」
「申し上げた、の圧じゃない」
アイが小さく拍手した。
「湊、強い」
「ありがとうございます」
神通が資料を閉じた。
「佐野さんには、どう伝えたのですか」
「医師の同席のもとで説明しました。本人は最初、『そんなにもらえません』と言いました」
湊は少しだけ目を伏せた。
「ですので、『もらうのではありません。あなたの時間を返せない代わりに、支払わせるのです』と伝えました」
執務室の空気が静かになった。
時間は戻らない。
月六百時間近い拘束の中で失われた睡眠。
削られた食事。
断らされた友人の誘い。
帰れなかった休日。
病院に行けなかった日。
妖精さんに「寝ろ」と言われるまで追い詰められた夜。
それらは金で戻らない。
だが、だからといって金を払わせなくていい理由にはならない。
結有は、拳を握らなかった。
開いたまま、机の上に置いた。
「佐野さん、今どうしてますか」
「療養中です。浜松鎮守府の医務班と外部医療機関で経過を見ています。提督候補としての正式訓練は、まだ始めません」
「本人、焦ってません?」
「焦っています」
湊は苦笑した。
「だから、暁さんの標語が効きました」
「私の?」
暁が目を丸くする。
「『一人前のレディとの約束よ』の紙です。佐野さん、あれを見て少し笑って、寝ました」
暁は顔を赤くした。
「そ、そう。なら、よかったわ」
アイが頷く。
「睡眠は補給」
「それも効いています」
湊が言うと、アイは少しだけ誇らしげにした。
裕二が立ち上がった。
「本部としても、この件は制度化する」
「制度化?」
「提督適性者が発見された場合、本人の保護、雇用関係の整理、退職妨害への対応、生活再建支援を一体で行う。国防人材だから引き抜くのではない。本人が潰されないように守る」
神通が静かに頷いた。
「必要ですね」
「大貫なら、胃薬を飲みながら同じことをしただろう」
裕二はそう言って、少しだけ目を細めた。
湊も頷いた。
「ええ。大貫本部長なら、まず太田胃散を開けて、それから判子を押したと思います」
結有が小さく笑った。
重い話の中に、少しだけ空気が戻る。
その時、佐野本人が医務室から顔を出した。
「あの……すみません。少しだけ、いいですか」
全員の視線が向く。
佐野はまだ痩せていた。
顔色も万全ではない。
だが、目の焦点は前よりずっと合っていた。
彼は湊に深く頭を下げた。
「高梨一佐。ありがとうございました」
「私は手続きをしただけです」
「でも、自分では無理でした」
佐野は手に封筒を持っていた。
解決金の明細ではない。
浜松鎮守府の仮身分証だった。
「正直、まだ提督になれるか分かりません。体も戻ってませんし、眠ると会社の電話が鳴る夢を見ます」
暁が顔を曇らせる。
アイが小さく言った。
「電話はもう来ない」
「はい」
佐野は少し笑った。
「でも、妖精さんが見えることを、会社で壊れた証拠じゃなくて、ここでは適性として見てくれた。それが、ありがたかったです」
結有は真面目な顔で頷いた。
「佐野さん。まず、ちゃんと生き直してください。提督になるかどうかは、その後でいいです」
「はい」
「あと、浜松鎮守府では、月六百時間働いたら全員に怒られます」
神通が結有を見た。
「月三百でも怒ります」
「はい」
暁が胸を張った。
「一人前のレディは、ちゃんと休むのよ!」
アイが続ける。
「休まないと、沈む」
佐野は、少しだけ泣きそうな顔で笑った。
「はい。沈まないようにします」
湊はその顔を見て、静かにファイルを閉じた。
交渉は終わった。
金は取った。
書類は整えた。
会社には監督が入る。
佐野は保護された。
それでも、これは勝利ではない。
人一人が壊れかけるまで、誰も止められなかった。
妖精さんが見えるまで働かされて、ようやく救い上げられた。
だから湊は、始末記の最後にこう書いた。
『本件解決金は、損害の完全な回復ではない。失われた時間、健康、尊厳は金銭で完全には戻らない。ただし、支払わせない理由にもならない。今後、提督適性者および妖精視認者の発見時には、国防上の利用可能性より先に、本人の生活・健康・自由意思の確認を最優先とすること。』
後日、浜松鎮守府の休憩室に貼られた紙には、新たな追記が増えた。
『妖精さんが「寝ろ」と言ったら寝ること』
『一人前のレディとの約束よ!』
『睡眠は補給』
『補給を怠る者に、長期戦は任せられません』
『提督も含む。各務原結有』
その一番下に、佐野誠一の少し震えた字で、こう書かれていた。
『三十一日は七百四十四時間しかない』
さらにその下に、アイの字で追記。
『六百働くな』
最後に、湊の美しい字で締められていた。
『働かせた側には、倍払わせます。高梨湊』